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2013年1月

2013年1月30日 (水)

新聞記事から (【山河有情】元検事総長・但木敬一 国益優先する宰相の孤独  25.1.30 産経新聞)

この方のコラムについては、浅すぎて今後読む価値はないと思いました。悪口を言うようで申し訳ないですが、私自身の覚書として、今後のために残しておきたいと思います。以後、このブログ以外では私はこの人の文を読むことはないでしょう。このブログをお読みの方はご自身の判断でどうするかお決めください。

『昭和20(1945)年4月5日の夜、海軍大将、枢密院議長鈴木貫太郎男爵に、組閣の大命が下った。鈴木大将は、戦争を早期に終結させたいと願っておられる陛下の気持ちを察したうえで、自分の任期のうちに戦争終結を実現するという強固な意志の下に、総理大臣に就任した。

 他方、戦況は日に非なりと言わざるを得ず、東京大空襲はじめ各地の空襲も激しさを増し、本土決戦も間近に見える事態となっていた。同年7月26日、米、英、支(中華民国)の3首脳の名を以(もっ)て、ポツダム宣言が発せられた。わが国の首脳部の意見は同宣言を手がかりとして戦争終結に結び付けるべきであるとする意見と断固たる反対意見を表明すべきだとする意見に分かれた。それでも軍部の反発に配慮し、総理が記者会見で「黙殺」と言わざるを得ず、後の原子爆弾投下やソ連の対日参戦の一因となったという(迫水久常著「機関銃下の首相官邸」)。

 軍部が主張する戦争完遂は、本土決戦・一億玉砕を意味し、到底これを取ることはできない。軍部から不信を買えば総辞職せざるを得ず、戦争終結の目的を達することができない。軍と政府、軍内部の対立によって国内で流血を招くことは絶対に避けなければならない。これほど狭く険しい道を鈴木総理は、耐えに耐えて上り切った。8月14日午後11時終戦の詔書の発布手続きを終え、翌日内閣は総辞職した。志士仁人は「身を殺して以て仁を成すことあり」(論語)というが、鈴木総理はまさにその一人であったといえよう。

 私は、ふと、先の野田佳彦総理の行動原理を考えた。平成23年9月に誕生した野田総理には、2つの選択肢があった。党内論議を継続するとして消費税問題を棚上げにするか、党内分裂を恐れず消費税問題に決着をつけるかである。野田総理は後者を選んだ。以降離党者は続出し、政府・党の役職を離れるものも少なくなく、翌24年6月、社会保障と税の一体改革関連法案を審議する衆議院本会議では70人を超える民主党議員が造反し、党は分裂するに至る。同年8月、参議院の審議に先立ち、小沢新党をはじめとする野党が衆議院で内閣不信任案を上程したため、自公両党の協力を求めざるを得なくなり、両党首に「近いうちに国民に信を問う」と約束することとなった。法案は成立し、日本国債に対する世界の信頼をつなぎ留めることはできたが、党は分裂し、総理の求心力は著しく低下し、民主党は国民の支持を失った。11月初めには内閣支持率が20%を前後するようになり、政党支持率も10%台前半で自民党に大きく水をあけられる状況となった。解散すれば、惨敗は目に見えており、民主党内は解散反対の大合唱となった。ところが総理は、党首討論の席上、突然2日後の解散を予告した。3年前の総選挙で得た308の議席は、今回の総選挙の結果、57議席にまで激減した。民主党にとっては悪夢のような結果であったが、政治的空白には終止符が打たれた。

 野田総理に対する毀誉褒貶(きよほうへん)は多々あろう。しかし国と国民の命運を託された者は、己を捨て党を捨て、国益を優先させるのが本筋ではなかろうか。時代は異なり、向き合った問題は全く異質であるが、鈴木総理と共通する宰相の孤独に救われる気がする。(ただき けいいち)』

2013年1月28日 (月)

新聞記事から (【“体罰”こう思う】(1)弁護士・北村晴男さん(56) 産経新聞25.1.28)

私も小さいころ、クラブの先生にたたかれました。当時はそういうことは強いチームでは珍しいことではなく、そういうものだと思っていました。しかし、大人になってからは、この北村氏がいっているように、口で説明、指導してわかることならそれですませるべきだと思います。手を挙げるのは、気が抜けているとき、わざと反抗しているとき、なめているときなどで、そういうときでも最低限に抑えるべきです。手を挙げることが有効なのは、指導する方とされる方の信頼関係が強固でなければ、逆効果になりかねないと思います。

