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2011年12月

2011年12月24日 (土)

新聞記事から(23年12月18日、19日 産経新聞記事)

今週の産経新聞の記事で印象に残ったものを書き残しておきます。3件ありました。最初の2件は心の持ち方について、最後のものは、特にソ連の共産主義システムが哲学的に腐敗していたと看破していた部分が印象的でした。

『「名人になってから間もなく寛仁親王殿下のご講演を聴く機会がありました。殿下は『皇室であることを窮屈だと感じられることはないか、とよく問われるのですが、そんなことはないです。皇室という立場であるからこそいろいろな経験ができます』とおっしゃったのです。それを聴いて、名人という立場だから得られる経験があることに感謝しよう、そう思えました」』【彼らの心が折れない理由 棋士・谷川浩司】小松成美

もちろん、気持ちだけで走れるわけではない。それでもレース終盤のせめぎ合い、デッドヒートによる決着などを見ると、やはり気持ちの強い方が勝つ-と感じてしまう。

 4日に行われた福岡国際マラソン。終盤39キロを過ぎて日本人トップ争いは、川内優輝と今井正人の2人に絞られた。抜きつ抜かれつの末、先着したのは川内。「苦しいけれど一番好きな場面。ああいうところで戦うために走っている」。限界を目前にしての意地の張り合い-。ここに持ち込んだ時点で、軍配は上がっていた。ただし、外国勢との優勝争いには絡めず3位。タイム的にも辛うじて2時間10分を切っただけ。ロンドン五輪代表選考会としては物足りない。ここで公務員ランナーの啖呵(たんか)が小気味良い。「こんなタイムで(代表に)選ばれるとは思っていない」。当初の予定通り、2月の東京マラソンで「2時間7分台を狙う」-。プロランナーたちに勝った一因がここにある!?

 くしくも、11月に行われた横浜国際女子マラソンでも、終盤デッドヒートが演じられた。こちらも五輪選考会。尾崎好美をかわして、ゴールテープを切ったのは木崎良子。初優勝に「この試合にかける思いが尾崎さんより強かった」。2月以降、駅伝をはじめすべてのレースを欠場して「この一本」にかけてきた結果だった。

 マラソンばかりではない。1958年10月、西鉄-巨人で行われたプロ野球・日本シリーズ。このシリーズで、西鉄のエース稲尾和久が演じた活躍は目を見張るものだった。第1戦こそ4回3失点で降板したが、第3戦で好投。ただし0-1でまたも敗戦。3連敗の西鉄は、第4戦も稲尾を先発させて勝利する。第5戦は四回からリリーフ。そして第6、7戦で先発完投でチームを優勝に導き、「神様、仏様、稲尾様」と呼ばれた。

 頭脳的なピッチングに加え、そのスタミナたるや恐るべし。だが、気持ちの大切さも認識していた。日本シリーズでの4連投を振り返り、「どんなにすごい体力を持っていても、どんなに素晴らしい技術があっても、それを生かしているのは心理的なものとか、精神的なものなんです」。

 再びマラソン。五輪代表選考レースは残り男女とも2つずつ。ロンドンの舞台は強豪ひしめき、日本勢の分は悪い。だからといって気持ちで負けては始まらない。ひと泡吹かせてやる-という気概を残る選考レースでも見せてほしい。』【from Editor】気持ちの強い方が勝つ(金子昌世)

 【ワシントン=古森義久】米国の対外交渉の当事者でエドワード・ロウニー氏ほどソ連共産党体制との駆け引きを長く深く続けた人物も珍しい。米ソ対立の核心だった核兵器の交渉をニクソン氏からブッシュ氏(父)まで5代の大統領の下で担当した。しかも米軍人としては朝鮮戦争からベトナム戦争、欧州駐留まで東西対立の最前線で活動してきた。そのロウニー氏にソ連の興亡についてインタビューすると、94歳の高齢にもかかわらず、回顧をふまえての明確な見解が返ってきた。

 「SDIが経済、軍事を弱化させた」

 --ソ連の崩壊の主要因はなんだったと思うか

 「ソ連の共産主義システムは哲学的に腐敗しており、やがては自滅の形で崩れることが確実だった。個人の人間が共産主義の理想の下に他の人間や集団のために完全に尽くすという完璧さがない限り、機能はできないシステムだった。それにソ連の社会がそもそも腐敗していた。西側の資本主義にも腐敗はあるが、法の支配がそれを補うことになる。だがソ連の体制は腐敗システムの維持のために個人の言論や信仰の自由をも抑圧する。このシステムの崩壊はさらに2つの要素により早められた」

