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2013年5月

2013年5月12日 (日)

新聞記事から (【日曜経済講座】編集委員・田村秀男 円安=株高持続の条件 25.5.12 産経新聞 朝刊)

経済関連コラムです。

『■鍵は米量的緩和と消費増税

 昨年秋までの低迷がまるでうそだったかのような株高が続いている。株式投資に関心がなかった方々も、「やってみようか」と思い始めていることだろう。が、株高はいつまでも続くのか、死角はないのか、とよく聞かれる。それを突き止めるためには、株価が何によって決まるかをよく理解しておく必要がある。

 まずは株と円相場の関係である。衆院解散総選挙の機運が高まった昨年11月中旬から、1ドル=80円前後だった円は下降、8600円台だった日経平均株価は円安とともに上昇を続けて現在に至る。

 グラフは、日経平均株価と円の対ドル・レートの変動を比較している。年初以来、5月8日までの国内市場の営業日ベースで7日前の各相場の増減率の推移を追うと、一目瞭然、株価は円高に振れると下がり、円安で上がっている。前日比でみれば、逆に動く日もないわけではないが、数日以上の期間に広げてみると、株と円相場の振幅は常時同調することが見えてくる。平たく言うと、程度は別にして、円安即ち株高、円高即ち株安という図式が「アベノミクス」相場の特徴なのだ。

 円相場水準は日米のお札の刷り具合で決まる。厳密に言えば、日銀による円の発行量(現金発行量と金融機関が日銀当座預金に留め置く資金量の合計=マネタリーベース)と米連邦準備制度理事会(FRB)のドル・マネタリーベースの割合が決め手となる。白川方明(まさあき)前総裁時代、日銀は円の新規発行を小出しでしか増やさないのに、FRBは2008年9月のリーマン・ショック後、猛烈な勢いでドルを刷り続け、昨年12月時点でもFRBが刷る1ドルに対して日銀は50円弱しか発行していなかった。それが超円高の背景にあるとみた黒田東彦(はるひこ)総裁・岩田規久男副総裁の新日銀首脳部はマネタリーベースを来年末までに2倍にする「異次元緩和」政策を4月4日に打ち出した。量的緩和期待が先行していた外国為替市場では円安基調が定着した。

 10日の東京市場で、円の対ドル相場は100円の壁を突破したが、今後、一本調子の円安は考えにくい。その背景にはFRBによる量的緩和(QE3)がある。米国は今年に入って、毎月平均800億ドル余りのドル資金を追加発行しているが、黒田日銀はこれから年末にかけて月平均7兆2500億円の円資金を刷り増す方針を決めている。7兆2500億円を800億ドルで割ると90円余りとなり、日銀のおカネの発行規模からみると、1ドル=100円水準には届かない。

 現行水準以上に円安が進まない場合、日本の株価はどうなるか。当面、その鍵を握るのは残念ながら日本ではなく、FRBとウォール街である。そのからくりを述べよう。

 まず、FRBはQE3で米金融機関に上記の資金を流し込む。その余剰資金が株式投資に回るので株価が上がる。ウォール街の機関投資家はグローバルに株式投資しており、日本株の保有比率を決めている。米株価上昇に伴う日本株の比率の低下を避けるために、日本株も買い増す。かれらはすべてドル建てで計算するので、円安の場合、やはり同じく日本株のドル建て額が下がるので、日本株を買い足す。米株高と円安で日本株を買い、米株が売られるか円高の場合は日本株を売る。売り買いはコンピューターによる自動操作によるので、瞬時に実行される。日本株の売買高の5割以上は外国人投資家によるが、その本拠はウォール街にある。

 この仕組みからすれば、FRBの量的緩和政策は日本株の行方に大きく関わる。FRBがQE3を打ち切れば、黒田日銀の異次元緩和の威力が増し、ドル資金に比べた円資金量が増えて円安に振れ、日経平均が上昇気流に乗るだろう。ただ、米株式市場はFRBによるドルの輸血が止まると、市場が大きくふらつく恐れもある。FRBが資金供給を増やさないときに米株価は下落してきた。米景気の力強い復調が確かになるまで、FRBのバーナンキ議長がQE解除に慎重なのも無理はない。

