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2013年2月

2013年2月24日 (日)

男の系譜 (池波正太郎著 新潮オンラインブックス)

いろいろと心に残る書でした。浅野内匠頭、大石内蔵助などについては新たな視点を得られました。

『戦国時代というのは、自分の国を守るためには周囲(まわり)をとってしまわなければ守れない、そういう時代ですよ。

信玄の場合は、一つの国を攻めてとると、そこをすっかり管理して、治世を行って、行き届いてから次へ移る。だから手間取って信長に先を越された。しかし、その点で信玄も偉いと思う。病気で死なないで、あと五年も生きていたら・・・・・・信長だって天下をとれたかどうかわからない。

信長は、最初から大きな家の息子じゃなしに、いわば最初は小さな十人か十五人の会社の社長みたいなものだった。そのときの独裁をそのまま持って行けたからあそこまでやれたんで、これが足利義昭とちがうんですよ。足利義昭なんていうのは、本来が大きな家に生まれた、天下取ろうと思ってあっちこっちやったけど、やっぱり足利資本という大枠にはめられてしまうから、なかなかそういうことができない。しかも実力のない資本。

「清潔な政治」だなんていう政治家は絶対信用しないね。汚いものの中から真実を通してゆく、それが政治家なんだ。そういう意味では、信長は確かに政治家だけれども、ずば抜けた政治的感覚を養うようなところにはそだってはいないんだよねえ・・・・・。

戦国時代というのは、むずかしいんですよ。この人が本当にやれる、誰がみてもこの人が断然有力だということになってから、その人の味方に付いたんじゃ遅い。もっと前に、その人が下の下にいるころに先を見究めて、ものそのときから味方して、その人が大をなす日までついてゆかなくてはね・・・・・・いざというときに、もらうものが少ない。

信長の死ぬ前と後では、戦国時代といっても違うわけだ。信長の死後は諸国の大名小名たちがちょっと先を見たり、うかつに猪突猛進して敵をやっつけるというふうにはなりませんね。・・・一番大事なときに実力を出さなければいけない、そうれを早まって、うかつに亡びてしまってはつまらない・・・・・・信長が一度天下を統一したんだから、・・・今こそ大事な時、今度しくじったらやり直しはきかないんだ、一番肝腎な、天下をとる人をよくよく見きわめて、その人のためにやらなければ損をする・・・・・・という気がある。だから天正十年を境にして、その前と後と、大名、侍、武士たちがだいぶ変わってくるわけだ。大将がそうだから、家来もそうなる。

槍というのは戦国時代に入ってから発達した。無論、支那から来たものです。鉾のようなものを日本人向きに洗練して使いやすいようにして育て上げたんだろうね。

特別にお相撲さんのような大きな侍というものは、めったにいなかったと思う。いま残っている鎧なんか見てもね、が、相当の体力はあった。精神力でしょうね。筋肉が引き締まっていたろうけれども、非常な大男は、鎧なんかから察してもいなかったろう。それに食べるものも粗食・・・・そんなものを食べてやりふりまわしていたんだから。やっぱり体力以上に気力だろうね。で、そう長生きできない。

・・そういうことを考えれば、いまと昔と、どっちがいいかといえば、いまのほうがいいにきまっているけれども、生命力の燃焼のしかたが違うわけだ明日死ぬかと思うのと、明日死なないと思う今日とは、今日が違う。

男が自分で包丁持ったりするようじゃ、男じゃない・・・・・と。ところが、これは江戸時代の道徳で、戦国時代の侍はみんな料理にかけてはうるさい。そのころのことだから、材料はないけれども。

とにかく料理であれ、なんであれ、どんなことでも、ちょっとでもゆるがせに、いい加減にしていたら、すぐ大変なことになる。そうじだいですからね、戦国時代は。そうしないとともなく家が治まらない。家が治まらないと家来が治まらない。家来が治まらないと国が治まらない。これが基本だからね。家というものが絶対中心なんだから。

人間的なつながりがあったということは、ひとつには、その当時は、上も下もほとんど生活の差がなかったからです。いかに昔の大名なんていうのが質素な暮らしをしていたか、徳川将軍でも三代の家光のころまでも足袋をはかないですよ、寒中でも。江戸城中で。家康の足なんてアカギレだらけですよ。

やはり、顔というのものはかわりますよ。もともとがよければ、これは変わらない方がいいけれども。まわ、若いうちからいい顔というものはない。・・だから役者なんかの場合は、やはり顔が変わってくるね。役者は役をこなすからね。そのたんびに劇中の人生を経験するわけだから、当然、かわってゆく。また、いい方に変わらない役者はダメになっちまう。

・・・うちを整えるのに一所懸命な人はたいしたことはない、そういうことは放り出しておいて外へ出歩いているほうがカッコイイという・・・・・ちかごろの考え方、あれはまったく間違いです。・・・作家というのものは浴びるほど酒を飲んで、それで絵空事を・・・・・・そういうことをいいますよ。それが作家だなんて、それは言語道断ですよ。それは昭和初期の作家、あの時代の人ですよ。その前の作家はそんな人はいませんよ。鴎外にしてもそうだし、藤村にしても、露伴にしても。・・・そんなことで作家のスケールをうんぬんするなんて大間違いだ。

人間というものは。大体、五歳から十歳くらいに間に全部決定されるわけですよ、そのときの生活環境でその人の一生が。

プロセスによって自分を鍛えてゆこうとか、プロセスによって自分がいろんなものを得ようということがない。だから、道が見つからないんですよ。・・・はっきりわかっている自明のことをやらないんですよ、最近。・・・下の仕事、人のいやがるようなことをもっと進んでやる、それが大事なんじゃないかと思いますよ。実際ね、これが一番面白いんだよ。