 --その要素とは

 「第1はゴルバチョフ氏の登場だ。彼は権力を握ると、前任者たちよりは柔軟な姿勢をとり、ペレストロイカ(改革)やグラスノスチ(開放)の策を進めた。目的は共産主義体制の効率をよくすることだったが、一度、ビンのフタを開けると中の悪魔たちが飛び出し、抑えられなくなったわけだ。とくにソ連が共産体制を無理やり押しつけてきた東欧で反発が激しくなり、体制を崩すこととなった。第2はレーガン大統領が『力による平和』策をとり、断固たる対ソ姿勢を保ったことだ。レーガン氏はポーランドの労働組合の活動を応援し、ソ連の支配を押し返させた。ゴルバチョフ氏に直接、『ベルリンの壁を取り壊せ』と迫ったような強固な態度が功を奏したといえる」

 --あなたはカーター政権の対ソ姿勢には反対したことで知られているが

 「カーター政権下では私はソ連との第2次戦略兵器制限交渉(SALTII)の代表だったが、1979年にまとまった条約の内容が米国側に不利なことに抗議して、辞任した。そうすると、当時、大統領選の候補だったレーガン氏から声がかかった。その後の事態の展開でカーター氏ふうの融和的、妥協的な姿勢はソ連をかえって強硬にさせるだけであることが証明された。レーガン氏に最初に会ったとき、米ソ間の核兵器の均衡に関連して相互確証破壊(MAD)について説明すると、『米国とソ連はおたがいに相手の頭に実弾の入ったピストルを突きつけているわけだから、その頭にヘルメットをかぶせる措置をとればよいではないか』と問われた。この発想がミサイル防衛、つまりSDIと呼ばれた戦略防衛構想へとつながった。このSDIがソ連を動揺させ、その経済や軍事を弱化させたのだ」

 --SDIはソ連をどのように崩したのか

 「ソ連は自国のミサイルがもう米国を破壊できなくなると考え、SDIを恐れ、猛反対をした。ソ連はSDIの効用を過大に評価したようだ。だがミサイル防衛の競争では米国に勝てないと、はっきり認識していたといえる。SDIがソ連崩壊に果たした役割は非常に大きい。レーガン大統領がこうした措置を国内のリベラル派や国務省の反対を抑えて、実行したことこそソ連崩壊を達成した理由だ」

 --レーガン政権ではあなたは対ソ戦略兵器削減交渉(START)の首席代表となったが、同政権の強固な姿勢はレーガン大統領自身の信念からだったのか

 「そうだ。私もレーガン政権の閣議に出たが、当初から国防費を大幅に増額することに対し、複数の閣僚からインフレや失業への対策を理由に国防費抑制の主張がよく出た。だがレーガン氏はいつも『大統領の最重要な職務は米国民を外敵から守ることだ』と断言して、国防費の増額を続けた。その背後にはソ連の共産主義体制を『邪悪な帝国』と呼ぶ基本認識があった」

 --ソ連との交渉中にソ連の崩壊を予想したことがあるか

 「ソ連との軍縮交渉に参加した米側の人間の大部分はソ連の体制がやがては崩れると思っていた。あるとき、みんなで崩壊の時期を予測しあうと、2050年とか2010年という説が出た。私は2003年と答えた。結果として私の予測が現実のソ連崩壊の年(1991年)に最も近かった」

 --米ソ間の核兵器をも伴う第三次世界大戦の危険を実感したことはあったか

 「数回はあった。62年、ソ連が核ミサイルをキューバに配備したときが最も心配だった。ソ連側の指導者も理性的であれば、破局的な戦争は決して望まないとわかっていても、当時のフルシチョフ第一書記は合理性や理性に欠けていた。だがゴルバチョフ氏のときは最も安心できた。彼の理性を信じたからだ」

 --米ソ間の87年の中距離核戦力(INF)廃棄条約の成立プロセスでもあなたは重要な役割を果たしたとされているが

 「ソ連は当初、自国の中距離核ミサイルSS20を西側の中距離ミサイル撤廃と引き換えに欧州からは全面、撤去するものの、ウラル山脈東側、つまりアジア地域には保存しておくという主張だった。そうなると、日本に届くSS20が多数、残ることになる。レーガン政権内でも、欧州のソ連の中距離核がなくなるのだから、それでもいいだろうという意見があった。だが私は当時の中曽根康弘首相の強い要望を入れ、SS20の全廃棄をレーガン大統領に進言した。その案を大統領は受け入れ、ソ連に譲歩させたわけだ」』【ソ連崩壊20年 解けない呪縛】インタビュー編(元対ソ軍縮交渉首席代表 エドワード・ロウニー氏)

