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2012年9月16日 (日)

忘れ得ぬ翼 (城山三郎著 文春ウェブ文庫)

さまざまな軍人の戦争体験について、知ることができました。

『九七戦・一式戦と軽戦闘機の名機が続いたため、それに甘えすぎていて日本では重戦闘機の開発が遅れるという副作用もあった。九七式戦闘機は、無線関係の装備が悪く、武装も機銃二挺という欠点があった。だが、空戦性能の良さに加えて、離着陸操作が比較的容易であり、空中分解・失速などの事故がほとんどないとあって、実戦訓練に使うには打ってつけの機種といえた。

若い将校の中には、腹を立てたり、自暴自棄になったりする者もあったが、矢口は落ち着いていた。何事も天命、神の心のままだと思った。無理難題は、いまの時代に始まったことではない。治水工事の途中、次々と果てていった薩摩義士たちの心を、すぐ身近に感ずる気がした。時代が要求するものなら、じだばたせずに従おう。

九七戦でグラマンに突っかけるときの矢口はこわいもの知らずであったが。このごろの若者は何事につけこわいもの知らずである。「神罰はないものかしら」と、和代は言う。あれほど神々は助けたもうものなら、逆に大いに怒り給うこともあっていいという口ぶりである。「時代が変わったのさ」矢口は弱弱しくつぶやく。九七戦の軽快な爆音、さらに、病院の上を旋回して去っていった隼の爆音が、矢口にはまだ昨日のことのように耳に残っている。戦友たちは、こういう人間のこういう平和のために死んでいかねばならなかったのかと、むしろこのことで心の痛みを感じもする。

この下士官にとって、戦争は何であったのか。学徒出身の自分たちがまだ熱病からさめきらぬ思いでいるのに、海軍を天職としたはずの男が、終わったものは終わったものとして、もう次の人生の設計を考えている。人生とは、本来、そういうものなのだろうか。

復員列車は大混雑で、島田あたりでは仲仲乗れず、駅で夜を明かすこともあるという。そうしてまごまごしている中に、呼び戻され警備隊に廻される心配がある。現に航空隊の倉庫が第三国人に襲われるという事件があり、残留部隊が編制された。

「十中八九どころか、百中九十九死だな」高峰は言い直したが、ふっとまた銀河隊のことを思った。「彼らは百中百死だけど」「一死のちがいですな」「たいへんなちがいだ。だから・・・」言いかけて、高峰はその先を飲み込んだ。背を丸めるようにして遠ざかっていく岸の姿が瞼に浮かんだ。あの男が臆病風にとりつかれたとするなら、それはこの百中百死ということのためなのだ。もし百中九十九死なら、あの男は持ち前の飛行機乗り根性で、、喜んで志願したことであろう。九十九死と百死の違いの重さが、あらためて高峰の胸を打った。

感傷の色で自由に染められるのは、死者だけだ。死者は死んだ後まで不幸なのだと思った。

「芋ヲ掘ル」とは、これも士官仲間の隠語であった。料亭の接待などが悪いと、灰皿や花瓶をひっくり返す、短剣で畳を切る、屏風を破る。思い切り暴れまわる結果、どんないい座敷も、たちまち芋掘り後の芋畠の様相となる。もちろん料亭のほうも心得ていて、後刻、十分な金額の損害賠償を請求してきて、それは月給から差し引かれることになる。結局、損をするのは士官たちの側で、ばかげているといえばそれまでだが、若い畠中たちにはそうでもして発散せぬとおさまらぬものがあった。

畠中に人生二十五を占った老易者は、終戦の年、釜石に移り、艦砲射撃を浴びて死んだ。・・だが、畠中にしてみれば、あの人生二十五の予言のおかげで、早くから死の覚悟ができ、死を急ぎもせず、とくに避けようと焦りもせず、結果として悠々と「迷いの畠」のペースで崩折れもせず生き延びられたのかも知れなかった-。

わたしゃ、戦争、戦争って、めそめそしてるのがいやなんです。戦争はたった四年、わたしにとっては、まる一年。それなのに、平和のほうはもう二十何年続いている。考えてみりゃ、すばらしいな。こんなに平和が続くなんて。それにしても、われわれにとっちゃ、この平和と繁栄の中でどう生きるか、そのことこそ目下の課題。

学徒出身のわたしにとっては、まるで異質の世界の人々であった。わたしは、違和感と同時に、うらやましさを感じた。石油ランプの灯影の中で、酒臭い息を吐きながら眠りこける男たち。わたしはここへ死の覚悟をきめてやってきたのに、彼等は覚悟などいうものとはおよそ無縁に生きて行けるかのようであった。わたしはまた、最後まで人間らしく生き、そして人間らしく死にたい、納得できる生き方、死に方をしたいと、自らに言い聞かせてやってきたが、それがいかに甘い感傷であったかを思い知らされる気がした。・・それにしても、何が彼らを獣のようにたくましくしたのだろうか。幾度となく死線をくぐりぬけてきた体験のせいなのか。たたきこまれた訓練や技量に対する自信によるものなのか。

前年の十月、すでに数少なくなった海軍雷撃隊を補うため、キ六七の陸軍重爆撃機隊は、爆弾の代わりに魚雷を抱いて、台湾沖の敵機機動部隊に突入、大戦果をあげた。もっとも、洋上航法に不慣れなため、帰途の針路がつかめず、一機を除いて全機帰還しなかった。航法さえ補えあ、陸軍機もまた海上航空戦の主役を演じることができる。-対立しがちであった陸海軍が、この点では珍しく一致し、海軍側は航法員を提供し、水上部隊を協力させての猛訓練となったのである。

別の機でいっしょに初出撃した航空士官学校出身の野々村少尉が、恐怖のあまり発狂してしまったのである。若手士官の中でひとり颯爽としていた野々村だが、眼がすわり、あらぬことを口走る。仮病でない証拠に、頭髪がごっそり抜け落ちていた。軍医の診断で野々村は国府台の陸軍精神病院へ後送された。あらためて、戦場のおそろしさがみにしみてきた。わたしは、別府の町へでてのみ、女を抱いた。恐ろしさを忘れるためには、酒と女しかないことがわかった。

わたしは、酒と女のおかげで、発狂もせず、精神の昂ぶりを押さえたつもりであった。性欲がみたされると、その後にはきまって気だるいような、うつろな時間が来た。すべてが味気なくなり、その空虚をうめらっるのは、強烈な刺戟、つまり出撃以外は考えられなくなる。わたしは、出撃したために酒と女におぼれ、酒と女のために次の出撃に憧れた。決死の覚悟ももたず、死の氾濫する戦場の空を彷徨した。生も死も、わたしにとって意味を失った。人間らしい死とか、納得のいく死に方などを考えなくなった。死は死でしかない。

特攻隊員たちとの接触はなかったが、彼等は意外に若く、少年ばかりに見えるときもあった。あるときは、ピスト近くで古自転車をぶつけあって、無心に騒いでいた。まぎれもない死。その死を目前に、酒や女と無縁のまま健康に生きて遊んでいる彼等。死の恐怖など実感していそうもないのが、せめてもの神の救いなのだろうかと、わたしは心を慰めた。

厄介なのは、風による偏流を測定し、針路を修正しなければならぬことである。昼間は白波の立ち具合などをみて測定するが、夜間はアセチレン弾を落とし、そのブレを偏流計でみて角度を測った。』

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