自分の仕事としてそれを楽しむことができない仕事なんて、ないですよ。

役人でも、会社員でも、身銭を切りなさいというわけですよ。仕事そのものにね。同僚と飲むことじゃないですよ。そうしないと実らないんじゃないかな、仕事が。しかし、いまの人は仕事に身銭をきらないねえ。職場で毎日お茶入れてくれる人がいるでしょう。そういう人に盆暮れにでも心づけする人が、まあない。いつもおいしいお茶をありがとう・・・・・・そういってちょっと心づけをする。こりゃ違いますよ、次の朝から。当然その人に一番先にサービスする。そうすると気分が違う。気分が違えば仕事のはかどりがまるで違ってくる。こういう風に、自分の仕事を楽しみにするように、いろいろ考えるわけですよ。楽しみとしてやらなきゃ、続かないよ、どんな仕事だって。「努力」だけではだめですよ。ガムシャラな努力だけでは、実らないかったら苦痛になる、ガックリ来ちゃって。

人間の形成というものは、生まれついてから五歳くらいまでが最も大事で、そのときの家庭生活というものが全部、一生影響してきますよ、絶対。そう思う。

持続ということは美徳だったわけです、つい十年くらい前までは。物事を持続するということが立派な美徳だった、人間の世界の。それがなければ、努力の積み重ねというものも意味をなさないんだから。

自分の息子も、その友だちも、少しも分け隔てなく可愛がることが出来た、そういう心の温かい、本当に情のある人だった、清正の母親は。

強いばかりではない。清正の軍は、軍紀が厳正なことも知られている。そういう厳正な人物だったということですよ、清正。

三成は秀吉の好調時代に秀吉のそばにくっついていて、常に権力の座にいたけれども、順境しか経験がない。清正みたいに異国の地で生命がけで敵と戦いぬいた、壁土まで食いながら頑張ってのけた、そういう体験をしていないでしょう。こういう、逆境に沈んで苦しみ抜いたことのない人間は、だいたい駄目なんだ。人を見る目もできていないしね。

すべてはそうではないが、大半は政治家と呼ぶに値しない、とぼくは思うね。少しは歴史を研究して清正や家康の人物を勉強するといいんだよ。この両者の虚虚実実の駆け引き、そこに政治家の一つの在り方を見ることが出来るんじゃないか。党利党略とか、党内での派閥争いとか、それだけでしょう、現在(いま)は。これは、どの党を見ても全部同じだよ。

加藤清正の立場としては、あくまでも関東(徳川)に乗ずる隙を与えてはならぬ、このことに尽きる。徳川家康がねらっている開戦の機会を絶対にあたえてはならない・・・・・・そのためには、いさぎよく頭を下げるべき時は下げねばならない、と、こう考えているわけですよ。

家康に対してわれわれが感心するのは、あれほどの権力者になっても、自分の生活はきわめて質素、それでなくては下の者たちはついて来ないということをよく知っていて、それを最後まで実践したことだろうね。これは、上に立つ人間の取るべき万古不易の姿だから。

そういうように自ら率先して日常の行動そのもので納得させる、これが指導者であって、家庭の主にしてもそうですよ。

一緒になってからは、たいてい夫婦仲がこまやかになるな、戦国時代の政略結婚は。実際は、そういう方が多いくらい。結婚してから恋愛に入るわけですよ。だから、年月がたつほど深く心が通い合って夫婦仲がよくなって行く・・・・・・。

戦国時代の価値観というか、結婚観から言えば、何よりもまず大切なのは”国を守る”ということだ。その上で初めて結婚も幸福も成り立つんだから。根替え方の根本が違う。そうなると、男に対する見方も違ってくる。男Rは顔だのなんのじゃないんだ、男というものは働きなんだ、という風に基準が違うわけですよ。

戦国時代に女が蔑視されていたということの一つの例として系図に女の名前をださないということがいわれるでしょう。あれなんかもね、女性蔑視とみるのは間違いなんだ、戦国時代の場合は。つまり、名前を書いちゃうと、後難のおそれがあるわけですよ。男が負けた場合、一族郎党残らず殺されてしまう。そのとき、女をかばう気持ちが、ああいう系図の書き方に表れているのだ。これは必ずしも女性蔑視というのではないんだよ。

そのころ江戸の町というのは急激な発展期にさしかかっている。幕府が玉川上水の敷設を許可して費用を与えたのが承応二(一九五三)年でしょう。水道がひける。手紙なんかも早飛脚の制度ができて江戸と京都の間を半月もかかっていたのが三日で行く、五日で来る。米や麦もこれまでより余計に穫れる。だから団子なんかも売っているということになる。宿屋へ行っても自分で米を炊かないで済むようになる。すべて、戦争がなくなったおかげだ。終戦後の日本と同じだよ。生産力が飛躍的に拡大されて電気製品が普及して来るというのと同じで、なれてしまうとありがたいとも思わない。・・その結果はどうなるかというと、諸事万端、形式ばってくる。これは徳川幕府の場合もそうだった。万事が次第に贅沢になったがために、現在の結婚式と同じようなことで、何かの儀式が何万両、何十万両かかるというようなことになってくる。

江戸の元禄と、昭和の元禄、必ずしもそっくり同じではないが、確かに共通するところがある。それはどういうところかというと、つまり「戦後の社会が繁栄した」ということだ。そこが一番よく似ている。

それまでは、女はほとんど政治にくちばしを入れることがなかった。幕府の閣僚、大老、老中、むろん将軍もそうだが、女には一切口を出させず、全部男がとりしきってきたものだ。それが、綱吉の時代になって、綱吉の生母である桂昌院が将軍の母親として権力を拡張したがために、ここに大奥の権力というものが生まれたわけだ。

戦国時代には「余剰」というものがない。物資の面でも時間の上でも。戦争のためには、食い物だってなんだってできるだけ切り詰めて、武器をつくり大砲の弾つくりをしなければならないだろう。人口も少なかった。それが戦争がなくなると、戦争に使っていた人手が余る。

