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2012年10月

2012年10月30日 (火)

新聞記事から (私の履歴書 根岸英一  24.10.30ほか 日経新聞朝刊)

ノーベル賞受賞者の根岸氏のお話で、いろいろと参考になります。

『・・日本の若者が最近、海外へ行かない話題が取り上げられる。時代の変化として当然かもしれない。私が学生の頃、日本と欧米の格差は大きく、先生にも「若者を海外に出そう」という意識があった。日本も一流になり、必ずしも欧米に行かなくてもよくなった。英語の問題もある。日本人はいまだに苦手意識を持ち、わざわざ英語圏に行って勉強しなくともと考えてしまう。そしてもう一つ、日本の食べ物はおいしい。これは外国に行くと相当こたえる問題だ。それでもやはり外国に出ると色々な見方が身に付き、自分自身も変わる。英語は下手でも構わない。モンゴル出身の力士が日本語をうまく話すように次第に上達するものだ。研究に限らない。スポーツや音楽などエクセレンス(秀逸)を求める分野では、日本一も素晴らしいが、ぜひ世界を見渡して腕を磨いてもらいたい。「自信がある」「向いている」という分野を見つけて研鑽を励んでもらいたい。若い世代への要望だ。』

『多くの米大学の大学院には専門課程で研究者を選抜する「キュムラティブ・エグザミネーション」という厳しい試験がある。だいたい月1回のペースで行われ、私がペンシルベニア大にいた頃、8回通らないと博士課程に進む資格を得られなかった。どんな問題が出るかは全くわからない。だから①日ごろから基礎知識を高めておく②主要な科学系雑誌を通して最新情報を得ておく-この2点が最善の対処法となる。実際にこの習慣を身に付けておくと、その後の研究生活で大いに役立つ。・・・1回も落とさずに合格するのは至難といわれていた。私は8回連続してエクセレントをもらった。』

2012年10月27日 (土)

新聞記事から (辛言直言 「世界で競うには英語力 頭脳の価値、評価正当に」 カリフォルニア大学教授 中村修二氏 24.10.25 日経新聞朝刊) 

英語が重要である理由として、私と同意見の方を見つけました。

『-米国の大学の強みは何ですか。

「まず感じるのは、世界の標準語である英語を使い、様々なルールや規格、標準化の中心にいることだ。そのため、米国の有力大学には世界中から優秀な学者や学生が集まってくる。米国人に優秀な学生がいなくても大学は最高水準を保てる。これは強い」

「日本は技術はあるというが、技術を学ぶために日本の大学に世界中から優秀な学者や学生があつまってくるか。教育の中心以前の問題として言葉の壁がある。その現実は無視できない」

-日本にも英語重視の動きがあります。

「不十分だ。学校での英語教育が実践的でないだけでなく、日本企業の採用や教育にも問題がある。日本の企業には米国で博士号を取得してようなエンジニアや研究者が少ない。英語で交渉できる人も少ない。韓国や中国の企業は米国の大学で教育を受けた人を大量に採用し、グローバル化を進めている。この差は大きい」

「ある程度強制してでも、英語をきちんと話せる教育を施すべきだ。日本人は能力で他国の人々に劣っていない。共通語を身につければ必ず勝負できる。自らの技術や製品、サービスについて外国に説明し、売り込めないようではダメだ」

-米国では学生や大学教授が関係するベンチャー企業が多いですね。

「大学に規制が少ないことが大きい。日本は規制がありすぎだ。司法制度一つとってみても日本は判例主義で、前例のないことは認めない。陪審員が大きな力を持つ米国では前例は必ずしも絶対ではない。その時々の正義をベースにルールは変わっていく。新しいことがしやすい環境にある」

-日米の大学の違いもありますか。

「日本の大学では、先生が『本に書いてあること』を教え、学生はノートをとる形が多い。しかし、本にあるのは『歴史』でしかない。歴史学ならそれでもいいが、理系の、特に最先端の研究をしたい学生に本の内容を教えても意味はない」

「米国の大学では、成功したベンチャー起業家やエンジニアが教壇に立つ。まだ本にもなっていない最先端の生きた知識を学べる。教壇に立つ側も学生の挑戦を受けながら教えるのだから刺激的だ。学生が最先端の技術を学び、それを上回るものを考えつけば起業するわけだ。」

