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2013年5月 4日 (土)

武田勝頼(一) 陽の巻 (新田次郎著 講談社電子文庫)

新田次郎氏にとり、武田信玄の続編ともいうべき著作です。なぜ武田家が滅んでしまったのか、強大な組織が衰退していく理由、様相を探りたく、読んでみました。

『勝頼が武田家の有力武将の一人内藤昌豊に誓書まで与えて、切腹を思いとどまらせたことは、勝頼の地位がはなはだ不安定であり、こうしなければ、有力武将の離反を誘うような状態にあったからである。

信玄の死と同時に、これらの宿将に、信玄に対すると同じような気持ちで勝頼に仕えよと云ってもそう簡単にはいくものではなかった。信玄の死が早すぎたのである。信玄がもう十年も生きていたら、その間に、武田の家督が自然に勝頼に移るようになったのであろうが、それができなかった。勝頼にとってもは重すぎる統領の座であり、家臣団にとっては軽すぎる棟梁の下で働かなければならないという不満があった。

(奥平)貞勝はよしよしと頷いた後で、「古来、二大勢力の境界にある小豪族が生き延びるべく考えたことは、一家が二つに分かれて双方に味方し、生き残った方が家の名をつぐという方法である。この例は数限りなくある。・・・」

当時は風呂が酒肴と共に饗応の一つであり、主人が客と共に風呂に入ることは最高のもてなしと考えられていたようだ。

大久保忠世に我慢させたのは、当時の徳川家の状態がいかに人集めに苦心していたかを裏書きするものである。戦国時代には流れ者の職業武士がどこの国にもいた。彼らは二十人、三十人まとまった人数をつれて、全国を渡り歩き、条件のいい武士の雇われていた。この兵力がまたばかにならないほどのものだった。

信長は軍議を開くこともあったが、作戦の大綱は彼が決めて、こまかい実践の駆け引きは武将間で討議させた。

足なかというのは藁草履の一種で、草履のうしろ半分を取り去ったような形をしたものである。これを履くとかかとの部分は外に出る。足半(あしなか)とも書いた。陣中で盛んに用いられた。

小谷城の浅井父子は掌中にある敵も同然だった。放って置いても自落すべき敵であったが、飽くまでも彼は攻めようとした。しかも、ただの攻め方ではなく、一日で攻め落とすという主題を提出しての攻撃だった。「筑前めが、その役をお引き受けいたしたいと存じます」羽柴筑前秀吉が進み出て云った。 「一日だぞ、一日で攻城ならずば、そちを追放する。それでよいのか」 「心得ております」 秀吉は決然と答えた。秀吉は彼の人生をこの一戦にかけた。一日で城が落ちねば、必ず追放されるだろうが、もし城を落とすことが出来たら、織田家第一の武将として認められるだろう。・・秀吉には成算があった。彼はかねてから間者を入れて、小谷城の地形をつぶさに調べていた。

(武田信綱の言)「・・なぜあんな下手な戦をしたのかと自分ながら恥ずかしいと思っている。だが、日が経つにしたがって、負けた原因が自分でもはっきりと分かるようになってきた。戦に勝つには、兵力とか武力とはそういうことよりも、もっと大事なものがある。それは、必勝の信念だ。去年の夏、私はそれを持っていなかった。兄信玄を亡くして以来、私の心から必勝の信念が消え失せていた。お館様を失ったことで、武田家そのものさえも見失っていた。だから負けたのだ」

丹羽長秀という人物は、気が利くのか利かないのか、気が廻るのか廻らないのか、どことなく掴みどころのない人であった。信長が頭ごなしに叱りつけても、顔色を変えてかしこまるようなこともなく、さりとて不貞腐れた態度でもなく、お叱りごもっともと信長を立てるあたりのコツをよく心得ていた。叱られっぷりのよい家臣であった。信長もこれをよく知っていて、虫の居所の悪いときには、丹羽長秀をよく呼んで、当り散らしていた。

信長は変わり身の早い武将だった。不利だと覚ると、すぐ次の作戦を樹てた。

兵を使うには、兵の生命の安全を守ってやるという考え方を大将が示さねばならない。兵が将を信じてこそ、そこに戦闘力が生まれる。将が兵を弾丸避け(たまさけ)ぐらいに考えていたら、兵は絶対に進むものではない。兵が生命懸けで働くときは、戦わねば、自分自身が危ういと理解したときであった。攻城の当初から生命を捨ててかかれてと号令はできない。そんな無茶な作戦に兵は同意できないことを、攻城軍の大将、穴山信君はよく知っていた。

(真田)昌幸は諸将を訪問して危機を説いた。誰も彼も昌幸の云うことはもっともだと云ったが、進んで二人の御親類州都の間を取り持とうという者はいなかった。長島の本願寺派の存亡が武田の興亡と深いつながりがあるということを心の底まで感じ取っている者はいなかった。

武田水軍はこの絶好の機会に終に動かず、武田の宝としてそのまま武田の亡びるまで温存され、そして、徳川家康の手にそっくりと移され、徳川が天下を取るための推進力となった。

胡桃伝兵衛は、充分な下調べをすませた上で、嵐の夜に忍び込み、梁上に潜んだ。書状の隠してある場所はだいたい決まっている。しかし、夜だと行動に不便があるから、夜のうちに忍び込んで朝を待って在り場所に見当をつけ、家人が家屋を出たり便所に立ったちょっとした隙を見計らってそれを探す。首尾よくそのものを盗み取っても梁上でじっとしていて、夜になって抜けでる。これには、飲まず、食わず、出さず、漏らさず、しかも眠らずにじっとしていなければならない。忍びの者にとってはこの修業が第一であって、武術は二の次である。』

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