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2012年9月

2012年9月30日 (日)

風の果て(上・下) (藤沢周平著 文春ウェブ文庫)

権力争いなどについて、いろいろと考えさせられるところがありました。

『又左衛門は頭巾の中で眉をしかめ、つらい思い出に堪える顔になった。若い者のやることは、慎重に考えて行動しているようでも、どこかに軽軽しく上っ調子なものがまじっていることがあるものだ。あのときがそうだった、と又左衛門は思った。

「事実、こいつは誰かの廻し者じゃないかと思われるような男も、たまには来る。だが、おれは藩政批判はせぬ。執政たちのことを、うんとほめてやるのだ。・・誰がやってもこれ以上のことは出来ぬ、執政たちはよくやっている、というぐあいにな。いまはまだ、本音を言う時期でないぐらいは、おれにもわかっているさ」

執政への道。鹿之助が当然のように口にしたその道は、名門、上士と呼ばれる選ばれた家の人間だけが歩むことの出来る道だった。尋常の道ではなく、その途中には罠もあり、闘争もある険しい道程だとしても、その先にかがやくようのものがあることもまたたしかだった。そこにたどりついた者だけが、一藩の運命を左右するような決定に加わることが出来るのである。そこは、男なら一度は坐ってみたい栄光の座だった。

「むろん、人間の幸、不幸は禄高の多寡で決まるわけではない。そんなあたりまえのことをさとるのに、わしは随分と回り道をしたが、ご亭主の方ははやくからそのことに気づいておったようだの」

床上げという、部屋住みの妻に与えられる呼び名がある。床上げは生涯その家で女中同様に働き、子供が出来れば生まれるのを待って間引かれ、死んだ後も一族の墓にも加えられないような扱いをうけて、日陰の一生を終わるのである。

「家督をつぐからには、いつまでも上村の次男坊の気分ではいかんぞ。開墾に行く前には満江と争い、開墾地では小黒の倅とやり合ったなどということが耳に入ってきたが、どちらも感心せぬ。大人にならんといかん」「はい、肝に銘じておきます」隼大は言ったが、暑さのせいでなく、肌にじっとりと汗を掻いていた。自分では相当の理由があってしたつもりだったが、孫助に指摘されると、そこに自分の中の稚気がありありとみえた気がしたのである。

牧原喜左衛門は、藩主の名代の形で杉山屋敷にきていた。その人物に何かの間違いが起きれば、忠兵衛に対する藩主の気持ちにも変化が生じかねないだろ。君主というものはわがままなものなのだ。

「おれもしくじった」 「おまえはしくじったとは言えまい」語気鋭く、市之丞が聞きとがめた。「今は代官だ。やがて郡奉行になるのも間違いなかろう。何を言ってるんだ。のぞんだとおりになって来ているではないか」 「・・・・」  形だけはな、と隼大は思ったが、ここで妻の満江と気持ちが通じ合わないなどということを、市之丞にいうつもりはなかった。・・いまとは違う、平凡だが平穏無事な暮らしもあったかなという思いが、ちらと胸をかすめたことも事実である。しかし市之丞に言われてみると、それはただの感傷にすぎなかったようでもある。・・気を取り直して、隼大は言った。「おれを、愚痴を言ったりしちゃいかんのだな」 「愚痴なんぞ、言うな、おれも言わん」 市之丞が酔いの回った声で言った。

「商人と申すものは、利で結ばれた相手でないと、なかなか信用しない悪い癖をもつものでござりまして」 「なるほど」 「おことわりになるようりは、受け取ってお散じになることをおすすめいたしますよ。桑山さま。大変失礼ですが、執政として十分にご器量をふるわれるためには、思わぬ金もかかるもののようでござります」

「そういう次第でな、そこもともいじれ派閥の争いに巻き込まれる。そのときに敵を味方と見誤ったりせぬよう、慎重にふるまうことだ」 「・・・・」 「孤立はいかんぞ、桑山」と原口は言った。 「そこもとは郡奉行から成り上がって来た中老だ。それだけで、すでに執政府のなかで孤立しておる。誰かと組むことだな。そうでないと自分の意見を通すことはむつかしい」

代官、郡奉行という役目は、治める土地と人間といかにうまく折り合いをつけて、そこからいかに最高に双方の利益を引き出すかということと、その作業の間に、どのような意味での不正も入り込まないように、きびしく監視するということに尽きていた。そして郡代になると、土地と人を治めるという役職に付随する道徳的な面はいっそう拡大されて、郡代の人格そのものが怠りない農事と不正のない農政の鑑のごとき存在であることを要求されるのであった。

執政という職は、賄賂をむさぼれば私腹をこやしたとして断罪もされるが、多少の賄賂におどろくような小心者にも勤まらない職であるらしく、また隙あらば誰かを蹴落とそうと、油断のない眼をあたりにくばっている人間のあつまりでもあるらしい。

富をむさぼらず権力をひけらかしもしないが、それは又左衛門がやらないというだけで、できないのではなかった。行使を留保しているだけで、手の中にいつでも使えるその力を握っているという意識が、その不思議な満足感をもたらすのだ・・実際に、その力のことを考えるだけで、又左衛門の顔はおのずから威厳に満ちあふれ、またあるときは、ひとを許すにこやかな表情になった。・・その地位に至りついた者でなければわからない、権勢欲としか呼びようがないその不思議に満たされたような気持ちは、又左衛門のような、門閥もさほどの野心もない人間をも、しっかりとつかまえて放さなかったのである。

忠兵衛は権力を遠慮なく行使してはばからなかったが、おれは留保した。それだけの差でしかない・・

「庄六、おれは貴様がうらやましい」と又左衛門は言った。 「執政などというものになるから、友だちとも斬り合わねばならぬ」 「そんなことは覚悟の上じゃないのか」庄六は、不意に突き放すように言った。 「情におぼれては、家老は勤まるまい。それに、普請組勤めは時には人夫にまじって、腰まで川につかりながら掛け矢をふるうこともあるのだぞ。命がけの仕事よ」 「・・・・」 「うらやましいだと? バカを言ってもらっては困る」 』

2012年9月25日 (火)

隠し剣秋風抄 (藤沢周平著 文春ウェブ文庫)

藤沢周平氏の作品は、私にとっては、しばらく読まないとなぜか無性に読みたくなるものとなりました。

『小川の岸まで歩くと、半之丞はあたりを見回した。まぶしいほど明るい日が、野を照らし、草摘みの人びとは、いつの間にかはるかな場所に移って、小さく動いている。その風景が、不意に日がかげったように、一面に灰色に塗りつぶされるのを感じた。-乙江が江戸にされば・・・。日日こうなる、と思いながら、半之丞は茫然と、目の前にひろがる無色の風景を見つめた。乙江を手放すことが、堪えがたいことに思われた。

半之丞は乙江を振り向こうとした。だが、身体がこわばって動かなかった。何者かが、うしろを振り向こうのを強く制止したようである。半之丞はうろたえ、瞬間自失したようだ。そして、何かに背を押されたように、前に跳んだ。楽らくと跳んだようである。

狂気を真似ることは、限りなく狂気に近づくことだった。二、三度半之丞は、少し先のほうに、あそこを越えると狂うかもしれんと思うような場所を、ちらと垣間見たことがある。むろん、そこを越えるようなことはしない。いそいで引き返した。だが、一度そういう世界をのぞいてしまうと、今度はそこに近づくことに、心がひきつけられることを知った。