「学生がいいアイディアを考えつけば、大学教授もベンチャー投資家に紹介したり、一緒に起業したりする。教え子が成功すれば教授の名誉にもなる。そうした好循環が次の大きな成功につながる可能性を高める」』

2012年10月24日 (水)

陰陽師 (夢枕 獏著 文春ウェブ文庫)

映画にもなったことがあり(見ていませんが)、少し興味がありました。書評でよく書かれていましたので、読んでみました。独特の雰囲気のある、面白い小説でした。

『「呪(しゅ)とはな、ようするにものを縛ることよ」 「----」 「ものの根本的な在様を縛るというのは、名だぞ」 「----」「この世に名づけられぬものがあるとすれば、それは何ものでもないということだ。存在しないと言ってもよかろうな」

「霊もまた呪と同じものよ」 「また呪か」 「霊と呪とを違うものとして見ることはむろんできるが、同じものとして見ることもむろんできる。ようは見方だ」・・・「たとえばここに、石があるとするな」 「うむ」 「つまり、それは、生まれつき宿命として、石という呪をその身(うち)に持っているものだ」 「うむ」 「で、このおれがさ、その石を握って誰かをを殴り殺したとしよう」 「うむ」 「さて、その石は、石であろうか、武器であろうかな」 「ううむ」 低く唸ってから、「それは、石でもあり、武器でもあるということであろうが」 博雅が言った。 「そうよ、博雅、よくわかったな」 「わかるさ」 博雅は、武骨な面持ちでうなずいた。 「霊と呪とが同じというのはそれほどの意味さ」

「たとえばここに、人の形に似た石があるとするな」 「うむ」 「それはつまり、人という呪をかけられた石だ。似れば似るほど強い呪がかけられていることになる。石の霊が、人の霊性をわずかながら帯びることになる。それだけならどうというほどのものではないが、それが人の形に似ているからと、皆がその石を拝むことになれば、その石に、さらに強い呪をかけてしまうことになる。帯びる霊性も強くなる」

「銭で縛るも、呪で縛るも、根本は同じということさ。しかも、名と同じで、その呪の本質は、本人--つまり、呪をかけられる側の方にある・・・・・」 「うむ」 「同じ銭という呪で縛ろうとしても、縛られる者と、縛られぬ者がいる。銭では縛られぬ者も、恋という呪でたやすく縛られてしまう場合もある」

「春も、夏も、秋も、同じように草におおわれているだけの庭のように見えるが、その季節その季節で、違う。季節によって、眼立つ草、眼立たぬ草がある。萩などは、すでに花が散ってしまって、すぐにはどこにあったのかわからないが、かわりに、それまでどこにあったかわからなかったような、桔梗や竜胆が見えている---」 「ふうん」 「だから、違うと言ったのだ。しかし、違うとは言うたが、実を言えば、この庭はまったくいつもと変わらぬ同じ庭のような気もするのだ。だから---」 「不思議ということか」 「うん」 素直に、博雅がうなずいた。 「同じでいるようで、違っている。違っているようで同じだ。しかも、それはどちらかということではなく、この世の有様というのは、それを両方とも生まれつき持っているのではないかという気がしてきた」 「凄いな、博雅」 清明が言った。「凄い?」 「おまえの言っていることは、呪の理の根本的なところにかかわってくる話だ。」

「人は、独りよ」 「独り?」 「人とは、もともとそういうものだ」 「人は、もともと、淋しく生まれついているということか」 「そういうところだろうよ」 人は恋しいが、それはなにも、ここで独りで暮らしているからではないのだと、そんなことを清明は言っているらしい。』

2012年10月22日 (月)

新聞記事から(【先人巡礼】上杉鷹山(18)家来の世話に文句を言わず  24.10.22 産経新聞夕刊)

このようなことをさらりとできるように、修養したいと思います。

『思考の先進性とともに、上杉鷹山(ようざん)を偉人たらしめているのは、その生活の質素さ、清廉さである。

 例えば食事は、朝は粥(かゆ)と香物類、昼と夕食は一汁一菜に干魚がつけばよい方という質素さである。この食生活は、藩主になった17歳の時に倹約令を打ち出して以来、一貫していた。

