つねづね感じていたことが、詳しく論じてありました。
『実際、百以上の群雄が割拠したといわれる当時において、最終局面まで勝ち残った武将は、間違いなく経済戦略にも優れていました。たとえば越後の上杉氏や、関東の北条氏や、甲斐の武田氏。彼らは武勇に優れているだけでなく領国経営にもぬかりがなく、しっかりとした財力を持っていました。
新しい政治体制の中で、家康はそれまで秀吉が持っていた権益を一つずつ取り崩し、奪い取り、おのれのもとにすべてが集中するよう画策し始めました。そのキーワードが、「経済戦略」でした。
関ヶ原合戦から大坂の陣までは十四年もあります。これはかなり長い年月ですが、言い方をかえると、家康が淀殿たちに確実に勝てるという確証を得られるまでに、それだけかかったともいえます。
そのころ流通していた渡唐銭や、渡唐銭をまねて民間で鋳造した私鋳銭ばかりで、てんでに鋳造されていたので品質が一定せず、したかってお金の価値も定まらず、経済の混乱を招くことがしばしばありました。そこで、家康は金銀貨制度を政務第一の重要事とし、その安定に尽力したのです。
家康は関ヶ原合戦に勝利するとすぐに、東海道、中山道などを中心とする五街道の整備に乗り出しました。秀吉が大坂を中心とする経済圏を作ったのと同じように、家康は「すべての道はローマに通ず」のように江戸日本橋を起点とする経済流通ものを作ろうと考えたのです。
・・・家康が豊臣財閥を潰すために周到に練り上げた数々の経済戦略---、すなわち、ここで述べたもので言えば、鉱山経営、金貨銀貨の鋳造、流通戦略、貿易、検地と農民支配、そして、金に物を言わせた城攻めなど---は秀吉によってすぐ出尽くしたものばかりであり、家康に卓越したオリジナリティがあったわけでもないのです。家康は秀吉の真似をし、自分なりの形に磨きをかけ、完成させただけなのです。
信長や家康、また同時代の武田、上杉、北条などもそうですが、彼らは大小の違いこそあれ、基本的に大名や領主の子ですから、もって生まれた地盤というものがあります。その場合、そこを中心に領地を増していこうと考えるものです。塗り絵をするように、自分の家のまわりを少しずつ塗りつぶしていくイメージです。しかし、秀吉はそれがないので、あまり疑問もなく全国に飛び地的に陣取りをして、その間で物品を動かし、人とモノの流れのネットワークを作り上げていったのではないでしょうか。こちらは、点と点を線でつなぐようにして全体を網羅していくイメージです。この感覚は非常に新しかったと思います。
・・・小田原城北条氏攻めでした。これは、秀吉の天下統一に向けての実質的な総仕上げとなったターニングポイントの戦であり、まさに秀吉らしい特徴がすべてに詰め込まれた戦でもありました。というのには、三つの理由があって、一つは「みずからが築いた物流モノを駆使した戦」であったこと、二つは「戦わずして勝った戦」であったこと、三つは「財力にものを言わせた戦」であったことです。
のちの時代になると、籠城戦というのは勝ち目のない戦であり、籠城したらおしまいだというイメージになりますが、じつは、それは秀吉が城攻めに連戦連勝したためにそのように言われるようになったので、それより前は、むしろ籠城する方が勝つことが多かったのです。
しかし、本来的には信長はそれほど戦上手ではないのです。
戦の才能というのは、もって生まれた運動神経のようなもので、純粋な意味での戦上手と言うならば、天性優れていたのは、大軍団を率いて戦場を疾駆した武田信玄や、軍配一つで、大軍を自在に右へ左へコントロールしたという上杉謙信などではないでしょうか。彼等こそ、いわゆる戦の天才というべき人たちであったと思います。
にもかかわらず、ではなぜ、信長は戦の天才のようなイメージをかもしているのでしょうか。それは、彼のなしたことのコンセプトがいつも常識を覆すような斬新さに満ちていたからではないでしょうか。信長はしばしば「革命児」という表現で評されますが、それは事実です。信長はいつも時代の先駆けであり、現代の私たちでも、思わずうならされたり目からうろこが落ちたりすることがしばしばあります。そして、その発想の数々をよく見ていくと、やはり「経済戦略」にキーがあるのです。
