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2012年6月

2012年6月29日 (金)

政治家・官僚の名門高校人脈 (横田由美子著 光文社新書)

かつてのエリートコースについてはっきり知ることができました。

『それこそ戦前は、一中→一高→帝大、戦後は番町小学校→麹町中学→日比谷→東大というのが日本のエリートのたどる典型的なコースだった。文学界のみならず、政界でも、一時は麻布と勢力を二分するほど豊富な人材を輩出していた。

日比谷の校歌は別名「星陵歌」とも呼ばれている。そこから取って、永田町の国会議員を中心に「永田町星陵会」という組織が発足した。

官の中の官という称号をもつ旧大蔵省では、事務次官を務めた長沼弘毅から始まり、日比谷でなければ本流ではない、次官にはなれないという雰囲気するあったという。次官経験者でも本流と亜流がいるのが旧大蔵省の凄いところだ。少し追っただけでも、日比谷出身は、本流を歩く次官ばかりだった。

日比谷の場合は麻布同様、育ちのよい秀才も少なくないが、全般的に気骨あふれるタイプといった印象だ。友人同士の濃いつながりを好まない、群れないことが逆に彼らのポリシーのようにも見える。

昭和30年代当時、日比谷の名物は100分間授業だった。クラス分けにも特徴が出ていた。8人の教師の前に生徒が勝手に並ぶ。つまり、生徒が教師を選ぶのだ。すると人気のある教師とない教師の列は一目瞭然となったという。そういう環境に身をおけば、教師自身も切磋琢磨していく。』

2012年6月20日 (水)

新聞記事から(【「こころ」と「かたち」】福地茂雄 「うちの会社は別」ではない 24.6.20産経新聞朝刊)

私の所属するあらゆる組織が気づかないうちに衰退し、ついにはつぶれてしまう、ということがないように、気をつけたいと思います。

『日本経済を牽引(けんいん)してきた家電メーカーが巨額の赤字を計上した。創造性あふれるモノをつくり出し、世界を席巻した日の丸家電メーカーも、海外勢の台頭に加え、急激な円高や高額なインフラコストなどにより苦戦を強いられている。

 一時代を築いた企業がもがき苦しんでいる様子をみて、ジェームズ・C・コリンズ氏の著作「ビジョナリー・カンパニー3 衰退の五段階」を読み直してみた。非常に示唆に富む内容であり、企業は「成功から生まれる傲慢」からはじまる5段階を経て衰退していくと書かれていた。

 そこで考えた。他の企業が業績不振にあえぐ姿を見て「うちの会社は別だ」と思ったならば、その時点で既にその企業は転落への序章がはじまっているのではないだろうか。

 私がNHKの会長に就任したとき、不祥事のあとの危機の真っただ中であり、改革は待ったなしであった。2冊の本を携えて幹部職員への就任あいさつに臨んだ。1冊は1998年に発売された「アンダーセン発展の秘密」。世界の五大会計事務所の一角を占めていたアーサーアンダーセンがいかに発展していったかという軌跡を描いている。そして、もう1冊はそのわずか5年後、2003年に発売になった「名門アーサーアンダーセン消滅の軌跡」。アーサーアンダーセンは、米エンロン社の粉飾決算に端を発した問題で、あっという間に消滅したのだ。

 「うちの会社は別」ではない。沈まない船はない、ということだ。タイタニック号は絶対に沈まないとされていたが、船の設計者は「鉄でできている以上、沈みます」と言っていたそうだ。

 「ビジョナリー・カンパニー-」には、「規律なき拡大路線」が衰退の第2段階であると記されている。企業として拡大路線を取ることは決して間違っていない。チャレンジをしない組織は活力を失うからだ。とはいえ、やみくもに拡大路線を取ってはいけない。そこには規律が必要なのだ。規律とは、自らの事業領域をはみ出した事業には手を出さないということだ。そして撤退基準を定め、兵力の逐次投入は避けなければならない。道に迷ったときは原点回帰に尽きる。

 衰退した企業が全て復活しないままかというと、決してそうではない。「スーパードライ」発売前のアサヒビールも非常に厳しい時期があり、一時は企業存亡の危機にも立たされた。しかし、最高のタイミングでスーパードライを発売することができ、窮地を脱することができた。天の時・地の利・人の和が理想的にかみ合い、スーパードライは成功した。どれが欠けても、ここまではうまくいかなかった。