 内輪に於いては木綿衣を不断着用のこと、という倹約令に自らも従い、絹はほとんど身につけなかった。衣服については『小説上杉鷹山』(童門冬二著)にこんな逸話が書かれている。

 領内の小出村に視察に出かけた鷹山の供をした2人の藩士は、継ぎはぎだらけの木綿の襦袢(じゅばん)を着ていた。風呂に入った際、宿の主人がその襦袢に気が付いた。着古しているくせに、美しい茜染めで、それを丁寧に衣桁(いこう)にかけた2人の姿が目に留まったのである。理由を聞くと、鷹山の手縫いだからだという。鷹山が自ら着古したものを所望され、やむなく野山に生えた茜の実で染めて、下された拝領物だという。

 主人は、嫁入りする娘にせがまれて禁を破り、絹の嫁入り衣装を調えていた。殿様らしからぬ鷹山の倹約を信じきれなかったからだった。その不明を詫(わ)びた主人は、衣装をすべて木綿に代えると約束したという。

 酒を飲まない鷹山の唯一の嗜好(しこう)品とも言っていい煙草に関しては、こんな逸話が残っている。

 ある日、煙草を煙管(きせる)に用意する藩士が、いつもの煙草が切れていたので少しきつめの煙草を詰めた。すると鷹山は何も言わずに一服した。きつめの煙草も時にはお好みかと思い、次もそうすると、文句がない。お好みが変わったかと思い、次第にきつさを増していくと、1日4回の喫煙が2回になった。そこで初めて鷹山は、弱い煙草は残っていないのか、と尋ねた。家来の世話には一切文句を言わないのが藩主の心得、と鷹山は考えていたのである。

 鷹山は、食事の味付けについても、妻子の好みに合わせていたと伝わる。「米沢聖君」。こんな尊称を得るに足る私生活だったことは間違いない。』

2012年10月13日 (土)

空飛ぶ広報室 (有川浩著 幻冬舎)

防衛省の広報室を題材とした小説です。新しい視点を得ることが出来ました。

『「外部とツテを切るときは空自として切ることになります。自分のことならかまいませんが、隊の看板を背負っていると思うとなかなかあっさり切れないものですよ。なんだかんだとマスコミの広報力は大きいですし」

ちょっと踏み込んで知ろうとすればすぐ分かるが、そのちょっとを踏み込む時間が惜しいのが現代人の心情である。

「しかし、我々は自衛官ですから、どんな状況であっても支援する側に回るのは当然の義務です。被災したことは同じでも、我々は有事の訓練を受けております」「でも・・・・隊員にもこちらに家族のある方がいるでしょう。心配じゃないんですか」「尋ねたリカに、広報班長は「もちろん心配です」と頷いた。愚問だったと頬が火照る。「ですが、自衛官はみんな妻や子に言い聞かせていると思いますよ。もし何かあっても俺は家にいないから何とかやってくれ、とね。それが自衛官と所帯を持つと言うことです」大きな災害があったとき、一家の大黒柱は被災地に急行する。たとえ家族が同じ被災地にいたとしても、見知らぬ他人を助ける任務を優先するのだ。

「有事に果たすべき義務があるということは、それだけで拠り所になります。辛いことがあったとき、自分にできることがあるだけで人って救われるでしょう。だから僕たちは被災者を支援しながら、自分自身を救っているんです」

自衛隊をモデルに今までいろんな物語を書いてきましたが、今回ほど平時と有事の彼らの落差を思い知らされたことはありません。ごく普通の楽しい人たちです。私たちとなんら変わりません。しかし、有事に対する覚悟があるという一点だけが違います。その覚悟に私たちの日常が支えられていることを、ずっと覚えていたいと思います。』

2012年10月 8日 (月)

三橋貴明の日本経済の真実がよくわかる本 (三橋貴明著 PHP研究所)

