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2011年9月

2011年9月30日 (金)

新聞記事から ( 【石平のChina Watch】蘇った「日本軍国主義復活論」 産経新聞23.9.29)

昨日の新聞からです。危機はますます近づいてきています。

『満州事変(中国語では「9・18事変」=1931年)の発端となった柳条湖事件80周年記念日だった今年の9月18日、事件が起きた遼寧省瀋陽市で盛大な記念式典が行われた。毎年の式典開催は恒例であるが、今年のそれは、遼寧・吉林・黒竜江の旧満州3省による初めての共同主催で「史上最高格式」の式典となったと、中国の各メディアが報じている。

 式典では、現地時間午前9時18分から14回の「警鐘」の音とともに防空警報が鳴り渡った。このほか、吉林省長春市、黒竜江省ハルビン市も含めた全国100余りの都会で防空警報のサイレンが一斉に鳴らされた。

 この日、共産党機関紙の人民日報も記念の社説を掲載した。日本の新聞とは違って、中国の新聞は何か重大事件の発生や重要な記念日に際してのみ社説を出すものだから、中国指導部が今年の「9・18事変」記念日を格別に取り扱いたいと考えていたことがうかがえる。前述の「史上最高格式」の式典開催も当然、上層部の思惑の反映であろう。しかし一体どうして、今年になって「9・18」がこのようにクローズアップされたのだろうか。

 人民日報系の環球時報電子版は19日、事変への記念記事を掲載した。前述の人民日報社説と同様、この記事も日本の「中国侵略」批判から始まって「愛国主義精神の高揚」で終わっているが、特別に注目すべきなのは、記事がその締めくくりの部分において「日本国内における右翼の台頭」を取り上げながら、「日本は軍事的に再び捲土(けんど)重来する可能性が十分にあり、日本の軍国主義はすでに復活している」というとんでもない結論を出した点である。

 筆者の私自身もこの行を読んだ時には驚きを禁じ得なかった。いわば「日本軍国主義復活論」たるものは、1990年代の江沢民政権下では高らかに唱えられて氾濫していた時期があったが、胡錦濤政権下の2002年あたりから、それが徐々にメディアから姿を消して「お蔵入り」となった観がある。

 もちろん胡錦濤政権時代においても、「歴史問題」を用いて日本を叩(たた)くのは依然、中国政府の常套(じょうとう)手段の一つであり続けたが、「日本軍国主義復活論」とは問題の次元がまったく違う。

 「日本の軍国主義は既に復活している」と言い出してしまうと、それはもはや「過去の歴史」に即しての日本批判ではない。この論調は明らかに、現在の日本国を「軍国主義国家」、すなわち中国にとっての現実の「敵国」だと見なして、「日本敵視政策」推進のための理論的武装を準備しようとしているのである。

 そういう意味では、胡錦濤政権の末期となった今、荒唐無稽な「日本軍国主義復活論」が堂々と人民日報系のメディアで蘇(よみがえ)ったことは実に危険な兆候である。先月19日、中国共産党中央委員会機関誌の『求是』も電子版において「日本軍国主義の復活を警戒せよ」との論文を掲載しているから、「日本軍国主義復活論」の「復活」はどうやら本物のようだ。

 その背景にあるものとして、もともと江沢民一派の後押しで最高指導者候補の地位を勝ち取った習近平氏が次期政権の対日方針を江沢民時代に「先祖返り」しようとしていることが考えられる。経済と社会がこれから深刻な局面を迎える中で、政権内の一部の人々が国内危機回避の常套手段として「反日」という「伝家の宝刀」を再び抜こうとしているのかもしれない。

 いずれにしても、中国における「日本軍国主義復活論」という敵意に満ちた論調の復活はわれわれにとっては大いに警戒すべき危険な動向の一つであろう。』

2011年9月25日 (日)

心の操縦法 真実のリーダーとマインドオペレーション (苫米地英人著 PHP文庫)