 日本としてはまだまだ楽観できない。アベノミクスの実行は始まったばかりで、依然として金融政策に偏重しているし、脱デフレの道筋は描けても、現実に見えたわけではない。

 安倍首相はこの秋には予定通り来年4月に消費増税に踏み切るかどうか、最終決断するが、「15年デフレ」が短期で解消されるはずはない。デフレ下の消費増税は円高・株安ムードを再燃させる危険が大いにある。円安・株高の軌道固めを優先すべきなのだ。』

2013年5月11日 (土)

新聞記事から (【忘れ難き偉人伝】木村昌福(中)「帰れば、また来ることができる」 25.5.11 産経新聞朝刊)

1週間前に掲示したものの続編です。

『 昭和18(1943)年7月7日、木村昌福(まさとみ)(1891~1960年)率いる救援艦隊は5200名の将兵が待つキスカ島に向け、千島列島の幌筵(ほろむしろ)島を出撃する。濃霧に紛れ、キスカ島に突入する撤退作戦は気象変化との闘いであり、帝大を卒業したばかりの気象士官が同行していた。

 アッツ同様、玉砕を覚悟していたが、撤退作戦実施にキスカは沸き立っていた。現地気象班は「12日夜、並霧」「13日、濃霧」「14日、霧」と絶好の予測を打電してくる。焦る思いがにじむ。

 だが、同行の気象士官の予測は「霧なし」が続く。一兵残らず救出する信念の木村は若き気象士官の判断を信じ、時を待った。

 燃料の残量から待機最終日の14日朝。艦隊の駆逐艦からも「本日突入至当」「本日をおいて決行の日なし」などの信号が送られる。だれもが一刻も早く救出したい。

 気象士官の答えは「視界良好」。乗組員が固唾をのみ、判断を待つ。木村は幌筵帰投の命令を下した。そして、だれに言うこともなくつぶやいた。「帰ろう。帰れば、また来ることができるからな」

 幌筵に帰投した木村を待ち構えていたのは悪評陰口だった。「臆病風に吹かれた」「危険を冒さずしてこの作戦ができるか」「哨戒機がなんだ」。知ってか知らずか、木村はいつものように平然としていた。

 だが、だれよりも将兵の命を考えていた木村が一番、悔しかったに違いない。

 輸送船攻撃でも木村は高角砲で船底部を狙い撃ちにし、人的被害を少なく、船を沈没させる戦法を取った。あるとき砲撃を受けた輸送船からボートが降ろされ、数人が乗っているのが確認された。「撃っちゃいかんぞう」。再砲撃を準備していた艦橋に木村の大声が響く。ボートが輸送船から離れたのを確認後、「よし砲撃せよ」と6隻とも乗組員が退去した後に沈没させた。

 「一兵も損せず、相手の殺傷をできるだけ少なくし、実質的に損害を与えることが兵法の極意だ」。理想の軍人といえないだろうか。(将口泰浩) 』

 

2013年5月 6日 (月)

新聞記事から(【視線】大阪編集長・井口文彦 愚痴こぼさず 自慢せず 25.5.6 産経新聞朝刊)

もう亡くなりましたが、私の父は元警察官でした。その手には、犯人との格闘で負った傷の跡が一生残っていました。父はまた、母に「もし殉職することがあっても、決してとり乱すな」と云っていたと、母から聞きいたことがあります。また、身内にも現職の警察官がおりますが、もちろん彼らに危ない目に遭ってほしくはありません。ですが、警察官ですから、絶対にないとは言い切れません。ただ、無事でいてほしいとは心から願いつつも、いざという時には決して逃げないでもらいたいと思います。そして、私自身も肝に銘じておきたいと思います。

『原稿を読み、久しぶりに胸が熱くなった。本紙4月26日付夕刊(大阪)1面、『22歳女性巡査 市民守った』の記事だ。

 愛知県内の交番に勤務する女性巡査が夜、女性通行人の後ろを歩く不審な男を発見した。男が視界から消え、女性の悲鳴が聞こえた。巡査は男を取り押さえようとするが、顔を2発殴られた。追いすがる。再び2発殴られた。転倒した。鼻血がぼたぼた流れ、制服は血だらけになった。