三橋貴明氏の経済の本を読んでみました。経済に疎い私にもわかりやすく説明されていると思いますが、他の著者の本も今後読んでみなければいけないと思っています。

『よく勘違いされていますが、「輸出=GDP(国内総生産)」ではありません。輸出ももちろんGDPに関係していますが、日本において輸出入がGDPにかかわっている部分は非常に少なく、1%ぐらいしかありません。それではGDPとは何なのか。実はGDPには支出面、生産面、分配面の3種類があります。この3種類はそれぞれ算定の方法がちがいますが、最終的にはすべて同じ数字になります。この3つのGDPが必ず一致することを「三面等価の原則」と呼びます。

輸入をすればGDPは減っていきます。つまり、輸出そのものがGDPに組み込まれているわけではなく、輸入と輸出の差が純輸出としてGDPに計上されるのです。純輸出が日本のGDPに占める割合は非常に小さく、2010年度の数字では、5.4兆円しかありません。

いまの日本は困ったとことに、1997年以降、実質GDPは増えているのにもかかわらず、物価が下がっており、名目GDPが横ばいの状態を延々と続けています。これこそがまさしく「デフレ」と呼ばれる現象です。実質的には、生産やサービスの総量が増えているのに、価格が下がってしまっているので、名目値のGDPが増えないのです。

なぜ名目GDPが成長しないと問題なのでしょうか。理由は、政府が借りた負債、いわゆる「国の借金」と呼ばれるお金は、名目値で返さなければならないためです。

バブルとは何か。・・民間、具体的には家計と企業が、「借金をして資産をどんどん買っていく(投資)」という経済活動が爆発的に膨張することです。

頂点に達したときから、一気に資産価格が価格を始めるのがバブル崩壊です。

バブルが崩壊すると、どの企業も借金を返済することが先決となり、投資が行われなくなってしまうのです。・・GDPは個人消費と民間投資と政府支出と純輸出の合計ですので、どんなに家計や企業が借金を返しても、GDPは1円も増えません。・・GDPが半分になるということは、国民の所得が半分になったということです。

銀行などに貯蓄されたお金を政府が借り入れる行為が、国債の発行なのです。

国債というのは、国民が過酷に貯蓄したお金を、政府が金融機関を通じて借入借金のことです。ギリシャなどヨーロッパで問題となっている国々は、外国(主にドイツやフランス)の国民が稼いだGDPから貯蓄に回ったお金を借りているために、自国内でやりくりができず、焦げ付きが連鎖していしまったいるのです。)

デフレとインフレの境目は何によって判断するとかというと、失業率と物価上昇率です。デフレになると失業率が上がり、物価が下がります。

日本銀行券とは、「日本銀行が発行した借用証書」という意味です。つまり皆さんの財布に入っているお札は、日本銀行が負っている「借金」なのです。・・つまり現金は、国民にとっては資産ですが、日銀にとっては負債なのです。・・単に、国債は返済と金利の支払いが必要で、日本銀行券は返済も利払いも不要というだけの話です。

日銀が発行した「現金」「日銀預け金」、それと政府発行の5兆円分の「硬貨」。この3つをあわせたものを「マネタリーベース」と呼びます。・・お金というのは、使っても消えません。銀行や企業、家計などの間をぐるぐると回っているだけなのです。・・社会全体に流通するお金の量は、元のマネタリーベースという「日本政府(日本銀行)が発行した日本円という通貨」の何倍にも増えていきます。この仕組みを、経済学では「信用創造」と呼び、資本主義経済の基本をなす機能となっています。また、信用創造の機能が働いた結果、元のマネタリーベースの何倍にも膨らんだ社会全体のお金は、「マネーストック」と呼ばれます。日本の場合、マネタリーベースが100兆円程度で、マネーストックは700兆円から800兆円あたりで推移しています。

インフレになれば、企業はさらなる設備投資をする余裕ができますので、日本の供給能力がたかまります。これこそが、本来の意味における国民経済の成長なのです。要は金利水準とインフレ率をきちんと見ながら、政府は国債を発行し、日銀に国債を買い取らせればよいだけの話なのです。