以前に、この人の別の著作について書き記しました。ネットで調べると彼の言っていることは賛否両論あるようです。しかし、私にとっては非常に気になる存在でもあり、今回はこの書を読んでみました。

『本書でいうリーダーとは、人の上に立ち、自主的に仕事を動かし、新しい人を作っていく人。・・優秀なリーダーかどうかは、情報空間(抽象的な空間)をいかに高い視点から俯瞰できるかにかかっている。

リーダーとなってゆくためには、決定権に応じた広さの情報空間にアクセスできる能力を身に着けなければならない。別の言い方をすれば、情報空間において高い視点を持って、情報空間を俯瞰できるようにならなければならない。

視点を上げるということは、より多くの情報を持っているということではない。・・視点を高くすると、情報量は減る。しかし、潜在的な情報量は増える。・・さまざまな状況に対処できるようになる。別の言い方をすれば、リーダーは現場よりももっている情報は少ない。現場にしか分からない情報がある。けれども、高い視点を持っていればどんな現場にも対処できる、ということ。現場の人が経験したことのない、新たな事態への対処すら、できる。

視点を高くすることを、カント以降の分析哲学では、「抽象度を上げる」という。・・抽象度を低くして、つまり情報量を増やしてゆくと、具体的な「これそのもの」というものになる。せかいのどんな「これそのもの」を二つ選んでもその両方の情報を持つ存在、つまり概念の下限とはなにか。例えば”イヌ”であり、さらに”ネコ”である存在。これは”矛盾”です。概念の世界の下限、つまり抽象殿低いほうの端は矛盾なのです。・・・逆に抽象度の高いほうには端がない。・・つまり上限はないと西洋哲学では考えている。・・世界の森羅万象すべてを包摂するような概念、それはない、というのが西洋的な存在論の世界です。しかし、私は有ると思う。それが”空(くう)”。空というのは仏陀が解いたものでナーガールジュナという古代インドのお坊さんが空について「中論」というものを書いたりした。

もちろん知識は必要。けれども、知識にとらわれてはいけない。知識に捉われると、そのやり方は、自分の会社の、自分の部の、その一部の仕事にしか適用できなくなる。そういう仕事をする人はそれでかまわない。むしろ必要。リーダーは違う。リーダーは、課全体に通用するやり方、さらに昇進すれば部全体に通用するやり方、さらに社全体に通用するやり方で仕事ができなければならない。

必要な知識とは・認識するために必要な知識、ということになる。知識がなければ認識ができない。・・・リーダーは、高い視点から俯瞰することによって、書く上位今日を認識する必要がある。認識する範囲を広くするために高い視点が必要。けれども、認識自体は知識がなければできない。

組織の上位に立つリーダーは、このような現場の運用能力そのものを身につける必要はない。高い視点を持つことのほうが重要。例えば、アメリカのMBA方式では、現場のことを全部経験させるというようなことはしない。組織に入ったとたんに、最初から社長級か準社長級のような仕事をさせるのです。・・MBA方式が必ずしもいいかどうかは別問題としても、効率等いう面で考えると優れているというしかありません。全部署を経験させようとすれば、一生使っても足りないくらいキリがありません。

各部署を経験させるエリート教育も確かにわかります。しかし、その弊害もここに現れています。本当に大組織化されていって、本当に問題が本質的なものになったときには、現場の知識の寄せ集めでは本質的な解決方法が出てきません。低い視点に縛られてしまって、局部的な場面でしか通用しない解決法しか発想できません。それは真のリーダーではないのです。

運用をするのは、テクノクラート(高度な専門的知識を持つ管理者)です。朝から晩まで、日々同じ仕事をしている人に、その仕事では誰もかないません。けれども、世界は日々動いているのですから、明日もまた、その仕事が通用するのかどうかはわかりません。だから、テクノクラートばかりではいけないのです。