「来ては、ならん」七兵衛は、思わず絶叫した。走ってくる女は高江だった。七兵衛が叫ぶのとほとんど同時に、半十郎も背後から迫る者の気配に気づいたようだった。ちらと振り向いた。不用意な一瞥だった。シロキ月が現れたのを、七兵衛は見た。うなりをあげて、八双からの剣が振りおろされた。半十郎が帰国するまで、毎夜明け方まで習練した一撃が、半十郎の首のつけ根を正確に打っていた。

視ているのは暗黒だった。その暗黒のなかに、飛来するものがある。そのものの気配にむかって、新之丞は鋭く木剣を振る。はじめはむなしく空を打ち、虫は嘲笑うように新之丞の顔や髪にとまったりしたが、新之丞の木剣は次第に正確に飛ぶ虫をとらえるようになった。いまの新之丞は、十振して九つまで虫を打ち落とすことが出来る。

だが、狼狽はすぐに静まった。勝つことがすべてではなかった。武士の一分が立てばそれでよい。敵はいずれ仕かけてくるだろう。生死は問わず、そのときが勝負だった。-来い、島村。待ってやろう、と思った。木部道場では、免許を授けるときに、「俱ニ死スルヲ以テ、心ト為ス。勝ハソノ中ニ在リ」と諭し、また「必死スナワチ生クルナリ」と教える。いまがその時だった。新之丞は、暗黒の中にゆったりと身を沈めた。心を勝負から遠ざけ、生死から離した。一度は死のうとした身だと思ったとき、死も静かに心を離れて行った。

しかし私は、自分の中にある郷里の言葉をそう簡単に捨てる気になれない。それらの言葉を手がかりに、私はものを感じたり考えたりし、つまりは世界を認識したのであり、言葉はそういうものとして、いまも私の中に生き残っているからである。』

2012年9月23日 (日)

新聞記事から (【土・日曜日に書く】大阪編集長・井口文彦 どうして晩節汚すのか 24.9.23産経新聞朝刊)

身内に警察官がいましたので、残念に思いますとともに、自分自身も気を付けて生きていきたいと思います。

『犯罪捜査を指揮した警察幹部が退官後に本を出版したり、テレビ出演して事件のニュースにコメントするケースが散見される。特に、殺人など凶悪犯を扱い、「最も激務」といわれる刑事部捜査1課の課長経験者ら幹部が目立つ。

 彼らは部下の刑事に「保秘」を叩(たた)き込み、「マスコミとの接触」を厳禁した。掟(おきて)を破った者に対しては刑事生命を絶ち切った。

 そんな強権をふるっていた上司が退職後、元幹部の肩書で捜査の内実を明かす。部下たち現職刑事には理解できない豹変(ひょうへん)である。

 ◆辞職強要

 食品大手に勤めるQ氏は10年前まで刑事だった。関東の警察本部・捜査1課で強盗犯を追う巡査部長。上司から辞職を強要された。

 当時、捜査情報が特定の報道機関に流れ、「誰かが流している」と問題化。疑われたのがQ氏だ。上司の捜査1課長は、OBが経営する興信所にQ氏の行動監視を依頼し、容疑を固めようとした。

 興信所の回答は「報道機関との接触は確認できない」だった。だがこの調査で、ある女性との不倫関係が判明した。彼が漏洩(ろうえい)したと疑わない課長は「シロ」の調査結果を受けても見方を変えず、女性問題で辞めさせようとした。

 「俺を保秘引き締めの見せしめにするつもりか」。Q氏は抵抗した。彼にとって女性問題は否定できない事実だが、報道との関係や情報漏洩は濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)である。

 結局、情報流出はQ氏と無関係のところが原因と判明。冤罪(えんざい)と証明されるや、Q氏は「急にばからしくなり」、警察を辞めた。

 警察は保秘に厳しい。情報漏れは凶悪犯の逃亡を誘発し、証拠隠滅を招き、捜査を行き詰まらせるからだ。組織の掟である。

 ◆豹変

 捜査保秘を実現するには報道機関に対する情報管理が有効だ。勢い、幹部の指示は「マスコミに接触するな」と直截(ちょくせつ)的なものになる。刑事管理はどんどん“えげつなく”なってきた。「携帯の通話記録を取り寄せる」と脅すのは当たり前。情報漏れを防ぐため、被害者の遺体や現場写真を刑事に見せない幹部も存在する。犯人情報が詰まっている現場の状況を知らずに刑事は捜査するのだ。目隠しして走らされるのに等しい。

 掟を破った刑事は異動で捜査部門から追われ、ひどい場合はQ氏のように辞職を迫られた。

 恐怖政治ともいえる管理で刑事を服従させていた上司は退職するや、マスコミと接触しないどころか、豹変する。「元捜査1課長」の肩書をフルに使って世間の目を集め、門外不出を命じていた捜査情報を「あのとき、実は…」と本やテレビで暴露するのだ。

 職場を追われたQ氏や、部下だった現職刑事たちに、こうしたふるまいがどう映るだろうか。

 ◆私心

 名刑事といわれた警視庁捜査1課の故平塚八兵衛氏も退官後、テレビ出演してコメンテーターのようなことをした。が、この行動には明確な目的があった。

 彼の退職は、府中の3億円事件捜査が時効成立まであと9カ月という時期。「風化を防ぎ、情報提供を視聴者に呼びかける」が出演理由だった。平塚氏にとってテレビ出演は形を変えた捜査継続であり、「公」的行為であった。

 対して、最近のケースは軽薄な「私」のふるまいそのものだ。

 警察ドラマの監修プロダクションに誘われた元幹部は後輩に電話し、「捜査は実際どんな感じだったのか、教えろ」。現職の後輩が抗議すると、「そう言うな。お前が退職したら俺がここに引っ張ってやるから」。現職たちにデータを出させ、実名で本を出した元課長は、OBと現職が集う懇親会の受付席に自著を積んで、出席者に買わせた。「1人2冊」と言いながら。絶句させられる。

 幹部のメディア露出は警察広報の機能も持つ。が、「警察活動を国民に正しく理解してもらうため」というのなら、現在のように「私」がのさばるやり方をしていては理解はとうてい得られまい。

 幹部OBたちは厳しく自分を律する人格者が多い。しかし、位の高い者ほど徳を求められるべきノブレス・オブリージュを解さない一部のふるまいが、今の組織に悪影響を及ぼしているように思えてならない。若手刑事が言う。

 「『捜査の秘密は墓場まで持ってゆけ』と言っていた上司が、退職して逆のことをしているのを見ると、保秘の命令はホシをとるためのものではなく、所詮は自分の立場を守るため、保身のためだったのでは、と思えてきます」

 年長者への敬意が希薄化する組織は弛緩(しかん)していく。捜査1課長までつとめあげたほどの人がなぜそんなことを分からないのか、どうしてそんな恥知らずなふるまいをするのか、心底残念に思う。』

2012年9月22日 (土)

40代からの勉強法 やる気・集中力をどう高めるか (和田秀樹著 PHP)

ずっと以前に読み終えましたが、書き残したい部分が多くて、掲示が遅れました。いろいろと参考になると思います。

『ここで勘違いしてしまってはいけないのは、見た目が若いからといって、生理学的な年齢まで若返っているとは限らないということだ。・・・外見上が若いからといって、何でもかんでも若返ってしまうわけではなく、局所的に見ると、年のとり方には偏りがある。ことに脳の年のとり方は、昔からあまりかわっていないのが実情だ。