2011年12月23日 (金)

「東大」「ハーバード」ダブル合格 16倍速勉強法 (本山勝寛著 光文社知恵の森文庫)

自己啓発の書です。いろいろと参考になる記述がありました。

『勝利の勉強方程式:勉強成果=「地頭」×「戦略」×「時間」×「効率」

私は、頭も筋肉と同じだと考えています。使えば使うほど鍛えられ、柔軟になり、強くなります。筋肉と同じで負荷をかければかけるほど強くなり、強くなるほどいろいろな使い方が可能になります。・・・学校教育が終わってしまうと、特に意識をしない限り頭を使う機会がなくなるので、頭の働きが固定化されてしまうだけだと私は考えています。したがって、日ごろの生活の中で、意図的に頭を使う機会を設け、意識して頭を鍛えれば頭は何歳からでもよくなるのです。

「勉強を進める上で、頭の良さは確かに重要な要素であるけれど、それは固定されたものではなく、変化するものである。」この意識をまずは持っていただきたいと思います。そうすることで、単に目の前に控えた試験などを意識するだけではなく、もっと大きな目標、人生における長期的な頭の鍛え方・使い方を意識した生活ができるようになるでしょう。

頭の良さは工夫と努力しだいで変わります。だから誰もが頭がよくなりうるのです。ではもう一歩先に進んでみましょう。それは、「自分は頭がいい」と思い込むことです。

地頭の良さの最も基礎になるものは・・「読み・書き・そろばん」がそれにあたる

「そろばん」とは、計算力、数字による発想力、推論力にあたります。

本を読むのにゆっくりできるまとまった時間など必要ありません。本は常に持ち歩くのです。

実用書を読むコツは、まず薀蓄や背景は読み飛ばし、先にポイントを確認したら、あとは具体的事例を自分が経験しているかのように読むことです。そして、読んだこと自体に満足するのではなく、そこに書かれていたことを自分の事情に合わせてかならず実践してみることです。そうすれば、読書で得たことが単なる知識にとどまらず、あなたの地頭を構成する一部となるのです。

何が正しいかわからないとき、数値は重要な判断材料になります。それは自分自身の判断においても、他人の意思決定を促すときにも同様です。数字に強くなることは論理力を高めることでもあります。

数といえばやはり計算です。計算力をつけることは数値の処理能力を高める第一歩といえるでしょう。その計算の中でも特に「四則演算」つまり、足し算、引き算、掛け算、割り算を正確に早くできるようになることがまずは大事です。

世の中には文字と同じくらい数字があふれています。それを右から左へと読み流してしまうか、好奇心の対象として、あるいは物事を読み解くヒントとして捉えるかで、地頭の鍛えられ方が大きく変わってしまいます。より効果的なやり方を考えたり、勝負に勝つために何をしたらよいか戦略を考えたりすることで、地頭を鍛える機会を増やし、実践的な数値処理の経験をつみましょう。

「地頭」=「読む力」+「書く力」+「数を処理する力」+(持続力や瞬発力、集中力を含めた体力)

勉強で勝利するためには、「やりたい!」と心の底から強く思える明確な目標を必ず立てなければなりません。そのためには、目標は曖昧ではいけません。必ず具体的でなければならないのです。・・目標が具体的であればあるほど、やるべきことも具体的になり、「やりたい」あるいは「やらなきゃ」という気持ちもリアルになります。目標を具体化すること。すべてはそこから始まります。

人間誰しも怠けたいと思うものです。誰かにムチ打ってもらうか、自らムチ打って無理やりでも鼓舞しなければ、なかなかがんばれるものではありません。だからこそ、目標に期限を設定し、「この日までやらないとやばい」と自分自身に釘を刺しておくのです。また、目標達成に日にちをつけることで、達成した瞬間のイメージがわきやすくなります。

戦略構築の要となる情報は合格体験記と合格マニュアル本にあります。たとえ本がなくても、今ではインターネットのどこかに隠されているはずです。勉強はただ闇雲にしても効果は上がりません。まずは正確な情報を得てプランをたて、常にその計画、戦略が適切かどうかをチェックしましょう。