『 ■チーム力を上げるとは思えない

 --北村さんは県立長野高時代、野球で甲子園を目指した。桜宮高の体罰問題をどう考える

 「思うところはたくさんある。自分の経験から言うと、僕のときの監督は廣岡信三さんという陸軍の軍医経験者で、軍隊式のスパルタ。にもかかわらず、体罰は一切なかった。監督にもコーチにも上級生にも殴られたことは一切なかった。今でも覚えているのは、練習試合の対戦相手の監督が試合中、ずっと選手を殴っていた。それを見て、『こんなチームには絶対に負けられない』と思った。俺は殴られて指導されなきゃいけないようなチームにはいない。高校生ながらそういうプライドは持っていた」

 「だから、いまだに選手を殴るなど、よほど指導力がないんだと僕は思う。相手の心に響く言葉を持っていないということですから。(桜宮高は)体罰以外の練習が良かったのであり、プラスアルファの体罰がチーム力を上げたとは思えない」

 --罰として何かを課されることは

 「全くなかった。監督は試合で弱気な選手には怒った。でも、手は出さない。怒鳴られれば分かる」

 --厳しい中でも指導の目的は理解していた

 「一応ね。嫌だけど(笑)。負ける悔しさを忘れたら、また怠けて勝てない。特に長野高みたいに特別良い選手が集められない学校で勝とうと思えば、練習量しかない。『下手なんだから練習するしかない』『あんなに練習したんだから同じ高校生には負けない』。そう思った。3年の夏、県予選の準々決勝で負けた(対長野工、5対7)とき、監督は『もうお前たちは甲子園には行けない。だが、人生は長い。だから、ここで学んだことを生かして人生の甲子園に行け』と。あの言葉は忘れられない」

 --長男の晃一さん(28)は桐光学園(神奈川)で甲子園に出場した

 「息子の野球もこれまた厳しかったけど、体罰など絶対なかった。あったら息子は絶対に言う。甲子園を目指すチームだから、科学的で合理的で、かつ過酷なトレーニング。冬合宿ではまともに歩けないくらい体を追い込む。でも、筋トレや動体視力の向上、メンタル面もそれぞれトレーナーがついていて、僕たちがやったよりはるかに合理的。そんなチームの監督が選手を殴るわけがない」

 --体罰が「ときには必要」という意見もある

 「信じられない。馬や猿は体を打って調教するのだろうが、それは自分の力、意思で納得して取り組むだけの知能がないから。人間は自分が何のためにそこに入って、何を目指し、何が必要なのかを自分で考える知性がある」

 「大阪の橋下(徹)市長も(自殺した生徒の)遺族に会うまで体罰を容認する発言をしていたらしいが、理解し難い。高校ラグビーで全国大会に出たのに。遺族に会って考え変わったらしいけど、当たり前ですよ」

 --父として子供たちに手を上げることは

 「正直、ありました。僕は尻をたたくと決めていた。でも、小学3、4年以降は話せば分かるし、幸い、そんなに悪いことはしなかったからそれ以降はない。でも、人間として許せんということがあれば、たたいたかもしれない。なくてよかった」

 「僕は生徒指導という現場の経験がない。犯罪に手を染めるような子がいたとして、それを教師が愛情から手を出したとする。それが本当に悪いことなのかどうか、確信が持てない。だが、スポーツ指導という場面は犯罪とは無縁。ミスをしたり、集中力を欠いたりしている子がいたら、原因を分析して答えを示すのが指導者だと思います」(戸谷真美)』

2013年1月25日 (金)

新聞記事から (正論平和安全保障研究所理事長・西原正 「河野談話」をより正確なものに 25.1.25産経新聞)

まったく適切な意見だと思います。戦後アメリカが多くの性犯罪を起こしたことの記憶が今でも地方での米軍アレルギーにつながっているでしょうし、韓国などはベトナムでどんなにひどいことをしたのでしょう。また韓国は今でも日本に多くの売春婦などを送り込み、日本の風俗、衛生状況を悪くしているくせに偉そうにいうな、と言いたいです。このようなことを声高に云うのは品がないので日本人が我慢しているのをいい気になっているこのような国とは深い付き合いは不要です。いずれ思い知らせたいと思っています。しかし、この西原正氏は私と違って節度を持った意見を述べられています。政府にはぜひ参考にしてもらいたいものです。

『安倍晋三首相の訪米は2月中旬になった。約3年ぶりに自民党政権が復活したのであるから、今回の訪問では、民主党政権時代に後退した日米同盟関係を再構築する素地を作ってもらいたい。

 ≪訪米で足すくわれないために≫

 しかし、首相訪米時に、首脳会談では出なくても記者会見などでほぼ確実に出てきそうな問題は、首相の河野談話、村山談話の見直し発言に関することである。扱いを誤ると、安倍政権に対する米社会の態度、感情は冷淡となり、米政府自体の対日関係をも極めて難しくしてしまう。このことは、安倍政権ができてからの米国側の反応を見ても明らかである。