元禄時代から見れば現代は大変な贅沢だけれども、戦国時代から見ると元禄時代はもっと贅沢だった。夢みたいな、とんでもない贅沢だったわけだよ。それほど戦争というものはエネルギーを食っちゃうんだよ。

自分では動物を愛護しているつもり、母親に孝養をつくしているつもりなんだ、綱吉は。・・仁義礼智、孝行の道というのがあるでしょう、論語に。それを自分が実行しているつもりでいる。だから手前だけの学問なんだ。世の中のことが何もわからない人が学問するとこういうことになってしまう。蚊をつぶして島送りになった侍に親がいて、どんなに悲しむか、そんなことは知っちゃいない。

戦国末期でも豊臣秀吉の時代でも、何十万国という大名である加藤清正、福島正則、こういう殿様でも朝飯のおかずは塩だの、焼き味噌、板に味噌を塗って比で焙ったものだが、せいぜいその程度なんだ。それにおそらく麦飯だろう。

自分よりも家来を可愛がらなければ、家来たちがよくやってくれない。家来たちがちゃんと働いてくれなければ国がおさまらない、ということだから、自分のものは節約しても家来たちに与えるようにした。そうでないと侍社会というものは成り立たない。大名社会というものは。

・・・封建時代は。米がとれなくては国が成り立たない。だから、封建時代の百姓はいじめられて可哀そうだとよくいうけど、実際は、殿様のほうがよっぽど苦しい質素な生活をしていたんだ。大名が何百というほどいて、その中で数えるほどですよ、殿様が自分勝手な贅沢をして民百姓を苦しめたというのは。

火事というのは、戦争がない当時、何より恐ろしいんだ。営々として築き上げて来たものが一夜にしてはいになっちゃう。・・「火消しの演習の中には、武士たるもののすべてが含まれておるとおもいくれるよう。・・・」(「おれの足音=大石内蔵助」より)

いろんな儀式が華美になってくる。着るものでもなんだも。何にしなくてはいけないとか、何の日には大紋をつけろ、何の日には長袴にしろとか、うるさくなってきた。江戸にいる間は従わないわけにはいかない。しかし、国へ帰れば殿様みんな質素だったわけだ。江戸だけを見て判断すると、こういうところを間違いやすい。

今は東京の風潮が、あっという間に日本全国にひろがる。交通がこうなってきたし、テレビもあるし。そこが昭和元禄と元禄時代の違いなんだよ。いまは東京で贅沢三昧の風潮が起きれば、すぐさま全国に波及する。あの当時は、そういうことはない。侍の生きかたというものについては。

武士階級が二分化して、官僚化した武士は贅沢に走り、武士たるものの本質を守り抜こうとする者は依然として質素だった。その境い目にあの事件(赤穂浪士の討ち入り)は起きた。だから、単なる個人と個人の喧嘩ともいえない。

あれだけ祖父さんお遺風を守って営々と努力してきた内匠頭の身になって考えれば、それは残念だったろうと思う。だけど、男の意地というものがある。それが爆発しちゃったんだからしかたがない。現代の人間は意地を忘れ、怒ることを忘れているから、ばかだと思うんだよ。内匠頭のことを。内匠頭の辞世の句、知っているだろう。あれ一つ見ても、内匠頭という人が察せられるじゃないか・・・

風さそふ花よりも猶我はまた 花の名残をいかにとやせん

だけど、戦国時代には、こんなことはざらにあった。自分の意思が通らないときに死を覚悟でやるんだね。それが武士というものだった。内匠頭の刃傷は、そういうことをするのはバカな人間だということになりかけている時代に起きた。官僚の時代だから。綱吉のころは、もう。官僚の社会というのは、自分の生命をかけて何かをするということじゃない。いかに自分の生命を長引かせるかということのために何かをする。それが官僚の本性なんだ。

今の男は気がまわらな過ぎるんだよ。内蔵助の神経のつかいかたと比べないまでも、あまりにも現代の男は気がまわらなくなっている。

だから、男というものは宰領しなくてはいけない。食いもののこと、家族の付き合いのことのみならず、すべてに関して。男がそれをしないと、全体的に家というものがくずれてくるんだよ。そして、家というものがくずれると、その男は不幸になっちゃう。家庭が駄目になっても、その男だけが立派だなんていうことは絶対にありえないんだ。

・・農作物というのは年ごとに出来、不出来があるでしょう。・・そうした場合に、すぐ貿易で食料を輸入するから、何でもない。ところが江戸時代は鎖国をしていて、外国との交際がない。凶作だったらもうどうにもならない。

あの中で、真面目に戦ったのはただ一人だけです。他の、大臣とか政治家、軍人、みんな口では、駄目だ駄目だ、陸軍の横暴を何とかしなきゃいかんっていってましたがね、本当に戦ったのはたった一人しかいない。・・天皇ですよ。日本の敵・陸軍の横暴というものに対して、たった一人敢然として戦ったのは天皇なんです。ぎりぎりのところまで戦い続けている。政治上の独裁権がないにもかかわらず。だけど、その天皇を援けるやつが一人もいなかったんだ、命がけでやるやつが。始めから最後までもう、しっかりとした見通しを持ち、日本の将来というものを賢明に予見して、正しい考えをつらぬいたのは天皇一人だけ。・・あれほど英邁な君主がいながら、時のながれというものは結局どうしようもなく、日本はバカバカしい戦争に突入した。このことは、ちゃんと覚えておいた方がいい。

(桜田門外の変について)こういうことが、こういう場所で起こるという、そこにも将軍家というものの権威がいかに落ちていたか、よく表れていますね。昔の将軍家の威光と言ったら、それは大したものだからね。考えられないわけだよ、こんな事件が起きるなんて。結局、八代吉宗以降、だんだん将軍家の薄れていったんだな。中には利口な将軍もいたけどね。それで当然、独裁政権であるだけに、ひとたび威光が薄れだしたらもう、どうにもならないんだ。やむを得ず合議制になってくるわけだ、政治が。

