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2013年3月

2013年3月31日 (日)

とんび (重松清著 角川e文庫)

この作品をもとにしたドラマがよい評判だったので、原作を読んでみました。ドラマはほんの少ししか見ていませんが、原作とはかなり異なっているようでした。原作は、登場人物が広島弁を話しますが、小学生時代の3年間を広島で過ごした自分にとってはとても懐かしく感じられました。また、息子の気持ちと、息子を持つ父親の気持ちがよく描かれていて、良い作品だと思いました。

『おしゃべりをするのは車がいちばんだ、と思う。並んで座って、同じ景色を見ながら話す、というのがいい。

「アキラ、これがお父ちゃんの温もりじゃ。お父ちゃんが抱いてくれたら、体の前のほうは温うなる。ほんでも、背中は寒い。そうじゃろ?」 アキラは、うん、うん、とヤスさんの胸に頬をこすりつけるようにうなずいた。 「お母ちゃんがおったら、背中のほうから抱いてくれる。そうしたら、背中も寒うない。お父ちゃんもお母ちゃんもおる子は、そげんして体も心も温めてもろうとる。ほいでも、アキラ、おまえにはお母ちゃんはおらん。背中はずうっと寒いままじゃ。お父ちゃんがどげん一所懸命抱いてくれても、背中までは抱ききれん。その寒さを背負うということが、アキラにとっての生きるということなんじゃ」・・・「アキラ、おまえはお母ちゃんがおらん。ほいでも、背中が寒うてかなわんときは、こげんして、みんなで温めてやる。おまえが風をひかんように、みんなで、背中を温めちゃる。ずうっと、ずうとお、そうしちゃるよ。・・」

「ヤス、海に雪はつもっとるか」 「はあ?」 「ええけん、よう見てみい。海に降った雪、積もっとるか」 積もるわけがない。空から降ってくる雪は、海に吸い込まれるように消えていく。 「おまえは海になれ」 和尚は言った。 静かな声だったが、一喝する声よりも耳のずっと奥深くまで届いた。 「ええか、ヤス、おまえは海になるんじゃ。海にならんといけん」 「・・・・ようわからんよ、和尚さん」 「雪は悲しみじゃ。悲しいことが、こげんして次から次に降っとるんじゃ、そげん想像してみい。地面にはどんどん悲しいことが積もっていく。色も真っ白に変わる。雪が溶けたあとには、地面はぐじゃぐじゃになってしまう。おまえは地面になったらいけん。海じゃ。なんぼ雪が降っても、それを黙って、知らん顔して呑み込んでいく海にならんといけん」

母方の身内のひいき目半分にしても、実際、写真で見る母親は自分と目元が瓜二つだったし、父親と向き合ってみると、あらためて母親似の顔だとだと思う。それでも、手のひらは-間違いなく、父親から受け継いだ。大きな、分厚い手のひらを、父親がくれた。その手で、美佐子さんを抱きしめ、アキラを育てあげてきた。ヤスさんは床に膝をついて、父親の手を握った。考えてそうしたのではなく、心が勝手に揺れ動き、体が勝手に動いた。』

2013年3月10日 (日)

松風の門 (山本周五郎著 新潮社)

時代小説の短編集でしたが、最後のものは、終戦後のお話でした。

『「それで達磨の悟がわかったのか」「はあ・・・・」「ばかに早いではないか。どう分かった」八郎兵衛はちょっと黙っていたが、やがて同じような平板な口調で答えた。「面壁九年ののち、達磨は結跏を解いて起ちながら、かように申した存じます、なるほど、ただ睨んでいるだけでは壁に穴は明かぬ」「なに、もう一度申してみい」「睨んでいるだけでは」と彼は繰り返した、「・・・・壁に穴を穿つことは出来ぬ、そう申したと存じます」宗利は声をあげて笑った。・・その時もし彼が、八郎兵衛の面を瞶めている大学の鋭い表情に気づいたとしたら、たぶんそんな笑い方はしなかったに違いない。

「いつぞや達磨の悟りの話をしていたことを、覆えておいであそばすか・・・・・お上はお笑いなされた、益もない者になったと仰せられた、然しあれは決して笑うような言葉ではございません、睨んでいるだけでは壁に穴は明かぬ、もういちどよくお考えあそばせ、彼が断乎として三人を切ったのも、即日腹を切って果てましたの、みな、この一語の悟りから出ているのです。農民たちの遺恨を背負って彼は死にました、もはや・・・・・お家は安泰でござります」

