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2013年6月

2013年6月29日 (土)

武田勝頼(二) 水の巻 (新田次郎著 講談社電子文庫)

長篠の戦について、よくわかり、武田家滅亡の大きな理由の一つが見えてきました。

『武田信玄は将来のことを考慮して、敵中に間者を置くことに非常に熱心だった。

真田昌幸や曾根内匠等若手参謀たちは、柵や乾堀ができてはどうにもならぬ、直ちに出撃すべきであると主張したのに対して、武田信玄以来の宿将や御親類衆は、相手は四万を越す大軍、馬塞ぎの柵を作ったり乾堀を掘らせているのは、武田軍を誘うためである。うっかり手出しはできない。もうしばらく敵の出方を見るべきだと主張した。

「甲陽軍艦」は史書ではない。徳川時代に入ってから発売されて、ベストセラーになった所謂兵学書の類である。資料としての価値は低い。

「武田軍は負けることを知りません、少しぐらい味方が不利になっても終局的には必ず勝つと信じて絶対にひこうとはしません。武田の強さはそこにあります。だから、武田を破るには、彼等のその自信を打ち砕かない限り、わが軍の勝利とはなりません。敵の自信を砕くには、緒戦において思いがけない打撃を与えることです。こんな筈がなかった。これは今までと違ったと思わせることです。敵が一度でも引けば、味方の気持ちは安定するでしょう」

武田隊は引いた。引かねば、更に多くの混乱が生ずる恐れがあったからである。武田隊は堂々と引いた。引き方にも法則があり、引くと見て付け入ってくる敵に何時でも振り返って戦うことが出来るような訓練ができていた。

真田昌幸は、「岩村城、二俣城は、敵に明け渡してやったら如何でしょうか。双方で人質を交換し、城を明け渡すのです。岩村城も二俣城も曾てはそうやってお味方のものとなったのです。今度は返してやっても、そのうちまたこっちがいただくことになるでしょう。それまで待つしかないでしょう」昌幸はかなりはっきりしたことを云った。

織田信長は設楽ケ原の勝利は鉄砲が武田の騎馬隊を制圧したのだと宣伝し、これからの戦いは鉄砲なくしてはどうにもならないように諸国に言いふらした。鉄砲の値段は急上昇し、火薬の値が一時的に倍にも値上がりしたのは、このためだった。・・境を支配する織田信長は設楽ケ原の合戦をたくみに宣伝に使って、鉄砲と火薬の値を釣り上げ、おれを購入する諸国の大名、小名たちの金貨を巻き上げていたのである。

越後は謙信によって両国支配が完成したように見えていたが実際はそうではなかった。見掛け上そうであっても内情は地方の諸豪の勢力が依然として強かった。・・どうやら越後まとまっていたのは謙信を国主と仰いでいた方が有利だと考えている地方豪族が多かったということで、謙信が死んだとなれば、話は振出しに戻り、各地の豪族が、われこそと頭を持ち上げてくるのは当然な勢いであった。

信玄もそうであったが、勝頼も北条氏政のやり方には長い間不信感を持っていた。北条氏康の時代には北条氏と武田氏の同盟はうまくいっていた。氏康が誠意をもって同盟維持に努力したからであった。ところが氏政の代になると、北条、武田間はとかくうまくいかなかった。氏政は、自分の手を汚さずに、なにかというと武田氏の手を借りて、上杉をけん制しようとしたからであった。

「・・・景勝は必ず景虎を負かすでしょう。そうなってしまえば、武田にとってなんの利益にもなりません。交渉は今です。わが方に最も条件がいいときに約を結ぶべきです」

「甲陽軍鑑」を史書として取り上げることに反対する学者が多いのは、内容に誤ったことが多いことだけではなく、このような感情的な文章が処々にあるからである。・・設楽ケ原の合戦における長坂長閑斎と跡部勝資が出撃論を唱えたというのは「甲陽軍鑑」の嘘である。同様に、長坂と跡部が景勝から賄賂をもらい、勝頼に和睦をすすめたというのも、おそらくは「甲陽軍鑑」が作り上げた嘘であろう。しかし、越後の春日山城まで四里というところまで攻め込んで勝頼が突然景勝と結んだのは、その裏に、そうせざるを得なかった種々の理由があり、また色々の駆け引きがあったことが窺われる。

北条氏政という人間よりも、北条氏を支える家老衆たちの合議制によって方針を決めるというやり方は、はなはだ姑息的で新鮮味がない。優柔不断といっていいような政策が氏政の代になってからずっととられている。』

