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2013年4月

2013年4月21日 (日)

新聞記事から (【ニッポンの分岐点】通貨戦争(3)新たな仕掛け人 24.4.20 産経新聞朝刊)

今回も、経済関連の記事です。

『□矛盾を突いたヘッジファンド

 1990年代に入り、通貨戦争は新たな局面を迎えた。通貨戦争がヘッジファンドなどの投機資金によって引き起こされる時代となったのだ。日本がヘッジファンドへの本格的な対応を迫られたのが、97(平成9)年に勃発したアジア通貨危機だった。

 ■発端はバーツ売り浴びせ

 97年7月2日、タイ政府はドルと連動する事実上の固定相場制であるドルペッグ制を放棄した。ヘッジファンドによるタイ通貨バーツの売り浴びせに耐えられず、変動相場制に移行せざるを得なかったのだ。直前に1ドル=25バーツ程度だったバーツは、7月末には32バーツ台まで下落。アジア通貨危機の始まりだった。

 「変動相場制になったことは、表示されたバーツのレートが大幅に切り下がっているのを見て初めて知った。レートの動きに戦々恐々としていた」。外資系投資銀行で新興国通貨を担当する為替ディーラーだった男性でさえ、そう感じるほどにヘッジファンドは猛威を振るった。

 当時、アジアの新興国通貨の多くはドルペッグ制を採用していた。このため、米国経済が好調でドル高になると新興国通貨も高くなった。通貨高によって輸出は減少し、経済が悪化しているのに為替レートだけが過大評価されていた。ヘッジファンドが突いたのはその矛盾。英国ポンドが過大評価されていたことをとらえて、ヘッジファンドがポンドを売り浴びせた92年のポンド危機と同じ構図だった。

 危機収束に向け、日本が果たした役割は小さくなかった。94年のメキシコ通貨危機では米国が支援を主導したが、元大蔵省(現財務省)財務官の加藤隆俊(71)=現国際金融情報センター理事長=は「米国は、アジアでの支援は日本が主導すべきだと考えていた」と振り返る。

 加藤は97年7月に財務官を交代。顧問として、後任の榊原英資(えいすけ)(72)=現青山学院大教授=や国際金融局長だった黒田東彦(はるひこ)(69)=現日銀総裁=らと先進国や関係機関との交渉などにあたった。

 ■頓挫した「AMF」構想

 バーツ急落を見て、アジアの多くの国は、ドルペッグ制の放棄など過度のドル依存からの脱却を模索した。日本政府はこうした動きを「円の国際化」を進める好機ととらえた。

 同年8月、日本は国際通貨基金(IMF)などと、タイへの総額172億ドルに及ぶ金融支援実施で合意。さらに通貨の安定確保や経済危機支援のために、アジア各国が資金を拠出するアジア通貨基金(AMF)構想を打ち出す。

 AMF構想はアジア諸国からおおむね評価されていたが、米国やIMFの反対で頓挫した。IMFは米国主導でつくられた国際機関であり、世界通貨・金融戦略の牙城でもあった。加藤は「米国は、AMFによって日本の影響力がアジアで強まることを警戒した。賛成していた国にも強い働きかけをしていたようだった」と証言する。

 こうしている間もヘッジファンドの攻撃は続き、“標的”は他の通貨にも及ぶ。通貨危機は韓国やマレーシア、インドネシアなどに次々と波及。マレーシア首相のマハティールは当時、「経済の基礎はしっかりしている。(通貨・株価の)下落は欧米の悪質な投機筋のせいだ」とヘッジファンドを公然と批判した。

 危機がアジア各国に波及したことでAMFに代わる仕組み作りが早急に求められ、日本は98年に総額約300億ドルの資金を二国間支援に充てる構想を発表。蔵相に復帰した元首相の宮沢喜一が提唱した「新宮沢構想」だ。2000年5月には、危機の際に外貨を融通しあう「チェンマイ・イニシアチブ」の創設でも合意、アジア経済はようやく安定へ向かっていく。