・・島耕作的な若々しい中高年もいる一方、今の中高年は昔の同年齢と比べると、むしろ意欲の低下が顕著になっている人も少なくない。要するに意欲の点でも格差社会化しているのだ。・・意欲の低下は、加齢からくる前頭葉の萎縮が一つにはあるわけだが、もう一つ考えられる要因に動脈硬化がある。そして、この動脈硬化を引き起こす年齢も昔の日本人とあまり変わらないか、むしろ低年齢化している可能性がある。

現在は自分の容姿にかまうようになり、外見的な若さを保とうとする努力を一様にしているのである。それに比べて、脳の若返りに対する関心は取り残されているのではないだろうか。

脳がやや萎縮したぐらいで知能の衰えが顕著に現れるようなことは滅多になく、むしろ問題なのは感情の老化である。

人間は感情から老化するということであるから、まず感情を隆起させるために前頭葉に刺激を与える勉強をすることだ。

結果、IQとは異なる能力として、①自分の感情を知る、②自分の感情がコントロールできる、③自分を動機付ける、④他人の感情を認識する、⑤人間関係をうまく処理する・・・という五つのインテリジェンスが成功する秘訣だということがわかった。・・基本的にEQ能力は、年齢とともに成長していくものであり、十代より二十代、二十代より三十代とその能力は高まっていくという。・・ただし、ゴールマン氏はそこで、「年齢とともにEQは高まるが、放っておくと四十代がピークだ」と言っているのである。

中高年になって意欲の低下を防ぐために勉強しようというのであれば、どのような勉強をするかという前に、自分に快体験を多く与えること、すなわち、遊ぶことが脳を若々しく保つコツということになるだろう。

実は、年をとるほど脳に強い刺激が必要になるのだ。

自分の夢だったことを実現するためのツール、環境は、昔と比べて飛躍的に向上している。そういった時代に生きていることのメリットを活かさない手はないだろう。

未知の体験をすることで、新しい発見があり、また、苦労の中から新しい可能性を見出すことができたのである。これは、感情の高ぶりを引き出すとと同時に、わたしのなかにあったスキーマ(無意識のうちにしてしまう見方や考え方)を壊すことにもつながった。

過労自殺が中高年以降に多い理由の一つには、セロトニンが若いころより減っているために、無理をするとうつ病になりやすいことがある。体力的には徹夜仕事をこなすことができても、何かのきっかけで心が折れやすいのだ。

中高年になれば勉強時間も限られるし、記憶力も落ちるのは確かである。その反面で、少ない時間で効率よく勉強する方法を編み出す知恵もあるだろうし、あるいは、社会的な立場や経済力がある分、使える手も増える。

100メートルを全力疾走してタイムを競えば、それはどうしたって若いころのようにはいかない。けれど、歩くスピードなら、七十代、八十代になっても若い人とそうかわらない。・・それでは、老化の決定的な側面とは何かというと、使わない際の差である。・・つまり、若いころとの決定的な違いは、使わなかった時の落ち方なのである。逆に言えば、からだにしても脳にしても、使い続けている限りは、年をとっても対して機能は衰えないことを意味する。

前頭葉の萎縮の進行を止めることはできなくても縮んだ前頭葉を使い続けることによって感情の老化を予防することは可能なのだ。

もちろん、病的状態の場合話が別で、認知症は一定以上に神経細胞が減少するだけではなく、生きている神経細胞も病的であり、脳の老化だけではなくやはり一つの病気ののである。したがって、脳を使っていれば認知症にならないというわけではない。ただし、使わないでいると、認知症に似た症状が起こることがある。

要するにスキーマがあることで、能率アップにつながるのである。・・ただし、そうあって経験則が積みあがっていく反面で、長い間にスキーマが強固になり、崩せなくなってしまうという弊害もある。・・年をとれば必ずスキーマにとりつかれてしまうわけではない。年をとってもすごい人は、やはり、感情が老いていないのである。

年をとったらなおさら、自分の興味があること、体が動くうちにやっておきたいことをすべきであり、自分からみて快体験であるなら、まよわずチャレンジすべきである。その刺激が前頭葉にとてもよい影響を与えるのだ。

感情の老化を自覚したら、いきなり難しい資格にチャレンジしたり、新しいスポーツを始めたりといった難易度の高いことを考えないで、チャレンジすることのハードルをぐっと下げるのも一つの手だ。

日本の場合はとくに、教授になると途端に勉強しなくなる傾向があり、このために感情が老いて老害と呼ばれるような年寄教授がたくさん出てきてしまう。アメリカなど他の国ではそんな傾向はない。教授になってからのほうがむしろ競争が激しいので、みんなはつらつとしている。

感情の老化予防にとって意外に大事なポイントは、「こいつには何を言っても許される」という相手を見つけておくことである。・・自分の考えを修正したり、新しい視点を見つけることができる。こうした頭の訓練が老化防止につながるのだ。

年をとって感情が老化してくると、何でもかんでも「くだらない」と思えてくる

自分が楽しいと思えるようなことを、ちょっと試しにやってみることから始めるという時に、一つだけ注意したいのが、依存症に陥らないことである。代表的なのがアルコールやギャンブル、最近ではインターネットやゲームも依存傾向を引き起こしやすい対象として問題視している。

ゲームは一見刺激的だが、脳はほとんど活性化されない。自分が意図しなくても話が進行していくし、ビジュアルが完成されているために想像力を働かせることもない。

今の日本では、このような内発的動機が強い人に外発的動機として報酬を増やそうとし、その逆に、内発的動機の弱い子供たちに対してゆとり教育を推進するような愚をやってしまう傾向がある。動機づけ理論から見るとなすべきことと真逆のことを平気でやっているのだ。これは自分のやる気を喚起するときでも同じで、やる気の出るツボというのは、ムチとアメのバランスがあるし、人によっても異なる。そのことを理解していないと、動機づけにならないばかりか、かえって意欲の低下を助長する原因となるので注意したい。

・・・厳しい現実の話ばかり半年間もかけて手をかえ品をかえ教える授業なのである。貧乏を知らない彼等でも現実を教えると恐怖感に駆られ、この貧乏恐怖が彼らのやる気を引き出し、入り口は偏差値三〇台という低いレベルの学校でも立派な社会人となって巣立っていく。これが、金沢工業大学の本当の秘密だった。

・・理想的な高い目標を掲げるのではなく、現実的に「達成可能な目標を設定する」ことが、やる気を引き出すうえでより効果的だとわかる。・・やってみなけれあわからないことを目標に設定する時点で、挫折するための仕掛けを用意しているようなものだ。やればできる目標を設定するのが一つのコツだ。

自分のことになると短所ばかり気になるが、他人のことなると逆に長所ばかりが気になる傾向が人間にはあり、これは、特に初対面の場合、顕著に出る。

・・ピグマリオン効果というものがあり、期待されるというだけで実際に能力が発揮しやすいのであるから、「できるやつ」とみられていることで損をすることはほとんどない。自分の長所を自覚しておくのは能力を発揮するために非常に重要なポイントなのだ。