 「運が良かった」とも言えるが、神様は運とツキを公平に与えている。それをつかめるか、逃すのかが問題だ。運とツキをつかむためには、やるべきことをしっかりやること、そして謙虚な姿勢であり続けることだ。運が良かったことを否定して、自分の実力だけで成し遂げたと勘違いしてはいけない。それは「成功から生まれる傲慢」である。

 コリンズ氏はこうも書いている。「真に偉大な企業は困難にぶつかっても回復し以前より強くなって帰ってくる」。ものづくりの国・日本の底力に期待したい。』

2012年6月17日 (日)

麦屋町昼下がり (藤沢周平著 文藝春秋)

藤沢周平の作品にはまってしまいました。短編4編を収められています。

『「何か、待ち伏せを予想したようなことは言っておらなかったか」

「予想というのではないでしょうが、江戸をたつときに、途中危険があるかも知れぬから、十分に用心しろと言われたと申しておりました」

そう言ったとき重兵衛は、腹のあたりに名状しがたい怒りが動くのを感じた。重兵衛は、自分が新宮中老からさしむけられた護衛だと知ると、いかにも安堵したように笑顔を見せた田口を思い出したのである。怒りは不甲斐ない護衛役だった自分自身にむけられている。

・・・重兵衛は振り向いて欅の木を見た。傾いた日射しが欅を照らして、まるい幹の半分だけをうす赤く染めていた。重兵衛は、まだ少女の気の抜けない齢ごろの妻が、時どき欅のそばに来て稽古を見ていたことを思い出した。そんなことがはたしてあったのだろうかと、信じられない気がするほど遠いおぼつかない記憶だった。-あれから・・・・。何十年にもなる、そしてここに醜く腹のふくれたおれがいる、と重兵衛は思った。重兵衛の胸に、静かな悲しみが入り込んできた。妻に死なれたあと、物に憑かれたようにこおろぎ小路に通ったのは、やはり当座のかなしみ、さびしさから逃れるためだったろう。重兵衛も若かったのである。しかしそのうちに酒そのものがうまくなって、小路通いの、それが主たる目的になると、妻の顔は少しずつ遠ざかった。日々かすかになっていった。

・・・その仔細を眺めてきた田鶴には、突然に二十四の若さで前途を絶たれた若者の死を、夫のような言い方で無視することはできなかった。・・「この際は仕方なかろうといっているのだ」と織之助が言った。その夫を、田鶴はじっと見た。一瞬、憤激が熱く胸を焦がしたのを感じた。要するに、この人は俗物なのだ。家名などともっともらしいことを言っているが、内実はただの臆病者にすぎないと思った。

・・・田鶴も疲労に襲われていた。疲れが薄い膜のように身体を覆いつつんでいるのを感じる。だが、まだ戦えると田鶴は思った。勝負を捨てない粘り強い攻撃は、師匠の小城孫三郎にしばしばほめられたものだ。』

2012年6月16日 (土)

蝉しぐれ(藤沢周平著 文藝春秋)

評判どおりのさわやかな読後感のある小説でした。次のやりとりが心に残りました。

『「しかし、わしは恥ずべきことをしたわけではない。私の欲ではなく、義のためにやったことだ。おそらくあとには反逆の汚名が残り、そなた達が苦労することは目に見えているが、文四郎はわしを恥じてはならん。そのことは胸にしまっておけ」

「はい」

「矢田作之丞どのに話を聞いた。道場の若い者の中ではもっとも筋がいいそうだな。はげめ」

助左衛門がそう言ったとき、一枚だけ襖を開けはなしてある部屋の入り口に、さっきの武士が姿をあらわした。「牧助左衛門、それまでだ」と男が声をかけてきた。助左衛門は振り向くようにして男に一礼すると、文四郎を見て微笑した。眼が薄暗い光に馴れて、文四郎には父の笑顔がはっきりと見えた。