2013年6月23日 (日)

永遠の0 (百田尚樹著 講談社文庫)

200万部を超える超ベストセラーをようやく読みました。電子版になるのを待っていましたが、その気配もないので、紙の本を買う決心をようやくしたということです。500ページ以上ありますが、大へん読みやすく、引き込まれるように読みました。しかし、多くの人にとって、「感動的」「涙が止まらなかった」「人生観が変わった」という評判のものですが、私にとっては、それほど深い感動はありませんでした。理由は、私自身が第2次大戦の本をこれまで、長い時間をかけて多く読んできたため、この本に書いてある内容のかなりの部分を知っていたり、推察していたためでと思います。しかしながら、非常に良い本であることは間違いありません。多くの日本人に読まれることで、我々の今日の繁栄が、多くの先達の筆舌に尽くせぬ犠牲の上に成り立っていることが広く知られるようになったのは大へんよかったと思います。

『海軍の飛行機は陸軍の飛行機と違って、三点着陸が基本です。なぜなら尾部のフックを艦の制止索に引っ掛けないといけないからです。索はワイヤーでできていましたが、これにうまくかからないと空母の短い甲板には着艦できません。ところが三点着陸は尾部を下げるため機種が上がります。すると操縦席からは飛行甲板が機首に遮られて見えなくなります。見えない甲板に勘だけを頼りに下りないといけないのです。

一説には、ミッドウェーで多くの熟練搭乗員を失ったことが、日本海軍にとって一番の痛手だったと言われていますが、それは正しくありません。最後まで戦った「飛龍」の搭乗員はほとんどが亡くなりましたが、先に沈んだ三隻の母艦搭乗員の多数派救助されました。熟練搭乗員が大量に失われたのはその年の秋から始まったガダルカナルの戦いにおいてです。

これまで太平洋戦争のことなどろくに知らなかったぼくにとって、すべてが驚きだった。航空母艦の戦いといえど、結局は人間同士の戦いだった。戦力データの差だけが勝負を決めるのではない。勇気と決断力、それに冷静な判断力が勝敗と生死を分けるのだ。それにしても、当時の兵士たちはなんという非常な世界に生きていたのだろう。

坂井一飛曹は小隊長でした。・・小隊は三機編成です。坂井一飛曹は非常に優れた小隊長です。これまで列機を一度も失ったことがありません。坂井三郎さんに関しては何十機撃墜という話ばかりが脚光を浴びますが、私はそれよりも彼がただの一度も列機を死なせたことがないという方がずっと素晴らしいことだと思います。ちなみに西澤さんも一度も列機を失ったことがありません。彼が列機を失ったのは生涯最後の空戦においてだと聞いています。

仲間を失った悲しみを一番感じるのは、戦闘着後ではありません。夕食の食堂です。朝、一緒に飯を喰った仲間が夜にいないのです。夕食には必ず全員分の食事が用意されませす。食堂では、誰がどこに座るかは決まっていませんが、何とはなしの習慣から、各自座る位置は決まっていました。・・夕食の時間に空いている席があれば、そこに座っていた男は未帰還ということです。それが普段隣に座っている男だとたまりません。・・だから夕食の席では、冗談はまったくでなくなりました。

・・私は戦後ドイツの撃墜王の記録を見て驚いたことがあります。350機撃墜のハルトマンを筆頭に200機以上撃墜のエースが何十人といるのです。こんなことは日本海軍には考えられません。しかしそれは彼らがドイツ上空で戦うことが出来たからだと思います。これは大きな地の利です。なぜならたとえ撃ち落されてもパラシュード脱出できるし、発動機が不調でも不時着できます。ハルトマンも何度か撃墜されてパラシュート脱出しています。また迎撃戦というのも大きかったと思います。

関大尉以外の隊員たちもみんな死を前にして、自分なりの死の意味を考え、深い葛藤の末に心を静めて出撃したと思う。それが敵を発見できず、再び帰還するときの気持ちはいかばかりだろうか。再びわずかばかりの生を享受できることが、彼らにどれほどの苦しみを背負わせたことだろう。今宵はなき命と思っていた身で、再び夜を過ごすことがどれほどの苦しみを与えたことか。しかし関大尉を始めとする隊員たちは、わしらにそんな苦悩を決して見せなかった。何という偉い男たちだったかと思う。

