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2012年9月30日 (日)

風の果て(上・下) (藤沢周平著 文春ウェブ文庫)

権力争いなどについて、いろいろと考えさせられるところがありました。

『又左衛門は頭巾の中で眉をしかめ、つらい思い出に堪える顔になった。若い者のやることは、慎重に考えて行動しているようでも、どこかに軽軽しく上っ調子なものがまじっていることがあるものだ。あのときがそうだった、と又左衛門は思った。

「事実、こいつは誰かの廻し者じゃないかと思われるような男も、たまには来る。だが、おれは藩政批判はせぬ。執政たちのことを、うんとほめてやるのだ。・・誰がやってもこれ以上のことは出来ぬ、執政たちはよくやっている、というぐあいにな。いまはまだ、本音を言う時期でないぐらいは、おれにもわかっているさ」

執政への道。鹿之助が当然のように口にしたその道は、名門、上士と呼ばれる選ばれた家の人間だけが歩むことの出来る道だった。尋常の道ではなく、その途中には罠もあり、闘争もある険しい道程だとしても、その先にかがやくようのものがあることもまたたしかだった。そこにたどりついた者だけが、一藩の運命を左右するような決定に加わることが出来るのである。そこは、男なら一度は坐ってみたい栄光の座だった。

「むろん、人間の幸、不幸は禄高の多寡で決まるわけではない。そんなあたりまえのことをさとるのに、わしは随分と回り道をしたが、ご亭主の方ははやくからそのことに気づいておったようだの」

床上げという、部屋住みの妻に与えられる呼び名がある。床上げは生涯その家で女中同様に働き、子供が出来れば生まれるのを待って間引かれ、死んだ後も一族の墓にも加えられないような扱いをうけて、日陰の一生を終わるのである。

「家督をつぐからには、いつまでも上村の次男坊の気分ではいかんぞ。開墾に行く前には満江と争い、開墾地では小黒の倅とやり合ったなどということが耳に入ってきたが、どちらも感心せぬ。大人にならんといかん」「はい、肝に銘じておきます」隼大は言ったが、暑さのせいでなく、肌にじっとりと汗を掻いていた。自分では相当の理由があってしたつもりだったが、孫助に指摘されると、そこに自分の中の稚気がありありとみえた気がしたのである。

牧原喜左衛門は、藩主の名代の形で杉山屋敷にきていた。その人物に何かの間違いが起きれば、忠兵衛に対する藩主の気持ちにも変化が生じかねないだろ。君主というものはわがままなものなのだ。

「おれもしくじった」 「おまえはしくじったとは言えまい」語気鋭く、市之丞が聞きとがめた。「今は代官だ。やがて郡奉行になるのも間違いなかろう。何を言ってるんだ。のぞんだとおりになって来ているではないか」 「・・・・」  形だけはな、と隼大は思ったが、ここで妻の満江と気持ちが通じ合わないなどということを、市之丞にいうつもりはなかった。・・いまとは違う、平凡だが平穏無事な暮らしもあったかなという思いが、ちらと胸をかすめたことも事実である。しかし市之丞に言われてみると、それはただの感傷にすぎなかったようでもある。・・気を取り直して、隼大は言った。「おれを、愚痴を言ったりしちゃいかんのだな」 「愚痴なんぞ、言うな、おれも言わん」 市之丞が酔いの回った声で言った。

「商人と申すものは、利で結ばれた相手でないと、なかなか信用しない悪い癖をもつものでござりまして」 「なるほど」 「おことわりになるようりは、受け取ってお散じになることをおすすめいたしますよ。桑山さま。大変失礼ですが、執政として十分にご器量をふるわれるためには、思わぬ金もかかるもののようでござります」

「そういう次第でな、そこもともいじれ派閥の争いに巻き込まれる。そのときに敵を味方と見誤ったりせぬよう、慎重にふるまうことだ」 「・・・・」 「孤立はいかんぞ、桑山」と原口は言った。 「そこもとは郡奉行から成り上がって来た中老だ。それだけで、すでに執政府のなかで孤立しておる。誰かと組むことだな。そうでないと自分の意見を通すことはむつかしい」

代官、郡奉行という役目は、治める土地と人間といかにうまく折り合いをつけて、そこからいかに最高に双方の利益を引き出すかということと、その作業の間に、どのような意味での不正も入り込まないように、きびしく監視するということに尽きていた。そして郡代になると、土地と人を治めるという役職に付随する道徳的な面はいっそう拡大されて、郡代の人格そのものが怠りない農事と不正のない農政の鑑のごとき存在であることを要求されるのであった。

執政という職は、賄賂をむさぼれば私腹をこやしたとして断罪もされるが、多少の賄賂におどろくような小心者にも勤まらない職であるらしく、また隙あらば誰かを蹴落とそうと、油断のない眼をあたりにくばっている人間のあつまりでもあるらしい。

富をむさぼらず権力をひけらかしもしないが、それは又左衛門がやらないというだけで、できないのではなかった。行使を留保しているだけで、手の中にいつでも使えるその力を握っているという意識が、その不思議な満足感をもたらすのだ・・実際に、その力のことを考えるだけで、又左衛門の顔はおのずから威厳に満ちあふれ、またあるときは、ひとを許すにこやかな表情になった。・・その地位に至りついた者でなければわからない、権勢欲としか呼びようがないその不思議に満たされたような気持ちは、又左衛門のような、門閥もさほどの野心もない人間をも、しっかりとつかまえて放さなかったのである。

忠兵衛は権力を遠慮なく行使してはばからなかったが、おれは留保した。それだけの差でしかない・・

「庄六、おれは貴様がうらやましい」と又左衛門は言った。 「執政などというものになるから、友だちとも斬り合わねばならぬ」 「そんなことは覚悟の上じゃないのか」庄六は、不意に突き放すように言った。 「情におぼれては、家老は勤まるまい。それに、普請組勤めは時には人夫にまじって、腰まで川につかりながら掛け矢をふるうこともあるのだぞ。命がけの仕事よ」 「・・・・」 「うらやましいだと? バカを言ってもらっては困る」 』

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