 ■進まない「円の国際化」

 AMF構想は頓挫したが、政府は円の国際化をあきらめてはいなかった。99年に大蔵省の外国為替等審議会がまとめた答申は、基軸通貨ドルをユーロや円が補完する三極体制の構築や貿易取引における円建て取引の拡大などを提言。金融市場の改革など利便性向上にも言及している。

 だが、円の国際化はかけ声倒れに終わり、その後も進んでいない。世界各国の外貨準備に占める円の割合は90年代の6%台から現在では3~4%台に低下した。その理由について、国際通貨研究所経済調査部副部長の中村明(44)は「90年代以降の経済低迷で、日本の存在感や信認が低下したことが大きい」と指摘する。

 代わって急速に存在感を高めているのが中国の人民元だ。世界銀行は11年5月、「25年の国際通貨体制はドル、ユーロに人民元を加えた3基軸通貨体制となる」との報告書を発表した。円の国際化を目指す日本の通貨戦略は再構築を迫られている。=敬称略(永田岳彦)

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 ■通貨、商品先物… 世界経済の波乱要因に

 大量の資金で高利回りを求めて運用するヘッジファンドは通貨が暴落する通貨危機や、商品先物市場の価格上昇を引き起こし、世界経済に大きな影響を与えてきた。90年代に相次いだ通貨危機でヘッジファンドが表舞台に登場したのが1992年の英ポンド危機だ。

 ポンド危機は、ユーロの前身である欧州為替相場メカニズム(ERM)に原因があった。英国も加盟していたERMは、参加国に互いの為替相場を一定の変動幅に収める義務を課していた。このため、当時の英国経済は低迷していたにもかかわらず、ポンドは通貨高の状態にあり、その矛盾を突いたヘッジファンドから大量の売りを浴びせられた。英国はERMからの脱退に追い込まれ、再び完全変動相場制に移行した。英国は今もユーロに加盟していない。

 94年のメキシコ通貨危機や98年のロシア危機でも、投機的な売買の一部にヘッジファンドの関与があったとされている。

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【用語解説】ヘッジファンド

 巨額の資金を持つ機関投資家や一部の個人投資家から私的に資金を集め、大規模な資金を運用するプロの投資家集団で構成される基金。1940年代に米国で誕生し広がった。名前が示すリスクのヘッジ(軽減)だけでなく、高い収益を追求して世界規模で投機的な売買を行うため、為替相場や原油、穀物などの商品先物相場にしばしば大きな影響を与えている。』

2013年4月14日 (日)

新聞記事から(【ニッポンの分岐点】通貨戦争(2)プラザ合意 協調と摩擦の始まり(24.4.13 産経新聞朝刊)、■【日曜経済講座】編集委員・田村秀男 円高是正のアジアへの衝撃 (24.4.14 産経新聞朝刊))

経済関連の新聞記事を2件残しておきます。

『ニクソン・ショックによって固定相場制は崩れ、変動相場制という新しい国際通貨秩序が築かれた。その下で、日本経済は為替動向に翻弄され続けることになるが、本格的な円高時代の幕開けとなったのが1985(昭和60)年9月の「プラザ合意」だった。

 ■開幕直前、表に出たG5

 85年9月22日。日曜日だったこの日、蔵相(現在の財務相)の竹下登は、千葉にゴルフに出かけた。1ラウンド、プレーした後、向かった先は成田空港。ゴルフウエアを着たままだった。日銀総裁の澄田智は風邪を理由に予定をキャンセル、マスク姿で駆けつけた。2人はそのまま、人目を避けるように米ニューヨークに飛んだ。当時、存在自体も認められていなかった先進5カ国(G5)蔵相・中央銀行総裁会議に出席するためだった。

 G5がニューヨークのプラザホテルで開催されることは、開催直前に米政府から発表された。なぜ、G5の存在を明かしたのか。当時、大蔵省(現財務省)国際金融局長だった行天豊雄(82)(現国際通貨研究所理事長)は、「市場にインパクトを与え、合意内容の効果を確かめる上で重要だった」と振り返る。G5は貿易不均衡是正のために「政策協調」という手段を編み出した。その効果を最大限に高めるため、ドル高是正への強い意思を市場に示すことが狙いだった。

