新聞記事から(23年12月18日、19日 産経新聞記事)
今週の産経新聞の記事で印象に残ったものを書き残しておきます。3件ありました。最初の2件は心の持ち方について、最後のものは、特にソ連の共産主義システムが哲学的に腐敗していたと看破していた部分が印象的でした。
『「名人になってから間もなく寛仁親王殿下のご講演を聴く機会がありました。殿下は『皇室であることを窮屈だと感じられることはないか、とよく問われるのですが、そんなことはないです。皇室という立場であるからこそいろいろな経験ができます』とおっしゃったのです。それを聴いて、名人という立場だから得られる経験があることに感謝しよう、そう思えました」』【彼らの心が折れない理由 棋士・谷川浩司】小松成美
『もちろん、気持ちだけで走れるわけではない。それでもレース終盤のせめぎ合い、デッドヒートによる決着などを見ると、やはり気持ちの強い方が勝つ-と感じてしまう。
4日に行われた福岡国際マラソン。終盤39キロを過ぎて日本人トップ争いは、川内優輝と今井正人の2人に絞られた。抜きつ抜かれつの末、先着したのは川内。「苦しいけれど一番好きな場面。ああいうところで戦うために走っている」。限界を目前にしての意地の張り合い-。ここに持ち込んだ時点で、軍配は上がっていた。ただし、外国勢との優勝争いには絡めず3位。タイム的にも辛うじて2時間10分を切っただけ。ロンドン五輪代表選考会としては物足りない。ここで公務員ランナーの“啖呵(たんか)”が小気味良い。「こんなタイムで(代表に)選ばれるとは思っていない」。当初の予定通り、2月の東京マラソンで「2時間7分台を狙う」-。“プロランナー”たちに勝った一因がここにある!?
くしくも、11月に行われた横浜国際女子マラソンでも、終盤デッドヒートが演じられた。こちらも五輪選考会。尾崎好美をかわして、ゴールテープを切ったのは木崎良子。初優勝に「この試合にかける思いが尾崎さんより強かった」。2月以降、駅伝をはじめすべてのレースを欠場して「この一本」にかけてきた結果だった。
マラソンばかりではない。1958年10月、西鉄-巨人で行われたプロ野球・日本シリーズ。このシリーズで、西鉄のエース稲尾和久が演じた活躍は目を見張るものだった。第1戦こそ4回3失点で降板したが、第3戦で好投。ただし0-1でまたも敗戦。3連敗の西鉄は、第4戦も稲尾を先発させて勝利する。第5戦は四回からリリーフ。そして第6、7戦で先発完投でチームを優勝に導き、「神様、仏様、稲尾様」と呼ばれた。
頭脳的なピッチングに加え、そのスタミナたるや恐るべし。だが、気持ちの大切さも認識していた。日本シリーズでの4連投を振り返り、「どんなにすごい体力を持っていても、どんなに素晴らしい技術があっても、それを生かしているのは心理的なものとか、精神的なものなんです」。
再びマラソン。五輪代表選考レースは残り男女とも2つずつ。ロンドンの舞台は強豪ひしめき、日本勢の分は悪い。だからといって気持ちで負けては始まらない。ひと泡吹かせてやる-という気概を残る選考レースでも見せてほしい。』【from Editor】気持ちの強い方が勝つ(金子昌世)
『 【ワシントン=古森義久】米国の対外交渉の当事者でエドワード・ロウニー氏ほどソ連共産党体制との駆け引きを長く深く続けた人物も珍しい。米ソ対立の核心だった核兵器の交渉をニクソン氏からブッシュ氏(父)まで5代の大統領の下で担当した。しかも米軍人としては朝鮮戦争からベトナム戦争、欧州駐留まで東西対立の最前線で活動してきた。そのロウニー氏にソ連の興亡についてインタビューすると、94歳の高齢にもかかわらず、回顧をふまえての明確な見解が返ってきた。
■「SDIが経済、軍事を弱化させた」
--ソ連の崩壊の主要因はなんだったと思うか
「ソ連の共産主義システムは哲学的に腐敗しており、やがては自滅の形で崩れることが確実だった。個人の人間が共産主義の理想の下に他の人間や集団のために完全に尽くすという完璧さがない限り、機能はできないシステムだった。それにソ連の社会がそもそも腐敗していた。西側の資本主義にも腐敗はあるが、法の支配がそれを補うことになる。だがソ連の体制は腐敗システムの維持のために個人の言論や信仰の自由をも抑圧する。このシステムの崩壊はさらに2つの要素により早められた」
