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2012年9月25日 (火)

隠し剣秋風抄 (藤沢周平著 文春ウェブ文庫)

藤沢周平氏の作品は、私にとっては、しばらく読まないとなぜか無性に読みたくなるものとなりました。

『小川の岸まで歩くと、半之丞はあたりを見回した。まぶしいほど明るい日が、野を照らし、草摘みの人びとは、いつの間にかはるかな場所に移って、小さく動いている。その風景が、不意に日がかげったように、一面に灰色に塗りつぶされるのを感じた。-乙江が江戸にされば・・・。日日こうなる、と思いながら、半之丞は茫然と、目の前にひろがる無色の風景を見つめた。乙江を手放すことが、堪えがたいことに思われた。

半之丞は乙江を振り向こうとした。だが、身体がこわばって動かなかった。何者かが、うしろを振り向こうのを強く制止したようである。半之丞はうろたえ、瞬間自失したようだ。そして、何かに背を押されたように、前に跳んだ。楽らくと跳んだようである。

狂気を真似ることは、限りなく狂気に近づくことだった。二、三度半之丞は、少し先のほうに、あそこを越えると狂うかもしれんと思うような場所を、ちらと垣間見たことがある。むろん、そこを越えるようなことはしない。いそいで引き返した。だが、一度そういう世界をのぞいてしまうと、今度はそこに近づくことに、心がひきつけられることを知った。

「来ては、ならん」七兵衛は、思わず絶叫した。走ってくる女は高江だった。七兵衛が叫ぶのとほとんど同時に、半十郎も背後から迫る者の気配に気づいたようだった。ちらと振り向いた。不用意な一瞥だった。シロキ月が現れたのを、七兵衛は見た。うなりをあげて、八双からの剣が振りおろされた。半十郎が帰国するまで、毎夜明け方まで習練した一撃が、半十郎の首のつけ根を正確に打っていた。

視ているのは暗黒だった。その暗黒のなかに、飛来するものがある。そのものの気配にむかって、新之丞は鋭く木剣を振る。はじめはむなしく空を打ち、虫は嘲笑うように新之丞の顔や髪にとまったりしたが、新之丞の木剣は次第に正確に飛ぶ虫をとらえるようになった。いまの新之丞は、十振して九つまで虫を打ち落とすことが出来る。

だが、狼狽はすぐに静まった。勝つことがすべてではなかった。武士の一分が立てばそれでよい。敵はいずれ仕かけてくるだろう。生死は問わず、そのときが勝負だった。-来い、島村。待ってやろう、と思った。木部道場では、免許を授けるときに、「俱ニ死スルヲ以テ、心ト為ス。勝ハソノ中ニ在リ」と諭し、また「必死スナワチ生クルナリ」と教える。いまがその時だった。新之丞は、暗黒の中にゆったりと身を沈めた。心を勝負から遠ざけ、生死から離した。一度は死のうとした身だと思ったとき、死も静かに心を離れて行った。

しかし私は、自分の中にある郷里の言葉をそう簡単に捨てる気になれない。それらの言葉を手がかりに、私はものを感じたり考えたりし、つまりは世界を認識したのであり、言葉はそういうものとして、いまも私の中に生き残っているからである。』

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