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2012年12月

2012年12月30日 (日)

樅ノ木は残った(中) (山本周五郎著 新潮社)

休みに入り、一気に読めました。

『--だがおれは好まない。国のために、藩のため主人のため、また愛する者のために、自からすすんで死ぬ、ということは、侍の道徳としてだけつくられたものではなく、人間感情のもっとも純粋な燃焼の一つとして存在してきたし、今後も存在することだろう。                 --だがおれは好まない、甲斐はそっと頭を振った。たとえそれに意味があったとしても、できることなら「死」は避ける方がいい。そういう死には犠牲の壮烈と美しさがあるかもしれないが、それでもなお、生き抜いてゆくことには、はるかに及ばないだろう。

「小野は病状が危篤だというだけで、まだ死んではいないし、ことによるともち直して恢復するかもしれない、これは小野に限ったことではなく、人間はみな同じような状態にいるんだ、まぬがれることのできない、生と死のあいだで、そのぎりぎりのところで生きているんだ」

「・・刺客というものには、多くのばあい煽動者がある、なにが真実であるかをみきわめる能力がなくて、血気にはやる人間は少なくない、そういう者はたやすく人に動かされ、すぐ壮烈な気分になって、どんなことでもやってのけるものだ」

「いま話した俗書の俗話を、土産に持ってゆくがいい、人は壮烈であろうとするよりも、弱さを恥じないときのほうが強いものだ」』

2012年12月28日 (金)

樅ノ木は残った(上) (山本周五郎著 新潮社)

藤沢周平をある程度読んできましたが、今度は山本周五郎を読んでみました。歴史小説を読むときの視点が変わってきた気がします。

『「宇乃、この樅はね、親やきょうだいからはなされて、ひとりだけ此処へ移されてきたのだ、ひとりだけでね、わかるか」 宇乃は「はい」と頷いた。 「ひとりだけ、見も知らぬ土地へ移されてきて、まわりには助けてくれる者もない、それでもしゃんとして、風や雨や、雪や霜にもくじけずに、ひとりでしっかりと生きている、宇乃にはそれがわかるね」 「はい-」 「宇乃にはわかる」と甲斐は云った。彼はふと遠いどこかを見るような眼つきをした。

刺すような冷たい風に、衿をかき合わせながら、宇乃はちらと庭の向うを見た。高廊下へ出ると、必ずそうするのが癖になったようである。樅の木は静かに立っていた。そこは風が当たらないのだろうか、かなり強く吹いているのに、甲斐の樅は枝を張ったまま、しんと、少しも揺れずに立っていた。

世の中に生きてゆけば、もっと大きな苦しみや、もっと辛い、深い悲しみや、絶望を味わわなければならない。生きることには、よろこびもある。好ましい住居、好ましく着るよろこび、喰べたり飲んだりするよろこび、人に愛されたり、尊敬されたするよろこび。---また、自分に才能を認め、自分の為したことについてのよろこび、と甲斐はなおつづけた。生きることには、たしかに多くのよろこびがある。けれども、あらゆる「よろこび」は短い、それはすぐに消え去ってしまう。それはつかのま、われわれを満足させるが、驚くほど早く消え去り、そして、必ずあとに苦しみと、悔恨をのこす。人は「つかのまの」そして頼みがたいよろこびの代わりに、絶えまのない努力や、苦しみや悲しみを背負い、それらに耐えながら、やがて、すべてが「空しい」ということに気がつくのだ。』

2012年12月23日 (日)

武田信玄 火の巻 (新田次郎著 文春ウェブ文庫)

この巻も読み応えがありました。

『目付、横目は現代的に云えば憲兵と同じ組織であった。目付、横目は独立機関として領主の配下にあって家臣の行動を取り締まる役目であった。

織田信長はあたかも、属国であるかのごとき恭順さを以て信玄に臨んでいた。信玄が、東海道に進出するのを恐れていたのである。信玄の動きを警戒しながら、この贈物戦術に出ていたのである。