--その要素とは
「第1はゴルバチョフ氏の登場だ。彼は権力を握ると、前任者たちよりは柔軟な姿勢をとり、ペレストロイカ(改革)やグラスノスチ(開放)の策を進めた。目的は共産主義体制の効率をよくすることだったが、一度、ビンのフタを開けると中の悪魔たちが飛び出し、抑えられなくなったわけだ。とくにソ連が共産体制を無理やり押しつけてきた東欧で反発が激しくなり、体制を崩すこととなった。第2はレーガン大統領が『力による平和』策をとり、断固たる対ソ姿勢を保ったことだ。レーガン氏はポーランドの労働組合の活動を応援し、ソ連の支配を押し返させた。ゴルバチョフ氏に直接、『ベルリンの壁を取り壊せ』と迫ったような強固な態度が功を奏したといえる」
--あなたはカーター政権の対ソ姿勢には反対したことで知られているが
「カーター政権下では私はソ連との第2次戦略兵器制限交渉(SALTII)の代表だったが、1979年にまとまった条約の内容が米国側に不利なことに抗議して、辞任した。そうすると、当時、大統領選の候補だったレーガン氏から声がかかった。その後の事態の展開でカーター氏ふうの融和的、妥協的な姿勢はソ連をかえって強硬にさせるだけであることが証明された。レーガン氏に最初に会ったとき、米ソ間の核兵器の均衡に関連して相互確証破壊(MAD)について説明すると、『米国とソ連はおたがいに相手の頭に実弾の入ったピストルを突きつけているわけだから、その頭にヘルメットをかぶせる措置をとればよいではないか』と問われた。この発想がミサイル防衛、つまりSDIと呼ばれた戦略防衛構想へとつながった。このSDIがソ連を動揺させ、その経済や軍事を弱化させたのだ」
--SDIはソ連をどのように崩したのか
「ソ連は自国のミサイルがもう米国を破壊できなくなると考え、SDIを恐れ、猛反対をした。ソ連はSDIの効用を過大に評価したようだ。だがミサイル防衛の競争では米国に勝てないと、はっきり認識していたといえる。SDIがソ連崩壊に果たした役割は非常に大きい。レーガン大統領がこうした措置を国内のリベラル派や国務省の反対を抑えて、実行したことこそソ連崩壊を達成した理由だ」
--レーガン政権ではあなたは対ソ戦略兵器削減交渉(START)の首席代表となったが、同政権の強固な姿勢はレーガン大統領自身の信念からだったのか
「そうだ。私もレーガン政権の閣議に出たが、当初から国防費を大幅に増額することに対し、複数の閣僚からインフレや失業への対策を理由に国防費抑制の主張がよく出た。だがレーガン氏はいつも『大統領の最重要な職務は米国民を外敵から守ることだ』と断言して、国防費の増額を続けた。その背後にはソ連の共産主義体制を『邪悪な帝国』と呼ぶ基本認識があった」
--ソ連との交渉中にソ連の崩壊を予想したことがあるか
「ソ連との軍縮交渉に参加した米側の人間の大部分はソ連の体制がやがては崩れると思っていた。あるとき、みんなで崩壊の時期を予測しあうと、2050年とか2010年という説が出た。私は2003年と答えた。結果として私の予測が現実のソ連崩壊の年(1991年)に最も近かった」
--米ソ間の核兵器をも伴う第三次世界大戦の危険を実感したことはあったか
「数回はあった。62年、ソ連が核ミサイルをキューバに配備したときが最も心配だった。ソ連側の指導者も理性的であれば、破局的な戦争は決して望まないとわかっていても、当時のフルシチョフ第一書記は合理性や理性に欠けていた。だがゴルバチョフ氏のときは最も安心できた。彼の理性を信じたからだ」
--米ソ間の87年の中距離核戦力(INF)廃棄条約の成立プロセスでもあなたは重要な役割を果たしたとされているが
「ソ連は当初、自国の中距離核ミサイルSS20を西側の中距離ミサイル撤廃と引き換えに欧州からは全面、撤去するものの、ウラル山脈東側、つまりアジア地域には保存しておくという主張だった。そうなると、日本に届くSS20が多数、残ることになる。レーガン政権内でも、欧州のソ連の中距離核がなくなるのだから、それでもいいだろうという意見があった。だが私は当時の中曽根康弘首相の強い要望を入れ、SS20の全廃棄をレーガン大統領に進言した。その案を大統領は受け入れ、ソ連に譲歩させたわけだ」』【ソ連崩壊20年 解けない呪縛】インタビュー編(元対ソ軍縮交渉首席代表 エドワード・ロウニー氏)