「そうです、わたくしはずいぶん世間を見てきました。なかには万人に一人も経験することのないような、恐ろしいことも味わいました。そして世の中に起る多くの苦しみや悲しみは人と人とが憎みあったり、妬みあったり、自分の欲に負かされたりするところから来るのだということを知りました。・・・・わたくしにはいま、色々なことがはっきりと分かります。命はそう長いものではございません、すべてが瞬くうちに過ぎ去ってしまいます、人はもっともっと譲り合わなくてはいけません、もっともっと慈悲を持ち合わなくてはいけないのです」

「・・・わたくしはその話を聞いたときに斯う思いました。すべて芸術は人の心を楽しませ、清くし、高めるために役立つべきもので、そのために誰かを負かそうとしたり、人を押し退けて自分だけの欲を満足させたりする道具にすべきではない。・・・」

「人間なんて悲しくって、ばかで、わけの知れねえもんだ」老人はこう云って泣き出した。「人間なんてものは、みんな聾で盲目で、おっちょこちょいなもんだ。ざまあみあがれ」それから鳴き声をふり絞るようにどなった。「おめえたちにゃあ、ほんとのこたあ、わからねえ。・・・」

「爺さん」と旅装の客が云った。「いい話を聞かせてもらって嬉しかった。いい話だった。礼を云うよ」老人は泣くばかりだった。「だが、もうその話はしなさんな」とその客は云った。「その話が本当だったとすれば、高次という人は主人の恥を背負ったんだろう。自分が盗みの汚名を衣てまで主人の恥を背負ったんだ----そうだとすれば黙ってやるのが本当じゃないか、そうじゃないだろうか爺さん」「おめえなんぞになにがわかる」老人は俯伏したまま云った。「おらあ口惜しいんだ。ほんとのことも知らねえで、世間のやつらは、いまでも高次の悪口をいいやあがる。なんにもしらねえくせ、しやがって、おらあ、がまんがならねえんだ」「それでいいんだ、それでいいんだと思う」と旅装の客は云った。「高次という人は、そんなことは承知のうえだったろう。いつか本当のことがわかるとか、わかって褒められないなどとはこれっぽっちも考えてはいなかった筈だ。そう思わないか爺さん」

「・・・・・これは罪だ、一機命中なんて、これはもう戦争じゃあない、---たとえ、日本が勝って世界の、王様になっても、この罪だけで神や仏は赦すまい、・・・」

「罪は誰にある、千田二郎だ、あれだけ多くの特攻隊を、おれはこの手で送り出した、・・・・企画し、命じた者はほかにある、だが送り出したのはおれだ、おれたち基地の者だ、・・・」』

2013年3月 7日 (木)

現代に通ずる日露戦争 (大橋武夫編 偕行社刊)

いろいろと学ぶところがありました。

(ネルチンスク)この条約は結局黒竜江流域が清国領土であることを、ロシアに承認させたもので、当時は清国の勢威がはるかにロシアを圧していたことは、後年の事実と対照して感慨深いものがある。

国内の世論は沸騰し、国民は挙って政府の弱腰を非難し、強硬論者は直接伊藤総理を難詰したが、「今は諸君の名論卓説を聞くよりも、むしろ軍艦と大砲に相談することの方が大切だ」との悲壮な返答により、一言も発するものがなくなった、ということがあった。

(大山参謀総長の内閣への意見書)・・・もしある大国が朝鮮半島に進出すると、わが国には脇腹に担当をつきつけられた形となり、独立を保つことができなくなる。明治維新以来朝鮮と折衝を重ね、ついには日清戦争まであえてしたのはこのためである。しかし、日清戦争の結果、清国の弱体が世界に暴露したため、ロシアの進出が急に活発になり、・・・。日清戦争は、朝鮮半島から清国を追い出して、より危険なロシアを招来したという皮肉な結果になってしまった。

およそ戦いをはじめるには、その前に終戦の見通しをつけておかねばならない。ところが日露開戦を決した日本政府には、独力で勝つ自信はない。当然外国勢力を利用することが考えられた。このため起用されたのが金子堅太郎である。

(金子堅太郎の講演速記録から)1月27日アメリカの主な軍人、裁判官、教育家、実業家、新聞記者などが大勢厚真手T、私を招待して晩餐会を催し、旅順の陥落について話し合いました。その結果これらの人々が次のような決議をしました。一、日本は旅順を永久に占領せよ。二、日本は満州の特殊権益を永久に所有する権利がある。三、日本は将来、満州において時刻の利益のために政策をたてよ。これについて外国政府に遠慮はいらない。

