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2012年6月17日 (日)

麦屋町昼下がり (藤沢周平著 文藝春秋)

藤沢周平の作品にはまってしまいました。短編4編を収められています。

『「何か、待ち伏せを予想したようなことは言っておらなかったか」

「予想というのではないでしょうが、江戸をたつときに、途中危険があるかも知れぬから、十分に用心しろと言われたと申しておりました」

そう言ったとき重兵衛は、腹のあたりに名状しがたい怒りが動くのを感じた。重兵衛は、自分が新宮中老からさしむけられた護衛だと知ると、いかにも安堵したように笑顔を見せた田口を思い出したのである。怒りは不甲斐ない護衛役だった自分自身にむけられている。

・・・重兵衛は振り向いて欅の木を見た。傾いた日射しが欅を照らして、まるい幹の半分だけをうす赤く染めていた。重兵衛は、まだ少女の気の抜けない齢ごろの妻が、時どき欅のそばに来て稽古を見ていたことを思い出した。そんなことがはたしてあったのだろうかと、信じられない気がするほど遠いおぼつかない記憶だった。-あれから・・・・。何十年にもなる、そしてここに醜く腹のふくれたおれがいる、と重兵衛は思った。重兵衛の胸に、静かな悲しみが入り込んできた。妻に死なれたあと、物に憑かれたようにこおろぎ小路に通ったのは、やはり当座のかなしみ、さびしさから逃れるためだったろう。重兵衛も若かったのである。しかしそのうちに酒そのものがうまくなって、小路通いの、それが主たる目的になると、妻の顔は少しずつ遠ざかった。日々かすかになっていった。

・・・その仔細を眺めてきた田鶴には、突然に二十四の若さで前途を絶たれた若者の死を、夫のような言い方で無視することはできなかった。・・「この際は仕方なかろうといっているのだ」と織之助が言った。その夫を、田鶴はじっと見た。一瞬、憤激が熱く胸を焦がしたのを感じた。要するに、この人は俗物なのだ。家名などともっともらしいことを言っているが、内実はただの臆病者にすぎないと思った。

・・・田鶴も疲労に襲われていた。疲れが薄い膜のように身体を覆いつつんでいるのを感じる。だが、まだ戦えると田鶴は思った。勝負を捨てない粘り強い攻撃は、師匠の小城孫三郎にしばしばほめられたものだ。』

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