 それでも巡査は立ち上がり、走った。逃げる男の首に飛びついた。「警察だ! 待て!」。男は観念し、「もう逃げません」。警戒対象の連続わいせつ犯だった。

 巡査の鼻は折れていた。155センチで細身の巡査に対しわいせつ犯は170センチ、70キロの23歳。20キロ近い体重差で殴られたというのに、萎えない彼女の気迫はどこから出ているのだろう。「けがは警察官として未熟だったからです」。手術を終え、職場復帰した巡査には苦い経験があるという。

 配属されて間もなく、職務質問すべき少年に逃げられた。数百メートル追ったが、引き返した。どこかに「男の足には追いつけない」という思いがあった。上司に見透かされていた。「女の足では無理と思ったのか。それで市民を守れるのか」。女だから、と甘えていた。心底、自分を恥じた。ただならぬ気迫の源はここにあったのだ。

 警察官が抵抗する犯人を捕まえる。危険でも立ち向かう。当たり前の職務だろう。だが受益者の私たちは「当たり前」に胡坐(あぐら)をかき、えてして「治安のコスト=警察の努力」を忘れがちではないだろうか。

 こんなことがあった。バブルのころ、東京の高級住宅に拳銃を持った男がお手伝いさんを人質に立てこもり、銃撃戦になった。人質は射殺され、警官が撃たれた。犯人は自ら喉(のど)を撃つ凄惨(せいさん)な事件だった。

 拳銃を人質に突き付けながら家を出て車で逃げようとする犯人に、警視庁は門の上などに刑事を配置。陰から消火器を噴射して犯人をひるませ、取り押さえる急襲策を練った。犯人が撃ってくる危険が強い。ベテラン刑事の一人が「私にはできない。家族がいるので」と拒否した。弱気にのまれた刑事など、起用するわけにいかない。

 急襲策と並行し、警視庁は犯人に人質交換を申し入れた。人質役を命じられた26歳の女性巡査長は「分かりました」と言った。スカートの彼女に上司は「すぐにズボンを買ってこい」。彼女が戻ったのは1時間も経(た)った後で、上司は「遅い!」と怒った。彼女は「すみません」と言うのみ。

 実は買い物後、郷里に電話していた。人質になったら殺されるだろう、親の声を聞けるのは最後-。その思いが彼女を公衆電話に向かわせた。遺言のつもりだった。

 現場に戻った彼女はその後4時間待ち続ける。「婦警をそちらに行かせる。だから人質を解放してくれ」と同僚が電話で犯人を説得するのを聞きながら。犯人は交換を許さず、結局、彼女の出番はなかった。

 「片やいい年の男が『できない』。片や26歳の女が『撃たれる』という思いを押し殺し、じっと出番を待っている。何をかいわんや、です」(当時を知る元刑事)

 愛知の女性巡査は本紙記者に語った。「目の前で同じ状況があれば、他の警官も同じ行動をとったはず。私は当たり前のことをしただけです」。低次元の不祥事が頻発する警察へ批判は多い。が、その一方で全国の名もなき警察官が、愛知の女性巡査のように殴られたり、かつての警視庁巡査長のように死の恐怖に迫られても愚痴ひとつこぼさず、手柄を自慢するわけでもなく、粛々と仕事している。安全の陰にはそういう警察官がいる。彼らの存在を私たちはもっと大切にし、敬意を払っていい。(いぐち ふみひこ)』

2013年5月 5日 (日)

新聞記事から(【忘れ難き偉人伝】木村昌福(上)「パーフェクト」のキスカ撤退」 25.5.4 産経新聞)

困難な状況下にあっても、合理性、人道主義を忘れずにいることの重要性を改めて教えてくれる話です。特に人の上に立つ人は、学校などの成績だけからはわからない、人間力ともいうべき能力を養っていかなければならないと思います。