 安倍首相は、内閣発足4日後の12月30日に産経新聞との会見で、村山談話(1995年)からしばらくになることに触れて、「私は21世紀にふさわしい未来志向の安倍内閣としての談話を発出したいと考えている」と述べた。

 これに対し、米紙ニューヨーク・タイムズは本年1月3日付の社説で、「朝鮮などの女性を強姦(ごうかん)、性奴隷にし、第二次世界大戦で侵略したことへの謝罪の見直しを示唆した」とし、「戦争犯罪を否定し、謝罪のトーンを弱めるどのような試みも、韓国や中国、フィリピンなど、戦時中の日本の野蛮な行為で苦痛を受けた国々を激怒させるだろう」と非難した。

 オバマ政権高官も、河野談話の見直しに関し日本側に非公式に懸念を伝えた、と報じられた。「いくつかの歴史問題は歴史家に任せるべきだ。政治的なテーマとなれば、予期せぬ否定的な結果につながる」と語ったという。

 ニューヨーク・タイムズ紙はリベラルな傾きで知られているが、この問題では特に近年の韓国と在米韓国系市民による巧みな画策の影響を受けているようだ。

 韓国系人口が多い所では、選挙資金などを提供して、連邦議会、州議会、市議会などに「子飼い」の議員を増やし、慰安婦問題で日本に謝罪を求める決議を採択させている。韓国系市民の支持を受ける連邦議員たちは2007年、旧日本軍からインドネシアで過酷な性的扱いを受けたオランダ人女性を米下院で証言させて同年7月に慰安婦非難決議を採択させた。ニュージャージー州などの複数の都市に慰安婦像も建ち始めた。

 ≪捏造「慰安婦」信じる米社会≫

 今や米国人の多くは、「20万人のアジア人女性が日本軍に強制連行されて従軍させられ、むごい性強要を受けた」という、慰安婦話を信じている。これは韓国で捏造(ねつぞう)された歴史である。だが、日本側が「20万人の根拠はない」「強制連行は根拠が薄い、大半は売春婦か貧困家庭からの身売りだった」と主張しても、多くは日本人を見下げたように批判する。腹立たしいが、それが現実である。

 安倍首相は訪米時、河野談話における軍関与や強制性を全面否定する発言は控えるべきだ。「河野談話をより正確なものにしたい」といった表現が望ましい。

 河野談話には、不適切で信憑(しんぴょう)性が疑われる表現がある。「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった」などである。本当に全ての慰安所がそうだったのか。国内には、これを否定する文献もある。慰安婦は長期間軍隊とともに移動したので兵隊と個人的関係ができ、衣類の洗濯を手伝う者がいたとか、兵隊の運動会に慰安婦も参加し一緒に楽しんだという話もある。

 安倍首相は河野談話見直しに際しては、有識者の見解を聞きながら進める考えを示している。慰安婦の強制連行(軍の関与)と性強要という点で、従来よりも客観的でバランスの取れた史実の収集を目指す努力が必要である。

 ≪相手の偽善的姿勢の批判も≫

 首相周辺には、軍関与はなかったと河野談話を否定する向きもあるが、「慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した」という説明は事実であろう。慰安婦の衛生(特に性病)に関しては軍が管理していた。その意味で、軍の関与を否定する見解には無理があるのではないか。

 戦争は常に「性と暴力」の問題を伴う。ベトナム戦争で韓国軍がベトナム女性に行った非情の行為を、韓国や米国はどう見るのだろうか。慰安所設営や慰安婦の衛生における軍の関与もまた、しかりである。米軍当局が第二次大戦後に日本政府に対し、また朝鮮戦争の後に韓国政府に対し、慰安所を斡旋させたことなども指摘すればよい。要は、韓国や米国が日本だけを取り上げて非難する偽善的姿勢を批判することである。

 菅義偉官房長官も1月4日のマスコミとのインタビューで、「21世紀にふさわしい、未来志向の新たな談話を考えたい」と述べている。そうした談話で、慰安婦問題を広い視野から捉える、新鮮な見解を示すことが望ましい。

 「安倍談話」により、日本人が誇りをもって、日米関係および日本とアジア諸国との関係の強化に臨めることを期待したい。』

2013年1月24日 (木)

新聞記事から (チェンジアップ ルーキーよ まず汗かこう 豊田泰光 日経新聞25.1.24)

スポーツ欄ですが、心に残るコラムでした。

『・・引退したばかりの金本知憲が阪神の新人に授けた言葉は本当によかった。「ユニホームを着てまだ何もしていないのに、新聞に大きく載るのは恥ずかしくないか」。プロになっただけで、いっぱしに新聞衣取り上げられる。しかし、それで思い上がっちゃいかにょ、というのだ。取り上げるのはマスコミで、当人らに罪はないとはいえ、それでつぶれる選手は少なくない。