 合意内容は蔵相代理の間で事前に交渉が進められた。日本からは財務官の大場智満(83)が参加。大場によれば「会議の1週間前に合意文書の大半はできあがっていた」というが、準備期間は約2カ月に及び、各国の思惑がぶつかりあった。

 各国の蔵相代理はいったん「ドルが他の通貨に対して弱くなることが望ましい」との文言で合意。だが「強いドル」に固執するレーガン大統領の反対で米国が修正を求め、合意文書は「ドルに対して主要非ドル通貨の秩序ある上昇が望ましい」と書き換えられた。

 一方、介入の規模や期間、目標レートなどについては西ドイツが「わが国では介入は中央銀行の専権事項。この場では決められない」と抵抗し、文書に盛り込むことができなかった。このため、合意文書を発表後に議論することで落ち着いたが、各国の思惑は交錯し、当日の議論は5時間にも及んだ。

 ■保護主義強める米国

 「私は円高大臣だ。円は他の通貨より高く切り上がっても構わない」。竹下は会議でこう発言、1ドル=200円程度まで10%以上の円高を許容する意思を示した。85年3月に米上院がレーガンに対日報復措置を求める決議を全会一致で可決するなど、貿易赤字が減らない米国は急速に保護主義的な動きを強めていたからだった。

 一方、西ドイツの蔵相シュトルテンベルクは「為替の問題は、日米二国間のレートの問題ではないか」と政策協調に消極的な姿勢を見せた。だが、英国とフランスからは強く西ドイツを支持する発言はなく、最終的にプラザ合意から6週間程度で総額180億ドルをめどにドル売り介入することで合意。その結果、プラザ合意直前には1ドル=240円台で推移していた円相場は、10月末には210円台に急騰した。

 ただ、円高は日本の思惑を超えて進んだ。竹下が意図した200円どころか、86年末には160円を突破、日本経済を窮地に陥れることになる。

 ■バブル招いた利下げ

 制御できない円高の背景には米国の「意思」もあった。米国はドル安誘導の手を緩めず、日本に景気刺激策を求め、内需拡大、市場開放を迫った。米国は「強いドル」を標榜(ひょうぼう)しながら、市場開放などを迫る手段として、その後もたびたびドル安誘導を図っている。

 日銀で国際担当理事を務めた若月三喜雄(79)(現アクサ生命保険顧問)はプラザ合意後の状況を「赤字国債の発行が常態化していたため、財政出動に消極的な日本政府は利下げを求めていた」と振り返る。円高阻止は日銀の“使命”となり、その手段となったのは公定歩合引き下げ、つまり金融緩和だった。日銀は86年1月からの約1年間で5回にわたって利下げを実施、5%だった公定歩合は過去最低の2・5%となった。

 この低金利は2年3カ月も維持された。当時を知る関係者は「政府は、89年4月の消費税導入までは景気を悪化させる可能性がある利上げを認めるつもりはなかった。日銀が利上げしたくても、総裁解任権が政府にあった旧日銀法下ではできなかっただろう」と証言する。

 金融緩和は景気を刺激する一方で、余った資金が株や不動産に流入し、バブル経済を生み出した。プラザ合意という政策協調がもたらした「陰」でもある。=敬称略(永田岳彦)

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 ■最大の目的は日米貿易不均衡是正

 プラザ合意の最大の目的は、日米貿易不均衡の是正だった。ニクソン・ショックが起こった1971年に31億ドルだった米国の対日貿易赤字は、自動車や家電、半導体の輸出増加で84年には367億ドルに膨らんでいたからだ。当時のドルの水準は欧州通貨に対しても高く、西ドイツ、英国、フランスも引き入れ、ドル高是正で協調することになった。