西澤飛曹長は敵戦闘機から敷島隊を守りきり、対空砲火の猛火の中でその突入を見届けたうえ、追いすがるグラマンF6Fを2機撃墜して、セブ島の基地にたどり着いたのだった。これは後にセブ島の基地にいた搭乗員から聞いた話だが、零戦から降り立った西澤飛曹長まとう異様な殺気に誰も声をかけられなかったという。ちなみに終戦まで行われた航空特攻作戦だが、この時の攻撃が最大の戦果をあげたものだった。米軍の意表を衝いたことがもっとも大きな成功要因だったが、西澤という日本海軍随一の戦闘機乗りが援護したということも大きな理由だったのだろう。皮肉なことに、この時の大戦果が軍令部に「特攻こそ、まさに切り札」と信じさせたのかもしれない。

関大尉は軍神として日本中にその名をとどろかせた。関大尉は母一人子一人の身の上で育った人だった。一人息子を失った母は軍神の母としてもてはやされたという。しかし戦後は一転して戦争犯罪人の母として、人々から村八分のような扱いを受け、行商で細々と暮らし、最後は小学校の用務員に雇われて、昭和28年に用務員室で一人寂しく亡くなったという。「せめて行雄の墓を」というのが最後の言葉だったという。戦後の民主主義の世相は、祖国のために散華した特攻隊員を戦犯扱いして、墓を建てることさえ許さなかったのだ。

わしは自分で商売することを決めた。様々な商売に手を出した。何度も騙され、何度も裏切られた。戦後の人びとは戦前の人びととはまるで違う人たちだった。人にだまされた夜、戦争で死んだ戦友たちを思い出し、彼らのほうが幸せかもしれないと思ったこともあった。こんな日本を見なくて済んだ彼らの幸運を羨んだ。しかしそれは終戦直後の混乱と貧困による一時的なものだった。多くの日本人には人を哀れむ心があり、温かい心を持っていた。・・本当に日本人がかわってしまったのはもっとずっと後のことだ。日本は民主主義の国となり、平和な社会を持った。行動経済成長を迎え、人々は自由と豊かさを謳歌した。しかしその陰で大事なものを失った。戦後の民主主義と繁栄は、日本人から「道徳」を奪った---と思う。今、街には、自分さえよければいいという人間たちが溢れている。六十年前はそうではなかった。

実は本当の特攻第一号は同じレイテの大和隊の久納好孚中尉です。・・関大尉の敷島隊が突入したのは十月二十五日ですが、久納中尉の大和隊が突入したのは二十一日です。この日、大和隊も敷島隊も接敵できず、全機基地に引き返したのですが、久納中尉だけは帰還することなく、単機で敵を追い求め、ついに戻らなかったのです。本当は久納中尉こそが特攻第一号ですが、その栄誉は彼にあたえられませんでした。戦果確認ができなかったこともありますが、もう一つの大きな理由は、久納中尉が予備学生出身の士官だったからです。海軍としては「特攻第一号」の栄誉はやはり海軍兵学校出身の士官にしたいということで、関大尉が第一号として発表されたのです。

しかし今、確信します。「志願せず」と書いた男たちは本当に立派だった---と。自分の生死を一切のしがらみなく、自分一人の意思で決めた男こそ、本当の男だった思います。私も含めて多くの日本人がそうした男であれば、あの戦争はもっと早く終わらせることが出来たかもしれません。

B17はドイツ空軍の激しい迎撃にあり、毎回四十%以上の未帰還機を出したのです。四度の出撃を生き延びる搭乗員はいなかったといわれています。それでもアメリカはヒットラーとナチスを倒すために、昼間爆撃をやめませんでした。そしてアメリカ軍の兵士たちもまた勇敢にドイツの空に突入しました。B17の搭乗員の戦死者は五千人を超えているのです。この数は実は神風特攻隊の戦死者四千人を上回るものです。

・・戦後、米軍が日本の戦闘機の性能テストをした時、陸軍の四式戦闘機に米軍の高オクタンのガソリンを入れると、P51ムスタングよりも高い性能を示したという。P51は第二次大戦の最強戦闘機を云われている飛行機だ。その話を聞いたとき、つくづく戦争とは総合力だと思った。一つ二つが優れていても、どうにかなるものではない。

戦後、俺は何度も賭場を開いたが、素人ほど熱くなる。有り金のかなりをすってしまうと、頭に血が上って、僅かばかりの小金を残していても仕方がないと、全部をかけてしまうのだ。軍令部の連中にとったら、艦も飛行機も兵隊も、ばくちの金と同じだったのよ。勝ってるときは、ちびちび小出しして、結局、大勝ちできるチャンスも逃した。それで、今度はじり貧になって、負けだすと頭にきて一気に勝負。まさに典型的な素人ばくちのやり方だ。』