「登世をたのむぞ」

助左衛門はそう言うと、いきさぎよく膝を起こした。文四郎は何か言おうとしたが、言葉が出ず、入り口に歩み去る父親にむかって深々と一礼しただけだった。

・・・織部正は政治とは要するにそういうことで、治められる側の気持ちを汲むことだ、おやじがしたことをおぼえておけと言った。

・・・「二人とも、それぞれに人の親になったのですね」

「さようですな」

「文四郎さんの御子が私の子で、私の子供が文四郎さんの御子であるような道はなかったのでしょうか」

いきなり、お福様がそういった。だが顔は穏かに微笑して、あり得たかも知れないその光景を夢みているように見えた。助左衛門も微笑した。そしてはっきりと言った。

「それができなかったことを、それがし、生涯の悔いとしております」

「ほんとうに?」

「・・・・・・・・・」

「うれしい。でも、きっとこういうふうに終わるのですね。この世に悔いを持たぬ人などいないでしょうから。はかない世の中・・・・・」』

2012年6月 9日 (土)

海軍乙事件(吉村昭著 文春文庫)

戦争、情報戦の冷徹、過酷な一面、戦場の霧の一部を垣間見ることができました。

『大西大隊長は、中国戦線の経験から現地人を信頼することが危険であることを知っていた。

大西は、そうした苦い経験もあるので、セブ島に着任してからも現地人を使うことはせず、大隊本部には兵以外の者の出入りを厳禁していた。

・・・参謀タチハ、敵機ガ来襲シテ投弾シテイルト思ッタヨウデシタ。・・『補給ハシナクイテヨイ。出発ヲ急ゲ』ト、言イツヅケテイマシタ。・・このような経過で、第一番機、第二番機は、予定していた燃料補給を行わず出発することになったのである。・・・かれは、重量計算が予定通り進められたことに安堵した。が、かれは緊急出発の混乱の中で、ピトー管の被いをはずさねばならぬことを忘れてしまっていた。・・・しかし、現実には、その後パラオには敵機の飛来はなかった。敵機編隊接近中という緊急報告は、味方機を敵機と錯覚した警戒部隊の誤報であったのだ。

・・海軍中枢部は、・・機密図書について・・ゲリラ側からアメリカ側に渡されたようなことはないと判断していた。そのため連合艦隊司令部の作成したZ作戦計画を変更することはせず、司令部用暗号の切り替えも行わなかった。しかし、戦後、・・機密図書類がゲリラ隊長クッシング中佐から米軍側にわたされたことが明記されている。

かれらは冷静に検討し、機密図書ことにZ作戦計画が奪われたことによって日本海軍が作戦計画を変更することを恐れた。つまりアメリカ海軍は、日本海軍がその計画書とおりに作戦を起こすことを期待し、その裏をかくことを企てたのだ。そのためには、連合国側がそれらの図書を入手しなかったように偽装する必要があった。アメリカ海軍は、そのような結論に達し、潜水艦に書類ケースをのせて飛行艇の不時着した海面に向かわせ、故意にそのケースを流した。日本海軍の潜水艦にそれを発見させて、引き揚げさせようとしたのである。

昭和20年1月30日には45歳以上の男と婦女子に退避命令が出た。総員は173名で、・・・。しかし、1時間後にアメリカ海軍高速魚雷艇に発見され、船は撃沈された。そして、さらに魚雷艇は、洋上に漂う老幼婦女子に機銃掃射を反復し、生き残った者はわずかに重傷をおった尾崎治郎1名のみであった。

(ブログ主注;以降は海軍甲事件関連)

当時、その方面は、ほぼ完全に日本海軍の制空権下にあり、柳谷たちにとってブーゲンビル島、ショートランド方面へ飛行することはしばしばで、少しの危機感も抱いてはいなかった。・・・当然、長官一行の輸送機が敵機の攻撃を受ける可能性は考えられず、視察行動の立案をした司令部の室井航空乙参謀も護衛機を6機程度で十分と考え、他の現地関係者もその意見に積極的に反対する者はいなかった。つまり、6機の戦闘機の護衛は、長官機、参謀長機に対する儀礼にも似た意味すらあったのである。しかし、むろん苛烈な戦闘の行われている地域なので、護衛戦闘機には中堅クラスの空戦経験も十分な柳谷たちが選ばれた。