どんな夢もそれを細かく分解すれば、達成できそうな小目標になるのです。どんな大きなピラミッドも一つ一つ、石を積み重ねてできたはずです。たった一つの石を積むことなら不可能ではないでしょう。誰にでもできます。ならば、ピラミッドを作ることも不可能ではないのです。目の前に大きな目標があるのなら、それを小さく切り分けて一つ一つやっつけてしまいましょう。

勉強を始めるときは、まずはできることから始めて、ペースを作っていくのがよいでしょう。三日坊主を乗り越えて、一週間から10日間くらい継続できれば、それが習慣化され、ある程度その生活スタイルを維持できるものです。

成長を実感するために、自分の成長過程を可視化しましょう。

「勝利の勉強方程式」の中で最も変動の幅が大きいのは「時間」です。どんなに忙しい人でもすぐに2倍にすることができるし、受験生であれば10倍にすることも可能です。「16倍速勉強法」を確実に実践するための骨格といってもいいでしょう。

勉強をがんばるというと、睡眠時間を削ることが真っ先に考えられがちですが、それでは起きているときの勉強効率が下がってしまいます。十分な睡眠時間を確保しながらも、普段の生活の中で無駄になっている時間や片手間の時間を有効活用することで、勉強時間を増やす努力をして見ましょう。・・勉強にかけている時間を百パーセント有効活用してこそ、本当の勉強時間だといえるのです。

本当の勉強時間=(モチベーション+工夫)×勉強効率

勉強効率=コツ+集中力

暗記のポイントは、「イメージ」「キーワード」「反復」です。イメージで捉え、キーワードで引っ掛けて、反復で定着させる。これが暗記の王道だと思います。

(単語の暗記について) 単語の意味一字一句を覚えようとするのではなく、イメージで捉え、簡単なキーワードに引っかかるようにします。その作業を何度も繰り返せば、音やスペルのつながりと単語のイメージや意味が徐々に強くリンクされ、やがて頭の中で一つになります。

典型的な非効率的勉強法として、あまりにも細かい部分まで完璧にじっくりやろうとするため、すべての範囲を網羅できずに終わってしまうという例があります。・・時間には限りがあるので、もし目標が80点なら、80点を取るための勉強をすればいいのです。

普段は好きなことを前にするとスイッチが入るものですが、そのスイッチを好き嫌いにかかわらず、やろうと思ったことに向けられるかが勝負です。

集中力を高めるには、ほどよい緊張感が必要です。一番望ましいのは、「受験の本番のように毎日の勉強に臨む」ことです。

まとめ:勉強成果=地頭×戦略×時間×効率=(読む力+書く力+数を処理する力+体力)×(目標の立て方+情報+プランニング+モチベーション術)×(モチベーション+工夫)×(コツ+集中力)』

2011年12月17日 (土)

教科書・日本の安全保障 (田村重信・杉之尾宜生著 芙蓉書房出版)

長く、更新しないままでおりました。繰り返しチェックしてくださっていた方々には失礼しました。今回は、安全保障の本です。最後の章の「軍事古典としての「孫子」と「戦争論」」は大変勉強になるものです。

『アメリカ軍が本格的に軍事古典を学習し始めたのは、ヴェトナム戦争が終結した後のことであった。その契機は、世界で最強の物理的な軍事力を保有していると自他ともに認められていたアメリカ軍が、ヴェトコンや北ヴェトナム軍との個々の作戦・戦争では敗北していないのに、気がついてみたら不名誉な撤退を余儀なくされていたことにあった。

春秋・戦国時代の収支を通ずる約550年(紀元前770~221年)の動乱の時代にあっては、いかなる強大な国家であっても自国の「生存・生き残り」のための安全保障こそが重大な関心事であって、国家目的も周王朝にとって代わって天下を統一しようといったような遠大なものではなく、当面する「生存・生き残り」を確実にしようとするものであった。このような時代にあっては、戦争は征服や統一のためではなく、本質的には自国の「生存・生き残り」という安全保障のために、望むべくは回避・抑止し、それができなければ最小限の損害を持って対応すべきものであった。