「勝頼、戦さにかかる前にひとこと云って置くが、大将というものは、自ら戦さの渦中に入ってはならぬ。全体の動きをじっと見ていて、適切な指示を与えるのが大将であることを忘れたはならない。大将自らが武器を取って敵と渡り合うということは敗け戦さのときだけだ。仮にも、武勇にはやって、敵の前に飛び出すようなことをしてはならぬぞ。」

「・・人の心に区別がないが、考え方によって区別が生ずる。未知の世界が恐ろしいと思う人の心は、その恐ろしい世界に迷い込み、未知の世界にはなんのおそるるものがないと思えば、その世界は花園のようになる」

「あきらめるというのは捨てることではない。どうでもいいと投げ出してしまうことでは決してない。俗体の世をあきらめるということは、俗体の世に起きたことに、こだわっていてはならないということである。俗体の世から離れるときには、俗体の世のことは考えずに、新しい世界のことだけを考えていればよいのである。・・」

(戦さは金によってどうにでもなる。金がなければ絶対に戦さには勝てないものだ。)

戦局は膠着状態になったが、長期対戦になると補給路の長い武田側が不利であった。・・持久戦になると、この補給路破壊作戦の如何によって勝負は決するのであった。

この文章を読むと、信玄は泣き言を言っているようである。泣き言を云うほど追い込まれた状態ではなかったが、信玄はこの文章に見られるように、時と場合によっては、このような文章を書いて送って、相手の心を動かそうとしたのである。心理的効果を狙った外交策船の一裏面であった。

今川氏真は二度と再び、駿府城へ帰ることはできなくなっていたのであった。氏真が凡庸だったということもあったが、氏真を守り立てるべき今川家の家臣団がしっかりしていなかったことが、今川家の崩壊を速めたのである。

氏真の眼は、決して凡庸の眼ではなかった。剣を教え込めば一流の剣士となり、書を読ませれば一流の学者となる眼であった。凡庸どころか、あるいは父の今川義元より勝れた人間になったかもしれない。その彼に暗愚という名を張りつけたのは誰であろうか。暗愚だといわれるように仕向けたのは誰であろうか。中井将監は心にうすら寒いものを感じた。・・蹴鞠だけが彼の人生であるかの如くにしむけたのは今川家の家臣たちだった。領主を暗愚にしておいた方が、都合がよかったからである。勝手なことが出来るからだった。・・その結果、今川家は亡びた。

晩年の氏真は長い苦労の末に身についた、なにかしらの人生観を持っていたようである。それは、他人は当てにならないものという悟りだったのかもしれない。

信玄は戦地によく工事奉行を連れて行った。戦さをするためにではなく、その土地を検分させるためであった。信玄の頭の中には、戦いのすぐ後にくる、治安と経営があった。新しく手に入れた土地に新しい政治をするためには、工事奉行の知恵を借りねばならなかった。ただ戦いに勝って、領土を拡張するだけでは、ほんとうに占領したことにはならないと考えていた。

「わからないのか、いやわかりにくいときには、まず幾つかの疑問点をあげて、その一つ一つを消していけば、最後にのこるこものが真実に近いものとなる」氏康はそう云うと、祐筆に向かって、顎をしゃくった。

「・・・総大将の自信が一兵卒にまでいきわたったときは恐ろしい力を発揮するものだ」氏康が云った。

北条氏の諜報網は、北条早雲の時代から、他の両国支配者と違った方法を取っていた。隣国に浪人、僧、商人などに変装した間者を送り込むような方法は比較的少なく、隣国の要所要所に、世襲の間者を置く方法を取っていた。外見的には間者らしいところは毫もない商人や百姓が、実は親代々の北条の間者であることが多かった。これらの据え置きの間者には、目立つような諜報活動はさせなかった。いつものとおりの生活を営んでいて、ふと眼に触れ、耳に入ったことを、その組織の組頭に通報するだけでよかった。

・・徒歩はほとんど農民であり、郷士であった。当時は、原則として出征の際の食料は個人負担であったから、彼等徒士の衆は少なくとも一か月間の食料としての、干飯、米の粉、麦の粉、蕎麦粉などを各自の名前を記した袋に入れて背負い、槍を担いで、集合地へおもむいて行ったものである。