P38ライトニングノ群レデアルコトガ判リマシタ。機体ノ上部ハ緑色デ、低空ニ位置シテイルタメ、ジャングルノ緑ニ保護色トナリ、私タチノ方ガ機影ノ発見ガオクレタコトハアキラカデシタ。

柳谷たちに対して、責任問題は起こらなかった。かれらは、護衛していった長官機、参謀長機を敵機の来襲で失ったが、6機の護衛機で16機の敵機の攻撃を防ぐことは事実上不可能であった。そうした事情を理解していた上司達は彼らの責任を問うことはなく、一般の隊員たちも柳谷たちの不運に同情することはあっても、非難する者はいなかった。

BC級戦争犯罪裁判にかけられて有罪の判決をくだされた者は、4353名にも達し、その中で実際に死刑の執行を受けたものは920名、終身刑334名、有機系3099名にも及ぶ。

陸軍中野学校は、秘密戦に必要な者をひそかに要請することを目的にした機関で、情報収集、破壊活動等の方法が伝授され誠実を基本精神とし、その任務の性格上、軍人としての名誉は縁のないものとされていた。A氏たち18名の生徒は、陸軍通信学校で通信方法を学び、自動車学校では車、オートバイの操縦に習熟した。また航空士官学校では、同乗飛行ができるまでの教育も受けた。陸軍大学校、参謀本部から主要な人物が来て、外国事情その他を伝え、その間に、英語、ロシア語の授業もあった。むろん、その間に秘密戦に必要な知識が授けられ、鍵をドライバーや針金で開ける方法、封緘した書類袋を開ける仕方、特殊インキを使用する通信法などが実地で教えられ、甲賀流忍術家の講義と実習を設けたりした。それらの教育によって、情報収集、テロ、各種施設の破壊、変装方法などが教えられた。期間は一年間で、最後の一ヶ月は実習ということになり、満州に渡った。そして、ハルビンの近くで特殊な工夫を凝らした缶詰爆弾などによる爆破訓練を行い、奉天で解散になった。』

2012年6月 8日 (金)

新聞記事から(【新・関西笑談】甲子園魂は永遠に(5)元球場長・竹田邦夫さん 24.6.8産経新聞夕刊) 

自分がタイガースファンということもあるかもしれませんが、なかなか面白いインタビューでした。

『■阪神オーナーや三者三様の監督たち 珠玉の人生訓を学ばせてもらった。

 --著書「甲子園が育んだプロ野球フロント魂」には甲子園球場での仕事を通じて出会った人から学んだ人生訓がいくつも紹介されています

 竹田 甲子園球場の華やかな舞台の陰には、それを支える大勢の人がいます。フロントスタッフひとりひとりの魂を込めた仕事の結晶が甲子園球場なのです。平成9年から3年間、阪神電鉄本社秘書部長として久万俊二郎・元阪神電鉄会長(平成23年死去)に仕えたのも得難い経験でした。阪神タイガースのオーナーも務め、チームの改革に真正面から取り組んだ久万会長からは3つの人生訓を得ました。

 (1)人は長所を見る

 人の欠点は目につきやすいが、上に立つ者は隠れた長所を見いだし、伸ばす度量が必要ということです。

 (2)歴史をひもとくと必ずヒントがある

 歴史は繰り返すといわれる通り、経営判断のヒントは社史や業界史、経済史の中に見つかることが多いということです。

 (3)相手の本心や目的を読む力を身につける

 会話や議論で正しい結論を導くためには、言葉巧みな相手の誘導に惑わされるな、ということです。久万会長の教えは、その後の会社生活でも大きな支えになりました。』

2012年6月 7日 (木)

新聞記事から(【石平のChina Watch】「保守色」滲ませた習近平 24.6.7 産経新聞)

おなじみ石平氏の評論です。

『5月28日、中国の各メディアは習近平国家副主席の注目すべき発言を報じた。中央党校の校長を兼任する彼は入学式で行った講話の中で、「指導的立場にある各級幹部」に対する党からの要望として、「実情にそぐわないスローガンを持ち出さないこと、段階を飛び越えた目標を掲げないこと」を求めたという。