 一方、87年2月には行き過ぎたドル安を是正しようと、イタリア、カナダを加えた先進7カ国(G7)が「ルーブル合意」をまとめた。だが西ドイツは米国の反対を振り切り、国内のインフレ懸念から金利を高めに誘導。市場に「政策協調は破綻した」と受け止められ、同年10月の株価暴落「ブラックマンデー」の引き金となった。

 現在、政策協調の舞台は中国など新興国を含む20カ国・地域(G20)に移っている。ただ、先進国、新興国の思惑の違いもあり、協調はさらに難しさを増している。

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【用語解説】蔵相・中央銀行総裁会議

 先進国の蔵相(財務相)、中央銀行総裁が一堂に会し、為替相場や国際的なマクロ経済状況について討議する国際会議。1973年春に米ホワイトハウスで米国、英国、西ドイツ、フランスの4カ国の蔵相が通貨問題を話し合った非公式会合が起源とされる。日本は同年9月から参加し、先進5カ国(G5)の会議に移行。86年にイタリアとカナダも加わり、G7となった。』

『 ■中韓に深刻な構造問題浮上

 おカネの供給残高を来年末までに2倍に増やすという、日銀の異次元で大胆な金融緩和政策により円高是正に加速がかかった。これに対し韓国と中国は警戒を強めているが、円安は周辺アジアにどのような衝撃を与えるのだろうか。

 まず、グラフを見よう。衆院解散が決まった昨年11月16日の1ドル当たりの相場を100としてみたアジア各国の通貨の4月5日までの推移である。それまで独歩高だった円は下落に転じ、中国人民元を中に包み込むようにして小幅に変動する各通貨からどんどん遠ざかる。円相場は円高のピーク時に比べ25%も下がった。この各国通貨相場水準の円との乖離(かいり)こそが、過去にアジア通貨危機を招き寄せた大きな要因だった。

 アジア通貨危機前の円安は、1997年5月までの2年間で円の対ドル相場が約3割安くなったのに対し、アジア各国は基本的にドルに対する自国通貨相場をくぎ付けする「ペッグ制」をとっており、日本円に対して3割前後高かった。この間、円より強い通貨での資産運用をもくろむ海外からの短期資金流入で、不動産や株価が上昇を続けた。

 ところが、通貨が過大評価されているとみたヘッジファンドが突如、現地通貨の投機売り攻勢をかけた。すると東南アジアの経済と金融を支配する華僑・華人系資本による資本逃避が起き、各国通貨が暴落。インドネシアでは経済ばかりでなくスハルト大統領(当時)による独裁体制も崩壊した。危機は韓国にも飛び火し、通貨ウォンが崩落、一部大手財閥が消滅した。

 今回も、急速な円高是正は共通するが、東南アジアの場合はペッグ制をやめて、変動相場制など通貨を柔軟に変動させる仕組みに変え、ヘッジファンドなどの通貨投機勢力が入り込みにくくした。さらに、日中韓と東南アジア諸国連合(ASEAN)は、外貨など通貨の相互融通制度を柱とする「チェンマイ・イニシアティブ」で緊急時に協調する体制を組む。このため、円に比べて通貨が割高になっても、投機勢力に対する防御体制は整備されていると評価できる。インドネシア、タイなど東南アジア各国はアジア通貨危機当時のような逃げ足の速い資金ではなく、日本企業などの直接投資中心の外資受け入れに重点を置いている。

 ところが、韓国と中国の場合は趣を異にする。韓国の場合、外国マネーへの依存度が極めて高いことだ。韓国はアジア通貨危機後、海外投資家の韓国企業への株式投資を受け入れてきた。その結果、海外の韓国株保有残高は昨年末時点で国内総生産(GDP)比31%に達している(アジア危機前は3%程度)。海外からの借入残高のGDP比は11・5%(同15%)と依然高水準だ。米欧などの投資家は韓国ウォンが円に対して安くなれば日本株を売って韓国株を買い、逆にウォン高になれば韓国株を売る運用方法をとっている。このため、円がウォン以上に対ドルで安くなればなるほど、韓国株は売られ、資本が流出することになる。つまり、日韓の経済は「共栄」というよりも、一方が浮上すれば他方が沈む「ゼロ・サム」関係にある。