(遼東半島大沙河河口付近、大孤山付近の海岸への上陸をさして)この大規模な敵前上陸作戦が成功した鍵は、海軍が制海権を獲得し、陸軍がロシアの機先を制して朝鮮半島に根拠を構えたことにある。もし逆にロシア軍が釜山の辺りまで兵を進めていたら、日本軍は手も足も出なかったにちがいない。

奉天会戦におけるロシア軍配線の決定的条件はクロパトキンの状況判断の誤りと、誤りに気づいたときの不決断にある。

東郷司令長官の苦心は敵の一艦をも逃さない点にあった。彼我が併行線上をさっさと行き違ってしまっては射撃時間が少なく、相当数の敵艦を撃ちもらすおそれがある。行き違ってから追いかけてもう一撃ということは、同速力の彼我主力艦同士では不可能である。東郷大将が一か八か!のT字戦法を敢行したのはこのためである。

日露戦争でロシアが手をあげたのは、満州や日本海における陸海軍の配線が大きな原因をなしているが、それよりもさらに大きく、直接的な原因は,国内革命が起きそうになったことである。

明石工作には、成功の基礎条件が揃っていた。

1 日本はロシア政府を倒したかったし、ロシアの革命諸党もその政府を倒したかった。すなわち共通の目的をもっていた。

2 ロシアの革命勢力は有力で、革命機運は醸成されつつあったが、革命実行のためには、武力が足りなかった。日本にはロシアを攻める武力はあったが、攻め破って、首都を占領するだけの力はなかった。すなわちお互いに助力を必要とした。

3 日本軍が満州でロシア軍を攻撃することは、ロシアの革命運動の武力支援になったし、ロシア革命諸党の騒乱行動は在満露軍を背後から牽制して、日本軍の作戦を容易にすることができた。すなわちお互いに役に立った。

明石は綿密な情勢分析により、右の基本条件を的確につかみ、ロシア革命諸党の勢力を強めるとともに、その騒乱行動と、日本軍の軍事行動を調和して、総合威力を発揮させようとしたのである。

明石は従来の他の方面の研究で、“ロシアは、力をもって破ることができない”ということを認め、今度の研究によって“ロシアには、謀略工作を施す余地が十分ある”と結論した。

・・・このように列国が日本に同情したのは、従来のロシアの政策が嫌われていたのと、最小国の日本が、傲慢な世界最大国の海軍を開戦劈頭撃破して顔色なからしめたことが気に入ったからである。

明石の謀略活動は戦前から開始されてはいるが、何分まれにみる大規模な工作なので急速には進展せず、ようやく本格化したのは一九〇五年(明治三八年)春以降で、その効果は日露停戦頃から徐々に表面化してきたばかりである。・・明石の工作が6ヶ月先行していたら、満州における日本軍はさらに大勝楽勝していたであろうということである。この罪は参謀本部の不決断にある。もともとこの工作は参謀本部の企画で行われたものではなく、参謀本部が渋っていたのを明石の熱意がこれを実行にまで引きずり込んだものである。明石の決心から参謀本部が動き出すまでの時日のおくれがこの結果となったのである。

日露戦争における両国の死傷、損耗は次のとおりである。

日本 人員の死傷 一二万人

   軍艦、船舶 九一隻

   軍費 一五億円

ロシア 人員の死傷 一一万五千人以上

    俘虜 八万人

    軍艦、船舶 百五隻

    軍費 二十二億円

戦争のための努力の半分は「開戦に踏みきるか否かの意思決定」のために使えといわれているが、為政者にとって開戦の決心は重大である。日露戦争開戦決定のため、日本の首脳者の行った、感情を抑えての透徹せる合理的判断は、後生各方面の範とするに足る。日露戦争開戦の決心においては、まず大局条件の検討と判断が適切であった。

大局においては英米を対日好意の第三国、仲介国として保持しながらも、勝利国としては忍びがたきを忍ぶの譲歩をあえてし、結局はポーツマス条約を成立にもちこんでいる。日本国内の実力がほぼ戦争継続の限界線に近づいたとはいえ、日本首脳に「ほどほどに忍ぶ」という大度と見極めがなかったならば、一部国内激昂の民論にまきこまれて、収集できない泥沼状態におちいったかもしれない。