 一見変哲のない発言のように聞こえるが、中国の政治事情に詳しい人ならば「おや」と思ってしまうはずだ。三十数年前にトウ小平の改革が始まって以来、中国の政治文化の中では、「実情にそぐわないスローガン」や「段階を飛び越えた目標」は常に急進的な改革に対する批判の言葉として使われているからだ。

 今、温家宝首相や汪洋広東省党委書記を中心とする党内改革派が「政治改革」のスローガンを掲げてまさに「急進的な」改革を進めようとしているその時、次期最高指導者の習氏が前述の言葉を発したことは当然、改革派の主張に対する牽制(けんせい)として理解されるべきである。

 これは「政治改革」の大合唱が党内で巻き起こって以来、沈黙を守ってきた習氏が突如「不意打ち」をかけてきたような事態だ。国内の一部メディアが中央党校での習氏の講話を報じた際、わざと上述の発言を選び出してニュースのタイトルにしたのも、この発言の意味深長さを察知した上での扱いであろう。

 5月21日に北京で開かれた別の党会議での習氏の発言を見てみよう。習氏はここで、全国の共産党員に向かって「共産主義の遠大なる理想の揺るぎない信仰者たること」を求めたが、この発言もまた国内の注目の的となっている。

 共産党の高級幹部が党員に対して「共産主義の理想を信仰せよ」と求めるのは一見当たり前のように見えるが、実はこの二十数年間、資本主義経済の発達にしたがって、党と政府の指導者たちの口から「共産主義の理想」という古色蒼然(そうぜん)の言葉は徐々に聞こえなくなっている。温家宝首相は口を開けば「民主主義」や「人権」を語ることがあっても、「共産主義」という言葉をめったに使わないので有名だが、胡錦濤国家主席にしても、たとえば昨年7月1日に中国共産党成立90周年を祝賀する大会で彼が1万字以上の長文の講話を行った中で「共産主義」や「共産主義の理想」に触れることはつい一度もなかった。

 このような流れの中で、習氏一人だけが死語となったはずの「共産主義理想」を再び持ち出して強調していることは逆に彼が次期最高指導者として現政権と異なる独自の政治理念を固めていることを表している。「政治改革」に対する前述の批判とあわせて考えると、それが何であるかがよく分かってくるはずだ。

 要するに「太子党(党高級幹部の子弟グループ)」の一員としての習氏は、自分の親の世代が命をかけて作り上げた共産党政権に特別の愛着心を持つが故に、政権の原点であるはずの「共産主義理想」に執着する一方、政権の基盤を揺るがしかねない「政治改革」には大変な警戒心を持っているのである。

 「原理主義的保守派」というのはまさに指導者としての習氏の重要なる一側面であるが、この点では、彼は同じ「太子党」として「毛沢東回帰」を唱えるかの薄煕来氏とは一脈相通じるところがあろう。

 そして薄氏が失脚した今、習氏は党内の「保守派」の中心として本格的な「政治改革」の動きに歯止めをかける役割を担っていくだろうと思われる。ポスト胡錦濤の共産党最高指導部の中で、「改革VS反改革」の対立軸が出来上がりそうである。』

2012年6月 3日 (日)

新聞記事から(平成24年5月31日付 産経新聞 リチャード・ハロラン氏、ジェームズ・アワー氏)

同盟国米国は、経済状態が厳しいにもかかわらず、日本などを守ろるため、本気になってくれてきています。わが国も、いつまでも甘えるのはやめて、また時間の浪費はやめて、優先度の高いことから速やかに実現していくべきです。

『 【ハロランの眼 太平洋の真中で】米太平洋陸軍 戦闘の抑止へ 高まる重要性

 ベトナム戦争終結後、太平洋地域の米陸軍は、都会に来た貧しい田舎者のようになった。西欧へのソ連の脅威、湾岸戦争における砂漠の嵐作戦の展開、イラクやアフガニスタンでの長期の軍事行動のおかげで、他の地域の米陸軍よりも注目されなくなったのだ。

 今日、その状況は変わりつつある。ホノルルのフォート・シャフターに本部を置く米太平洋陸軍(USARPAC)は、米本土外で最大の米陸軍部隊になりつつあり、軍事予算の削減にもかかわらず優先的な財源配分が約束されている。