 円安に対抗してウォン安政策をとるためには、金利を大幅に下げる金融緩和策が必要だ。そうすると海外の金融機関は韓国から融資を引き揚げる恐れがある。そこで韓国では、円安を促進するアベノミクスや黒田日銀の金融緩和に危機感が高まっている。

 一方、中国の実体経済は実質ゼロ成長状態にある。中国政府は昨年の実質成長率を7・8%、今年の成長率目標を7・5%前後としているが、中国の経済統計のうちで最も信頼性の高い鉄道貨物量は昨年は前年比マイナス0・7%で、今年1、2月の合計でも同0%と低迷している。つまり、中国はモノを前年より多く生産しても、多くの製品を工場の外へ出荷していないわけで、鉄鋼、家電、自動車など大半の主力業種で過剰生産と過剰在庫が膨らんでいると推定できる。大量の廃棄物を生み出し、「PM2・5」に象徴されるような汚染物の排出も放置されるわけである。

 昨夏からの尖閣諸島の領有権をめぐる日中関係の悪化に、円安進行が加わり、今後日本企業の対中投資の減速は拍車がかかるだろう。米企業の間でも、中国の人件費上昇などを考慮して米国内に回帰する動きも出ている。

 中国は流入している海外からの巨額の投機資金が一斉に流出する恐れがあるので、人民元を切り下げできない。円高是正は図らずも、中韓それぞれの構造問題を浮き上がらせている。』

2013年4月 7日 (日)

海戦からみた日清戦争 (戸髙一成著 角川oneテーマ21)

時間的、空間的に広い視野に立って日清戦争を見ることができ、参考になる部分の多い書でした。

『日清戦争当時、戦時における海軍の地位は陸軍の下に置かれていて、海軍としての主体的な行動に限界があった。このために、海軍は、陸軍の参謀本部に対抗すべく、海軍軍令部の設立と、その権限の強化に乗り出すことになる。これは、一部成功したところで、日露戦争を迎え、辛うじて初期の成果を挙げたのである。しかし、のちの昭和八年に至り、最終的に目的を達し、作戦に関しては陸軍とほぼ対等、部分的には海軍大臣をも超える権限を持った結果、海軍は双頭の組織となって暴走し、日米衝突に向かってしまうのである。

しかし周知のように、日露戦争における日本の勝利は日本単独のものではなく、英米両行の好意と支援によるものが極めて大きい。そしてそれが可能になったのは、その十年前に戦われた日清戦争における勝利によって、清国とは対照的に日本が近代的軍隊を建設し立派に運用し得たという事実が証明されたことによるのである。

日本では海軍創設にあたって、幕府と諸藩による挙国一致の国防体制の構築がはかられたことが、近代国家の建設に大いに寄与したといえる。

以上に見たように横須賀製鉄所は、国防と幕府権力との強化を直接の目的とするものではあったが、単なる軍艦の修理建造にとどまらず、軍事力・産業力・技術力の三者が一体として発展するための拠点として活動を開始したのであった。日本の近代工業技術の導入の先駆ともいうべきものであり、囲碁の近代重工業の発達において重大な意義をもつものである。

・・当時の清国海軍が日本海軍の軍艦と戦闘を交えるだけの規模ではなく、海軍力の微弱という認識が日本の一方的な台湾出兵を可能にしたことは確かであった。そしてこれが契機となって、日清両国は本格的に海軍軍拡に着手するようになったのである。

海軍力が著しい充実を見せつつあった清国では、対日政策の方針もそれまでの妥協的なものから強硬あるいは積極的なものに変化が生じつつあった。

これに対して清国は、軍事力を背景に強硬な姿勢を示した。韓国の出兵要請を受けた清国は北洋水師提督丁汝昌の率いる「超勇」など三隻の艦隊を仁川に集中し、清国陸軍四千名も漢城に入城して、一歩も譲らぬ構えを見せた。さらに事件の中心人物であった大院君を逮捕して天津に送った。これは明らかな清国の姿勢の転換であり、自国の主導のもとに挑戦を統制し、かつ武力に訴えても日本の影響力を減殺することを辞さない意思の表明でもあった。