ある財務官僚(当時は大蔵省だったが)の実話だが、同期の出世頭だったその人は、任官時点ではけっしてトップだったわけではなかった。・・それでもトップを切って出世したのにはわけがある。というのは、彼は、上司に指示された仕事に自分の中で優先順位をつけて、得意な仕事、あるいは、放っておいてはいけない仕事に絞って目いっぱいの力を出すようにしていたのである。この結果、仕事にかかればクオリティの高い結果をだすので、一部ではすこぶる評判がよかった。その半面で、得意な仕事に全力投球しているから、苦手な仕事、必要性の感じられない仕事はどんどん溜まっていったその仕事を依頼した上司は、当然催促する。すると、彼は、「どうやっていいのかわからなくて、まったく進んでいません。どうするばいいんでしょう」などととぼけていたという。このために彼の評判は、「できるやつ」と「できないやつ」にある時期まで二極化していたのだが、時を追うごとに「できる」という評判が断然高くなっていった。なぜかといえば、彼が「これは放っておく」と決めていた仕事は、次第に彼のところにまわってこなくなったからだ。・・この結果、自分にまわってくるのは得意な仕事だけになり、「できない」という評価はやがて消沈し、「できる」という評価ががぜん高くなっていったというわけだ。このように、できない仕事、やりたくない仕事は無理に引き受けないで、「自分には荷が重い。できません」と素直に言ってしまうのもの手だ。その結果、「使えないやつだ」という評価が一時的に下されるのは仕方ないといった開き直りも必要なことである。

予定が狂うことで他の仕事にしわ寄せがいったり、なかなか結果が出にくくなったりして、やる気がなえてしまう。だから、予定を狂わせない方法論をもつことが重要である。この場合の秘訣は、勉強にしても仕事にしても、一週間の中で量的目標を設定することだ。・・やるべき勉強量をなるべく具体的な数値に置き換えて設定する。・・土曜日は予備日として使う。なぜなら、自分で立てた量的目標は、能力よりも高めに設定してしまいがちだからである。・・残った日曜日はどうするかというと、土曜日にこなしきれなかった分の消化にあてる。もちろん、余裕があれば休養日にしてもいい。なぜこれが大事なのかというと、計画が予定通り進むことほど、やる気を維持する力になるものはないからだ。ちゃんと予定通り進んでいる、できているという成功体験が、次の訓練に自分を向かわせるモチベーションになる。

時間効率の大切さでよく語られるトヨタのカイゼン活動も、ストップウォッチで計って作業工程をコンマ一秒単位で削っていくといったことである。休憩時間を減らしたり、昼休みを短くすればもっと大幅に時間を作ることができそうだが、意外にそういうものではない。休憩を減らすと集中力が落ちて、かえって生産性が落ちてしまうのである。

無駄な時間の発見方法として効果的なのは、とにかく記録をすることである。・・改めてスケジュール帳などで細かく記録してみるとかなりの時間を無駄に使っていることに気付くはずだ。その無駄に使っていた細切れの時間を集めることで、・・意外と簡単にまとまった時間が作り出せるのである。

日本人は基本的に勤勉なのだが、こと勉強については、社会に出るとほとんどやらなくなってしまう傾向がある。活字離れが叫ばれ、しかも、ビジネス書が売れないということそれ自体が、とりもなおさず日本のビジネスマンがいかに勉強をしていないかの現れである。つまり、特別に難しい試験にチャレンジするとか、あるいは、大学に入りなおしたり、新しい仕事を始めたりしなくても、ビジネス書を一通り読むだけでもライバルに勝てるということになるのだ。・・どんな形にしろビジネス誌を読む人はせいぜい三〇人に一人しかいないわけだ。勉強しないと馬鹿になるという恐怖心では自分の心が奮い立たないなら、このように、「勉強した時点で勝ちなんだ」と考えればいい。ライバルたちがほとんど勉強していない状態なのだから、その中で一日一時間でも時間を作って勉強を続けていれば、大きな三位なる可能性が大きいのである。勝ち組、負け組という言い方をあえてするなら、勝ち組になることは実際にはそれほど大変なことではないと私は思う。

勤務時間中に勉強時間を一時間なり二時間なりつくり、その間も給料を支払い、あるいは勉強の材料を提供するというように、環境を用意したうえで、やらない人にはペナルティを課すという考え方に変えるべきだろう。そういう意味では、日本経済がまだ元気であったころには、ビジネスマンは日常的に勉強をしていたように思える。

問題はどうやって自分を暗示にかけるかである。・・簡単なのは、「自分が心からそう思えることを目標にする」ということだ。・・「それは、本当に自分のやりたいことなのか」と、自分に対して問いかけて、これこそ自分の糧になるはずだということに思い当たるまで続けるとよい。

合理的に考えるより、思い込んでしまっていることの方が、実際の効果は高い。・・やり方は多少不合理でも思い込んでしまった人のほうが勝ちなのだ。

トヨタ自動車がなぜ強いのかといえば、「カイゼン」や「TQC」といった技術的な理屈ではなく、要するに、職場そのものが個人に対して強く動機づけを促す雰囲気になっているからである。末端の若い社員の提案でも積極的に採用していく風土が、「自分にもできる」というチャレンジ精神を掻き立て、その中にいることでみんながみんなやる気になるということだ。

中高年になると集中力が持続しにくくなるのは、セロトニンの分泌量とも関係していると考えられるわけだ。それでは、セロトニンを増やすためにはどうすればいいのかというと、大事なのは肉類の摂取だ。肉の中に含まれるトリプトファンというアミノ酸がセロトニンの原料になる。

大人の勉強のいいところは、忙しくて時間がなかなか取れない反面で、幾つものことを同時進行で行えるところにある。学生のころは、使うお金も限られるし行動半径も狭いので、気晴らしの方法も限られるが、大人になれば飲酒なども含めていろいろな手が使えるし、仕事や趣味などの分野で適当に憂さ晴らしも可能になる。

・・一つの仕事で行き詰っても、次の仕事に切り替えることでいいリフレッシュの機会になるからだ。つまり、勉強に行き詰ったら、仕事に集中することでいったん勉強のことは忘れる。

・・蔭山英男氏でも、あるいは私も、勉強法をテーマに研究していると同じ意見になるのが、勉強を好きになる一番いい方法とは、「いい点を取ることである」ということだ。

大人になってからの勉強で、なかなか理解が進まないことの大きな原因の一つが、実は、復習をちゃんとしないことにある。・・大人になって自分で勉強するときには、意識して復讐の機会を作らないと、一回本を読んだだけで「もうわかった。大丈夫」と思い込んでしまいがちになるのだ。

一カ月の間で最低二回繰り返して頭に入れることで、「必要な情報」だと脳が認識し、知識が定着していくのである。逆に言えば、一度頭に入れて覚えたつもりでも、一カ月の間に繰り返し情報が入ってこなければ、いずれは「無用な情報」として脳がどこかに片づけてしまうのだ。

・・若い人たちと接する機会も多いほうだと思う。そうした中で最近とみに感じるのが、若い人たちのストレス耐性の低下だ。ちょっとしたきっかけで挫けてしまってそこから這い上がれない若者が多く、嫌なことからすぐに逃げようとする傾向が本当に強い。

・・ちょっとやそっとではへこたれない強い精神をもった子供が大人になり、会社に入ってからは終身雇用と年功序列に守られていたのである。メンタルヘルス的に見たら、これは極めて理にかなった正しいやり方である。ところが、だれが言い出したかわからないが、いまは、そのまったく逆をやってしまっている。

自分でやりたいこと、興味があることを進んで学ぶように促すといえば聞こえはいいけれど、現実の世の中はどうだろうか。好きなこと、やりたいことをするためには、嫌なこと、つらいことを乗り越えなければならないのである。

内発的動機型の教育で、すきなもの、やりたいことをやらせれば伸びる。だから、それだけをやらせればよいというのは、学校での教育期間の間はまだしも、現実社会に出ると全く通用しない。実際には、長い修業期間の中でやりたくないこと、つまらないこと、つらいことを乗り越えてやっと念願がかなうである。そういった訓練を経ないまま大人になっても、目の前にやりたい仕事が転がっていることは実際にはない。