 太平洋陸軍の重要任務は抑止にある。その司令官、フランシス・ワーシンスキー中将は「戦いに勝利するだけでなく、それを阻止する努力も行う。最高の勝利は戦争よりも平和にある」と述べている。

 以下がその新たな姿だ。

 ▽フォート・シャフターで指揮センター建設が始まった。既存の12の建物に代わり、最新の先端技術を駆使した情報、通信機器が設置される。第1段階の建設費用は2年間で4680万ドルに上る見込みだ。

 ▽イラクやアフガニスタンで任務に就いた17万人におよぶ太平洋陸軍兵士らの経験を生かし、アジア太平洋全域で他国の陸軍との合同訓練を重視する。

 ▽2011年に日本を襲った地震や津波、原発の放射能漏れ事故のような災害への対応準備に重点を置く。同中将は「太平洋で自然災害の危険がない場所などない」と指摘する。

 ▽韓国に駐留する第8軍をUSARPACの第8野戦軍に改編し、韓国防衛に加え他地域への遠征も担う。部隊を集約するため韓国政府が130億ドルを拠出し2つの基地を建設中。

 ▽おそらく韓国に駐在する大将をフォート・シャフターに移すことで、現在中将が担う太平洋陸軍の指揮権をゆくゆくは大将に移行する。この点はダニエル・イノウエ米上院議員(民主党)が強く要請している。

 ワーシンスキー中将は「同胞の指揮官たち」にあてた白書で、太平洋陸軍の直近の将来像を披露した。白書は太平洋陸軍の方向性を知らせるために、同軍将官や旅団、大隊の指揮官、米政府機関幹部、アジア地域の軍高官に送られた。

 計画の大半は、昨年オバマ米大統領がアジア太平洋地域の兵力の「転換(ピボット)」もしくは「再重点化(リバランシング)」を宣言する前に策定されたのだが、白書は「アジア太平洋地域への米国の新たな焦点」を強調している。

 白書はまた、「この地域における米国の戦略的焦点には、多国間の協調した取り組みの重視がある」と指摘。軍の即応性の向上に加え、「地域の平和に有害な軍事的影響力を制限し、潜在的脅威を打ち消す」ことも目的だとしている。

 この点は太平洋陸軍に特別な責任を負わせることになる。同陸軍は、米国の同盟国やパートナーを含む大多数のアジア諸国において優勢でしばしば最も影響力のある軍隊だからだ。

 戦後の大半の期間、米国は諸外国での自軍の駐留や配置によって自国の安全保障上の義務を遂行してきた。これは今、米軍部隊が他国で数日から数週間訓練してその地にわずかな足跡を残して帰還するという取り組みに代わりつつある。

 白書は、アジア太平洋地域や他の国々での、米国の信頼構築のための努力を重視する。「どのような国や政府も、同盟国、パートナー間での信頼や影響力を一気に増幅させることはできない」とし、「それは何年もかかる手の込んだプロセスだ」と強調している。

 災害救助について、白書は多くの国で、軍隊は災害に即応できる唯一の組織だったと指摘。軍に対応を準備させるのは「議論の余地がなく、より大きな国際協力を必要とする防衛協力の一側面だ」としている。

 他国の陸軍との協力関係構築や災害救助のような任務を強調する一方で、白書はこう締めくくっている。

 「国家の戦争に勝利することはこれまでも、また今後もずっと、米陸軍にとって最重要の任務である」』

憲法改正に「トモダチ」の支持を

今日の日本は、経済的にも軍事的にも膨張している中国や、核兵器計画に自らの正当性を求めるほかない不安定な北朝鮮の近隣に位置することに加えて、日常的にハッカーのサイバー攻撃を受けている。その多くが中国人で、一部が中国共産党や人民解放軍に是認されているのはまず確実だ。

 ≪無防備の現状に米国の責任も≫

 米国は、日本に代わって憲法を起草し、周知の「不戦」をうたう第9条を含む草案を採択するよう強く求め、憲法改正を比較的困難なものにした以上、現状に対して多大な責任を負っている。

 米国は第9条について、米国による原案から、多少制限を抑えた芦田均氏の提案による、最終草案への書き換えを認めはした。しかし、1950年以降、憲法に何らの修正を命じることもなく、考え方をほぼ全面転換して日本に再武装を開始させたのである。