「・・人にはそれぞれ天命というものがある。いかにして、その人に与えられた天命をまっとうするかというところに生きる意義がある。美濃守、わかるかな、急がねばならない時には急がねばならない」

当時の戦いは、まず鉄砲の撃ち合いから始まり、次に弓、そして槍を持った足軽を従えた騎馬隊が入り乱れての乱戦という段取りになっていた。

検使は、一種の軍目付でもあり、軍監でもあったが、いざ大将が倒れると、大将に代わって検使が指揮を執るというところが、武田信玄の立てた特殊な軍法であった。

古来大会戦、大合戦が行われた場合、多くの死傷者がでるのは、負け戦と決まった直後の状態の如何である。川中島の大会戦がそうであった。上杉軍は犀川を渡って敗走するときにもっとも多くの死傷者を出した。』

2012年12月 9日 (日)

八日目の蝉 (角田光代著 中央公論社)

書評を読んで、興味をもち読んでみました。母と子の描写が素晴らしく、自分に子供がいるからかもしれませんが、子が小さかったころの情景が頭に浮かんできました。自分は父親ですが、一人の母親の気持ちを少し理解できた気がします。

『女たちって、うまくいっているときは本当におだやかにうまくいくけどさ、何かあるとばらばらになったりもするでしょ。

「前に、死ねなかった蝉の話をしたの、あんた覚えてる?七日で死ぬよりも、八日目に生き残った蝉のほうがかなしいといって、あんたは言ったよね。私もずっとそう思ってたけど」千草は静かに言葉をつなぐ。「それは違うかもね。八日目の蝉は、ほかの蝉には見られなかったものを見られるんだから。見たくないって思うかもしれないけど、でも、ぎゅっと目を閉じてなくちゃいけないほどにひどいものばかりでもないと、私は思うよ」

その姿に、希和子は十八年前の自分たちを重ねる。素麺店から歩いた夏の日、ここにとどまろうと決心させた海と陽射し。にぎやかなお祭り、綿菓子を分けてくれた薫。いくつものちいさな祠と、海から吹くひんやりした風。希和子はいつの間にか記憶の中に立ち尽くしている。

年齢を重ねるにつれ、そこから一歩ずつ前進した気はしています。人が嘘をつくのは、守りたいものがあるから。嘘という悪の大もとには絶対的な善がある。そう考えるようになりました。』

2012年12月 8日 (土)

新聞記事から (【賢者に学ぶ】哲学者・適菜収 政治家の資質について 24.12.7 産経新聞朝刊)

やはり古典には含蓄があります。

『政治家になるべき人間の資質について、きわめて明瞭に語りつくしたのがマックス・ヴェーバー(1864~1920年)の講演録『職業としての政治』である。

 政治家は権力を扱う職業だ。その権力は「国家による正当な物理的暴力行使の独占」に支えられている。こうした特殊な職業にはどのような倫理が求められるのか?

 政治家は情熱、責任感、判断力の3つを持つべきだとヴェーバーは言う。情熱とは興奮ではなく現実に向かい合う熱意である。現実をあるがままに受け止め、事物と人間に対して距離を置いて判断する。こうした熱意と冷静さを一つの魂の中で結びつけることが政治家の仕事である。

 一方、政治家になってはいけないのは「距離を見極めることができない人間」だ。彼らは革命、改革といった派手な言動に酔い、虚栄心に溺れ、過去の判断に責任をとらない。こうした「権力を笠(かさ)に着た成り上がり者の大言壮語」「知的道化師のロマンティズム」「権力に溺れたナルシシズム」こそ政治を堕落させるのである。

 加えて言えば、彼らは幼稚である。政治に必然的に付随する悲劇性、現実世界の不条理が理解できないがゆえに、そこから目を逸(そ)らし単純な正義を声高に叫ぶ。

 ヴェーバーは言う。

 「善からは善のみが、悪からは悪のみが生まれるというのは、人間の行為にとって決して真実ではなく、しばしばその逆が真実であること。(中略)これが見抜けないような人間は、政治のイロハもわきまえない未熟児である」