2013年6月20日 (木)

新聞記事から (【阿比留瑠比の極言御免】首相「FB発言」の重大性 25.6.19産経新聞朝刊)

今後も、しれっと出て来るかも知れませんで、残しておきます。

『安倍晋三首相が交流サイト「フェイスブック」への投稿で、小泉政権時代の田中均元外務審議官による対北朝鮮外交を批判し、「彼に外交を語る資格はありません」と記したことが波紋を広げている。これに民主党の細野豪志幹事長や朝日新聞が「個人攻撃だ」とかみ付き、首相に自制を促すという展開になっている。

 18日付朝日社説は、田中氏を擁護しこう書いた。

 「この批判は筋違いだ。田中氏は外交官として、政治家が決断するための選択肢を示した…」

 ◆交渉記録の欠落

 だが、細野氏や朝日は首相の投稿の一番重大な部分を、読み落とすか無視するかしているようだ。首相は、「外交を語る資格はない」と書いた直前のセンテンスで、こう指摘している。

 「そもそも彼は交渉記録を一部残していません」

 首相は、田中氏が主導した北朝鮮との秘密交渉の記録の一部が欠落していることを初めて公にし、その前提の上で田中氏の問題点を問うているのである。

 筆者は過去に複数の政府高官から、次のような証言を得ている(平成20年2月9日付産経紙面で既報)。

 田中氏が北京などで北朝鮮側の「ミスターX」らと30回近く非公式折衝を実施したうち、14年8月30日に政府が当時の小泉純一郎首相の初訪朝を発表し、9月17日に金正日総書記と日朝首脳会談を行うまでの間の2回分の交渉記録が外務省内に残されていない-というのがその概要である。

 通例、外交上の重要な会談・交渉はすべて記録に残して幹部や担当者で情報を共有し、一定期間を経て国民に公開される。そうしないと、外交の継続性や積み上げてきた成果は無に帰するし、どんな密約が交わされていても分からない。

 当時、取材に応じた高官の一人は「日朝間で拉致問題や経済協力問題についてどう話し合われたのかが分からない」と困惑し、別の一人は「記録に残すとだれかにとって都合が悪かったということ」と語った。

 ◆「忌むべき背徳」

 田中氏自身は取材に「私は今は外務省にいる人間ではないし、知らない。外務省に聞いてほしい」などと答えた。その後、日朝交渉や拉致問題に関する産経の取材には応じていない。

 産経の報道に対し、当時の高村正彦外相はコメントを避けたが、今回、安倍首相が自ら言及した形だ。

 外交ジャーナリスト、手嶋龍一氏の小説「ウルトラ・ダラー」には、田中氏がモデルとみられる「瀧澤アジア大洋州局長」が登場し、日朝交渉を取り仕切る。作中で瀧澤が交渉記録を作成していないことに気付いた登場人物が、こう憤るシーンが印象的だった。

 「外交官としてもっとも忌むべき背徳を、しかも意図してやっていた者がいた」

 首相の指摘は単なる「個人攻撃」や「筋違い」ではない。(政治部編集委員)』

2013年6月10日 (月)

玄鳥 (藤沢周平著 文春ウェブ文庫)

武士ものの短編集で、どれも読後感爽やかなものでしたが、書き残したいと思った箇所は一か所だけでした。

『そしてそのむかしにかけられた理不尽な疑いも、すっかり忘れてしまうことはないにしろ、思い出して心を痛めるいうことは次第に少なくなった。それは年月にうすめられて、毒でも薬でもない、目に見えないただの気配のようなものに変わって、やわらかく孫六を覆い包んでいるだけだった。』

2013年6月 9日 (日)

新聞記事から (【緯度経度】ワシントン・古森義久 「靖国参拝は心の問題」 25.6.8 産経新聞朝刊)

参考にしたいと思います。

『「信仰の自由が保障された平和主義の国家で民主主義的な選挙によって選ばれた政治指導者が、戦死者の霊を自分自身が信じる方法で追悼することが、平和への脅威や軍国主義への前進となるはずがありません」

 米国ワシントンのジョージタウン大学のケビン・ドーク教授は6月はじめ、日本の国会議員らの靖国神社参拝について語った。日本の文化やナショナリズムの歴史の研究を専門とする同教授の意見は、いわゆる「日本の歴史問題」への米国側の態度が決して一枚岩でないことを証していた。