『昭和17(1942)年6月7日、米国領に初めて日の丸が掲げられた。アリューシャン列島のキスカ島。翌8日には300キロほどカムチャツカ寄りのアッツ島も陸軍が上陸する。現在まで凍土の孤島ながら米国領が他国に占領されたことはなく、米軍としては屈辱的だったに違いない。2島は数奇な運命をたどる。

 アッツ放棄と引き換えにキスカ撤退作戦が決定された。18年5月29日、アッツ島は壮絶な戦闘の末、守備隊2500名が全滅、初めて「玉砕」が使われる。

 キスカ撤退作戦の指揮官は木村昌福(まさとみ)(1891~1960年)。海軍兵学校でハンモックナンバーと呼ばれ、配属や昇進の基となる卒業成績は118人中107番と下位で、このため駆逐艦乗りの海上勤務が長い、いわゆる「潮っ気いっぱい」の男だ。

 うち捨てられたアッツ将兵のためにもキスカ撤退は必ず成功させなければならない。常々、木村はこう語っていた。指揮官として守るべき事項は「無理やり突っ込むは匹夫の勇」「部下を思う至情と指揮官の気迫と責任」「部下が迷ったときに何らかの指示を与え、自分の立場、責任を明確にせよ」だ。作戦に当たり、参謀に一任した上で「焦るな、責任はおれが取る」

 キスカには陸軍2700名、海軍2500名が配置についていた。陸海打ち合わせの際、木村は言った。「敵に遭遇した場合、主力艦隊は撃破に任ずる。しかし1隻でも2隻でもキスカに突入させ、一兵でも多くの陸軍部隊を収容したい。海軍部隊は同僚であるから遠慮してもらう」。戦況悪化につれ、陸海軍の足並みが乱れるが、この作戦は違った。収容作業は1時間以内と判断した木村は陸軍に対し、携帯武器の放棄を要請する。菊のご紋章が付いた三八(さんぱち)式歩兵銃を海に捨てろというのだった。陸軍は「銃を捨てられるか」と抵抗するが、陸軍北方軍司令官の樋口季一郎は独断で承諾する。

 合理的人道主義のこの2人なくしては、5183名を救出し、米軍に「パーフェクトゲーム」と言わしめた作戦成功はなかった。(将口泰浩)』

2013年5月 4日 (土)

武田勝頼(一) 陽の巻 (新田次郎著 講談社電子文庫)

新田次郎氏にとり、武田信玄の続編ともいうべき著作です。なぜ武田家が滅んでしまったのか、強大な組織が衰退していく理由、様相を探りたく、読んでみました。

『勝頼が武田家の有力武将の一人内藤昌豊に誓書まで与えて、切腹を思いとどまらせたことは、勝頼の地位がはなはだ不安定であり、こうしなければ、有力武将の離反を誘うような状態にあったからである。

信玄の死と同時に、これらの宿将に、信玄に対すると同じような気持ちで勝頼に仕えよと云ってもそう簡単にはいくものではなかった。信玄の死が早すぎたのである。信玄がもう十年も生きていたら、その間に、武田の家督が自然に勝頼に移るようになったのであろうが、それができなかった。勝頼にとってもは重すぎる統領の座であり、家臣団にとっては軽すぎる棟梁の下で働かなければならないという不満があった。

(奥平)貞勝はよしよしと頷いた後で、「古来、二大勢力の境界にある小豪族が生き延びるべく考えたことは、一家が二つに分かれて双方に味方し、生き残った方が家の名をつぐという方法である。この例は数限りなくある。・・・」

当時は風呂が酒肴と共に饗応の一つであり、主人が客と共に風呂に入ることは最高のもてなしと考えられていたようだ。

大久保忠世に我慢させたのは、当時の徳川家の状態がいかに人集めに苦心していたかを裏書きするものである。戦国時代には流れ者の職業武士がどこの国にもいた。彼らは二十人、三十人まとまった人数をつれて、全国を渡り歩き、条件のいい武士の雇われていた。この兵力がまたばかにならないほどのものだった。

信長は軍議を開くこともあったが、作戦の大綱は彼が決めて、こまかい実践の駆け引きは武将間で討議させた。

足なかというのは藁草履の一種で、草履のうしろ半分を取り去ったような形をしたものである。これを履くとかかとの部分は外に出る。足半(あしなか)とも書いた。陣中で盛んに用いられた。