一八六五年には、・・、その翌年の六七年には、・・。ここで注意すべきは、彼らが海軍の建設を開始して時点で念頭にあったのは日本への脅威感ではなく、アヘン戦争・アロー号戦争後の対外関係や、太平天国の乱を鎮圧する中で洋式軍隊の整備による近代化が必要である、という認識であったことである。

李鴻章らが当時、日本に対して抱いていたイメージは、右のような「日本は小国ではあるが時機を逃さず『自強』を進めている」というだけではなかった。日本と中国の関係に焦点を絞って言えば、「日本人は明代において倭寇であった」という歴史的事実、また「日本は西洋からは遠いが清国からは近い」という地理的な感覚も共有されていた。

当時の日本の武士は、黒船や西洋人を肯定的に評価し、彼らからすぐれた要素を学び取ろうと努める傾向が強かったのである。したがって「戦国乱世」との類比という認識枠組みは日本の近代化を促進するうえで、実はきわめて大きな意味を持ったのである。・・・しかし究極的には、戦国時代にさかのぼる歴史的先例にも基づいて、日本の国際社会に対する認識枠組みや清国の対日観が形成され、それが互いの脅威感や対抗心を生み出して増幅していったと言えよう。その意味では、日本と清国がお互いを提携相手として見るよりも、紛争や競争の相手として見るイメージが培われていたことが、日清戦争の遠因であったということも可能であろう。

明治十五(1882)年は壬午事変が起こり、日本の海軍拡張への歩みが開始された年であるが、この年に李鴻章以下の清国海軍における実力者が、今後の海軍建設の方向を建議した上奏文が存在し、日本語の研究文献で紹介されている。・・上奏文はいずれも、日本海軍の建設を意識して、自国海軍の早急な整備を建議したもので、取り上げている課題や力点に多少の相違はあるものの、それぞれの上奏文が最重要の課題としている事柄については共通している。それは第一に、海軍士官に適した人材の育成、第二に海軍関係の行政と軍令を司るそれぞれの統一部門の設置である。

・・海軍力において清国よりも弱体であったはずの日本では、日清戦争がはじまるまでの間に、この専門家組織の確立が曲がりなりにも実現していたのである。まず人材育成においては海軍兵学校での士官養成制度が確立して、のち日清・日露戦争において第一線で活躍する人材が育ちつつあった。また彼らによって、清国艦隊との開戦直前に「短縦陣」という方法による艦隊戦術も確立し、黄海海戦での勝利につながった。

明治六(1873)年に征韓論をめぐって西郷隆盛らが参議を辞職し帰郷すると、直接西郷に会って事の真相を確かめようと、同僚生徒の左近充隼太と一緒に鹿児島に帰郷して西郷に会った。この時権兵衛らは、事によっては海軍を辞めて西郷に殉じる覚悟であったが、当の西郷は「中国とロシアに隣接した日本がこれから、東洋で国家的独立が維持していくためには、どうしても海軍の力に頼るほかに道がない」と述べ、権兵衛らに対しては「目の前の政治問題にわずらわされるこTなく、海軍の修業に専念し日本の将来に備えることが肝要である」と訓戒した。山本は西郷のこの言に翻然と悟るところがあり、帰寮復学の道を選んだ。

・・彼(山本権兵衛)の主眼はこれらの人材、つまり兵学校で最新の軍艦・兵器・戦略戦術の教育を受けた優秀な若手を重用することにあった。当時の海軍技術は、世界的にこれらの分野で日進月歩の進歩を遂げており、老年に達していたり、あるいは思考の硬い海軍軍人にはその動きについてゆくことは事実上不可能であった。権兵衛はこのような不適応者を整理するとともに、薩摩藩出身者というだけで部内で高い地位にあった者も放逐したのである。