本当の大名というものはどうであったか、井伊さんを見ていると分かる。自分のことなんか考えていないんです。ところが明治維新で成り上がったやつにはそういうところがない。利権を漁る、地位を漁る、というやつのほうが多くなっちゃった。明治維新以降の政治家は。

薩摩・長州が革命運動の主軸になった理由というのは、要するに、まず金があったということ。それとやっぱり地理的な条件だね。あんな日本の端っこでしょう。幕府の眼が届かないわけですよ。何かやってるなと思ったって手の出しようがない。

正之が幕府の閣僚たちと一緒に改定した「武家法度」二十一カ条というものを読むと、これはむろん徳川政権の安泰を願うためのものではあるけれども、行文には、おのずからなるきびしさがみなぎっている。つまり、幕府も大名も互いに歩調をそろえて、「世を治めるものは、みずからをきびしくいましめねばならぬ」という意気込みが、はっきり出ているいるわけです。

それでも、最後に松平容保が断をくだした。「この上は義の重きにつくばかりで、他日のことなど、とやかく論ずべきではない。君臣もろともに京都の地を死に場所としよう」殿様にここまで決心されたら、もう、家臣たちも何もいうことはないわけだ。こういう覚悟で京都に行ったんですからね、容保は。天下のために、世の中を鎮めるためには、自分はどうなっても構わない、と。

一般の浪士は騒ぎ立てること自体が目的なんだよ。というのも、みんな食いつめているから、下積みの生活で。騒ぎがあれば、なんとかどさくさにまぎれて、そこで食べて行ける。・・もう、半分はやけっぱちで、いつ死んでもかまわない、世の中を騒がせるのが面白くてやっているということなんだ。

・・幕末の動乱を勤王革命、明治維新と美化していうでしょう。あれは封建制度を打破して近代日本を誕生させた正義の革命である、と。しかしねえ、あれは民衆の革命じゃないんだ。武士階級の、特権階級の政権交代に過ぎないんです。・・支配権が徳川幕府から薩長連合に移ったというだけのことなんだ。・・みんなが幕府を援けるようにして明治維新政府をつくっていたら、もっとあかぬけていますよ。・・幕府のほうには優れた人材がいっぱいいたんだから。そういう人材がみんな埋没しちゃった、敗けたばっかりに。それで新政府は田舎っぺばかりになっちゃった。

西郷隆盛の本質は教育者であり詩人なんだ。そういう多情多感な、理想主義的な男が時代の奔流に包み込まれて歴史の舞台に登場せざるをえなかったということですよ。

西郷吉之助の勉学が目ざましく進み始めたのは、この右腕の負傷が動機だったというから、少年時代の出来事というものが人間の一生にいかに大きな影響をもたらすものか、つくづく思い知らされるね。

旧幕時代から続いている旧対馬藩の出張所のようなものが朝鮮の釜山にあって、これを倭館(やまとかん)と呼んでいた。そこに日本の外交官や居留民がいたわけですよ。

版籍奉還とか廃藩置県とかを推進して、かつての主君である島津久光が激怒したって平気だし、きのうまでの仲間である士族たちが没落したって一向気にしない。そこが大久保の大久保らしいところであり、西郷隆盛と違う点でしょうね。

大久保利通を中心とする新政府が、とうとう西郷を死に追い詰めたといっても間違いではない。だけど、政府が追いつめたというよりも、西郷みずからが追い込まれていったという方がもっと正確でしょうね。そこが政治家でもなければ軍人でもない、西郷の西郷らしいところなんだ。情に負けてしまったわけですよ、自分のかつての部下たちの。

山縣有朋なんかでもね、政治家あるいは軍人としての山縣は、ぼくはあんまり好きじゃないけど、詩人として漢詩は大したものですよ。これはもうものすごく感情が激しい人なんだ。だから詩はいいんだよ。』

2013年2月23日 (土)

太平洋戦争 (児島襄著 中公文庫)

久しぶりに書棚から出して読んでみました。英霊、戦没者の苦難、生命をかけて得られた教訓を決して無駄にしてはならないと改めて思いました。

『参謀本部に戦争決意をうながした直接の原因は、独ソ戦だった。長期化する日華事変に国民は疲れ、参謀本部は陸軍の威信を維持するためには、新局面の展開を求めていた。

では、参謀本部がかくも強く開戦を主張したのは、なぜか。作戦に自信があったからである。・・もっとも、これはあくまでも第一段作戦についてである。海軍側は「日本海軍としては開戦二カ年の間は必勝の確信を有する」が、米英の本土を攻略する力はない。相手が動員体制をととのえて反攻してくるだろう三年目以降は、「遺憾ながら予見し得ず」という。

要するに、当時の日本海軍では、戦いの相手は軍艦であり、基地、施設は二の次という考えがあったことがうかがわれる。近代戦は総合的戦力の戦いであり、単純な戦闘の集積ではない。しかし、当時の日本海軍にはその認識はなかった。

このコタバル上陸は、真珠湾攻撃に先立つこと一時間二〇分。すなわち、太平洋戦争は、コタバルを守る第3/17ドグラス大体の一発で火ぶたが切られたわけである。

開戦からジャワ攻略までの第一段作戦において、日本軍の上陸が阻止されたのは、このウェーキ島第1次戦だけである。しかも日本軍は、三つの砲台とわずか四機のグラマン機の反撃により、駆逐艦二隻を失い、駆逐艦二隻と輸送船一隻を小破された。・・・このウェーキ島の戦闘は、太平洋戦争における最初の離島攻防戦であった。制空、制海権を獲得した優勢な兵力による攻撃、砲爆撃による施設と指揮系統の破壊、しらみつぶしの陸上陣地攻略。そこには、小規模ながら、島嶼攻撃に必要な合理的戦術の数々、のちにくりひろげられる太平洋の死闘の原型が示唆されている。・・だが、勝利の中に敗北の教訓を見出すことは難しい。