 無差別的な愛の倫理を貫けば「悪しき者にも力もて抵抗(てむか)うな」となるが、政治家に求められる倫理は逆である。彼らは暴力の行使により「悪しき者」に抵抗する義務を持つ。さもなければ、悪の支配の責任を負わなければならない。そうである以上、政治家が単純な平和主義を唱えるのは犯罪行為に近い。

 正しい選択がよい結果を生み出すとは限らない。にもかかわらず、政治家は信念を持って判断を下さなければならない。こうしたジレンマをどう乗り越えればいいのか?

 それは判断の結果に全責任を負うことである。「この世のいかなる倫理であっても、多くの場合において『善き』目的を実現するには、倫理的にいかがわしい手段や、少なくとも倫理的に危険な手段を利用せざるをえない」とヴェーバーは言う。そこには「悪しき副産物」が発生する可能性もある。政治を職業として行う者は、この「倫理的なパラドックス」を考慮に入れた上で、「それにもかかわらず!」決断を下すしかない。全体を見据えて現実に踏みとどまり、責任逃れの回路を自ら断つ人間。そして責任倫理に従って行動する人間。ヴェーバーは政治家になるべき「成熟した人間」をこのように規定した。現在わが国に蔓延(はびこ)るのはこれと正反対の心情である。大言壮語で世情に阿(おもね)り、失政に対する自己弁護と責任転嫁に奔走する政治家、非現実的な理想論を声高に叫ぶポピュリスト、平気な顔で前言を翻すデマゴーグ…。彼らが離合集散を繰り返せば、悪の支配を準備することになる。ちょうどこの講演が行われた1919年のドイツのように。』

2012年12月 4日 (火)

新聞記事から (【古典にポッ~エロし グロし~】世間胸算用 大成する子の学び方とは  24.12.4 産経新聞夕刊)

なるほどなあ、と思いました。

『井原西鶴の『世間胸算用』巻五には、将来、金持ちになる子とそうでない子の性格が描かれる。ある人が息子を九歳から十二歳の終わりまで手習いに行かせていた。息子はその間、人の捨てた分まで筆の軸を集めてすだれを作成、十三の春、三つ売って初めて金もうけした。“我が子ながら只ものにあらず”と思ったその人はうれしさのあまり、手習いの師に語ったところ、師は言った。

 「私はこの年まで数百人の子どもを預かり見てきたが、あなたの子のように気がつき過ぎる子で、のちに金持ちになった例はない。といってまた物乞いをするほどの身にもならぬもので、中より下の暮らしをするものだ」

 師が言うには、ほかにも、使い捨てた反故(ほうぐ)の皺(しわ)を一枚一枚伸ばして屏風(びょうぶ)屋へ売ったり、紙が足りない子に自分の紙を利子付きで貸し、わずかなもうけを出したりする子がいるが、それは皆、親の“せちがしこき”(勘定高い)性質を見習ってのことで、自分の創意工夫ではない。そんな中、一人の子は「ほかのことは何も考えず手習いに精を出せ」との親の言いつけを守り、兄弟子(あにでし)にまさる能書になった。こういう子が金持ちになる。

 「年の幼い頃は花をむしったり凧を揚げたりして遊び、知恵のつく年頃になったら十分教育して将来の基礎を作るのが人の常道だ」というのだ。

 果たして軸すだれを売るなどしていた者たちは、大人になると、さまざまに稼ぐほど落ちぶれる一方、手習いだけに精を出していた者は、江戸へ送る油が寒中にも凍らぬようにしたいと考え、樽に胡椒(こしょう)を一粒ずつ入れることで解決、多額の利益を得た。

 幼年時代は存分に遊び、学ぶべき時は一心に学ぶ。それができる者が大成するとは、今に通じる教えだろう。(エッセイスト 大塚ひかり)』

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