なお終戦工作については、政府は開戦と同時に手をうっており大山満州軍総司令官も出陣の新橋駅頭で、見送りの山本権兵衛海相に対し「戦は勝ちますけれども、とどめをさす時機が大切でごわす。いくらか余裕のあるところで鞘に収める、その大切なところを貴方に頼みます。非難攻撃は御身に集まるが、それが御国のためでごわす」といっておる。また児玉満州軍総参謀長が、奉天で勝つと、直ちに大本営に対し「戦いはこれまで」と電報し、戦略より政略に、国政の大転換点を意見具申したのは有名である。』

 

2013年3月 3日 (日)

NHK さかのぼり日本史 ⑦戦国 富を制する者が天下を制す (小和田哲夫著 NHK出版)

つねづね感じていたことが、詳しく論じてありました。

『実際、百以上の群雄が割拠したといわれる当時において、最終局面まで勝ち残った武将は、間違いなく経済戦略にも優れていました。たとえば越後の上杉氏や、関東の北条氏や、甲斐の武田氏。彼らは武勇に優れているだけでなく領国経営にもぬかりがなく、しっかりとした財力を持っていました。

新しい政治体制の中で、家康はそれまで秀吉が持っていた権益を一つずつ取り崩し、奪い取り、おのれのもとにすべてが集中するよう画策し始めました。そのキーワードが、「経済戦略」でした。

関ヶ原合戦から大坂の陣までは十四年もあります。これはかなり長い年月ですが、言い方をかえると、家康が淀殿たちに確実に勝てるという確証を得られるまでに、それだけかかったともいえます。

そのころ流通していた渡唐銭や、渡唐銭をまねて民間で鋳造した私鋳銭ばかりで、てんでに鋳造されていたので品質が一定せず、したかってお金の価値も定まらず、経済の混乱を招くことがしばしばありました。そこで、家康は金銀貨制度を政務第一の重要事とし、その安定に尽力したのです。

家康は関ヶ原合戦に勝利するとすぐに、東海道、中山道などを中心とする五街道の整備に乗り出しました。秀吉が大坂を中心とする経済圏を作ったのと同じように、家康は「すべての道はローマに通ず」のように江戸日本橋を起点とする経済流通ものを作ろうと考えたのです。

・・・家康が豊臣財閥を潰すために周到に練り上げた数々の経済戦略---、すなわち、ここで述べたもので言えば、鉱山経営、金貨銀貨の鋳造、流通戦略、貿易、検地と農民支配、そして、金に物を言わせた城攻めなど---は秀吉によってすぐ出尽くしたものばかりであり、家康に卓越したオリジナリティがあったわけでもないのです。家康は秀吉の真似をし、自分なりの形に磨きをかけ、完成させただけなのです。

信長や家康、また同時代の武田、上杉、北条などもそうですが、彼らは大小の違いこそあれ、基本的に大名や領主の子ですから、もって生まれた地盤というものがあります。その場合、そこを中心に領地を増していこうと考えるものです。塗り絵をするように、自分の家のまわりを少しずつ塗りつぶしていくイメージです。しかし、秀吉はそれがないので、あまり疑問もなく全国に飛び地的に陣取りをして、その間で物品を動かし、人とモノの流れのネットワークを作り上げていったのではないでしょうか。こちらは、点と点を線でつなぐようにして全体を網羅していくイメージです。この感覚は非常に新しかったと思います。

・・・小田原城北条氏攻めでした。これは、秀吉の天下統一に向けての実質的な総仕上げとなったターニングポイントの戦であり、まさに秀吉らしい特徴がすべてに詰め込まれた戦でもありました。というのには、三つの理由があって、一つは「みずからが築いた物流モノを駆使した戦」であったこと、二つは「戦わずして勝った戦」であったこと、三つは「財力にものを言わせた戦」であったことです。

のちの時代になると、籠城戦というのは勝ち目のない戦であり、籠城したらおしまいだというイメージになりますが、じつは、それは秀吉が城攻めに連戦連勝したためにそのように言われるようになったので、それより前は、むしろ籠城する方が勝つことが多かったのです。

しかし、本来的には信長はそれほど戦上手ではないのです。

戦の才能というのは、もって生まれた運動神経のようなもので、純粋な意味での戦上手と言うならば、天性優れていたのは、大軍団を率いて戦場を疾駆した武田信玄や、軍配一つで、大軍を自在に右へ左へコントロールしたという上杉謙信などではないでしょうか。彼等こそ、いわゆる戦の天才というべき人たちであったと思います。

にもかかわらず、ではなぜ、信長は戦の天才のようなイメージをかもしているのでしょうか。それは、彼のなしたことのコンセプトがいつも常識を覆すような斬新さに満ちていたからではないでしょうか。信長はしばしば「革命児」という表現で評されますが、それは事実です。信長はいつも時代の先駆けであり、現代の私たちでも、思わずうならされたり目からうろこが落ちたりすることがしばしばあります。そして、その発想の数々をよく見ていくと、やはり「経済戦略」にキーがあるのです。