輸送船攻撃の軽視は、真珠湾において工廠、石油タンク破壊を見逃したことと軌を一にする。空母を恐れたのは航空機の威力を感知したからだが、かといって飛行場破壊には思い及んでいない。目先の戦術的効果にとらわれ、被害意識にとらわれ、戦略的積極性を欠いた、といわざるをえない。その後も、効果が大きい艦砲による飛行場攻撃も徹底を掻き、”ガ島の悲劇”の大きな原因のひとつになった。

米国は太平洋戦争開幕の前から、対日戦にそなえて日本語を介する情報員の養成を始めていた。

山本長官も、ガ島の勝敗が輸送の成否にかかっていることは承知していた。

古宮大佐は副官とともに、・・負傷した身体が刻々に弱まるのをさとり、自決した。軍旗は切り裂いて土中に埋めた。大佐の遺体は海兵隊に収容されたが、その海中に次のような意味の遺書があった。「・・吾人は火力を軽視すべからず。火力十分なれば兵の行動は果敢となり、その気力もまた充実するも、火力不足なれば、消極的ならざるを得ず。・・」

こうしてガ島の戦況は、深刻の度を加えていたが、そのころ参謀本部はもうひとつの難題に直面していた。船舶問題である。・・おかげで、せっかく手に入れた南方の石油その他の資源が十分に運べない羽目になった。

参謀本部は、ガ島戦を機会に、むしろ自信をもち直すとともに、国力増強の必要に目覚めて、大東亜共栄圏づくりという政略に熱中しようとするのだが、東条首相は注意した。「参謀本部は統帥部たる本質にかんがみ、国内問題、軍政問題に頭を突っ込まざるよう補佐すべし」。しかし、・・・「政略部門を等閑に付すること能わざるは亦、近代戦の要請なり」と、軽く一蹴された。東条首相も、それ以上は強い態度を示さなかったが、首相の不安はきわめて予言的だったといえる。スピードと多様性を基本とする近代戦においては、戦略の遅延はその不在に等しい。その結果は、いたずらにその場その場の遭遇戦に終始し、ただ疲れ果て敗北に終わりかねない。そしてその徴候はすでに現れはじめていた。

ステルウェル中将は、・・米国人らしい能率的仕事ぶりで任務にまい進したが、ことごとに中国側とテンポが合わず、蒋介石大元帥とも意見が対立した。とくに中将にとって不愉快だったのは、積極的に日本軍と戦おうともしないくせに、なにかといえば援助を要求する中国側の態度だった。・・「・・(中国政府は)自分たちだけのことしか考えないならず者の集団だ。指導者たちの興味は、ただただ金、権力、そして地位だけだ・・・・手に入るものには何でも頭を下げ、自分は戦わないように心掛ける・・・われわれはこの腐敗した政府を支援し、その偉大なる愛国者兼戦士である”南京豆”に栄光をあたえるために、戦おうとしているのだ。おお、神よ!!」

B29は3万フィート以上をとぶ。高射砲弾の心配は少なく、戦闘機の迎撃も困難な高高度である。・・いわばサイパン攻略は、日本に対する新しいタイプの攻撃、新戦略のために実行されることになったのである。

参謀本部からは、高級責任者は南方視察に出かけても、中部太平洋にはトラック空襲以来出張せず、防備の状況は確かめていなかった。これで大丈夫だというのは、指令さえ出せば万事解決と考える官僚式自信に過ぎない。

加えて、(サイパン守備の責任者)斎藤中将の不安の種は、約2万5000人の一般市民(うち島民約4000人)の存在だった。中将のみるところ、繁華を誇る町の市民生活との接触で、サイパン守備将兵の士気はしでにゆるみがちだったが、いざ戦闘となれば、多くの市民は必ずや直接の足手まといになる。中将は、サイパン防備が内側から崩壊することを恐れた。

米兵たちは、日本人を憎んでいた。その憎悪が苛責ない掃討戦法を支えていた・・

体当たり攻撃は、日本軍にとって目新しいことではない。現に台湾沖航空戦で有馬少将が体当たりを行っている。ただ、有馬少将の攻撃は、結局は個人行動である。大西中将はそれを公式の戦法にしようという。

サイパン戦において端緒的にみられ、沖縄戦において本格化したごとく、戦闘は直接、市民=非戦闘員に頼る国民戦争に転化しつつかったが、統帥部にはこの種の”新しい戦争”にたいする認識も用意もなかった。』

新聞記事から(【正論】筑波大学大学院教授・古田博司 竹島を「聖地」にした韓国の甘え 25.2.22 産経新聞朝刊)

第2次大戦後、60年以上たっても、みずからのことを棚に上げてうだうだいう韓国との付き合い方は、この方の言うことに尽きると思います。隣国だからといって特別扱いする必要は全くないと思います。特別扱いすべきならば、なぜ彼らを日本を特別扱いしないのか。特別扱いする必要がないことを端的に示しているではありませんか。国益に合うかどうかのみで判断すればよいでしょう。彼らが反日教育を続ける限り、付き合う必要はまったくありません。底の抜けた容器に水をくみいれ続けるようなものです。

『冷戦期、朝鮮半島は共産主義勢力と自由主義勢力とが拮抗(きっこう)するバッファーゾーン(緩衝地帯)だった。大国が直接接触する危機を避け、北朝鮮と韓国という小国同士が代理で思想戦・心理戦を繰り返す。それでも小さな軍事衝突は避けられず、世界規模の冷戦が終わってもそれは続き、その度に両陣営の心胆を寒からしめてきた。

 ≪北をいかに自死させるか?≫

 問題は、この小国たちが大国からの自立を試みたことにあった。北朝鮮は、核・ミサイルの開発に特化して、武力発展を遂げた。一方の韓国は外資を導入し、貿易に特化して、経済発展を遂げた。

