蝉しぐれ(藤沢周平著 文藝春秋)
評判どおりのさわやかな読後感のある小説でした。次のやりとりが心に残りました。
『「しかし、わしは恥ずべきことをしたわけではない。私の欲ではなく、義のためにやったことだ。おそらくあとには反逆の汚名が残り、そなた達が苦労することは目に見えているが、文四郎はわしを恥じてはならん。そのことは胸にしまっておけ」
「はい」
「矢田作之丞どのに話を聞いた。道場の若い者の中ではもっとも筋がいいそうだな。はげめ」
助左衛門がそう言ったとき、一枚だけ襖を開けはなしてある部屋の入り口に、さっきの武士が姿をあらわした。「牧助左衛門、それまでだ」と男が声をかけてきた。助左衛門は振り向くようにして男に一礼すると、文四郎を見て微笑した。眼が薄暗い光に馴れて、文四郎には父の笑顔がはっきりと見えた。
「登世をたのむぞ」
助左衛門はそう言うと、いきさぎよく膝を起こした。文四郎は何か言おうとしたが、言葉が出ず、入り口に歩み去る父親にむかって深々と一礼しただけだった。
・・・織部正は政治とは要するにそういうことで、治められる側の気持ちを汲むことだ、おやじがしたことをおぼえておけと言った。
・・・「二人とも、それぞれに人の親になったのですね」
「さようですな」
「文四郎さんの御子が私の子で、私の子供が文四郎さんの御子であるような道はなかったのでしょうか」
いきなり、お福様がそういった。だが顔は穏かに微笑して、あり得たかも知れないその光景を夢みているように見えた。助左衛門も微笑した。そしてはっきりと言った。
「それができなかったことを、それがし、生涯の悔いとしております」
「ほんとうに?」
「・・・・・・・・・」
「うれしい。でも、きっとこういうふうに終わるのですね。この世に悔いを持たぬ人などいないでしょうから。はかない世の中・・・・・」』
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