« 2012年6月 | トップページ | 2012年8月 »

2012年7月

2012年7月27日 (金)

新聞記事から(「【先人巡礼】廣瀬武夫(12)男も女も生き方に芯」 産経新聞夕刊 24.7.27)

お見事・・・・・・!

『文部省唱歌『廣瀬中佐』のもう1人の主人公、杉野孫七についても語りたい。

 慶応2年生まれで、廣瀬より2歳年長。19歳で、明治政府が設けた海軍志願兵制度の1期生として、横須賀鎮守府海兵団に志願入隊した。力自慢で、固い鉄のロープでも素手で結びつけることができたという。日清戦争には、水雷艇乗り組みで参戦。戦後は、英国で建造された戦艦朝日を回航する委員付で派遣された。

 朝日は廣瀬と秋山真之が青年士官のころ、いつかはこんな艦に乗りたいと話し合った艦である。やがて廣瀬は朝日の水雷長になり、杉野も一等兵曹として乗り組んだ。

 杉野は廣瀬に私淑し、第2次旅順口閉塞戦で、指揮官を補佐する指揮官付を設けることを聞くと、真っ先に志願した。他の3隻の閉塞汽船の指揮官はいずれも、士官である中尉を指揮官付に選んだが、廣瀬はあえて下士官の杉野を選んだ。よほどの信頼を置いていたことは間違いない。

 〈若(も)しわたしが死骸でかへりたら国許に葬りてくれ。子供を世に出るまでいなかで教育せよ。其(そ)の内の一人は廣瀬少佐へ高等小学校卒業ののちあづけて海軍軍人にしたててもらふのだよ。今度は一寸(ちょっと)したあぶないしごとをやるから一寸申し残してをくよ〉

 作戦の一週間前に杉野が、妻の柳子に宛てた手紙である。死を覚悟する一方で、廣瀬を信頼しきっている心情が表れている。

 柳子は、夫とともに廣瀬も亡くなったために、3人の男児を抱えて生活に追われた。郷里の津市で和裁仕立ての内職で生計を立てているころ、こんな逸話が残っている。

 政府主催の産業共進会、今で言うなら産業振興会のようなものが開かれた際、柳子は会場係に雇われた。そのことを視察の皇族が知り、「勇士に対する礼がない。何か援助の方法はないものか」と言われた。三重県があわて、柳子が出た津高等女学校の嘱託として裁縫を教えてもらおうとしたが、柳子は「資格も技能もない」として断った。断っただけでなく、子供を連れて上京し、シンガーミシン裁縫女学校で苦学し、教師の資格を得た上で、改めて同校の教職に就いた。廣瀬の時代、男も女も生き方に芯が通っていた。』

2012年7月25日 (水)

濹東綺譚(永井荷風著 )

昭和初期頃の東京の風俗などを知ることが出来、興味深い書でした。

『・・お雪の性質の如何に係らず、窓の外の人通りと、窓の内のお雪との間には、互いに融和すべき一縷の糸の繋がれていることである。・・窓の外は大衆である。窓の内は一個人である。そしてこの両者の間には著しく相反目している何物もない。

紅茶も珈琲も共に洋人の持ち来ったもので、洋人は今日と雖もその冷却せられたものを飲まない。これを以て見れば紅茶珈琲の本来の特性は暖かきにあるや明らかである。

鴻雁は空を行く時列をつくっておのれを護ることに努めているが鶯は幽谷を出でて喬木に遷らんとする時、群をもなさず列をもつくらない。然も猶鴻雁は猟者の放火を逃るることができないではないか。

東京音頭は郡部の地が市内に合併し、東京市が広くなったのを祝するために行われたようにいわれていたが、内情は日比谷の過度にある百貨店の広告にすぎず、・・・

・・東京市内の公園で若い男女の舞踏をなすことは、これまで一たびも許可せられた前例がない。地方農村の盆踊りさえたしか明治の末頃には県知事の命令で禁止せられたこともあった。東京では江戸のむかし山の手の屋敷町に限って、田舎から出てきた奉公人が盆踊りをすることを許されていたが、町民一般は氏神の祭礼に狂奔するばかりで盆に踊る習慣はなかったのである。

然し今の女は洋装をよしたからと云って、日本服を着こなすようにはならないと思いますよ。一度崩れてしまったら、二度とよくなることはないですからね。芝居でも遊芸でもそうでしょう。文章だってそうじゃないですか。勝手次第にくずしてしまったら、直そうと思ったって、もう直りはしないですよ。』

2012年7月23日 (月)

三屋清左衛門残日録(藤沢周平著 文春ウェブ文庫)