 北朝鮮はその結果、国内の生産体制が崩壊して、中国の経済植民地状態に陥った。金を借りることもできず、買ってもらえる商品も作れない。米国を核・ミサイルで挑発し、中国にたかる。北朝鮮のバッファーゾーンとしての存在価値はゼロを超えてマイナスになった。北を静かに自死させるにはどうしたらよいか。今、周りの国々は密(ひそ)かにそう思い始めている。

 韓国はというと、外資占有率と貿易依存度の異常に高い国になった。利益を外国投資家に持って行かれる一方、輸出を増やして国内総生産(GDP)の半分以上を賄う。米国から金を借りて中国に商品を買ってもらう。米中のバランサーになるというのが彼らの理想だったが、現実には、どちらにもすり寄り、どちらにも内心の敵意を燃やすという一国バッファーゾーンとなった。私が前に本欄で説いた「韓国の出島化」である。

 韓国が一国バッファーゾーンとしての役割を全うするには、順調な貿易、特に対中輸出を維持するか伸ばすかしなければならない。だが、「アベノミクス」は円高を是正し、韓国のウォン安時代は終わることになる。日本製品が安くなれば、わざわざ韓国製を買う必要がなくなるのも道理である。

 また、米国は10年前から在韓米軍の削減を実行している。韓国は安全保障への米軍の関与を維持しようとし、韓国軍の指揮権引き継ぎを2015年末まで延ばしてもらった。だが、在韓米軍の撤兵は続く。代わりに、韓国の弾道ミサイル射程を800キロまで伸ばすことで米韓両国政府は合意した。

 ≪南には助けず教えず関わらず≫

 貿易面で対中依存、安保面で対米依存が減じれば、韓国は済州島の海軍基地の完成後、中国船舶を引き入れる可能性がある。バッファーゾーンであるよりもバランサーでありたいという意識が、欠損を埋めようとするからである。

 韓国の最も大きな誤認は、地図上の大国に事大主義で仕えている限り、日本を敵に回しても構わないという甘えであり、この甘えが日本の防衛、ひいては、東アジア全域の安全保障に重大な危機をもたらすということがあり得る。

 従って日本は、あくまでも韓国をバッファーゾーンに固定するように施策を練る必要がある。とりあえず、「助けない、教えない、関わらない」という3カ条で、韓国の甘えを断ち切り、バランサーが夢であることを自覚させることから始めたい。経済で困っても助けない、企画や技術を教えない、歴史問題などで絡んできても関わらない。これが日本にはなかなかできない。努力が必要である。

 「出島化」した韓国には内憂が付きまとう。大財閥がGDPの70%余を稼ぎ出し、サムスン電子が22%を占める。民族の行動パターンは李朝と同じ。財閥企業のエリートが両班(ヤンバン)であり、一般人は常民(サンノム)だ。常民はカードの束をトランプのようにし、消費して遊ぶ。彼らの家計負債はGDPの80%に達した。

 ≪日本を敵に回さぬ朴槿恵氏≫

 ヤンバン・サンノムの階級選別は大学入試という「科挙試験」で固定化され、敗者復活戦のない、希望のない差別社会が生まれ、自殺率は経済協力開発機構(OECD)諸国随一となった。次期大統領、朴槿恵氏のスローガンは「幸せな国にします!」、である。

 周辺諸国が韓国に望むのは、経済の現状維持と突出しない政治行動であり、「出島化」の推進である。これには朴氏は適任だろう。今、東アジアの政治指導者は期せずして、全員、「良いうちの子」になった。中国の太子党の習近平総書記、韓国の朴正煕元大統領のお嬢様、槿恵氏、日本の岸-佐藤-安倍家のサラブレッド、安倍晋三首相、北朝鮮金王朝3代目の王子様、金正恩第1書記。北朝鮮指導者には幼稚さの点で若干の問題が残る。韓国の次期大統領は「良いうちの子」だから、現大統領の竹島上陸のような突拍子もない行動を取り、日本国民を一気に敵に回す大見えは切らないだろう。

 今日はその「竹島の日」だ。

 北朝鮮には、金王朝発祥の地で民族の聖地である白頭山(中国領は長白山)がある。韓国には長く聖地がなかったが、日本からもぎ取った竹島を、不当にも、「独島(ドクト)」と改名して反日の聖地とした。聖地には、北でも南でも詣でる人々が引きも切らない。「ウソも通ればめっけ物」の国々である。うっかり深く付き合ったり共生したりしてはならない。』

2013年2月17日 (日)

福田恆在、知られざる「日米安保」批判 (佐藤松男 筆 正論3月号)

故福田恆在氏の未収録のインタビュー談話が掲載されていましたので、残しておきたいと思います。やはり、お見事です。

『「安保改定」の署名呼びかけが、私のところにもきたのかどうか記憶にないが、たとえきたとしても署名しない。反核の場合でも同じだ。署名運動はいっさいしない。その効果を疑問に思うし、単に世の中を騒がせる結果にしかならない。(中略)

私は最大の仮想敵国はアメリカだと思っている。アメリカは日本を国家とみていない。アメリカの一州程度にしか考えていないし、いざとなれば一州ほどにもカバーしてはくれない。ソ連の脅威というけれど、たとえソ連が日本を占領したとしても、それは日本を兵器廠にするためだろう。日本の重工業を利用するわけだ。そうなれば、アメリカは日本への猛烈な爆撃を始めるに違いない。アメリカはその程度にしか日本を見ていないと思う。

日本人は、アメリカと仲良くし、向うのいう通りにすれあアメリカが喜ぶと思っている。防衛費を何パーセント増やしました、とかいう。こんなことはくだらない。

アメリカは、日本が強大になることを望んでいない。ムダ金を使わせようとしているのだ。ライシャワーなど知日派にしても、みんなそうだ。

そういうアメリカであることを頭に入れて、原則をきちっとさせてから日米安保も考えるべきではないか。とすれば、今の安保を土台にして、多少手直しするという百人委のやり方は納得できない。安保は、アメリカに手ごめにされてできたものだ。少々内容の幅を広げようなんて、まさに「日本の誇りを傷つける」ことにならないか。