小谷城の浅井父子は掌中にある敵も同然だった。放って置いても自落すべき敵であったが、飽くまでも彼は攻めようとした。しかも、ただの攻め方ではなく、一日で攻め落とすという主題を提出しての攻撃だった。「筑前めが、その役をお引き受けいたしたいと存じます」羽柴筑前秀吉が進み出て云った。 「一日だぞ、一日で攻城ならずば、そちを追放する。それでよいのか」 「心得ております」 秀吉は決然と答えた。秀吉は彼の人生をこの一戦にかけた。一日で城が落ちねば、必ず追放されるだろうが、もし城を落とすことが出来たら、織田家第一の武将として認められるだろう。・・秀吉には成算があった。彼はかねてから間者を入れて、小谷城の地形をつぶさに調べていた。

(武田信綱の言)「・・なぜあんな下手な戦をしたのかと自分ながら恥ずかしいと思っている。だが、日が経つにしたがって、負けた原因が自分でもはっきりと分かるようになってきた。戦に勝つには、兵力とか武力とはそういうことよりも、もっと大事なものがある。それは、必勝の信念だ。去年の夏、私はそれを持っていなかった。兄信玄を亡くして以来、私の心から必勝の信念が消え失せていた。お館様を失ったことで、武田家そのものさえも見失っていた。だから負けたのだ」

丹羽長秀という人物は、気が利くのか利かないのか、気が廻るのか廻らないのか、どことなく掴みどころのない人であった。信長が頭ごなしに叱りつけても、顔色を変えてかしこまるようなこともなく、さりとて不貞腐れた態度でもなく、お叱りごもっともと信長を立てるあたりのコツをよく心得ていた。叱られっぷりのよい家臣であった。信長もこれをよく知っていて、虫の居所の悪いときには、丹羽長秀をよく呼んで、当り散らしていた。

信長は変わり身の早い武将だった。不利だと覚ると、すぐ次の作戦を樹てた。

兵を使うには、兵の生命の安全を守ってやるという考え方を大将が示さねばならない。兵が将を信じてこそ、そこに戦闘力が生まれる。将が兵を弾丸避け(たまさけ)ぐらいに考えていたら、兵は絶対に進むものではない。兵が生命懸けで働くときは、戦わねば、自分自身が危ういと理解したときであった。攻城の当初から生命を捨ててかかれてと号令はできない。そんな無茶な作戦に兵は同意できないことを、攻城軍の大将、穴山信君はよく知っていた。

(真田)昌幸は諸将を訪問して危機を説いた。誰も彼も昌幸の云うことはもっともだと云ったが、進んで二人の御親類州都の間を取り持とうという者はいなかった。長島の本願寺派の存亡が武田の興亡と深いつながりがあるということを心の底まで感じ取っている者はいなかった。

武田水軍はこの絶好の機会に終に動かず、武田の宝としてそのまま武田の亡びるまで温存され、そして、徳川家康の手にそっくりと移され、徳川が天下を取るための推進力となった。

胡桃伝兵衛は、充分な下調べをすませた上で、嵐の夜に忍び込み、梁上に潜んだ。書状の隠してある場所はだいたい決まっている。しかし、夜だと行動に不便があるから、夜のうちに忍び込んで朝を待って在り場所に見当をつけ、家人が家屋を出たり便所に立ったちょっとした隙を見計らってそれを探す。首尾よくそのものを盗み取っても梁上でじっとしていて、夜になって抜けでる。これには、飲まず、食わず、出さず、漏らさず、しかも眠らずにじっとしていなければならない。忍びの者にとってはこの修業が第一であって、武術は二の次である。』

2013年5月 3日 (金)

経済の自虐主義を排す  日本の成長を妨げたい人たち (三橋貴明著 小学館eBooks)

この人の本は大変わかりやすいです。アベノミクスを攻撃し、財政破たん、ハイパーインフレなどを唱えてきた、唱えている人は、「無知」か、「馬鹿」か、あるいは「悪意を持つ者」だと断言します。