年をとってからの気持ちを感じることができました。さわやかな読後感を得られる書でした。

『若いころはさほど気にもかけなかったことが、老境に入ると身も世もないほどに心を責めてくることがある。

・・・もとは同列だったものが、三十年会わずにいる間にその違いが生じた。若い間は功名心も激しくまだ先があるとも思うから、多少の優劣などということでは決着がついたとも思わぬものだが、年取るとそうはいかぬ。優劣はもはや動かしがたいものとなり、おのがことだけではなく、ひとの姿もよく見えてくるのだ。

・・・政権を争うということになれば、単純な理屈の言い合いでことが決まるわけではなく、藩内にどれだけの支持勢力をまとめることが出来るかが、勝敗をわける鍵になってくる。

・・・ひとが知れば、・・・。さぞ親馬鹿と謗ることだろうと思ったが、清左衛門の気分を重くしているものは、もうひとつその奥にあった。親は死ぬまで子の心配からのがれ得ぬものらしいという感慨がそれである。

・・・日ごろ生まじめな嫁があんなおどけを口にするのは、それだけ三屋の家にもひとにも馴れてきたということである。めでたいことだと思った。清左衛門の年齢になると、そういうささいなことにも、ふと幸福感をくすぐられることがあった。珍重すべきことのように思われてくる。

・・・人間はそうあるべきなのだろう。衰えて死がおとずれるそのときは、おのれをそれまで生かしめたすべてのものに感謝をささげて生を終わればよい。しかしいよいよ死ぬるそのときまでは、人間はあたえられた命をいとおしみ、力を尽くして生き抜かねばならぬ、そのことを平八に教えてもらったと清左衛門は思っていた。』

2012年7月14日 (土)

雪明かり(藤沢周平著 講談社電子文庫)

短編集です。ほっとするような終わり方のものもありましたが、悲しい終わり方のもののほうが多かったように思います。絶望、そこに陥る前のはかない望みなどが切なく書かれていました。しかし、自分はそのような状況に陥らないように慎重に生き、もし陥ってしまったとしても、望みをもって生き、いずれ這い上がれるよう、精進していきます。

『森閑と凍る町に、伯母が憎む貧乏くしゃみがひびき、伯父の脇の下から見上げた月が、黒い空に銀色の穴を穿ったように光っていた。その夜を、竹ニ郎はその後長い間忘れることができなかった。

・・・妻子を養うためには、同僚を過失で死なせたことにも、死んだ同僚が冤罪を着て家をつぶされたことにも眼をつぶり、口を噤み(つぐみ)、ひたすら事なかれと通い続けるのである。そういう兄を非難できないのを、銀次郎は感じる。兄の生き方は、どこか物悲しいが、源次郎の非難など受け付けない強靭なものを秘めているようにも思われた。まるめた背が、源次郎が七つの時に死んだ亡父に似てきた、と思う。その背には、兄は小禄ながら五代にわたって続く堀家の、ずっしりとした重味を背負って、城と屋敷の間を往復している。

・・今にして思えば、おことは市蔵がもう戻ることが出来ない世界から声をかけてきた、たった一人の人間だったように思うのである。おつなや、小梅の伊八、富三郎がいて、油煙を煙らせる賭場があるところではなく、人々が朝夕の挨拶をかわしたり、天気を案じたり、体の具合を訪ね合ったりし、仕事に汗を流し、その汗でささやかな幸せを購う場所。そこに戻ることが、どんなに難しいかは、さっきあってきた親方の源吉を思い出せばわかる。

-しかし、気楽は気楽だろうな。と思った。喰うためには、何かしなければならないだろうが、それは城に雇われている人間も一緒である。家もなく妻子の煩いもないというのは気楽なものかもしれないと思った。ただ人は、その孤独に堪えられないときがあるだろう。』

2012年7月13日 (金)

秘太刀馬の骨(藤沢周平著 文春ウェブ文庫)

各剣士も見事でしたが、私には主人公夫婦の状況の変化が最も心に残りました。

『「あのころのことを忘れただか。用もないのに、杉江の顔見たさによくおれの家に寄ったろうが。杉江はつつましく奥にこもっているのに、喉がかわいた、お茶を持ってこさせろと催促しておれがつついたのを忘れはしまい」

「そげだごともあった。若かった」

・・・谷村新兵衛の家に初めて行ったのは幾つぐらいのときだったろうと、半十郎は思った。・・・後ろからつつましくついてくる杉江の身体が、桃の実のような芳香を放つのがわかった。そして自分の、道場帰りの汗まみれの身体とつぶれた面皰が盛大ににおうのもわかった。そういう半十郎をあざ笑うように空には夏の日が輝き、谷村家の庭の大木の緑の葉があるとも見えない風に揺れて、散乱する日の光をふりこぼしていたのもおぼえている。悔恨にいろどられたその午後の光景の中に半十郎は二十歳、杉江は十六歳だった。