安保を考え直すなら、まず現在の安保をなくす。その上で日本の体制をきちっとさせ、日本の自主性を明確にしてアメリカと話し合う。そうしてこそ対等な関係になる。もちろん「仮想敵国」アメリカをなだめる形にしなきゃいけないだろうが。

文筆業というのは手仕事だ。しかも、ものを各人は、自分一人でその責任をつるべきだ。署名運動は、「義理で署名した」とかいっていつでも安全地帯に逃げ込むことが出来る。実際は義理で署名したのでなかったとしても。私は改憲の運動にしたって署名しない。読者を相手にして、書くことによって訴えていく』

2013年2月16日 (土)

新聞記事から (【土・日曜日に書く】論説委員・別府育郎 ハートのラブで教えるの  25.2.16 産経新聞朝刊)

ある指導者によって好転しかけた少年の人生が、別の指導者の誤った指導で転落し、更に別の若者の人生まで奪ってしまったことに、指導者の責任を思い知らされます。しかもその指導者たちは同じ武道を嗜んでいました。この話は、決して忘れまいと思います。

『 少年は小学生のころ、万引や校内暴力の非行を繰り返していた。それが中学校に入り、ぴたりとやむ。友人に誘われた柔道部で、顧問の先生と出会ったからだ。

 「先生は強くないんです。技とかは教えてもらえないけど、柔の心とか精神を教えてくれた。怒らずに、叱ってくれるんです」

 少年は後に法廷でその違いを問われ、「怒るとは感情的になること。叱るとは教え諭してくれることです」とすらすら答えた。

 少年は中学柔道の軽量級でめきめきと力をつけ、都大会準優勝の成績も残した。不仲だった両親ははちみつ漬けのレモンを持参し、応援席に並んでくれた。

 スポーツは、時に指導者は、子供や環境に劇的な変化をもたらす可能性を秘めている。

 ◆暴力

 少年は、柔道で名を知られた大学の系列高校に進んだ。当然のように柔道部に入ったが、先輩を投げると先輩に殴られ、投げられると先生に殴られた。

 投げても投げられても殴られるので、絶対に勝てない重量級の先輩ばかりを相手にしていると、「生意気だ」と殴られた。試合で先生の「引き分け」の指示を破って勝つと、やっぱり殴られた。

 補欠の先輩からは「ギョーザ耳を作ってやる」と鉄アレイを押しつけられ、練習台と称して何度も絞め落とされた。たまらず先生に訴えると、「闘志なきものは去れ」と、また殴られた。

 少年は高校を中退し、就職先もやめ、暴力団の下部組織を名乗り、後輩らと、帰宅途中の女子高校生を誘拐した。昭和から平成にかけ、40日間に及ぶ監禁、暴行の末に死なせ、ドラム缶にコンクリート詰めにして遺棄した。

 犯行の最中、少年は年下の共犯者に「中学校に帰りたい」と泣きじゃくることもあったという。

 被害者の無念を思えば、25年前の少年に同情はしない。ただ、暴力は暴力しか生まなかった。一度は学校スポーツが少年に光を当てただけに、陰湿な真逆の効果とのコントラストが残酷だった。

 ◆竹刀

 藤猛、海老原博幸、ガッツ石松、柴田国明、友利正、井岡弘樹と日本で6人の世界王者を育てたボクシングの名トレーナー、エディ・タウンゼントは昭和37年、力道山にスカウトされ、ハワイから来日した。

 当時、東京・渋谷にあったリキジムに連れて行かれ、壁に立てかけられた一本の竹刀をみつける。「何、あの棒。しまってよ。気持ち悪いよ。選手は試合で殴られ、ジムでもたたかれるの?」

 ではエディは何で教えたのか。生前に肉豆腐をつつきながら、聞いたことがある。

 「ラブよ。変なラブでないよ。セクシュアルのラブでなく、ハートのラブで教えるの。手握るの。目見るの。気持ち、通じるよ」

 事実、最後の弟子となった井岡も、一度もエディに殴られたことはないと話した。

 ただ一度、別のトレーナーにたたかれたことはあるという。エディの死後、復活して2階級制覇に成功した井岡は、さらに3階級制覇を目指してキューバ出身のイスマエル・サラスに師事した。

 世界戦を控えたスパーリングでガードが下がり、パンチを浴びると、リングに上がったサラスにいきなり平手でたたかれた。井岡は「この人は僕のこと本当に考えてくれてるんや」と思い、「ほんまにうれしかった」と話した。

 人間同士の信頼と感情の問題である。単純に割り切ることはできない。ただの暴力とは一線を画す、「愛のムチ」が存在することも、全否定はできない。

 ◆黒帯

 ロンドン五輪代表を含む女子柔道のトップ選手に対する暴力問題の責任をとり、全日本柔道連盟の吉村和郎強化担当理事と園田隆二女子代表監督が辞任した。

 選手への暴力など、あってはならない。強化指定選手15人の連名による告発など、前代未聞の異常事態といえる。

 一方で吉村には、講道学舎で古賀稔彦、吉田秀彦を育て、アテネ五輪女子柔道では女子代表監督として7階級中5個の金メダルを獲得させた実績がある。

 バルセロナ五輪で吉田は、現地入り後の稽古で先輩の古賀に重傷を負わせ、精神的にどん底の状態にあった。

 何かに頼りたかったのだろう。内股による一本の連続で金メダルに輝き、両の拳を突き上げた柔道着の黒帯に「吉村」と縫い込まれているのを、記者席で隣にいた同僚が双眼鏡でみつけた。

 先輩と自身を厳しく鍛えてくれた、師の帯とともに戦い抜いた金メダルだった。だからどうした、ということでなく、そうしたドラマもあった、ということだ。』

2013年2月 2日 (土)

武田信玄 山の巻 (新田次郎著 文春ウェブ文庫)

