新聞記事から(「【先人巡礼】廣瀬武夫(12)男も女も生き方に芯」 産経新聞夕刊 24.7.27)
お見事・・・・・・!
『文部省唱歌『廣瀬中佐』のもう1人の主人公、杉野孫七についても語りたい。
慶応2年生まれで、廣瀬より2歳年長。19歳で、明治政府が設けた海軍志願兵制度の1期生として、横須賀鎮守府海兵団に志願入隊した。力自慢で、固い鉄のロープでも素手で結びつけることができたという。日清戦争には、水雷艇乗り組みで参戦。戦後は、英国で建造された戦艦朝日を回航する委員付で派遣された。
朝日は廣瀬と秋山真之が青年士官のころ、いつかはこんな艦に乗りたいと話し合った艦である。やがて廣瀬は朝日の水雷長になり、杉野も一等兵曹として乗り組んだ。
杉野は廣瀬に私淑し、第2次旅順口閉塞戦で、指揮官を補佐する指揮官付を設けることを聞くと、真っ先に志願した。他の3隻の閉塞汽船の指揮官はいずれも、士官である中尉を指揮官付に選んだが、廣瀬はあえて下士官の杉野を選んだ。よほどの信頼を置いていたことは間違いない。
〈若(も)しわたしが死骸でかへりたら国許に葬りてくれ。子供を世に出るまでいなかで教育せよ。其(そ)の内の一人は廣瀬少佐へ高等小学校卒業ののちあづけて海軍軍人にしたててもらふのだよ。今度は一寸(ちょっと)したあぶないしごとをやるから一寸申し残してをくよ〉
作戦の一週間前に杉野が、妻の柳子に宛てた手紙である。死を覚悟する一方で、廣瀬を信頼しきっている心情が表れている。
柳子は、夫とともに廣瀬も亡くなったために、3人の男児を抱えて生活に追われた。郷里の津市で和裁仕立ての内職で生計を立てているころ、こんな逸話が残っている。
政府主催の産業共進会、今で言うなら産業振興会のようなものが開かれた際、柳子は会場係に雇われた。そのことを視察の皇族が知り、「勇士に対する礼がない。何か援助の方法はないものか」と言われた。三重県があわて、柳子が出た津高等女学校の嘱託として裁縫を教えてもらおうとしたが、柳子は「資格も技能もない」として断った。断っただけでなく、子供を連れて上京し、シンガーミシン裁縫女学校で苦学し、教師の資格を得た上で、改めて同校の教職に就いた。廣瀬の時代、男も女も生き方に芯が通っていた。』