「新兵衛、わるかった」と半十郎は詫びた。

「さっけだのような、軽はずみな口をきくべきではなかった。杉江はかけがえのない女房だ。大事にするさげ、安心してくれ」』

2012年7月 5日 (木)

新聞記事から(【石平のChina Watch】経済全面衰退の兆候 24.7.5産経新聞朝刊)

おなじみ石氏のするどい評論です。

『去る6月、中国の国内外から伝わった経済ニュースの多くは、この国の経済衰退を如実に示している。

 まずは6月21日、英系金融機関のHSBCが中国の6月の製造業購買担当者景気指数(PMI)を発表したが、それは前月比0・3ポイント低い48・1だった。景気の良しあしの分かれ目となる同指数が50を下回るのは8カ月連続で、指数としては昨年11月以来の低い水準となったという。

 そして29日、今度は国家統計局の発表によって、今年1月から5月までの全国一定規模以上の工業企業の利益が前年比2・4%減と連続4カ月のマイナス成長となったことが判明したのである。

 産業の景況悪化は別の情報によっても裏付けられる。電力消費量の大幅な低減である。国家統計局が発表した今年4月の全国の発電量は前年比0・7%増だが、それは1月の9・7%増から大幅に落ちた。英字紙ヘラルド・トリビューン紙は6月25日付の紙面で、基幹産業が集中する有数の工業ベルト地帯である江蘇省と山東省の電力消費量が前年比10%以上も激減したと報じている。

 筆頭副首相の李克強氏はかつて、中国の経済動向を見るのに電力消費量の変化が最重要な指標であると語っているから、彼の見方からすれば中国経済が衰退していることは確実である。

 経済衰退の兆候は別の方面でも表れている。シンガポールの聯合早報が、中国本土からの観光客がシンガポールや香港でブランド品や高級住宅、美術品などを買いあさるといった高級品の消費ブームが下火となったと報じたのは5月31日のことだ。

 6月23日のマカオ政府の発表によると、5月に中国本土からマカオを訪れた人は前年同月比4・2%減で、約3年ぶりに前年同月を下回ったという。経済の衰退に伴って、「金持ちの中国人観光客」というのは徐々に過去のものとなりつつある。

 これまで中国経済は主に、対外輸出の拡大と国内固定資産投資の拡大という「2台の馬車」で高度成長を引っ張ってきたが、この成長戦略が今や限界にぶつかっていることが経済衰退の主因であろう。

 例年25%以上の驚異的な伸び率で拡大してきた対外輸出の場合、今年1月から5月までの伸び率が8・7%増に止(とど)まり、過去のような急成長はもはや望めない。

 一方の固定資産投資の拡大に関して言えば、6月28日、経済参考報という経済紙が「資金不足ゆえに複数の国家的事業としての鉄道建設プロジェクトが中止・延期されたまま」と報じている。「ハコモノ造り」で成長を維持していくという戦略自体がすでに限界を迎えていることがよく分かる。

 こうした中で、中国経済の全面衰退は明確な趨勢(すうせい)となってきている。6月25日、中国の各メディアが伝えたある政府高官の発言は実に興味深い。全国の国有企業を監督する立場にある国有資産管理局の副主任にあたるこの人物は最近、国有大企業の経営者たちに向かってこう語ったという。

 曰(いわ)く、連続30年以上の高度成長を続けてきたわが国の経済は今、長期的な「緊縮期」に入ろうとしている。国有大企業は今後、「3年から5年間の厳冬期」に備えなければならない、という。

 おそらく国有企業だけでなく、中国経済全体がこれから「厳冬期」を迎えることになるだろう。ただしそれは果たして「3年から5年」の短期間で終わるものであるかどうか、それこそ問題なのである。』

2012年7月 2日 (月)

新聞記事から(「【日本よ】石原慎太郎 残酷な歴史の原理」 24.7.2 産経新聞朝刊)

石原都知事の随筆です。この人の言うことには反論したくなる部分も少なくありませんが、正しい指摘をしていると感じるところも多々あります。

『 歴史を振り返って見ると世の中を変えたのは絶対的な力、端的にいって軍事力だというのがよくわかる。いかなる聖人がいかに高邁な教えを説こうと、それが物事を大きく動かしたという事例はほとんど見当たらない。