この基本路線を象徴したできごたが、明治二十三(1890)年十一月二十五日に開かれた日本最初の帝国議会(第一議会)での山縣有朋総理大臣の演説であった。この演説の内容は有名であるが、要約すると次のようになる。「国家の独立の保持と国勢の伸長とは将来にわたり、われわれの不変の目的である。そして国家独立自衛の道は『主権線』の守護と『利益線』の防衛にある。ここで『主権線』とは国の領域を指すものであり、その『主権線』の安全と密接に関連ある地域が「利益線』である。この両者を確保する必要から、巨大の軍事費を充てる必要がある」。

・・山縣は、韓国政府が日本に敵対的な第三国の影響下に置かれたり、あるいは半島南岸に日本に敵対的な列強が租借地を得るような事態を防ぎ、かわって日本の朝鮮半島への影響力を確保することの重要性を力説したのであった。当時の日本による朝鮮半島へのこのような外交方針は、今から見ればきわめて過剰な危機感、あるいは弱肉強食の視点にとらわれすぎた国際間のあらわれのように映るかもしれない。しかし目を欧米に転じれば、近代のヨーロッパにおいても、イギリスは対岸にあるオランダやベルギーなどの国々が独立を保持して、ヨーロッパの他の強国の支配や影響が及ばないようにすることを外交の基本方針としていた。

・・組織されたものの、各艦は単独での航行や戦闘はともかく、複数の艦が艦隊を組んで統一された航行・戦闘を行うまでには至っていなかった。そこで、七月二十三日に艦隊が佐世保を出港して朝鮮半島に進出するまでの一カ月足らずの間に即席の訓練と研究が行われたのであった。

日清戦争における戦闘の開始は宣戦布告に先立つこと七日の七月二十五日午前七時五十分、豊島沖の開戦においてである。

このとき「松島」艦内は敵艦隊発見に大いに沸き、士官室では祝杯を挙げたといわれる。敵艦隊を発見した後になって昼食と祝杯というのはいかにも悠長な印象を受けるが、当時の軍艦は戦闘時でも発揮速力はせいぜい十ノット(時速18.52キロ)内外で、日本側の艦隊速力は最大で十四ノット程度、清国側にいたっては機関整備の不良により七ノット程度しか出せなかったと言われている。そのため、両艦隊が相手を発見してから戦闘距離に到達するときまでは二時間近くもあった。

黄海海戦では、速力がまさっている日本艦隊が単縦陣による統一式によって勝利したことから、衝角による体当たりの戦術がもはや時代遅れとなったことが証明された。・・日本側の戦術や組織的な訓練が清国側にくらべて卓越しており、清国海軍はハードウェアでは日本海軍より進んでいる面があったものの、カタログスペックにあらわれない制度や組織、人員の質に関する欠陥が実戦において明らかになったと言えよう。

日清戦争は、戦争というものが単に戦場や海上での戦いで勝てば決着するというような単純なものでは無い事を、教訓として日本に教えたのである。これがあったがために、日本は次の国家衝突としての日露戦争に備えることが出来、勝利を得たのである。十年後、日露戦争の勝利は、再び日本に多くの教訓を残した。国家戦争は、決して一国と一国との戦いではなく、それぞれの国の背後には、利害を共にする多数の国がそれぞれ手を握り、世界注視の中で戦うこと。最終的には、第三国が仲介の労を取らなければおさまらないこと。また、近代的兵器を駆使するたたきは、想像を絶する人的、経費的消耗を伴い、勝者と言えども、大きな傷を負わねばならないこと。そのほか多くの教訓があった。しかし、世界の大国ロシアを破ったという表面的な勝利に酔った日本は、その多くの教訓を真剣に検討することは無く、いわあ歪んだ勝利体験の実を受け継ぎながら肥大化していったのである。そして、日露戦争から三十六年を経た一九四一年、国益を守るための多くの対外交渉に破たんした日本はアメリカに宣戦を布告し、一九四五年、壊滅的状態で敗戦を迎えた。』

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