もうアメリカは、ほとんどの製造業が壊滅状態といっていい。みんながサクセスストーリーを夢見て、ただでさえ低い収入を投資に振り向けることでかろうじて経済が回っているようなありさまだ。結果として、ITを除けば、株の業界だけがもうかるという極めていびつな社会構造になっている。

自らの所属する組織がいつ消滅しても不思議ではないし、これからもリストラは増えるだろう。すると、いつもそういう危機感をもって勉強なり、仕事の訓練なりをしておかないと、いざという時になって意欲がすっかり衰えてしまい、再び日の目を見ることなく失意のまま老いていくことになりかねない。・・意欲さえ失わなければ、人生は何度でもやり直しがきく。』

2012年9月20日 (木)

新聞記事から(【あめりかノート】ワシントン駐在編集特別委員・古森義久  24.9.20産経新聞朝刊)

近くで見るよりも少し離れてみると、よく見えることがあります。たまに遠くにいる気分でものをみるように心がけています。

『■尖閣危機 日本より切迫感

 「中国は海洋紛争の関係諸国に対し好戦的な暴漢のようにふるまい、とくに日本に向かって官営メディアやブログが国内の反日感情をあおり、各都市で反日暴動まで起こしているが、米国はあくまで同盟国としての日本を支援します」

 日本側としては、ほっとさせられる言明だった。米国連邦議会の下院外交委員会がつい先週、開いた南シナ海などでの中国パワー拡張についての公聴会だった。その冒頭で委員長のイリアナ・ロスレイティネン議員が中国の南シナ海から西太平洋での行動を無法だと非難し、その軍事の攻撃や威嚇には米国海軍を使っても日本やフィリピンを守るとまで明言したのだ。

 オバマ政権の高官たちの「尖閣には日米安保条約が適用される」という無機質な言明にちょっと息を吹きこむと、こうなるのか。伝統的に同盟の絆を重視し、しかもいまは野党の共和党の議員だから、こうした日本擁護の強い言葉が出るのか。

 だがオバマ政権と同じ民主党の同外交委筆頭メンバーのハワード・バーマン議員からも意外に強い見解が表明された。

 「南シナ海などでの今回の緊迫は中国側が一方的に火をつけました。中国の領有権主張はいつも膨張的で根拠が不明確なのに、いままたさらに攻撃的、挑発的となった。オバマ政権は中国のアジア海域での覇権の拡張を許さないでしょう」

 中国側の反日の部分にも鋭い批判がぶつけられた。中国政府の人権弾圧を長年、糾弾してきた共和党のクリス・スミス議員の発言だった。

 「中国の独裁政権は反日をあおるために、インターネットの検索でも『拷問』というと、戦時の日本軍の残虐行動の事例だけが山のように出るようにしています。古い出来事を昨日のことのように提示し、自分たちの現在の拷問はすべて隠す。日本はこうした動きに真剣な懸念を抱くべきです」

 米国側はこの種の領有権紛争にはもちろん超党派で平和的な解決を求めるが、この公聴会は尖閣を含む中国がらみの海洋紛争をすでに軍事課題に近い位置づけをしていることが明白だった。ロスレイティネン委員長も冒頭の声明で「中国の西太平洋までもの覇権の追求のために海洋での軍事衝突の可能性が確実に高まってきました」と述べていたのだ。だから南シナ海、東シナ海での米軍の戦力強化もしきりに論じられた。

 その過程でロバート・ターナー(共和党)、ジェラルド・コナリー(民主党)、ブラッド・シャーマン(同)の3議員からはっきり日本の名をあげての「防衛費の増額」「米国との共同防衛の強化」そして「尖閣諸島の独自の防衛」の要請がなされた。

 証人として発言したトシ・ヨシハラ米海軍大学教授は「尖閣防衛の主責任は当然、日本にあり、万が一の中国の尖閣攻撃には日本が最初に自力で対処して、反撃しなければ、日米共同防衛も機能しないでしょう」と述べた。こうして最悪の事態の軍事衝突を想定して、その対処への能力の強化を語るのは、軍事の強固な備えがあれば、軍事攻撃が防げるという抑止の思考からだろう。

 こうした米国議会での尖閣に触れる議論は政権の公式言明よりはずっと米側全体の本音に近いだろう。その本音は尖閣紛争を日本側よりもはるかに深刻に、切迫した危機としてみているように思えるのだった。』

2012年9月16日 (日)

忘れ得ぬ翼 (城山三郎著 文春ウェブ文庫)

さまざまな軍人の戦争体験について、知ることができました。

『九七戦・一式戦と軽戦闘機の名機が続いたため、それに甘えすぎていて日本では重戦闘機の開発が遅れるという副作用もあった。九七式戦闘機は、無線関係の装備が悪く、武装も機銃二挺という欠点があった。だが、空戦性能の良さに加えて、離着陸操作が比較的容易であり、空中分解・失速などの事故がほとんどないとあって、実戦訓練に使うには打ってつけの機種といえた。

若い将校の中には、腹を立てたり、自暴自棄になったりする者もあったが、矢口は落ち着いていた。何事も天命、神の心のままだと思った。無理難題は、いまの時代に始まったことではない。治水工事の途中、次々と果てていった薩摩義士たちの心を、すぐ身近に感ずる気がした。時代が要求するものなら、じだばたせずに従おう。

九七戦でグラマンに突っかけるときの矢口はこわいもの知らずであったが。このごろの若者は何事につけこわいもの知らずである。「神罰はないものかしら」と、和代は言う。あれほど神々は助けたもうものなら、逆に大いに怒り給うこともあっていいという口ぶりである。「時代が変わったのさ」矢口は弱弱しくつぶやく。九七戦の軽快な爆音、さらに、病院の上を旋回して去っていった隼の爆音が、矢口にはまだ昨日のことのように耳に残っている。戦友たちは、こういう人間のこういう平和のために死んでいかねばならなかったのかと、むしろこのことで心の痛みを感じもする。

この下士官にとって、戦争は何であったのか。学徒出身の自分たちがまだ熱病からさめきらぬ思いでいるのに、海軍を天職としたはずの男が、終わったものは終わったものとして、もう次の人生の設計を考えている。人生とは、本来、そういうものなのだろうか。

復員列車は大混雑で、島田あたりでは仲仲乗れず、駅で夜を明かすこともあるという。そうしてまごまごしている中に、呼び戻され警備隊に廻される心配がある。現に航空隊の倉庫が第三国人に襲われるという事件があり、残留部隊が編制された。

「十中八九どころか、百中九十九死だな」高峰は言い直したが、ふっとまた銀河隊のことを思った。「彼らは百中百死だけど」「一死のちがいですな」「たいへんなちがいだ。だから・・・」言いかけて、高峰はその先を飲み込んだ。背を丸めるようにして遠ざかっていく岸の姿が瞼に浮かんだ。あの男が臆病風にとりつかれたとするなら、それはこの百中百死ということのためなのだ。もし百中九十九死なら、あの男は持ち前の飛行機乗り根性で、、喜んで志願したことであろう。九十九死と百死の違いの重さが、あらためて高峰の胸を打った。