 功成り名遂げ成熟安定した国家社会では、人権を含めてさまざまな理念が説かれようが、その実現が利得を離れて成就されたなどという事例はあまり見当たらない。

 今日世界一の大国と自負するアメリカは実は世界で最も遅く奴隷を解放した国でしかなく、その奴隷たちも極めて最近まで公民権をあたえられることなく過ごしてきた。

 歴史的に見てアメリカが人権の保護に関して最も厚い国だなどというのは彼等自身の虚妄であって、例えばスペインが国家として凋落し、その過酷な支配からようやく解放されようとしたフィリッピンをスペインに代わって乗っ取り植民地にしたアメリカは、独立を志す者たちをバターン半島に追いこみ四十万人もの者たちを餓死させて駆逐した。

 こうした事例は人間の歴史の中に氾濫していて、いつの時代どこにあっても軍事を背景にした力がことを決めてきたのだ。わずか三丁の鉄砲を手にしてやってきたスペイン人たちによって呆気なく滅ぼされたインカ帝国の人たちが、キリスト教に教化されて本質的な幸福を●んだかどうかは、いえたことではない。

 ヨーロッパに誕生した近代文明はほぼ一方的に世界を席巻し植民地支配を達成したが、その推進は決定的に勝る軍事力によって遂行された。それは古代から変わらぬ歴史の原理であっていかなる高邁な宗教もそれを否定出来まいし、宗教の普遍の背景にも歴然とその力学が働いているのだ。

 ということがこの日本という国に関し隣国シナとの関わりでも証明されるかも知れぬということを、今一体どれほどの国民が感じとっていることだろうか。

 繰り返していうが、今現在日本ほど地政学的に危険に晒されている国が他にどこにあるだろうか。敗戦のどさくさにロシアに貴重な北方領土を略奪され、北朝鮮には数百人の同胞を拉致して殺され、シナには尖閣諸島を彼等にとって核心的国益と称して堂々と乗っ取られようとしている我々。そしてそれら三国はいずれも核兵器を保有しそれをかざして恫喝してくる。

 多くの日本人が一方的に頼りにしているアメリカは、自国へのテロ攻撃に怯えイスラム圏に派兵し不毛な戦で国力を消耗し軍備を縮小しとじこもりかねない。彼等が金科玉条に唱えている人権の保護の実態は、シナの覇権主義によって実質的に消滅したチベットへの姿勢を眺めてもうかがえる。民族の個性もその文化も抹殺されてしまったあの国あの民族を本気で同情しているのは私の知る限り著名な俳優のリチャード・ギアくらいのものだ。

 日本とチベットではアメリカにとっての比重が違うという者もいようが、国際関係の中でアメリカにとって最重要なものは所詮自国の利益でしかあり得ない。

 この今になって私はかつてフランスの大統領だったポンピドーの回想録のある部分を思い出す。引退後彼が訪問して話した当時のシナの最高指導者毛沢東に、「あなたは水爆などを開発し何をするつもりなのか」と質したら、「場合によったらアメリカと戦争をするかも知れない」と答え、「そんなことをしたら二、三千万の国民が死ぬことになりますぞ」と諭したら、「いや、わが国は人間が多すぎるので丁度いい」と答えられ仰天したという。

 それを読んであることを思い出した。アメリカでのヨットレースで親しくなった男がかつての朝鮮戦争で新任の士官として分隊を率いてある丘を守っていた時、深夜異様な気配で思い切って明かりをつけて確かめたらいつの間にか目の前におびただしい敵兵が這いよっていた。そこで機関銃を撃ちまくったが次から次へと切りがない。しまいにはオーバーヒートの機関銃に水をかけて撃ちまくった。ようやく夜が明けて眺めたら累々たる死体の山。しかし確かめるとどの兵隊もろくな兵器は持たずに手には棍棒だけ、ろくな靴もはいていない。後にわかったが、彼等は台湾に逃げた蒋介石の残した兵隊たちで、人海戦術として前面に駆り出されその背後には中共の正規軍がいたという。

 こういう国家の本質をみればアメリカがたたらを踏むのは当然だろうが、そのアメリカを盲信している日本人も危うい話しだ。

 今日のシナの指導者たちがどんな感覚で国民を支配しているかはいざとなるまでわからないし、成熟しかけているシナの社会での兵士も含めて、場合によっては駆り出されるだろう若い世代の覚悟というか、有事に際しての反応はうかがいきれない。

 この現代に、彼等が場合によったら核の引き金を引くか引かぬかは占いきれまいが、私たちがその圧力に怯えて、彼等が一方的に核心的国家利益と称する日本の国土の島をむざむざ手渡すことは国家の自殺につながりかねない。

 そして日本の国家民族としての決意をアメリカが己の利益のために無視するのならば、結果としてアメリカは太平洋の全てを失うことになるのは自明だろう。

 尖閣諸島への対応には、実はアメリカにとっても致命的な選択がかかっていることを知るべきに違いない。』

« 2012年6月 | トップページ | 2012年8月 »