海戦からみた日清戦争 (戸髙一成著 角川oneテーマ21)
時間的、空間的に広い視野に立って日清戦争を見ることができ、参考になる部分の多い書でした。
『日清戦争当時、戦時における海軍の地位は陸軍の下に置かれていて、海軍としての主体的な行動に限界があった。このために、海軍は、陸軍の参謀本部に対抗すべく、海軍軍令部の設立と、その権限の強化に乗り出すことになる。これは、一部成功したところで、日露戦争を迎え、辛うじて初期の成果を挙げたのである。しかし、のちの昭和八年に至り、最終的に目的を達し、作戦に関しては陸軍とほぼ対等、部分的には海軍大臣をも超える権限を持った結果、海軍は双頭の組織となって暴走し、日米衝突に向かってしまうのである。
しかし周知のように、日露戦争における日本の勝利は日本単独のものではなく、英米両行の好意と支援によるものが極めて大きい。そしてそれが可能になったのは、その十年前に戦われた日清戦争における勝利によって、清国とは対照的に日本が近代的軍隊を建設し立派に運用し得たという事実が証明されたことによるのである。
日本では海軍創設にあたって、幕府と諸藩による挙国一致の国防体制の構築がはかられたことが、近代国家の建設に大いに寄与したといえる。
以上に見たように横須賀製鉄所は、国防と幕府権力との強化を直接の目的とするものではあったが、単なる軍艦の修理建造にとどまらず、軍事力・産業力・技術力の三者が一体として発展するための拠点として活動を開始したのであった。日本の近代工業技術の導入の先駆ともいうべきものであり、囲碁の近代重工業の発達において重大な意義をもつものである。
・・当時の清国海軍が日本海軍の軍艦と戦闘を交えるだけの規模ではなく、海軍力の微弱という認識が日本の一方的な台湾出兵を可能にしたことは確かであった。そしてこれが契機となって、日清両国は本格的に海軍軍拡に着手するようになったのである。
海軍力が著しい充実を見せつつあった清国では、対日政策の方針もそれまでの妥協的なものから強硬あるいは積極的なものに変化が生じつつあった。
これに対して清国は、軍事力を背景に強硬な姿勢を示した。韓国の出兵要請を受けた清国は北洋水師提督丁汝昌の率いる「超勇」など三隻の艦隊を仁川に集中し、清国陸軍四千名も漢城に入城して、一歩も譲らぬ構えを見せた。さらに事件の中心人物であった大院君を逮捕して天津に送った。これは明らかな清国の姿勢の転換であり、自国の主導のもとに挑戦を統制し、かつ武力に訴えても日本の影響力を減殺することを辞さない意思の表明でもあった。
一八六五年には、・・、その翌年の六七年には、・・。ここで注意すべきは、彼らが海軍の建設を開始して時点で念頭にあったのは日本への脅威感ではなく、アヘン戦争・アロー号戦争後の対外関係や、太平天国の乱を鎮圧する中で洋式軍隊の整備による近代化が必要である、という認識であったことである。
李鴻章らが当時、日本に対して抱いていたイメージは、右のような「日本は小国ではあるが時機を逃さず『自強』を進めている」というだけではなかった。日本と中国の関係に焦点を絞って言えば、「日本人は明代において倭寇であった」という歴史的事実、また「日本は西洋からは遠いが清国からは近い」という地理的な感覚も共有されていた。
当時の日本の武士は、黒船や西洋人を肯定的に評価し、彼らからすぐれた要素を学び取ろうと努める傾向が強かったのである。したがって「戦国乱世」との類比という認識枠組みは日本の近代化を促進するうえで、実はきわめて大きな意味を持ったのである。・・・しかし究極的には、戦国時代にさかのぼる歴史的先例にも基づいて、日本の国際社会に対する認識枠組みや清国の対日観が形成され、それが互いの脅威感や対抗心を生み出して増幅していったと言えよう。その意味では、日本と清国がお互いを提携相手として見るよりも、紛争や競争の相手として見るイメージが培われていたことが、日清戦争の遠因であったということも可能であろう。
明治十五(1882)年は壬午事変が起こり、日本の海軍拡張への歩みが開始された年であるが、この年に李鴻章以下の清国海軍における実力者が、今後の海軍建設の方向を建議した上奏文が存在し、日本語の研究文献で紹介されている。・・上奏文はいずれも、日本海軍の建設を意識して、自国海軍の早急な整備を建議したもので、取り上げている課題や力点に多少の相違はあるものの、それぞれの上奏文が最重要の課題としている事柄については共通している。それは第一に、海軍士官に適した人材の育成、第二に海軍関係の行政と軍令を司るそれぞれの統一部門の設置である。
・・海軍力において清国よりも弱体であったはずの日本では、日清戦争がはじまるまでの間に、この専門家組織の確立が曲がりなりにも実現していたのである。まず人材育成においては海軍兵学校での士官養成制度が確立して、のち日清・日露戦争において第一線で活躍する人材が育ちつつあった。また彼らによって、清国艦隊との開戦直前に「短縦陣」という方法による艦隊戦術も確立し、黄海海戦での勝利につながった。