まず武力戦の能力は、自分の支配領域、勢力圏内の農耕地を農民を奪われないための防衛保全の役割を果たすことが、第一の役割であった。次いで自ら積極的に武力を行使する場合の戦の性格は、より以上の繁栄を追求するために辺境の農耕地と農民を獲得するための制限戦争であって、相手を殲滅し滅亡させるようなことは論外であった。そこでなるべく武力を行使することなく、権謀術数を尽くす謀略的外交を主体とする「不戦屈敵」の戦争観が培養されることになっていった。

・・彼(クラウゼビッツのこと)は一貫して次の2点を主張している。一つは「戦争は他の手段をもってする国家政策の継続に他ならない」ということが、明確かつ厳正に確立されなければならないことであり、二つ目は”二種類の戦争”という視点をもっと明確にするということであった。

”二種類の戦争”とは、第一は敵の完全なる打倒を目的とする戦争であり、第二は敵国の国境付近において敵国領土のいくばくかを奪取しようとする戦争であると区分している。

「国家の生存・生き残り」を、国家存立の至上命題とすることは至極当然のことであり、改めて論ずるまでもないことであるが、クラウゼビッツは、「相手にわが意思を強要する」ことが至上の「戦争の目的」であり、「敵を無力化する」ことが「軍事行動の目標」であるとするのに対し、「孫子」では「武力の行使」を行うことなくして「国家の生存・生き残り」を図るのが「善の善なるもの」(Best way)であるとするのである。

「孫子」においては、「百戦百勝は善の善なるもの非ざるなり」(謀功篇3)として、「武力の行使」による脅威排除を最善の対応の方策とはしないと力説してははいるが、「伐謀、伐交」の「不戦屈敵」を具現するための前提条件として、平素から厳正なる教育訓練によって「百戦百勝」し得る精強な軍隊を練成しておかなければならないとするものである。

武力戦を、孫武、孫ピンは已むを得ざる場合の国家的な対応策と考えたのに対し、クラウゼビッツは政治的な目的を達成するための手段と規定したところが、両者の基本的な相違点である。

・・・「絶対戦争」の視点から、「現実の戦争」の視点に転換して、原稿大修正の企図を明示している。しかしクラウゼビッツの後継者たちは、彼の注意喚起に気づかずにか、あるいは故意に無視してか、その後の軍事科学技術の驚異的な発展との相乗効果の上に、ひたすらに「概念の戦争」である「絶対的戦争」を現実の世界に顕現させようと努力したのである。「孫子」における戦争の理解認識は、クラウゼビッツの後継者たちとは全く対照的であった。孫武・孫ピンたちは、クラウゼビッツの後継者達が不純物と見做して取り除いたものを、戦争と不即不離の不可分な一体的なもので、戦争そのものを規定する基本的な要素であると考えていたのである。

(クラウゼビッツは)「防衛力の運用」に関連するものと、「防衛力の整備」に関連するものとを旗幟鮮明に区別したのである。今日では、これら両者をも一体的に含めて戦略の対象としていることはいうまでもない。現在では平時における防衛力の整備が有事における防衛力の運用による対処機能を発揮するための基礎的な前提条件であるだけにとどまらず、平時における抑止機能そのものであることを疑うものはいない。

「孫子」は兵法書でありながら、「不戦」により「政治目的」を達成することを最善としたが、クラウゼビッツは武力戦の本質や特性について論じており、「武力を用いないで政治目的を達成する」という分野は政治の仕事であるとして、「戦争論」の直接的な研究対象には加えていないのが特徴である。

「戦争論」と「孫子」の最も大きな相違点は、前者が政治と軍事とを明確に区分して両者の相関関係、あるいは武力戦そのものを分析研究しようとするのに対し、後者にあっては政治と軍事の境界が必ずしも明確ではなく、分析の手法が不明瞭であるという批判がないわけではない。しかし、この曖昧な研究の性格こそ、「孫子」兵法の極めて貴重な特性である。戦争のような複雑多岐にわたる大規模な社会現象にあっては、分析的な観察研究の重要性は当然のことであるが、それだけに「猟師、鹿を追って山を見ず」の弊に陥らない配慮も見逃すことはできず、より包括的に全体像を把握しようとする物の見方考え方に比重が置かれていることは貴重である。

「孫子」は、戦争目的、戦争終末構想、戦力整備、投入戦力、開戦時期の決定等の戦争指導に関わる事項は、最高政治指導者たる君主が主催すべき事項であるが、作戦・戦闘における指揮・運用をも含む武力戦指導に関わる事項は、最高軍事指導者たる将軍の専決事項に属するべきものであって、君主が容喙・干渉すべきものではないことを一貫して論じている。』

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