・・19日に亡くなった大リーグの名選手、スタン・ミュージアル死への追悼の意を込めて、その名言を若い人たちに紹介しておこう。・・来日したのは1958年秋。間もなく38歳になろうという大ベテランに打撃の極意を尋ねるとこう語った。「若いうちは力が打たせてくれる。年を取ったら技術が、最後は経験が打たせてくれる」。年相応の打撃があるのだから、焦って先を急ぐなよ、というのだ。これは人生そのものにも応用できる。野球を辞めてから、私は何度この言葉にはげまされたことか。』

2013年1月 3日 (木)

樅ノ木は残った(下) (山本周五郎著 新潮社)

一気に読めました。悲しくも、爽やかさのある読後感でした。

『「蜂の巣を突くようなものだ」と甲斐が云った、「そんなことを云ったところでなんの役にも立たないし、却って身に禍が返ってくる、・・・」

「この世には、おのれと同じ人間はいない、おまえの場合とは違うが、人はみな、誰にも理解されない絵を、心の中に持っているのではないか」

・・それらの絵は、人に見せることもできないが、決して悪評されることもない、それでいいのだ、と甲斐は思った。 --それが事実なのだ。 人は誰でも、他人に理解されないものを持っている。もっとはっきり云えば、人間は決して他の人間に理解されることはないのだ。親と子、良人と妻、どんなに親しい友達にでも、--人間はつねに独りだ。

「人間はみな自分が可愛い」と安芸が云った、「大藩は大藩なりに、わが身が大事と思うのであろう、結束すれば大きな力となるものを、対岸の火事に水を貸さず、やがておのれも孤立することに気づかぬのだ」

・・侍というものは、自分や自分の家族よりも、仕える主君や藩のほうが大事なんだ。おまえも武家に生まれたそうだし、おれも侍だった。けれども、おれたちにはあんな生き方はできない。あの人たちからみれば、おれやおまえは堕落した賤しい人間だろう。おれたちからみれば、あの人たちはどこかで間違っている、この世にありもしないもののために、自分や家族をいさんで不幸にしている、というように思える。つまり世界が違うんだ、そして、おれやおまえは、こっちのこの世界で生きるように、生まれついているんだ。

「世間にはどう伝えられましょうとも、自分の死ぬことに少しでも意義があり、多少でもお役に立ったと、知って下さる方があれば満足です。丹三郎はそう申しておりました」甲斐は無表情に頷いた。

人間は誰しも死を怖れる。死そのものを怖れない人間でも、臨終の一瞬は怖ろしい。臨終の苦痛が頭を悩乱させる一瞬は、生死を超脱した者でもあらぬふるまいをしやすいものだ。

--そのほうが人間らしくないか。 少なくとも、新八のためにはこのほうがふさわしく、人間らしい。芸を伸ばしてゆくには、多くの苦しみや貧困を経験することだろう。しかし、それは他の人のためではなく、彼自身のためである。

「それは逭(のが)れることのできないものですか」と主水が初めて口をきった、「なにか逭れる方法はないのですか」 「一つだけある」 「うかがわせてください」 「耐え忍び、耐えぬくことだ」 

「--意地や面目を立てとおすことはいさましい、人の眼にも壮烈にみえるだろう、しかし、侍の本分というものは堪忍や辛抱の中にある、生きられる限り生きて御奉公をすることだ、これは侍に限らない、およそ人間の生きかたとはそういうものだ、いつの世でも、しんじつ国家を支え護(もり)立てているのは、こういう堪忍や辛抱、--人の眼につかず名もあらわれないところに働いている力なのだ」

--これは耐えがたく辛いことだ。 裏切るために人の好意や信頼をつなぎとめるということは辛い。おれはそういう辛さを五年あまりも続けてきた。この年月、自分に課せられた義務と、裏切ることの罪悪感との板挟みになっている苦痛が、どんなに耐えがたいものであるか、知っている者は一人もないだろう。そして、おれがどれほど平常で安穏な生活を求めているかということも。そうだ、と玄四郎は心の中で、訴えるようにつぶやいた。おれは平安で静かなくらしがしたい、この感じは手で撫でることができるほどはっきりしている。・・こんな生活からぬけだしてしまいたい。・・「おれ一人ならこの瞬間にでもそうするだろう」玄四郎は声に出して呟いた、「おれ一人なら、--だがあの方がいる、あの方はおれなどとは比べようもないほど、苦しい、困難な立場にいるのだ、・・」・・--こういうとき侍に生れ、おれのような主人をもったのが不運だった、おれを憎め、おれを恨め、だが役目だけははたしてくれ。 常にない激しい表現で、甲斐はそう云ったのだ。今日まで玄四郎を支えてきたのも、その言葉と、言葉ではあらわせない甲斐の苦衷を知っているからであった。』

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