明治六(1873)年に征韓論をめぐって西郷隆盛らが参議を辞職し帰郷すると、直接西郷に会って事の真相を確かめようと、同僚生徒の左近充隼太と一緒に鹿児島に帰郷して西郷に会った。この時権兵衛らは、事によっては海軍を辞めて西郷に殉じる覚悟であったが、当の西郷は「中国とロシアに隣接した日本がこれから、東洋で国家的独立が維持していくためには、どうしても海軍の力に頼るほかに道がない」と述べ、権兵衛らに対しては「目の前の政治問題にわずらわされるこTなく、海軍の修業に専念し日本の将来に備えることが肝要である」と訓戒した。山本は西郷のこの言に翻然と悟るところがあり、帰寮復学の道を選んだ。
・・彼(山本権兵衛)の主眼はこれらの人材、つまり兵学校で最新の軍艦・兵器・戦略戦術の教育を受けた優秀な若手を重用することにあった。当時の海軍技術は、世界的にこれらの分野で日進月歩の進歩を遂げており、老年に達していたり、あるいは思考の硬い海軍軍人にはその動きについてゆくことは事実上不可能であった。権兵衛はこのような不適応者を整理するとともに、薩摩藩出身者というだけで部内で高い地位にあった者も放逐したのである。
この基本路線を象徴したできごたが、明治二十三(1890)年十一月二十五日に開かれた日本最初の帝国議会(第一議会)での山縣有朋総理大臣の演説であった。この演説の内容は有名であるが、要約すると次のようになる。「国家の独立の保持と国勢の伸長とは将来にわたり、われわれの不変の目的である。そして国家独立自衛の道は『主権線』の守護と『利益線』の防衛にある。ここで『主権線』とは国の領域を指すものであり、その『主権線』の安全と密接に関連ある地域が「利益線』である。この両者を確保する必要から、巨大の軍事費を充てる必要がある」。
・・山縣は、韓国政府が日本に敵対的な第三国の影響下に置かれたり、あるいは半島南岸に日本に敵対的な列強が租借地を得るような事態を防ぎ、かわって日本の朝鮮半島への影響力を確保することの重要性を力説したのであった。当時の日本による朝鮮半島へのこのような外交方針は、今から見ればきわめて過剰な危機感、あるいは弱肉強食の視点にとらわれすぎた国際間のあらわれのように映るかもしれない。しかし目を欧米に転じれば、近代のヨーロッパにおいても、イギリスは対岸にあるオランダやベルギーなどの国々が独立を保持して、ヨーロッパの他の強国の支配や影響が及ばないようにすることを外交の基本方針としていた。
・・組織されたものの、各艦は単独での航行や戦闘はともかく、複数の艦が艦隊を組んで統一された航行・戦闘を行うまでには至っていなかった。そこで、七月二十三日に艦隊が佐世保を出港して朝鮮半島に進出するまでの一カ月足らずの間に即席の訓練と研究が行われたのであった。
日清戦争における戦闘の開始は宣戦布告に先立つこと七日の七月二十五日午前七時五十分、豊島沖の開戦においてである。
このとき「松島」艦内は敵艦隊発見に大いに沸き、士官室では祝杯を挙げたといわれる。敵艦隊を発見した後になって昼食と祝杯というのはいかにも悠長な印象を受けるが、当時の軍艦は戦闘時でも発揮速力はせいぜい十ノット(時速18.52キロ)内外で、日本側の艦隊速力は最大で十四ノット程度、清国側にいたっては機関整備の不良により七ノット程度しか出せなかったと言われている。そのため、両艦隊が相手を発見してから戦闘距離に到達するときまでは二時間近くもあった。
黄海海戦では、速力がまさっている日本艦隊が単縦陣による統一式によって勝利したことから、衝角による体当たりの戦術がもはや時代遅れとなったことが証明された。・・日本側の戦術や組織的な訓練が清国側にくらべて卓越しており、清国海軍はハードウェアでは日本海軍より進んでいる面があったものの、カタログスペックにあらわれない制度や組織、人員の質に関する欠陥が実戦において明らかになったと言えよう。
日清戦争は、戦争というものが単に戦場や海上での戦いで勝てば決着するというような単純なものでは無い事を、教訓として日本に教えたのである。これがあったがために、日本は次の国家衝突としての日露戦争に備えることが出来、勝利を得たのである。十年後、日露戦争の勝利は、再び日本に多くの教訓を残した。国家戦争は、決して一国と一国との戦いではなく、それぞれの国の背後には、利害を共にする多数の国がそれぞれ手を握り、世界注視の中で戦うこと。最終的には、第三国が仲介の労を取らなければおさまらないこと。また、近代的兵器を駆使するたたきは、想像を絶する人的、経費的消耗を伴い、勝者と言えども、大きな傷を負わねばならないこと。そのほか多くの教訓があった。しかし、世界の大国ロシアを破ったという表面的な勝利に酔った日本は、その多くの教訓を真剣に検討することは無く、いわあ歪んだ勝利体験の実を受け継ぎながら肥大化していったのである。そして、日露戦争から三十六年を経た一九四一年、国益を守るための多くの対外交渉に破たんした日本はアメリカに宣戦を布告し、一九四五年、壊滅的状態で敗戦を迎えた。』
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