 ドーク教授は2006年、当時の小泉純一郎首相の毎年の靖国参拝に中国などの反発がぶつけられたときも、参拝は自国を守るために戦死した先人の霊を悼む「人間の心の問題」だとして支持を表明した。

 今年4月下旬、靖国神社の春季例大祭に合わせ安倍政権の閣僚3人や超党派の国会議員168人が参拝したことで、政治家の参拝をめぐる論議がまた国際的な波紋を広げた。

 米国でもメディアや研究者の間から批判が起きた。オバマ政権は公式には沈黙したままだが、非公式には不満をもらす高官も存在する。ブッシュ前政権の高官たちがまったく日本批判の気配はみせなかったのとは対照的である。

 ドーク教授の見解がこの時点でまた注視される契機のひとつは安倍晋三首相自身の言明だった。首相は5月中旬、米外交雑誌「フォーリン・アフェアーズ」編集局長のインタビューに応じ、靖国参拝をやめるかと問われて、教授がすでに述べていた見解を引用して答えとしたのだった。

 「ドーク教授は南北戦争での南軍将兵が埋葬されたアーリントン国立墓地を歴代米国大統領が訪れたが、南軍がその保持のために戦った奴隷制の承認を意味はしないと言明しました。靖国参拝についても同じことがいえると思います」

 靖国にはA級戦犯の霊も合祀(ごうし)されたが、参拝はその霊の生前の行動への支持をとくに意味はしない、というわけだった。

 ドーク教授はこうした靖国参拝奨励論を「ヤスクニ=戦死者と日本の過去との戦い」(コロンビア大学プレス刊)という米国での近著でも明確に述べていた。日米英の識者たちの参拝への賛否両論をまとめた同書は、靖国についての英文ではほぼ唯一の総合的な本だとされる。

 ドーク教授は筆者のインタビューに応じて、さらに見解を語った。

 「戦死者の追悼は人間の霊、そして生と死にかかわる神聖な行為であり、それを外部からの圧力でやめることは追悼する側の個人の尊厳を冒すことになります。日本の政治指導者が自国の戦死者の霊に弔意を表することは、日本のいまの外交政策や安保政策にはなんの関係もないでしょう」

 「日本の政治家の靖国参拝に対しては日本軍が最も大きい被害を与えたはずの東南アジア諸国からも、長い統治を続けた台湾からも非難は出てこない。日本非難を共産党独裁の正当性につなげる無神論の中国と、日本たたきを民族プライドにつなげる情緒的な韓国からしか参拝糾弾が出てこない点に注目すべきです」

 なお、秋田の国際教養大学で日本のナショナリズムの集中講義をするために訪日したドーク教授は今月6日、安倍首相を表敬訪問したという。(ワシントン駐在客員特派員)』

2013年6月 1日 (土)

長門守の陰謀 (藤沢周平著 文春ウェブ文庫)

藤沢周平氏の作品では、私自身は、町人ものよりも武士もののほうが好きです。町人ものには何か哀愁が漂っているように感じられて辛くなるからです。しかし、好きではなくてもその中には人生の一面を鋭く描写している部分があり、心に残ります。

『・・ひと月ほど前、作次郎は突然橋本をやめた。そしてそのあと、亀戸のほうにある賭場で、作次郎を見かけたという者がいた。作次郎は酒気を帯び、それがはじめてではない手つきで金をかけていたという。作次郎がそんな風になったのは、自分のせいばかりではないかもしれないという気がしたが、茂太とのことがなければ、少なくとも作次郎は、まだ橋本で働いていたはずだった。

おぶってやろう、と言ってしゃがむと、幸助は素直に背に乗ってきた。--夢みたいなことを考えても、しようがないものね。幸助を背負って、夕映えに照らされた田圃道を歩きながら、おりんはそう思った。子供の身体は軽かった。母親が見てやらなければ、どうしようもない軽さだった。

脇目もふらずに歩いてきた一本の道がある。鶴蔵はその道からはみ出したことがなかった。女遊びも知らず、酒も飲まなかった。女房のおなみが鶴蔵の触れた最初の女だったのである。それだから一軒の店を持てたのだが、それとは違う別の道を歩きたかったと、はっきり思うわけではなかった。悔恨は、かりにいま、そういうことを考えても、もはややり直しがきかない場所にきてしまったという思いから生まれた。その気持ちは、なぜか年々強まるようであった。時にはその思いのために、以前はかがやくようにみえた自分の歩いてきた道が、日がかげったように色あせて見えることさえあった。

「だが、貴公のように激昂してばかりいても、振りかかってきた火の粉は払えんぞ」』

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