ついに読み終えました。著者の深い洞察力、筆力によるものと思いますが、武田信玄をはじめ戦国武将の凄さを強く感じました。私自身は、上杉謙信の方が好きだったのですが、見方が変わりました。これからも色々な書を読み、戦国時代の人びとの知恵を私自身の人生に生かしたいと思います。

『「水軍衆の考え方は、われわれ、土地にへばりついている者の考え方と著しく違っております。水軍衆のほしいものは、土地や城ではなく、海でございます。・・水軍衆にとって割のいい仕事があれば、どこの国の大将のところへでも手伝いに行きます。・・つまり水軍衆は、われわれと違って広い心を持っており、極めてものごとを割り切って考えております。

「これは、昌幸様、退任を仰せ付けられましたぞ」と云ってにっこりした。大任と口では云いながら、それほど緊張した顔を見せないのは、市川十郎右衛門の人柄そのものにも思われた。

久秀が土岐氏と武田家との縁談を持ち出した時点で、昌幸は松永久秀という人物の評価をつけていた。久秀はやりくり大名以外のなにものでもなかった。口が達者で、顔が広いことだけが取り柄である。

戦国時代における奥近習衆は、江戸時代の諸大名たちの奥近習とは違っていた。奥近習の一人真田昌幸が重要任務を帯びて長島へ行ったように、奥近習は震源の意を汲んで働く若手武将であり、また使番十二人衆は、合戦の際、部隊と部隊の間を馬に乗って走り廻って信玄の命令を伝達する信玄の代弁者のようなものであった。

・・そういう二股かけた行動は戦国時代に於いてはもっとも嫌われ、結局はどちらにも信用されずに滅びるものであるという原則が分からなかった。

城砦を一里置きぐらいに置いて防戦しようとした思想はもう古い。武田信玄の軍が信州を席巻できたのも、信濃の領主たちが小さい城砦に拠って戦おうとしたからである。このような山城や山砦で大軍を防ぐことはできあに。城を作るならばなるべく大きな城を作り、少なくとも、数十日は持ちこたえることができねば城としての意味がない。そういう事大になっていた。

このような緊急の場合は、まず騎馬隊が、現場に駆けつけて、その情況判断の如何によっては斬り込むこともあるし、敵を牽制しながら味方の本体を待つときもあった。これらの先遣部隊の任務は重要だった。下手をやると飛んで火に入る夏の虫的に全滅することもある。

・・・戦国武将で色好みでない者はなかった。逆説的には、色好みでないような武士は一国一城の主とはなれないと考えられていた。

このころ越中の国は三つの勢力に分かれた争っていた。・・

一向宗一揆と云っても、百姓一揆とは全然違ったもので、一向宗を信奉する人たちの軍団であり、指揮者はすべてそれぞれ戦の経験のある武士であり、それに従う者も、ちゃんと武装した兵であった。戦国時代の他の武装集団といささかも異なっているところはなかった。

「・・・確かに、新奇を好み、格好を気にするのは武士の本道から外れているように見えるけれど、徳川方の若手の大将たちが、武具に身を入れているという事実は、それだけ徳川方の若手大将たちの意気が盛んであり、大きな希望を抱き、益々飛躍せんとしている、旺盛なる心の動きを示すものと見るべきだと思う。・・」

「戦さに勝つには無駄をさけねばならぬ。よくよく考えて、ここが急所ぞと思うところを突かねばならない」

信玄は西上の軍を発する前に、二俣城の内部に武田に通ずる者を忍ばせていた。二俣城ばかりではなく、ここぞと思う城には、あらゆる手を使って味方を布石していた。それは今度に限ったことではなく、調略戦争こそもっとも有効だと信ずる信玄の考えを汲んで、武田の諜報機関は各地において目覚しい活躍を見せていた。信玄はこれら諸国御使者衆に使う金はおしまなかった。

信玄はこの度の西上作戦に当たっての食糧はすべて現地で調達する心構えでいた。軍行動を起こす前に、敵地を探索した際も、食糧の配在を充分に調べていた。

城を落とすと同時にその附近の人と土地を取り、兵糧について後顧の憂いをなくして、前進するやり方は、はたから見ると、少々てぬるいようであったが、この着実な前進方法は徳川家康や織田信長にとってはまことに薄気味が悪いものであった。

信玄は攻撃をはじめる前には、まず調略の手を伸ばして、相手方をがたがたにして置いてから兵を進めたが、信友もまたそのとおりのことをした。

ここには裏もないし、裏の裏もない。ただ駆け引きだけがある。駆け引きとは、時間をいかに上手に利用するかということである。

武田信玄が発令した軍法の中には 合言葉は、その日のうちに覚えさせ、間違いのないように充分練習しておくこと という項目があった。その日のうちに覚えさせよというのは、前日又は前々日に合言葉が何々であると通達しておくと、その秘密が敵に洩れる虞があるからである。だから、いよいよ、今日こそは合戦があるという日に、新しい合言葉が全軍に伝えられた。

信長は機を見るに敏なる将であった。

信玄が死に臨んで三年間喪を伏せよと遺言したのは、信玄の死と共に当然予想される外敵の反撃を恐れたからである。三年間、おとなしく持ちこたえれば、あとはなんとかなるだろうという勝頼に対する忠告であった。だが勝頼はじっとしていなかった。父信玄の死と共に反撃に出て来た、徳川、小田に対しては、勝頼自ら兵を率いて遠征した。父信玄は石橋を叩いて渡るような戦術を用いたが、勝頼は、徹頭徹尾、積極戦法を用いて・・・父信玄の在生中よりも領土を拡張した。だが、勝頼ははやり過ぎた。

私は合理的なものの考え方をする人が好きである。武将の中で、武田信玄はもっとも強くその合理性を発揮した人である。だが合理主義だけでは天下はとれなかった。宿あの肺患には、彼の合理主義を以ってしても勝てなかったのである。』

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