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2013年3月 7日 (木)

現代に通ずる日露戦争 (大橋武夫編 偕行社刊)

いろいろと学ぶところがありました。

(ネルチンスク)この条約は結局黒竜江流域が清国領土であることを、ロシアに承認させたもので、当時は清国の勢威がはるかにロシアを圧していたことは、後年の事実と対照して感慨深いものがある。

国内の世論は沸騰し、国民は挙って政府の弱腰を非難し、強硬論者は直接伊藤総理を難詰したが、「今は諸君の名論卓説を聞くよりも、むしろ軍艦と大砲に相談することの方が大切だ」との悲壮な返答により、一言も発するものがなくなった、ということがあった。

(大山参謀総長の内閣への意見書)・・・もしある大国が朝鮮半島に進出すると、わが国には脇腹に担当をつきつけられた形となり、独立を保つことができなくなる。明治維新以来朝鮮と折衝を重ね、ついには日清戦争まであえてしたのはこのためである。しかし、日清戦争の結果、清国の弱体が世界に暴露したため、ロシアの進出が急に活発になり、・・・。日清戦争は、朝鮮半島から清国を追い出して、より危険なロシアを招来したという皮肉な結果になってしまった。

およそ戦いをはじめるには、その前に終戦の見通しをつけておかねばならない。ところが日露開戦を決した日本政府には、独力で勝つ自信はない。当然外国勢力を利用することが考えられた。このため起用されたのが金子堅太郎である。

(金子堅太郎の講演速記録から)1月27日アメリカの主な軍人、裁判官、教育家、実業家、新聞記者などが大勢厚真手T、私を招待して晩餐会を催し、旅順の陥落について話し合いました。その結果これらの人々が次のような決議をしました。一、日本は旅順を永久に占領せよ。二、日本は満州の特殊権益を永久に所有する権利がある。三、日本は将来、満州において時刻の利益のために政策をたてよ。これについて外国政府に遠慮はいらない。

(遼東半島大沙河河口付近、大孤山付近の海岸への上陸をさして)この大規模な敵前上陸作戦が成功した鍵は、海軍が制海権を獲得し、陸軍がロシアの機先を制して朝鮮半島に根拠を構えたことにある。もし逆にロシア軍が釜山の辺りまで兵を進めていたら、日本軍は手も足も出なかったにちがいない。

奉天会戦におけるロシア軍配線の決定的条件はクロパトキンの状況判断の誤りと、誤りに気づいたときの不決断にある。

東郷司令長官の苦心は敵の一艦をも逃さない点にあった。彼我が併行線上をさっさと行き違ってしまっては射撃時間が少なく、相当数の敵艦を撃ちもらすおそれがある。行き違ってから追いかけてもう一撃ということは、同速力の彼我主力艦同士では不可能である。東郷大将が一か八か!のT字戦法を敢行したのはこのためである。

日露戦争でロシアが手をあげたのは、満州や日本海における陸海軍の配線が大きな原因をなしているが、それよりもさらに大きく、直接的な原因は,国内革命が起きそうになったことである。

明石工作には、成功の基礎条件が揃っていた。

1 日本はロシア政府を倒したかったし、ロシアの革命諸党もその政府を倒したかった。すなわち共通の目的をもっていた。

2 ロシアの革命勢力は有力で、革命機運は醸成されつつあったが、革命実行のためには、武力が足りなかった。日本にはロシアを攻める武力はあったが、攻め破って、首都を占領するだけの力はなかった。すなわちお互いに助力を必要とした。

3 日本軍が満州でロシア軍を攻撃することは、ロシアの革命運動の武力支援になったし、ロシア革命諸党の騒乱行動は在満露軍を背後から牽制して、日本軍の作戦を容易にすることができた。すなわちお互いに役に立った。

明石は綿密な情勢分析により、右の基本条件を的確につかみ、ロシア革命諸党の勢力を強めるとともに、その騒乱行動と、日本軍の軍事行動を調和して、総合威力を発揮させようとしたのである。

明石は従来の他の方面の研究で、“ロシアは、力をもって破ることができない”ということを認め、今度の研究によって“ロシアには、謀略工作を施す余地が十分ある”と結論した。

・・・このように列国が日本に同情したのは、従来のロシアの政策が嫌われていたのと、最小国の日本が、傲慢な世界最大国の海軍を開戦劈頭撃破して顔色なからしめたことが気に入ったからである。

明石の謀略活動は戦前から開始されてはいるが、何分まれにみる大規模な工作なので急速には進展せず、ようやく本格化したのは一九〇五年(明治三八年)春以降で、その効果は日露停戦頃から徐々に表面化してきたばかりである。・・明石の工作が6ヶ月先行していたら、満州における日本軍はさらに大勝楽勝していたであろうということである。この罪は参謀本部の不決断にある。もともとこの工作は参謀本部の企画で行われたものではなく、参謀本部が渋っていたのを明石の熱意がこれを実行にまで引きずり込んだものである。明石の決心から参謀本部が動き出すまでの時日のおくれがこの結果となったのである。

日露戦争における両国の死傷、損耗は次のとおりである。

日本 人員の死傷 一二万人

   軍艦、船舶 九一隻

   軍費 一五億円

ロシア 人員の死傷 一一万五千人以上

    俘虜 八万人

    軍艦、船舶 百五隻

    軍費 二十二億円

戦争のための努力の半分は「開戦に踏みきるか否かの意思決定」のために使えといわれているが、為政者にとって開戦の決心は重大である。日露戦争開戦決定のため、日本の首脳者の行った、感情を抑えての透徹せる合理的判断は、後生各方面の範とするに足る。日露戦争開戦の決心においては、まず大局条件の検討と判断が適切であった。

大局においては英米を対日好意の第三国、仲介国として保持しながらも、勝利国としては忍びがたきを忍ぶの譲歩をあえてし、結局はポーツマス条約を成立にもちこんでいる。日本国内の実力がほぼ戦争継続の限界線に近づいたとはいえ、日本首脳に「ほどほどに忍ぶ」という大度と見極めがなかったならば、一部国内激昂の民論にまきこまれて、収集できない泥沼状態におちいったかもしれない。

なお終戦工作については、政府は開戦と同時に手をうっており大山満州軍総司令官も出陣の新橋駅頭で、見送りの山本権兵衛海相に対し「戦は勝ちますけれども、とどめをさす時機が大切でごわす。いくらか余裕のあるところで鞘に収める、その大切なところを貴方に頼みます。非難攻撃は御身に集まるが、それが御国のためでごわす」といっておる。また児玉満州軍総参謀長が、奉天で勝つと、直ちに大本営に対し「戦いはこれまで」と電報し、戦略より政略に、国政の大転換点を意見具申したのは有名である。』

 

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