感傷の色で自由に染められるのは、死者だけだ。死者は死んだ後まで不幸なのだと思った。

「芋ヲ掘ル」とは、これも士官仲間の隠語であった。料亭の接待などが悪いと、灰皿や花瓶をひっくり返す、短剣で畳を切る、屏風を破る。思い切り暴れまわる結果、どんないい座敷も、たちまち芋掘り後の芋畠の様相となる。もちろん料亭のほうも心得ていて、後刻、十分な金額の損害賠償を請求してきて、それは月給から差し引かれることになる。結局、損をするのは士官たちの側で、ばかげているといえばそれまでだが、若い畠中たちにはそうでもして発散せぬとおさまらぬものがあった。

畠中に人生二十五を占った老易者は、終戦の年、釜石に移り、艦砲射撃を浴びて死んだ。・・だが、畠中にしてみれば、あの人生二十五の予言のおかげで、早くから死の覚悟ができ、死を急ぎもせず、とくに避けようと焦りもせず、結果として悠々と「迷いの畠」のペースで崩折れもせず生き延びられたのかも知れなかった-。

わたしゃ、戦争、戦争って、めそめそしてるのがいやなんです。戦争はたった四年、わたしにとっては、まる一年。それなのに、平和のほうはもう二十何年続いている。考えてみりゃ、すばらしいな。こんなに平和が続くなんて。それにしても、われわれにとっちゃ、この平和と繁栄の中でどう生きるか、そのことこそ目下の課題。

学徒出身のわたしにとっては、まるで異質の世界の人々であった。わたしは、違和感と同時に、うらやましさを感じた。石油ランプの灯影の中で、酒臭い息を吐きながら眠りこける男たち。わたしはここへ死の覚悟をきめてやってきたのに、彼等は覚悟などいうものとはおよそ無縁に生きて行けるかのようであった。わたしはまた、最後まで人間らしく生き、そして人間らしく死にたい、納得できる生き方、死に方をしたいと、自らに言い聞かせてやってきたが、それがいかに甘い感傷であったかを思い知らされる気がした。・・それにしても、何が彼らを獣のようにたくましくしたのだろうか。幾度となく死線をくぐりぬけてきた体験のせいなのか。たたきこまれた訓練や技量に対する自信によるものなのか。

前年の十月、すでに数少なくなった海軍雷撃隊を補うため、キ六七の陸軍重爆撃機隊は、爆弾の代わりに魚雷を抱いて、台湾沖の敵機機動部隊に突入、大戦果をあげた。もっとも、洋上航法に不慣れなため、帰途の針路がつかめず、一機を除いて全機帰還しなかった。航法さえ補えあ、陸軍機もまた海上航空戦の主役を演じることができる。-対立しがちであった陸海軍が、この点では珍しく一致し、海軍側は航法員を提供し、水上部隊を協力させての猛訓練となったのである。

別の機でいっしょに初出撃した航空士官学校出身の野々村少尉が、恐怖のあまり発狂してしまったのである。若手士官の中でひとり颯爽としていた野々村だが、眼がすわり、あらぬことを口走る。仮病でない証拠に、頭髪がごっそり抜け落ちていた。軍医の診断で野々村は国府台の陸軍精神病院へ後送された。あらためて、戦場のおそろしさがみにしみてきた。わたしは、別府の町へでてのみ、女を抱いた。恐ろしさを忘れるためには、酒と女しかないことがわかった。

わたしは、酒と女のおかげで、発狂もせず、精神の昂ぶりを押さえたつもりであった。性欲がみたされると、その後にはきまって気だるいような、うつろな時間が来た。すべてが味気なくなり、その空虚をうめらっるのは、強烈な刺戟、つまり出撃以外は考えられなくなる。わたしは、出撃したために酒と女におぼれ、酒と女のために次の出撃に憧れた。決死の覚悟ももたず、死の氾濫する戦場の空を彷徨した。生も死も、わたしにとって意味を失った。人間らしい死とか、納得のいく死に方などを考えなくなった。死は死でしかない。

特攻隊員たちとの接触はなかったが、彼等は意外に若く、少年ばかりに見えるときもあった。あるときは、ピスト近くで古自転車をぶつけあって、無心に騒いでいた。まぎれもない死。その死を目前に、酒や女と無縁のまま健康に生きて遊んでいる彼等。死の恐怖など実感していそうもないのが、せめてもの神の救いなのだろうかと、わたしは心を慰めた。

厄介なのは、風による偏流を測定し、針路を修正しなければならぬことである。昼間は白波の立ち具合などをみて測定するが、夜間はアセチレン弾を落とし、そのブレを偏流計でみて角度を測った。』

2012年9月15日 (土)

警視庁情報官 トリックスター (濱嘉之著 講談社文庫)

濱氏の作品がやっと電子書籍化されましたので、さっそく読んでみました。いろいろ興味深い記述がありました。

『日本国の労働組合は弱体の一途を辿っている。それでも大手企業のそれは、政治色こそ薄れてきているものの、優秀な社員がまだまだ多く加入していた。しかも、労働組合は一企業のものだけでなく、業種ごとの産別組合というものがあり、たとえば自動車業界、電機業界、繊維業界、電力業界という基幹産業の産別組合はいまだにそれぞれの代表を国会議員として送り出す力を持っている。

かつての官僚出身議員は、事務次官や長官を経験した官僚のトップや、少なくとも局長クラスの実績を踏んだ転身者が多かった。しかし近年は、課長経験者すら少なく、省庁内の鼻つまみ者だった連中が「官僚出身」をステータスとして国政に転身するケースまであった。

今日、天下り批判が出ているが、この批判により、かつては省庁内で自然淘汰されていた悪しき官僚が、最後まで組織内に残ってしまう弊害が起きたことも事実だ。

・・には他の原理主義宗派同様に、情報部隊と非公然部隊が存在した。これまでこの情報部隊や非公然部隊が活動したと思われる事件は世界中で何件か報告されていたが、その実態はまったくつかめていなかった。特に日本では国会議員を始めとして政財官が教団に深く食い込まれていながら、その実態が明らかでなかったのは、警察の怠慢というよりも、宗教の恐怖というものを国民が体験していないところにあった。

キリスト教ではバチカンを始めとして幾つかの団体にそれがある。バチカンそのものはスイスの傭兵に守られているが、コンクラーベが常に映画の主題になるように、権力闘争は凄まじいからね。場チアKンと考えを異にするクリスチャンもそうだ。

日本警察が初めて宗教団体の違法行為とされた「イエスの方舟事件」で、摘発に失敗して以来、宗教は捜査のタブーだった時代が続いた。しかし、オウム捜査ではこれまでのうっぷんを全て晴らすかのような徹底した公安捜査が行われた。

内調の最大の弱点は捜査能力がないところだ。情報を集めるだけの組織は、その対処能力に欠ける。

日本の教育レベルは高いといわれるが、レベルが高いのは義務教育の中でも最低限の初等教育中盤までの話だ。それ以降のものとなると、むしろ後れをとっている部分も多い。つまり、日本の教育水準は決して高くないのだ。とくに、教育の前段にある基本的な人間教育をおろそかにしてきた弊害が、今日の若い親たちの社会常識の欠落という形で表れていると思っていた。それを思うと、黒田はふと厭世的な気分になるのだった。

黒田が部下にも日頃から言っている「幅広い常識と深い良識」があれば、僅かな糸口であっても、何らかの共通項を見出すキーワードを探ることができる。これを見逃すかキャッチするかは情報マンとしてのセンス次第だった。