『・・政府は、他の二つの経済主体」(企業、家計)と決定的に違う部分がある。それは、政府の場合、経世済民が「意識すべき」といったレベルの話ではなく、目的そのものであることだ。

・・主体的に「利益追求!」「黒字化追求!」をやってはならない経済主体が政府なのだ。政府は企業とは異なり、営利団体ではない。

そもそも、通貨発行権を持つ中央政府の「自国通貨建て」負債の残高を問題視する時点で奇妙な話なのだ。繰り返しになるが、中央政府は中央銀行に国債を買い取らせることで、負債の負担を消滅させることが出来る。政府はあくまで経世済民を実現できるか否か、すなわち国民を豊かにすることができるかどうか「のみ」を判断基準とし、予算執行や国債発行、さらには通貨発行を執り行えばいいのである。

例えば現時点では無駄に思えても、将来的には国民の生命を救う公共事業がある。というよりも、防災を目的として政府の事業は、基本的には「災害が発生しない限り、無駄」である。

別に、日本に限らず、バブル崩壊後の国では、特に民間企業が「借金返済」という直地区を優先することになり、投資が激減する。投資の激減は「その時点の需要」の現象であると同時に、「将来的な成長力」の毀損でもあるわけだ。

そして、根拠なき公共投資不要論に足を取られ、橋本政権が公共投資を減らし始めた途端、今度こそ日本経済はマイナス成長に突っ込み、デフレが深刻化していったのだ。「公共投資を拡大したのに成長しなかった」のではない。「公共投資を縮小したために成長しなくなった」

米軍に国土を焼け野原にされ、供給能力が極端に落ち込んだ1946年の日本であってさえ、最も需要が大きい首都東京で、物価が6倍になる「程度」のインフレでしかなかったのだ。

中央銀行の独立は、別に、「経世済民」の目的でも何でもない。というよりも、経世済民という目的を達成するための手段の一つが、中央銀行の独立なのだ。

2012年11月松に引退を表明した、民主党の藤井裕久最高顧問は、12月3日の講演で、自民党の「金融緩和と財政出動のパッケージ」という「正しいデフレ対策」について、「インフレを招く」「最大の問題は需給バランスの崩れ。需要を作らないといけない」「金融を全然勉強していない」と切り捨てた。当たり前だが、デフレ対策とは「インフレにする」ことだ。デフレ対策が成功すれば、国民経済はインフレになる。自民党が「デフレ対策で、インフレにする」との政策を掲げたのに対し、「インフレを招く」と反論しているわけだから、色々な意味で凄い。・・最後の「金融を全然勉強していない」については、むしろ自分の党(民主党)の議員たちに藤井氏はお説教して回るべきだろう。なにしろ、野田前総理をはじめ、ほとんどの民主党の議員たちは「買いオペ」と「直接引き受け」の区別がついていないうえに、日銀の独立性の意味すら理解していないのだから。

現在のユーロ圏は「究極的」に中央銀行(ECB)が独立してしまっている。なにしろ、各国の中銀は「政府の指示を聞いてはならない」という決まりになっているわけだから、徹底している。・・・結果的に、ユーロ各国でバブルが崩壊し、経済がデフレ化し始めた状況に対し、ユーロは「手も足も出ない」状況になってしまった。

スペインやギリシアの政府は、一応、国債発行で雇用創出を試みていたのだが、何しろ中央銀行のサポートがないため、長期金利が上昇してしまった。結果的に、各国個別の危機が原因で、「ユーロ全体」にシステマティックリスクが発生することが明らかになり、ECBは背に腹は変えられず、各国の国際買取に乗り出したわけである。

既に、世界の中央銀行の議論は、「そもそも中央銀行の役割とは、いかなるものなのか?」という段階に達しているのである。それにもかかわらず、いまだに日本国内では「中央銀行の独立性とは、侵さざる神聖な概念だ」などと、イデオロギー的なことを叫び続けている人が少なくない。はっきり言って、周回遅れだ。

