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2013年2月 2日 (土)

武田信玄 山の巻 (新田次郎著 文春ウェブ文庫)

ついに読み終えました。著者の深い洞察力、筆力によるものと思いますが、武田信玄をはじめ戦国武将の凄さを強く感じました。私自身は、上杉謙信の方が好きだったのですが、見方が変わりました。これからも色々な書を読み、戦国時代の人びとの知恵を私自身の人生に生かしたいと思います。

『「水軍衆の考え方は、われわれ、土地にへばりついている者の考え方と著しく違っております。水軍衆のほしいものは、土地や城ではなく、海でございます。・・水軍衆にとって割のいい仕事があれば、どこの国の大将のところへでも手伝いに行きます。・・つまり水軍衆は、われわれと違って広い心を持っており、極めてものごとを割り切って考えております。

「これは、昌幸様、退任を仰せ付けられましたぞ」と云ってにっこりした。大任と口では云いながら、それほど緊張した顔を見せないのは、市川十郎右衛門の人柄そのものにも思われた。

久秀が土岐氏と武田家との縁談を持ち出した時点で、昌幸は松永久秀という人物の評価をつけていた。久秀はやりくり大名以外のなにものでもなかった。口が達者で、顔が広いことだけが取り柄である。

戦国時代における奥近習衆は、江戸時代の諸大名たちの奥近習とは違っていた。奥近習の一人真田昌幸が重要任務を帯びて長島へ行ったように、奥近習は震源の意を汲んで働く若手武将であり、また使番十二人衆は、合戦の際、部隊と部隊の間を馬に乗って走り廻って信玄の命令を伝達する信玄の代弁者のようなものであった。

・・そういう二股かけた行動は戦国時代に於いてはもっとも嫌われ、結局はどちらにも信用されずに滅びるものであるという原則が分からなかった。

城砦を一里置きぐらいに置いて防戦しようとした思想はもう古い。武田信玄の軍が信州を席巻できたのも、信濃の領主たちが小さい城砦に拠って戦おうとしたからである。このような山城や山砦で大軍を防ぐことはできあに。城を作るならばなるべく大きな城を作り、少なくとも、数十日は持ちこたえることができねば城としての意味がない。そういう事大になっていた。

このような緊急の場合は、まず騎馬隊が、現場に駆けつけて、その情況判断の如何によっては斬り込むこともあるし、敵を牽制しながら味方の本体を待つときもあった。これらの先遣部隊の任務は重要だった。下手をやると飛んで火に入る夏の虫的に全滅することもある。

・・・戦国武将で色好みでない者はなかった。逆説的には、色好みでないような武士は一国一城の主とはなれないと考えられていた。

このころ越中の国は三つの勢力に分かれた争っていた。・・

一向宗一揆と云っても、百姓一揆とは全然違ったもので、一向宗を信奉する人たちの軍団であり、指揮者はすべてそれぞれ戦の経験のある武士であり、それに従う者も、ちゃんと武装した兵であった。戦国時代の他の武装集団といささかも異なっているところはなかった。

「・・・確かに、新奇を好み、格好を気にするのは武士の本道から外れているように見えるけれど、徳川方の若手の大将たちが、武具に身を入れているという事実は、それだけ徳川方の若手大将たちの意気が盛んであり、大きな希望を抱き、益々飛躍せんとしている、旺盛なる心の動きを示すものと見るべきだと思う。・・」

「戦さに勝つには無駄をさけねばならぬ。よくよく考えて、ここが急所ぞと思うところを突かねばならない」

信玄は西上の軍を発する前に、二俣城の内部に武田に通ずる者を忍ばせていた。二俣城ばかりではなく、ここぞと思う城には、あらゆる手を使って味方を布石していた。それは今度に限ったことではなく、調略戦争こそもっとも有効だと信ずる信玄の考えを汲んで、武田の諜報機関は各地において目覚しい活躍を見せていた。信玄はこれら諸国御使者衆に使う金はおしまなかった。

信玄はこの度の西上作戦に当たっての食糧はすべて現地で調達する心構えでいた。軍行動を起こす前に、敵地を探索した際も、食糧の配在を充分に調べていた。

城を落とすと同時にその附近の人と土地を取り、兵糧について後顧の憂いをなくして、前進するやり方は、はたから見ると、少々てぬるいようであったが、この着実な前進方法は徳川家康や織田信長にとってはまことに薄気味が悪いものであった。

信玄は攻撃をはじめる前には、まず調略の手を伸ばして、相手方をがたがたにして置いてから兵を進めたが、信友もまたそのとおりのことをした。

ここには裏もないし、裏の裏もない。ただ駆け引きだけがある。駆け引きとは、時間をいかに上手に利用するかということである。

武田信玄が発令した軍法の中には 合言葉は、その日のうちに覚えさせ、間違いのないように充分練習しておくこと という項目があった。その日のうちに覚えさせよというのは、前日又は前々日に合言葉が何々であると通達しておくと、その秘密が敵に洩れる虞があるからである。だから、いよいよ、今日こそは合戦があるという日に、新しい合言葉が全軍に伝えられた。

信長は機を見るに敏なる将であった。

信玄が死に臨んで三年間喪を伏せよと遺言したのは、信玄の死と共に当然予想される外敵の反撃を恐れたからである。三年間、おとなしく持ちこたえれば、あとはなんとかなるだろうという勝頼に対する忠告であった。だが勝頼はじっとしていなかった。父信玄の死と共に反撃に出て来た、徳川、小田に対しては、勝頼自ら兵を率いて遠征した。父信玄は石橋を叩いて渡るような戦術を用いたが、勝頼は、徹頭徹尾、積極戦法を用いて・・・父信玄の在生中よりも領土を拡張した。だが、勝頼ははやり過ぎた。

私は合理的なものの考え方をする人が好きである。武将の中で、武田信玄はもっとも強くその合理性を発揮した人である。だが合理主義だけでは天下はとれなかった。宿あの肺患には、彼の合理主義を以ってしても勝てなかったのである。』

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