歴史を振り返ると、ハイパーインフレになった国には共通する特徴があります。一つは国内の物資やサービスの供給能力が崩壊したときです。・・そもそも戦争とは、国家同士が互いに相手国の生産設備をはじめとする「供給能力」を叩き壊しあう行為です。軍事で政府の支出という需要が拡大し、同時に供給が減るため、インフレになりやすいのです。

「借金=悪」と考える人は少なくありませんが、それは資本主義経済ではまったくの見当違いで、「借金=経済成長の原動力」なのです。デフレ脱却のためにどうすればいいか。金融政策と財務政策(需要の喚起)をパッケージとし、民間企業がお金を借りたくなるような形でやることです。

国民経済の目的にとって、貿易収支の黒字や赤字など、本来はどうでもいい話だ。なぜならば、国民経済の目的とは「国民の需要を満たすこと」あるいは「国民が豊かに、安全に暮らすことを実現すること」であるからだ。貿易収支が赤字だろうが、国民が豊かに、安全に暮らせているのであれば、別に問題はない。

解決策は簡単です。日銀がマネタリーペースを増やすこと。具体的には長期国債の買い取りです。アメリカを真似すればいいのです。さらに、日本政府は長期国債をどんどん発行し、東北の復興や全国のインフラ整備にひたするお金をつぎ込むのです。そうすれば・・「信用創造」の機能が働き、日本のマネーストックが増えます。マネーストックが増えれば、相対的にモノやサービスの価格が上がります。さらに、他国の通貨に対して円の価値が下がります。

人類の歴史上、大きな災害が起こった後に大増税した国は一つもありません。・・大震災が起こったことは大変悲しむべきことですが、その後の復興事業を上手にやりさえすれば、日本経済にとって確実に大きなプラスの影響を与えます。

消費税を社会保障の財源にするならば、時期についてよく考えるべきです。まずはデフレを脱却し、名目GDPが不可逆的に成長を始めたならば、検討してもよいでしょう。しかし、今の日本の消費税論議はそういう話になっていません。

現実はどうなのでしょうか。イギリスやドイツなど、電力自由化に踏み切った国の電気料金は、近年は上がっています。逆に日本はここ10年でみると、相対的に下がっています。なぜこうなるのでしょうか。・・結果、発電会社は地域ごとに競合会社とカルテルを結び、あるいはM&Aで寡占化が進んでしまい、電気代を値上げしてしまうのです。送電会社は・・「送電の義務」があるため、発電会社から電気を買わざるを得ません。最終的に、値上げ分は、消費者が払う電気代に転嫁されることになります。それが、イギリスやドイツで起こったことです。さらに送電部分まで自由化されると事態はより悪化します。・・アメリカの場合は、送電網を自由化したために、電線などのインフラに対する投資が激減し、老朽化した設備の故障などによってたびたび停電が起こるようになりました。

電力や水など、人間の命にかかわる公共サービスに関しては、市場原理にすべてをゆだねるのは間違いなのです。民間企業が、原発のような施設を持っていること自体が誤りだったといえるでしょう。

「成長か福祉か」「産業か国民生活か」という二者択一式の考え方は誤りである。福祉は天から降ってくるものではなく、外国から与えられるものでもない。日本人自身が自らのバイタリティーをもって経済を発展させ、その経済力によって築きあげるほかに必要な資金の出所はないのである。『日本列島改造論』・・社会保障の財源は、現実にはGDP(国民総生産)以外にはない・・政府の社会保障の「源泉」はGDP以外にはありえない。

「自由貿易」とは、いわば「相手の国の雇用を奪う」ことでもあります。・・互いに失業が問題化している国同士が貿易を自由化すれば、ますます失業率が高まってしまいます。したがって、今の日本、アメリカ、ヨーロッパは自由貿易に乗り出すべきではありません。中国のようなインフレの国と自由貿易をした場合、デフレの国である日本が一方的に損をします。日本の抱える諸問題の根底にあるデフレが悪化し、完全に立ち直れなくなってしまいます。

かつて、日本はアメリカのサービスを大々的に輸入したことがあります。すなわち、橋本政権時の「金融ビッグバン」です。97年以降、アメリカからたくさんの金融機関や生命保険会社などが日本市長の開拓に乗り出し、その結果、複数の日本の銀行や保険会社が倒産することになりました。プルデンシャル生命やアフラックなどは、金融ビッグバン後の日本の市場において、確たる地位を築きました。それと同じようなことが別のサービス業でも起こりうることを十分に予測しておくべきでしょう。

