この巻も読み応えがありました。
『目付、横目は現代的に云えば憲兵と同じ組織であった。目付、横目は独立機関として領主の配下にあって家臣の行動を取り締まる役目であった。
織田信長はあたかも、属国であるかのごとき恭順さを以て信玄に臨んでいた。信玄が、東海道に進出するのを恐れていたのである。信玄の動きを警戒しながら、この贈物戦術に出ていたのである。
「勝頼、戦さにかかる前にひとこと云って置くが、大将というものは、自ら戦さの渦中に入ってはならぬ。全体の動きをじっと見ていて、適切な指示を与えるのが大将であることを忘れたはならない。大将自らが武器を取って敵と渡り合うということは敗け戦さのときだけだ。仮にも、武勇にはやって、敵の前に飛び出すようなことをしてはならぬぞ。」
「・・人の心に区別がないが、考え方によって区別が生ずる。未知の世界が恐ろしいと思う人の心は、その恐ろしい世界に迷い込み、未知の世界にはなんのおそるるものがないと思えば、その世界は花園のようになる」
「あきらめるというのは捨てることではない。どうでもいいと投げ出してしまうことでは決してない。俗体の世をあきらめるということは、俗体の世に起きたことに、こだわっていてはならないということである。俗体の世から離れるときには、俗体の世のことは考えずに、新しい世界のことだけを考えていればよいのである。・・」
(戦さは金によってどうにでもなる。金がなければ絶対に戦さには勝てないものだ。)
戦局は膠着状態になったが、長期対戦になると補給路の長い武田側が不利であった。・・持久戦になると、この補給路破壊作戦の如何によって勝負は決するのであった。
この文章を読むと、信玄は泣き言を言っているようである。泣き言を云うほど追い込まれた状態ではなかったが、信玄はこの文章に見られるように、時と場合によっては、このような文章を書いて送って、相手の心を動かそうとしたのである。心理的効果を狙った外交策船の一裏面であった。
今川氏真は二度と再び、駿府城へ帰ることはできなくなっていたのであった。氏真が凡庸だったということもあったが、氏真を守り立てるべき今川家の家臣団がしっかりしていなかったことが、今川家の崩壊を速めたのである。
氏真の眼は、決して凡庸の眼ではなかった。剣を教え込めば一流の剣士となり、書を読ませれば一流の学者となる眼であった。凡庸どころか、あるいは父の今川義元より勝れた人間になったかもしれない。その彼に暗愚という名を張りつけたのは誰であろうか。暗愚だといわれるように仕向けたのは誰であろうか。中井将監は心にうすら寒いものを感じた。・・蹴鞠だけが彼の人生であるかの如くにしむけたのは今川家の家臣たちだった。領主を暗愚にしておいた方が、都合がよかったからである。勝手なことが出来るからだった。・・その結果、今川家は亡びた。
晩年の氏真は長い苦労の末に身についた、なにかしらの人生観を持っていたようである。それは、他人は当てにならないものという悟りだったのかもしれない。
信玄は戦地によく工事奉行を連れて行った。戦さをするためにではなく、その土地を検分させるためであった。信玄の頭の中には、戦いのすぐ後にくる、治安と経営があった。新しく手に入れた土地に新しい政治をするためには、工事奉行の知恵を借りねばならなかった。ただ戦いに勝って、領土を拡張するだけでは、ほんとうに占領したことにはならないと考えていた。
「わからないのか、いやわかりにくいときには、まず幾つかの疑問点をあげて、その一つ一つを消していけば、最後にのこるこものが真実に近いものとなる」氏康はそう云うと、祐筆に向かって、顎をしゃくった。
「・・・総大将の自信が一兵卒にまでいきわたったときは恐ろしい力を発揮するものだ」氏康が云った。
北条氏の諜報網は、北条早雲の時代から、他の両国支配者と違った方法を取っていた。隣国に浪人、僧、商人などに変装した間者を送り込むような方法は比較的少なく、隣国の要所要所に、世襲の間者を置く方法を取っていた。外見的には間者らしいところは毫もない商人や百姓が、実は親代々の北条の間者であることが多かった。これらの据え置きの間者には、目立つような諜報活動はさせなかった。いつものとおりの生活を営んでいて、ふと眼に触れ、耳に入ったことを、その組織の組頭に通報するだけでよかった。
・・徒歩はほとんど農民であり、郷士であった。当時は、原則として出征の際の食料は個人負担であったから、彼等徒士の衆は少なくとも一か月間の食料としての、干飯、米の粉、麦の粉、蕎麦粉などを各自の名前を記した袋に入れて背負い、槍を担いで、集合地へおもむいて行ったものである。
「・・人にはそれぞれ天命というものがある。いかにして、その人に与えられた天命をまっとうするかというところに生きる意義がある。美濃守、わかるかな、急がねばならない時には急がねばならない」
当時の戦いは、まず鉄砲の撃ち合いから始まり、次に弓、そして槍を持った足軽を従えた騎馬隊が入り乱れての乱戦という段取りになっていた。
検使は、一種の軍目付でもあり、軍監でもあったが、いざ大将が倒れると、大将に代わって検使が指揮を執るというところが、武田信玄の立てた特殊な軍法であった。
古来大会戦、大合戦が行われた場合、多くの死傷者がでるのは、負け戦と決まった直後の状態の如何である。川中島の大会戦がそうであった。上杉軍は犀川を渡って敗走するときにもっとも多くの死傷者を出した。』