 その結果、合法的に創設された自衛隊が、非合法であるという感情を日本に生み、それは、とりわけ50年から70年にかけて強固だった。そして、憲法が改正されてこなかったがために、第9条は今日もなお、日本が普通の国であることに対して潜在的に危険な制約を加えかねないままである。

 米国のさらなる責任は米上院の行動に起因する。上院は、28年のケロッグ・ブリアン条約(パリ不戦条約)が、すべての戦争を違法とうたうことから、一方的に布告された侵略戦争のみを違法とうたうことへと変更されるまで、条約の批准を承認しなかった。だが、自己の安全のためには条約の修正を要求した同じ米国が、20年もしないうちに第9条を強く迫り、日本のみを、将来の自由と独立への差し迫った深刻な脅威に対して無防備な状態に縛り付けた。

 ≪「国家安全保障法」の立法も≫

 日本に警察予備隊の結成を指示した際には、憲法の改正を強く要請できたであろう50年当時とは違って、今日、米国には日本の憲法を改正する権限はない。しかし、米国は、共和、民主両党の政権下で60年余りもの間、日本に防衛能力を増強し始めるよう継続的に勧めてきたのだから、日本が第9条の改正を決定しても、あるいは、自衛隊の合法性と集団的自衛権を行使する自国の権利を、明確に規定する国家安全保障法案の可決を決めても、せめて、日本を批判することは慎むべきである。

 筆者はたまたま、この4月16日に、ワシントンのシンクタンク、ヘリテージ財団で、石原慎太郎東京都知事が講演した後の解説者を務めた。日本の領土としての尖閣諸島の地位を強調するため、東京都による尖閣購入を試みるという石原知事の発言は、多くのメディアの注目を浴びた。講演ではしかし、知事は憲法改正の要求も穏やかに繰り返したのである。

 どの国の国民も戦争のための戦争は欲しない。だが、わけても、国民が自国の独立を愛し自国を尊敬している国は、自らの自由に対する攻撃には、必要ならば武力によっても抵抗することを厭わないと表明する。国会で日本の防衛政策を非難された最中に、小泉純一郎元首相が「奴隷の平和は選ばない」と述べたように、自衛戦争に代わる許容可能な選択肢として奴隷をよしとする日本人が多いだろうとは、筆者は思わない。

 仮に、ニュージーランドが自国憲法に第9条の米国原案のような条項を取り入れても、大事にはならないだろう。ニュージーランドは偶然にも、およそ考え得るいかなる脅威からも、はるか彼方にあるからだ。かつて、ニュージーランドの「学者」数人が時のデービッド・ロンギ同国首相の「純粋」な原子力艦船入港拒否政策を、日本が米海軍艦船に対して、核兵器を搭載していないとの保証を求めずに自国への寄港を「黙認」していることと対比させつつ、論争を挑んできたことがあった。

 ≪尖閣購入並みに多数が賛成≫

 彼らの理不尽な言い分に、筆者は次のように反論したものだ。もしニュージーランドに二度と再び米艦船が寄港しないとしても、戦略的な重要度は取るに足らないものだろう。だが、米艦船の日本への寄港が妨げられれば、地域の、そして、地球規模の安全保障にとって極めて有害な帰結を招くだろう。日本が自国、米国、そして究極的にはニュージーランドにとっても深刻な脅威に対して戦略的な位置にあることを考えれば、と。筆者が彼らに、ロンギ氏が米大統領になったとして核兵器を放棄していただろうかと問うたところ、全員が恐らくそうはしていなかっただろうと静かに認めた。

 今、日本の憲法を改正できるのは日本のみである。まさに、尖閣諸島を政府所有にしようとの石原知事の呼びかけに大多数の日本人が好意的に反応したように、憲法改正と国家安全保障法の立法のいずれか、もしくは両方とも、大多数の日本人に支持されるだろう、と筆者は考える。そして、もし日本がそうすると決断するのであれば、米国は日本の決定を批判すべきでないばかりか、「トモダチ作戦」でしたように、友達として温かい支持を差し伸べるべきだというのが筆者の見解である。』

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