TPPの怖いところは、範囲が極端に広いことです。日本のマスコミでは農産物と工業製品の話しか出ていませんが、TPPで検討されている作業部会は24項目にものぼります。

ちなみに、アメリカ企業が日本でビジネスを展開する際に、最も邪魔な「非関税障壁」は「日本語」です。

TPPへの参加が日本にとって得か、損か、という質問にははっきりと「損です」と答えます。もし参加すれば、数年後には日本経済や社会、それに日本企業にも大きなデメリットがもたらされるでしょう。

アメリカで「Occupy Wall Street(ウォール街を占拠せよ、以下OWS)」という運動が広がりを見せ、全世界に波及しようとしている。・・OWS運動の歴史上の意義は、1980年代以降に世界に広まった新自由主義、特に「トリクルダウン理論」に反発する人々が立ち上がったという点にある。トリクルダウン理論とは、ずばり「富める者が富めば、貧しい者にも自然に富が浸透する」という考え方になる。・・日本を含む先進富裕国において、国内の所得格差が拡大することになった。わが国でも確かに格差が拡大し(ジニ係数が上昇し)、社会問題にもなったが、本家本元であるアメリカのレベルは日本の比ではない。』

2012年10月 1日 (月)

新聞記事から (【焦点@ビジネス】運転士の頭脳備える新幹線 ダイヤ回復のサポート役に 24.10.1 産経新聞夕刊)

自動化、機械化の在り方についてヒントをくれそうな記事です。

『JR東海が来年2月に5年ぶりに投入する東海道新幹線の新型車両「N700A」は、新幹線の歴史上初の「自動運転」機能を搭載した。車両自ら加減速し、いわば自分で考えて走る“賢い”車両なのだが、運転士の役割はどうなるのか?

 運転士は運転席に表示される到着(通過)駅までの距離や、到着(同)予定時刻をにらみながら、常に細かなアクセル操作を繰り返し、必要な速度を考えながら運転する。最新技術を誇る新幹線だが、「人間の力が大きい」(同社幹部)のだ。

 勾配(こうばい)やカーブなどの線路情報を把握しておくことも重要で、「周囲の景色から次の駅までの距離を割り出す」「新大阪~東京500キロ余りの勾配・カーブがすべて頭の中にある」という運転士もいるという。

 年間の運行本数約12万本の平均遅延時間はわずか36秒。この驚異的な正確さを支えているのは「人」なのだ。

 新型車両N700Aに搭載される「自動運転」機能は、「定速走行装置」と呼ぶコンピュータープログラムで、東海道区間の勾配やカーブなど線路情報がすべて入力されている。

 車両の現在位置を把握し、区間ごとの最高速度を自動的に維持する。上り坂、下り坂、カーブなど、運転士が小まめにアクセル操作してきた箇所も自動で加減速する。つまり、運転士の“頭脳”をそのまま備えているわけだ。

 定速走行装置の使用は、運転席にあるボタンを押すだけ。なめらかに加減速して、効率よく最高速度を維持し、目的地まで走る。運転士は運転状況を監視するだけで、“技”は発揮しなくてもいい。同装置は平成27年度までに7割程度の車両に装着される予定だ。

 さて、そうなると、運転士の技能はどうなるのか?

 「今後も人が中心であることに変わりはない」と同社幹部は話す。実は、定速走行装置の使用は自然災害などで乱れたダイヤを回復させるときだけ。平常時はこれまで通り運転士が操作する。同装置を通常時に使用すると、効率がよすぎて、ダイヤより早く着いてしまうことがあるからという。

 車両故障といった緊急時に備えるため、かつて新幹線は1列車に2人の運転士が乗車していたが、車両性能の向上などで現在は1人になった。

 そしてJR東海が平成57年に東京~大阪で開通させる計画のリニア中央新幹線では、運転士がいない「完全自動」の車両となる。技術の進化とともに「人の手」が不要になっていくのも現実である。(内山智彦)』

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