須崎は一度目を瞑ると、そのまま顔を垂れた。黒田はその反応をじっと見つめていた。それは収賄の被疑者が覚悟を決める姿によく似ていた。こんな時は被疑者の一挙手一頭足を逃さずに見ておくものである。頭を上げ、目を開けて視線がぶつかった瞬間の眼光が強いほうが勝つのだ。

総監室は総務部と同じ本部庁舎の十一階だが、総監、副総監と東京都公安委員の部屋に続く廊下はガラス扉で仕切られており、その中は赤絨緞になっている。ガラス扉の内側に立っているSPの脇を通り抜け、二人は総監室に向かった。

黒田はさらに続ける。「中でも本部勤務員であれば、その者の卓上の電話を全て傍受する必要もある。架電先もね。それから家族を含む全ての携帯電話、コンピューターメール等もチェックしてもらいたい」その姿勢は徹底していた。「そこまでやるのですか?」「極左の連中はやっているよ。CIA並みにね」

MAPというのは警備部に所属する白バイ隊で、Motorcycle Area Patrolの略称である。

「完全に行確」というのは二十四時間体制で監視するものであり、自宅の電話はもちろん、本人が保有する携帯電話の発着信もリアルタイムで傍受するもので、最高レベルの行動確認を意味した。』

2012年9月12日 (水)

新聞記事から(【先人巡礼】細井平洲(11)鷹山を支えた「先施の心」(24.9.12 産経新聞夕刊)、【正論】東京大学名誉教授・小堀桂一郎 乃木大将が殉じた明治の倫理観(24.9.11 産経新聞朝刊)

本日の夕刊と、昨日の朝刊から、読み返したいものを見つけましたので、残しておきます。 

『『江戸儒医評判記』が文学、中国語で最高の学者と評した細井平洲(へいしゅう)の学問について、さらに続けたい。儒者であるから、連載の6回目で説明した「平天下、治国、斉家、修身」を学問の目的としたことは言うまでもないが、実践を最も大事にした。

 「学問と今日とは二途(にと)にならざるように」

 〈学・思・行相須(あいま)ツ〉

 平洲が語り、書いた言葉である。学問をしたことと現実とが別々にならないようにと語り、学問と思索、実行の3つがそろって初めて学問したと言うことができる、と説いている。

 修身の方法を具体的に説いたのも当時としては珍しい。それは「譲る」「相手を思いやる」ことであり、最も人倫に外れたことは「驕(おご)る」「相手のことを考えない自分中心の行い」だと教えた。

 譲るための心構えとしては「先施(せんし)の心」を説いた。自分がやってほしいと思うことは自分から行え。人に親しまれたいと思えば、自分の方から親しんでいけ。人に敬われたいと思えば、自分の方から相手を敬え。そういう心が大切だという教えだ。この教えが実は、弟子の上杉鷹山(ようざん)が改革反対派が牛耳る国許に入ってから、何よりの「武器」になるが、そのことは鷹山の編で詳しく述べる。

 教育者・平洲に一貫しているのは、孟子が説く性善説への信奉である。人は生まれた時には驕りもなく、美しい真心を持っているから、それを伸ばしていくのが教育だという信条を持っていた。さらには、教育は菊作りではなく、菜大根作りのようでなければならない、と言っているのが興味深い。意訳すると、こんなことを語っている。

 「菊を作る人は、花や形をそろえようと、余分な枝をもぎ取り、多くのつぼみを摘み、勢いよく伸びた菊は先を摘んで縮め、好みに合わない花は一本も残さない。農民の菜大根作りは、一本一本の株を大切にし、畑の中には出来栄えのいいのも悪いのもあって、そろっていないが、どの菜大根も食用に役立てる」

 農家の次男坊から学者になった平洲らしいたとえである。』

『≪国際社会に衝撃を与えた割腹≫

 本年は7月30日に明治天皇百年祭の斎行を見た。そこで自然の順序として9月13日には乃木希典将軍夫妻の百年祭を迎へる事になる。改めて言ふまでもない周知の史実だが、明治天皇の崩御から45日を経たこの日に、御大葬の葬列が皇居から青山葬場殿に向け出発するその時刻に合(あわ)せ、乃木大将は割腹自殺を以(もっ)て天皇の御跡を慕つての殉死を遂げ、静子夫人も亦、夫君のお伴(とも)をして自刃された。

 この事件は当時日本国内のみならず、広く国際社会に(それは世界中に、といつてもよい広範囲のものだつた)隈(くま)なく報道され、大きな驚きと、むしろ衝撃を与へた大事件だつた。殉死といふ死に方は西洋文明圏の古代・中世史にも実例が皆無といふわけではないが、現にキリスト教文化圏を形成してゐる欧米の文明諸国の人々にとつて、20世紀の現在に、主君である一帝国の君主とその臣下としての世界的な名望を有する将軍との間に、文字通りに生死の境を越えて結ばれた、この様(よう)な強い絆が有り得ようとは、実に思つてもみなかつた奇蹟(きせき)的な出来事だつた。

 殉死の風習は日本には古代から存したと考へられ、殊に武家社会の盛期たる鎌倉・室町時代には少なからぬ青史の記録があり、人間同士の深い絆の象徴として賛美される一面はあつた。

 ≪否定的反応示した大正教養派≫

 然(しか)し徳川四代将軍・五代将軍の頃からはその弊害の方が重視され、武家諸法度による明らかな禁制の行為となつてゐたから、約二百五十年の歳月を距(へだ)てての、乃木将軍による殉死の復活は、欧米文明諸国に於(お)けるよりはむしろ日本国内に於いて、賛美ならぬ疑問や否定の反応を多く見るに至つたのも自然の事ではあつた。特に後世に大正教養派と呼ばれる事になる、欧米的個人主義を金科玉条として奉ずる若い世代の間に、乃木の行為に向けての否定的反応が多かつた。

 だが一方で、これも周知の文学史的知識に属するが、森鴎外が小説『興津弥五右衛門の遺書』で、夏目漱石が『こころ』の中で示した如(ごと)き、乃木の行為への深い理解と共感を示した知識人の数も十分多かつたのであつて、現在の視点から見れば、結局は同情派の方が民意の主流を成したと見てよいだらう。その事は大正12年の乃木神社の創建と、その戦災後の逞(たくま)しい復活、現在の崇敬者の数の多さ、そして付加へて言へば明後日斎行される御祭神百年祭の盛儀が暗黙の裡(うち)に証言してゐる所である。

 ≪個の利捨て公の義に捧げる≫

 ところで右に述べた乃木の殉死といふ行為を冷眼に見、結局は否定する風潮は簡約化して言へば、「公」の「義」よりも個々の市民の「私」の「利」と繁栄の享受の方に高き価値を見ようとする近代欧米流の個人主義の現象化に他ならない。この我欲の解放と私利の追求を無条件に肯定し賛美する思潮は、やがて日米戦争の敗戦と米軍の軍事占領に伴ふ米国式大衆民主主義の急速な流入を経験した。

 そこで謂(い)はば革命政府の統領からお墨付きを貰(もら)つた急進派集団の如くに、言論・教育界を我物顔に横行闊歩(かっぽ)し始めた。文部省の学習指導要領は、歴史の教育目標が社会の段階的発展の功利的意義を子供に理解させる事にあるのだと定義し、この論理を以てすれば、凡(およ)そ過去は現在よりは価値が低く、現在は未来よりは価値が低いことになつた。歴史の教材から各時代の代表的個人の業績が消え、大衆的集団の損得利害が専ら時代の価値を決定するかの様に教へた。