デフレの国でなぜ需要が不足するかと言えば、もちろんバブルが崩壊したためだ。バブルが崩壊するということは、民間(日本の場合は企業)が「借金をして買った資産(不動産など)の価格が暴落した」という話になる。・・・というわけで、バブル崩壊後の民間企業や家計は、所得から借金返済という「貯蓄」に回すお金を増やしていく。当たり前だが、借金返済は消費でも投資でもない。

また、企業が投資を減らすと、雇用環境が悪化していく。失業率が上昇傾向にあると、家計は消費を減らし、住宅投資を「先送り」しようとしてしまう。消費や投資を減らし、どこにお金を回すかと言えば、もちろん銀行預金(やはり貯蓄)だ。

構造改革の代表的な性差kが、民営化や規制緩和になる。民営化や規制緩和は、ある市場のプレーヤー(企業)を増やし、競争を激化させ、企業努力(設備投資など)を引き出し、国民経済の供給能力を高めようという政策だ。デフレの国が規制緩和や民営化といったサプライサイド政策(供給能力を高める政策)を実施しても、デフレギャップ拡大で失業者が増え、状況を悪化させるだけの話なのである。

現在の日本は稼ぐ力の源である供給能力は「十分にある」のである。供給能力があるにもかかわらず、需要が不足しているからこそデフレが継続しているのだ。・・・デフレ期の企業の廃業は、国民経済全体のデフレという病を深刻化させるため、自己責任などと言って切り捨てられるものでは無い。

ミクロレベルでの合理的な行動が、マクロに合成されると予期せぬ事態を引き起こす現象を「合成の誤謬」と呼ぶ。デフレ期には「稼ぐ力」を強化するというミクロレベルでの合理的な行動が、マクロに合成されると「デフレ深刻化」という予期せぬ事態を引き起こすのである。

1998年の日銀法改正は、二つの「致命傷」ともいうべき欠陥を含んでいる。・・政府と日銀の役割分担が不明確で、さらに総裁罷免権を「誰も持たない」異様な状況になってしまっているということである。・・ある意味で、日本銀行総裁は内閣総理大臣よりも権力が強いと言える。

右の記事は毎日新聞の「社説」である。会社の論説である社説において、毎日新聞は日銀への「政治介入」について批判しているわけだ。正直、「毎日新聞、正気か!?」という感想が浮かんできた。・・日本国家の最高機関は「国民に選ばれた政治家」が判断を下す国会であって、日本銀行ではない。・・そもそも、毎日新聞は、「政治介入」について、あたかも「よくないこと」であるかのごとく印象操作を行っているが、実際には政治介入こそが政治家の仕事である。たとえば、官僚が作った法律の草案に対し、「国民主権の束」を背負っている政治家が介入し、自らが代表する「国民」のために圧力をかけ、変えさせる。これが、そもそも政治家の仕事なのだ。・・毎日新聞の社説に限らず、昨今の「政治介入批判」が問題だと思うのは、民主主義の根本を理解していないためだ。

日本銀行は2011年3月11日の東日本大震災発生以降、確かに方向的には金融緩和を実施している。とはいて、「なぜか」時折マネタリーベースの縮小、すなわち金融引き締めを実施し、07年1月比では1.5倍にも達していない。FRBやECBと比較すると日銀の金融緩和ペースはもの悲しさを覚えてしまうほどに遅い。

日本銀行は2012年8月に「日本の人口動態と中長期的な成長力:事実と論点の整理」という「トンデモ」レポートを出している。本レポートは、要するに「生産年齢人口減少がデフレの原因である」という妄想を正当化するために、懸命にデータをいじくり、事実を歪めて書き上げられたものである。・・日本銀行はデフレの責任を追及されることを恐れ、「人口が減っているからデフレになっている」という、奇妙な理屈に救いを求めているわけだ。

・・世界には人口が減っている国々(ほとんどが日本以上の減少率である)が20か国以上あるにもかかわらず、デフレに陥っているのは日本だけだ。なぜ、日本だけがデフレなのか、もちろん、1990年にバブルが崩壊し、その後、政府がまともなデフレ対策を打っていないためである。逆に、他の人口減少国は、バブル崩壊を経験していないから、デフレ化していない。ただ、それだけの話だ。さらにいえば、人口減少デフレ論は当の日本政府の「ある省庁」までもが明確に否定している。ある省庁とは、内閣府だ。

