新聞記事から (【山河有情】元検事総長・但木敬一 国益優先する宰相の孤独 25.1.30 産経新聞)
この方のコラムについては、浅すぎて今後読む価値はないと思いました。悪口を言うようで申し訳ないですが、私自身の覚書として、今後のために残しておきたいと思います。以後、このブログ以外では私はこの人の文を読むことはないでしょう。このブログをお読みの方はご自身の判断でどうするかお決めください。
『昭和20(1945)年4月5日の夜、海軍大将、枢密院議長鈴木貫太郎男爵に、組閣の大命が下った。鈴木大将は、戦争を早期に終結させたいと願っておられる陛下の気持ちを察したうえで、自分の任期のうちに戦争終結を実現するという強固な意志の下に、総理大臣に就任した。
他方、戦況は日に非なりと言わざるを得ず、東京大空襲はじめ各地の空襲も激しさを増し、本土決戦も間近に見える事態となっていた。同年7月26日、米、英、支(中華民国)の3首脳の名を以(もっ)て、ポツダム宣言が発せられた。わが国の首脳部の意見は同宣言を手がかりとして戦争終結に結び付けるべきであるとする意見と断固たる反対意見を表明すべきだとする意見に分かれた。それでも軍部の反発に配慮し、総理が記者会見で「黙殺」と言わざるを得ず、後の原子爆弾投下やソ連の対日参戦の一因となったという(迫水久常著「機関銃下の首相官邸」)。
軍部が主張する戦争完遂は、本土決戦・一億玉砕を意味し、到底これを取ることはできない。軍部から不信を買えば総辞職せざるを得ず、戦争終結の目的を達することができない。軍と政府、軍内部の対立によって国内で流血を招くことは絶対に避けなければならない。これほど狭く険しい道を鈴木総理は、耐えに耐えて上り切った。8月14日午後11時終戦の詔書の発布手続きを終え、翌日内閣は総辞職した。志士仁人は「身を殺して以て仁を成すことあり」(論語)というが、鈴木総理はまさにその一人であったといえよう。
私は、ふと、先の野田佳彦総理の行動原理を考えた。平成23年9月に誕生した野田総理には、2つの選択肢があった。党内論議を継続するとして消費税問題を棚上げにするか、党内分裂を恐れず消費税問題に決着をつけるかである。野田総理は後者を選んだ。以降離党者は続出し、政府・党の役職を離れるものも少なくなく、翌24年6月、社会保障と税の一体改革関連法案を審議する衆議院本会議では70人を超える民主党議員が造反し、党は分裂するに至る。同年8月、参議院の審議に先立ち、小沢新党をはじめとする野党が衆議院で内閣不信任案を上程したため、自公両党の協力を求めざるを得なくなり、両党首に「近いうちに国民に信を問う」と約束することとなった。法案は成立し、日本国債に対する世界の信頼をつなぎ留めることはできたが、党は分裂し、総理の求心力は著しく低下し、民主党は国民の支持を失った。11月初めには内閣支持率が20%を前後するようになり、政党支持率も10%台前半で自民党に大きく水をあけられる状況となった。解散すれば、惨敗は目に見えており、民主党内は解散反対の大合唱となった。ところが総理は、党首討論の席上、突然2日後の解散を予告した。3年前の総選挙で得た308の議席は、今回の総選挙の結果、57議席にまで激減した。民主党にとっては悪夢のような結果であったが、政治的空白には終止符が打たれた。
野田総理に対する毀誉褒貶(きよほうへん)は多々あろう。しかし国と国民の命運を託された者は、己を捨て党を捨て、国益を優先させるのが本筋ではなかろうか。時代は異なり、向き合った問題は全く異質であるが、鈴木総理と共通する宰相の孤独に救われる気がする。(ただき けいいち)』