越後と言えば米どころのイメージが強いのですが、当時は米よりも「青苧(あおそ)」という麻を原料として織あげた反物のほうが主要な物産でした。

中世というのは、「公家」と「寺家」と「武家」という三つの勢力が権益を競い合うように拮抗していた時代ですが、ここにもう一つ、「商人」というカテゴリーが勢力をもって台頭してきたのです。この状況の中で、公家と寺社は比較的上手に商人を取り込んでいきました。すなわち、商人に特権を認める代わりに上納金をとるという形で巧みに共生していく方法を考えたのです。ところが、それに乗り遅れたのは武家で、将軍も、守護大名も、それに代わって台頭してきた戦国大名も、商人を有効に利用することにはあまり成功していませんでした。そのことに気づいて、それを飛躍台として、世の中に打って出ようと考えたのが信長だったと私は思っています。

信長の場合は、攻略する敵によって拠点を移している面が強く、一つ敵を降すと、次の目標の攻略にふさわしい場所を選んで移動しました。この引越魔ぶりは、同時代の他の戦国武将と異なる、信長ならではの特徴です。

支配者側は出費がかさむ。家臣のほうは土地を離れたくない。つまり、兵農分離というのは非常に面倒くさく、障害の多い試みでした。しかし、それをさしおいてもなお、兵農分離は兵農未分離とは比較にならないほど、支配者にとってはメリットが大きかったのです。それには二つのことがあって、一つは、・・「戦闘専門の常備軍」をもてるといううことです。・・もう一つのメリットは、いくらでも訓練を積ませることが出来るということです。

桶狭間の合戦は、兵農分離した軍団の強さが初めて実証された戦いだったわけです。

(応仁の)乱の口火を切ったのは、有力守護大名の畠山家で起こった家督争いでした。・・このこと自体はそれほど複雑な話ではありませんが、そこに多くの守護大名の利害や対立関係がからみ、さらに、おりしも将軍家で起こっていた将軍継嗣争いが結びついて、ややこしい状況になったのです。

応仁の乱はそれまでの戦とは違い、都市のまん中でおこなわれたかつてない市街戦でした。足軽が兵力の中心となったことから、京の治安は最悪となり、略奪行為や放火が日常茶飯的に行われ、多くの民衆が巻き添えになりました。京だけではありません。戦乱はやがて守護大名たちの領国にも飛び火し、全国に不穏な空気が充満しました。

・・初代足利尊氏から三代の足利義満のころまでは、良くも悪くもやる気満々の為政者だったのですが、年を経る中でしだいに気骨を失い、義政に至っては、政治にも武芸にもまったく興味のない、文化や芸能に耽溺するばかりの趣味人に成り果ててしまいました。政権のトップがこのようになってしまった状況の中から、戦国騒乱の時代が生まれたのです。

・・守護が守護大名として力をつけていったのと反対に、室町将軍のほうは次第に権威が弱まっていき、室町時代中期ごろには、幕府は有力守護大名との連携、協力によってあやうく政権を成り立たせているような状態になってしまいました。

だからといって、そんな守護大名のほうも盤石だったわけではなりません。というのも、彼らももともとは領民と直接関わる守護という現場主義の職掌において土地の支配権を手にしたわけですが、大名として地位が上がると京に住まいを持って、公家のようになってしまい、現地には代官(守護代)を置き、まかせっきりにするようになります。すると、今度は守護代の中に、力を持ってのし上がるものが現れ、彼らに取って代わるような事態になったのです。

・・こうした戦国武将たちの事例を眺めていると、現代の私たちも彼らから学ぶことは多いのではないかと思います。なにしろ、彼らは応仁の乱から戦国時代、江戸時代へとつながる百有余年の間、毎日死と隣り合わせているような危機的な状況の中を創意工夫をこらしながら必死に生き抜いたのです。お手本となることは当然、たくさんあるはずです。

・・当時でも、苛政を布いた大名は反発を呼んだり、一揆を招いたりして、遅かれ早かれ別の人間に取って代わられました。真によい経済政策というのは、領民の幸福にもつながっていて、富国にもつながっていて、軍事的な強さにもつながっていて、また、その武将自身の利益にもつながっていて、バランスが良いのです。大局的な目配りができているというのでしょうか。そのようなことも、戦国時代のさまざまな例は教えてくれます。』

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