人口減少デフレ論の元祖は、・・藻谷浩介氏(日本総合研究所調査部主任研究員)であろう。

・・人間がかかわっている限り、どんなシステムであってもやがては根が腐り、不公正や歪みが蓄積されてくる。人間をなめてはいけない。

デフレギャップを抱える国が生産性を高めると、「労働者が解雇される」という事態を招く。労働者が失業者になると、当たり前の話として消費を減らす。結果的に現実の需要が縮小し、デフレギャップはさらに高まってしまう。

2012年12月12日 ロイター通信「総選挙こうみる:アベノミクス実施なら半年後に株高・円安=トヨタAM濱崎氏」・・「金融緩和強化と積極財政によるデフレ脱却を目指すのは正しい方策と考えている増税による財政再建と構造改革を中心として成長戦略では『失われた30年』になろう。消費税増税の3党合意は、『成長が不十分』という理由で3年程度延期してもよいのではないか」「累積デフレギャップが膨大なため、物価は簡単には上昇してこない。初年度の13年度はCPIコアコア(食料とエネルギーを除いた消費者物価指数)で前年比プラス0-0.5%。アベノミクス実施でなら、13年度の実質GDP成長率は2%台、名目も同程度が予想される」「最初の3年間は『集中回復機関」として、景気回復を軌道に乗せるべく、弾力的な財政運営が必要。無駄な公共投資をなくすため、『公共投資透明化法』を成立させ、プロセスをガラス張りにすることが大事だ」「金融政策の判断指標をCPIコアコア指数に変更すること。前年比1-2%で安定的に推移するまで建設国債増発相当の大半を輪番オペで買い上げるアコードを締結させる。安定的とは1年程度だろう。」「法人税を20%程度へ引き下げ、その代わりに低率の外形標準課税を導入することによって、税制面で企業活動をバックアップすることが必要だ。3年間の『集中回復期間』の3年目で景気回復が木戸に乗っていたら、改めて規制緩和、社会保障対策、消費税増税を検討する。増税については、経済成長による自然増収で賄えるならば無理に実施しない方がいい」

記号経営者であった以上、無理もない話だが、松下幸之助氏のような偉人でさえ、『企業経営』と「国民経済」を混同し、経世済民について全く理解していなかったことがうかがえる。

通貨発行権を持つ中央政府は、いわば家計や企業で構成された「自動車」の「外」にたつエンジニアだ。国民経済という自動車のエンジンがオイル不足でうまく動かないときは、自動車の「外」からオイルを注入してやる。あるいは、電力系に異常が生じていたならば、これまた自動車の「外」から修理する。政府と民間(企業、家計)は、次元が違うと表現してもかまわないほどに、役割や目的が異なっているのである。

昨今のわが国の書店では、「財政破たん」「国債暴落」系の書籍がますます増えてきた。・・(辛坊次郎・辛坊正記著)、・・(長谷川慶太郎・森本亮著)、・・(小黒一正著)、・・(山崎養世著)、・・(石角莞爾、田代秀敏著)、・・(須田慎一郎著)、・・(藤巻健史著)、・・(朝倉慶著)、・・(松田千恵子著)、・・(中原圭介著)、・・(浅井隆著)・・・彼ら、財政破たん論者たちが許しがたいのは、さんざんに「国債暴落」「円暴落」「日本経済破たん」などと国民をあおりつつ、印税は普通に日本円でもらっていることだ。恥ずかしくないのだろうか。・・要するに、彼等財政破たん論者のやっていることは、ノストラダムスの大予言と同じ「カタストロフィ・ビジネス」なのだ。』

2013年5月 1日 (水)

つれづれなるままに

理由は後日書きますが,

次の人たち、この世から消えてください。 永久に。 

ちなみに私の願いは結構かなえられています。

民主党、毎日新聞

上記には、共通点があると思います。反省するのもいいでしょう。でも遅すぎます。

論争するなら受けて立ちましょう。

おやすみなさい。

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