越後と言えば米どころのイメージが強いのですが、当時は米よりも「青苧(あおそ)」という麻を原料として織あげた反物のほうが主要な物産でした。
中世というのは、「公家」と「寺家」と「武家」という三つの勢力が権益を競い合うように拮抗していた時代ですが、ここにもう一つ、「商人」というカテゴリーが勢力をもって台頭してきたのです。この状況の中で、公家と寺社は比較的上手に商人を取り込んでいきました。すなわち、商人に特権を認める代わりに上納金をとるという形で巧みに共生していく方法を考えたのです。ところが、それに乗り遅れたのは武家で、将軍も、守護大名も、それに代わって台頭してきた戦国大名も、商人を有効に利用することにはあまり成功していませんでした。そのことに気づいて、それを飛躍台として、世の中に打って出ようと考えたのが信長だったと私は思っています。
信長の場合は、攻略する敵によって拠点を移している面が強く、一つ敵を降すと、次の目標の攻略にふさわしい場所を選んで移動しました。この引越魔ぶりは、同時代の他の戦国武将と異なる、信長ならではの特徴です。
支配者側は出費がかさむ。家臣のほうは土地を離れたくない。つまり、兵農分離というのは非常に面倒くさく、障害の多い試みでした。しかし、それをさしおいてもなお、兵農分離は兵農未分離とは比較にならないほど、支配者にとってはメリットが大きかったのです。それには二つのことがあって、一つは、・・「戦闘専門の常備軍」をもてるといううことです。・・もう一つのメリットは、いくらでも訓練を積ませることが出来るということです。
桶狭間の合戦は、兵農分離した軍団の強さが初めて実証された戦いだったわけです。
(応仁の)乱の口火を切ったのは、有力守護大名の畠山家で起こった家督争いでした。・・このこと自体はそれほど複雑な話ではありませんが、そこに多くの守護大名の利害や対立関係がからみ、さらに、おりしも将軍家で起こっていた将軍継嗣争いが結びついて、ややこしい状況になったのです。
応仁の乱はそれまでの戦とは違い、都市のまん中でおこなわれたかつてない市街戦でした。足軽が兵力の中心となったことから、京の治安は最悪となり、略奪行為や放火が日常茶飯的に行われ、多くの民衆が巻き添えになりました。京だけではありません。戦乱はやがて守護大名たちの領国にも飛び火し、全国に不穏な空気が充満しました。
・・初代足利尊氏から三代の足利義満のころまでは、良くも悪くもやる気満々の為政者だったのですが、年を経る中でしだいに気骨を失い、義政に至っては、政治にも武芸にもまったく興味のない、文化や芸能に耽溺するばかりの趣味人に成り果ててしまいました。政権のトップがこのようになってしまった状況の中から、戦国騒乱の時代が生まれたのです。
・・守護が守護大名として力をつけていったのと反対に、室町将軍のほうは次第に権威が弱まっていき、室町時代中期ごろには、幕府は有力守護大名との連携、協力によってあやうく政権を成り立たせているような状態になってしまいました。
だからといって、そんな守護大名のほうも盤石だったわけではなりません。というのも、彼らももともとは領民と直接関わる守護という現場主義の職掌において土地の支配権を手にしたわけですが、大名として地位が上がると京に住まいを持って、公家のようになってしまい、現地には代官(守護代)を置き、まかせっきりにするようになります。すると、今度は守護代の中に、力を持ってのし上がるものが現れ、彼らに取って代わるような事態になったのです。
・・こうした戦国武将たちの事例を眺めていると、現代の私たちも彼らから学ぶことは多いのではないかと思います。なにしろ、彼らは応仁の乱から戦国時代、江戸時代へとつながる百有余年の間、毎日死と隣り合わせているような危機的な状況の中を創意工夫をこらしながら必死に生き抜いたのです。お手本となることは当然、たくさんあるはずです。
・・当時でも、苛政を布いた大名は反発を呼んだり、一揆を招いたりして、遅かれ早かれ別の人間に取って代わられました。真によい経済政策というのは、領民の幸福にもつながっていて、富国にもつながっていて、軍事的な強さにもつながっていて、また、その武将自身の利益にもつながっていて、バランスが良いのです。大局的な目配りができているというのでしょうか。そのようなことも、戦国時代のさまざまな例は教えてくれます。』