 こんな風潮が60年余り続いた揚句に、輓近(ばんきん)漸(ようや)く、歴史を動かす動因としての個人の意味を考へ直す新思考、といふよりも歴史は人物中心に考察してこそ面白く、且(か)つ現在に生きる人間への指針として意味があるのだといふ考へ方が復活してきた様である。それは端的に健康な傾向であり、歓迎に値する動きである。

 健康な歴史観の復調といふ曙光(しょこう)の中で眺める時、乃木希典夫妻の自裁といふ行動の持つ深い意味を理解できず、揶揄(やゆ)と冷笑を以て遇することしかしなかつた、大正教養派などと呼ばれる当時の一部知識人の浅はかさが、今こそ百年後の後生による厳しい批判を受けるめぐり合せになつてゐる。

 乃木の場合はその代表的実例といふにすぎないのであつて、明治の盛代を築いた先人達は全て正に乃木に代表される様な、公の義に捧(ささ)げるために己一個の利を捨てて顧みないといふ倫理に生きた人々だつた。その存在故に明治の栄光は実現し、その人々を冷笑する風潮が生じた故に、大正教養派の形成した日本には先代にはなかつた幾多の弱点が眼立つ様になつた。

 人はとかく戦後67年の占領後遺症への反省と後悔を口にする。それはたしかにその通りである。然し我々は己の過去を再検討し、以て将来の設計の指針を探らうとする時、その始点をもう少し遡らせて考へ、今我々は大正百年といふ世紀末の決算表をつきつけられてゐるのだとみるべきではないか。乃木将軍百年祭を迎へての所感の一端を正直に記してみた。(こぼり けいいちろう)』

2012年9月 9日 (日)

毛利元就 鬼神をも欺く智謀をもった中国の覇者(童門冬二著 PHP文庫)

私の実家近くの武将について、読んでみました。個人的にはこの著者の筆致はあまり好きではありませんが、とりあえず心に残ったところを書きおきます。

『元就はまた、「水はよく船を浮かべる。しかしまたよく覆す」という中国の古い言葉を口にした。水というのは部下だ。船というのは主人である。だから、この言葉は、「部下は船を浮かべてはくれる。しかし波を立ててひっくり返すこともある」ということである。

毛利元就は、生涯酒を一滴も飲まない。かれは、「酒は魔の水だ。人を狂わせる。ろくなことはない」と本気で信じていた。父の弘元も大酒で死んだ。兄の興元も大酒で死んだ。

興元の知っている吉田地域の地侍の傘連判状は、そういう責任回避を目的にしたものではなかった。むしろ、「地侍(国人衆)の、地域自治を認め合う」ということが主眼だ。主従関係でなく、同盟関係によって地域の問題を処理しようというのである。

毛利元就は、自分でも口にしていたように、「武人にとって大事なのは、武略、計略、調略である。これ以外ない」といっている。

元就は常に、「手続き」を重んずる。同時に、「行動の大義名分をたてる」ということにも意を用いる。いってみれば、「世論」を常に大事にする。

(そうでなくても西の大内、北東の尼子に挟まれた毛利家は弱小だ。生き抜くためには、家中が結束しなければ駄目だ。特に、宿老たちがバラバラではどうにもならない)と思っていた。

元就は、文芸方面にも幅広い関心を示し、またかれ自身も和歌を作っている。したがって、いまでいえば、「仕事一方ではない、教養の深い人間」といっていいだろう。しかしかれ自身、武人として生き抜いた信条は、「武略・調略・計略を重んぜよ」と言い続けたように、あくまでも戦略を重視した。

中国地方の戦国大名にとって、石見銀山は垂涎の的だった。この銀山をおさえれば一挙に財力が高まる。したがって、中国方面の戦国大名の間では、石見銀山を制するものが、中国地方を制する」とまでいわれていた。

「人の和を確実にし、さらに拡大して行ければ、自然の地の利も得られる」とかれは考えた。

天文二十年九月一日のことで、こうして中国に覇を成し遂げていた名門大内家の最後の投手は滅びた。大内義隆は、四十五歳であった。

元就は、「合言葉は?と聞かれたら、勝つ、といえ」と笑った。宿将がさらに、「で、それに対する応答の合言葉は?」と聞いた。元就は、「応答も、勝つ、だ」といったので、全員笑い出した。しかし、この、「勝つといえば、勝つと答える」という、共に「勝つ」という合言葉の設定は全軍の士気を大いに高めた。』

2012年9月 6日 (木)

武田信玄 風の巻 (新田次郎著 文春ウェブ文庫)

長い間更新しませんで、申し訳ありませんでした。

戦国武将やその家臣たちの生き方、考え方の一端を知れればと思い、読み始めました。以前このブログにのせた「甲陽軍鑑」との関連もあり楽しみです。

『・・・最も手ごわいのは諏訪です。・・諏訪を平定しない限り信濃進出はできません。しかしそれは将来のこと、今のところは、進出よりも、諏訪家を何とかして味方につけておかねば、信濃よりの侵略を受けることになります。

父信虎が国中の反感を買っていることは疑いなき事実であるが、その父との、政権交代は、よほど慎重にしないと、他国のあなどりを受けそれをきっかけに侵略をうけることになるのだ。

(いちいち間者を殺していたらきりがない、それよりも、殺すべき間者を生かして使う方法を考えたほうがいい)そのころから晴信の頭の中に、間者に対する策が、形作られつつあった。

・・すると、病というものは、誰の身体の中にもあって、機を見て、勢力を張ると申すのか。面白い見方だな、その説は一国に当てはめても、通用するぞ。国の力が衰えると、外敵よりも、まず内敵がおこる。それと、そちの病の原理とが同じわけだ。

滅亡一歩手前にいる敵を相手にして貴重な兵を失うことはない。もうしばらく見ていて明日の朝にでもなって、使者を送れば、頼重は一も二もなく降参するだろう。

戦国時代においては、嫁取りも、国と同じように、いくさの一つであることを里美はちゃんと知っていて・・

こういう山城を、真正面からせめても容易に陥るものではない。水の手をおさえてしまえば、あとは、放っておいても、城は陥る。

鉄砲を作ることができても弾薬は買わねばならない。買う道をつけねばならない。甲斐で鉄砲ができるころには西国の強豪はその鉄砲より、ずっと優秀なものを作るだろう。一度おくれをとれば、追いつくまでに大変なのだ。

(戦術というものは原則として極めて常識的なものである)晴信はすでにそれを知っていた。極めて常識的な戦術を使っていくさに勝つには、そのいくさを形成する個人にかかっていた。人と馬にかかっていた。「そうだ、人を作り、人を治むることに迂遠ではなかったか」晴信は書から眼をはなすと、いま頭の中に浮かびつつある何ものかを文章にまとめたいと思った。人を作ること、人を治むること、それが富国強兵の根本になるのだ。

(血気にはやりすぎたのだ)晴信はそのように自省した。宿老二人のいうことを聞いて、小笠原攻めのほうを先にすべきであったのに、それをしなかったのが敗戦の大きな原因だと思った。

・・甲軍は損得の戦いであり、村上軍は生死の戦いであった。それが勝負の分かれ目になった。若い晴信がそのことに気がついたときには遅かった。

「長尾景虎は余よりも、ずっと若い。まだ二十歳そこそこのはずだが、その名が甲州まで聞こえてくるところをみると、ただの男ではあるまい。その男の癖が知りたいな。どんなものを好んで食べるか、どんな女を愛するか、どんな男を重く用いるか、要するに人間としての癖を知りたいのだ」』

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