日本では、有名大学を卒業したり、MBAを取ったりした人々が大企業に入ってゆきます。なぜなのでしょうか。視点を上げられていない結果だとしか思えません。日本という国が地盤沈下し、沈没しかけているのも、視点が上げられずに新しい状況に対処できていない結果です。私は、この国が地盤沈下していることを、はっきりと認識しています。大半の経営者や政治家は、地盤沈下していることを認識していません。認識していないから、怖くもないし、痛くもないのでしょう。それが一番の問題でしょう。

高い視点を持っているからこそ、問題を認識することができ、本質的な解決ができる。・・それには二つの方法がある。一つはサーモスタット式の方式。「この与えられた世界の中で、最も適用したやり方を発見しようという方法。答えを見つけ出すのはものすごく大変なことだけれども、答えはこの世界の中にあるに違いない、という発想。・・・もう一つは自由意志による発想。・・この世界にはあらかじめないはずのものを、どこからか発想する。それはいわば、”神を超える”ということ。神が作った世界の外側から発想するだから。・・今までに集められている知識の外側の知識を手に入れる。不思議なことだが、人類はそういう能力を授かっている。・・ビジネスマンも、科学者や芸術家と同じように、3年や5年に一度でいいから、「俺のおかげで世界のビジネスは変わったぜ!」と思う瞬間がなければいけない。そのためには、やはり、思いっきり高い視点を持つこと。

”発明”は自然法則に則ったもの。今までに知られている自然法則に則って、つまりその自然法則の世界の”なか”で、他の人がまだ考え付かない何かの組み合わせの技術を誰よりも先に発見するもの。・・でもそれは組み合わせにしか過ぎない。そうではなく、ビジネスマンも他の誰もが何億年かかっても考え付かない発想ができなければいけない。つまり自然世界の最適な組み合わせを超越した発想ができなければならない。これが”自由意志発想法”であり、”異次元発想法”とも呼べるもの。

人間の脳は、使い方ではなく、特殊な状態に置くことによって、他の誰もが何億年かかっても考え付かないような発想を可能とする、ものすごく強烈な能力を発揮する状態になることができる。実は「超能力」は誰の脳にもある。そのためには・・「常にものすごく視点を上げた思考をする努力をする」ということ。そして、視点が上がったときの脳の状態を覚えておく。

ゲシュタルトができると、それまで意味を成さなかった部分が、全体の中で意味をもって現れてくる。・・視点を上げるということも、ゲシュタルトを作るということ。・・人間が概念を使って考えたり、言葉にしているのはゲシュタルト能力を使っているということ。どういうわけか進化の過程でこの能力を手に入れている。

イヌやネコもゲシュタルト能力を持っている。・・しかし、概念を素材として、さらに視点の高いゲシュタルトを作ることができるほど進化しているかどうかは疑わしい。人間だと、概念を利用して、またさらに高い視点の概念を生み出すことができる。言語がまさにそう。

ゲシュタルト能力の基本的な使い方は、パターン認識。ゲシュタルトができていると、一瞬で認識することができる。・・さらにゲシュタルト能力が進化すると、時間的な空間を超えることができるようになる。

問題を解決するには、その問題が起こっているよりも高い視点で考えなければならない。・・それは言い換えれば「理論化している」ということでもある。・・それらの理論化された解決法を実際に運用するには、・・運用のレベルにまで視点を下げる必要がある。・・重要なのは、視点を上げるときに煩悩を切り離すこと。これは人として重要なこと。・・会社に貢献すれば給料を上げますよ」というような”人参ぶら下げ式”が多いが、それでは社員が自分のことを考えるようになってしまう。すると、意識決定の視点が下がってしまう。視野が狭くなって意思決定を誤る可能性が高くなる。だからこそ煩悩を捨てなければならない。・・よい経営者・リーダーになるためには、思いっきり煩悩を切り離さなくてはいけない。

私はいつも、「”脳と心”は一単語です。そのように考えてください」といっている。・・脳と心は同じもの。

”エクセレンシープログラム”・・これは有能な兵士を作るプログラム。目の前にえさをぶら下げてインセンティブを上げるもの。・・これは100万人のソルジャーにいいが、リーダー育成にはよくないプログラム。・・組織の上位の人々が命令し、下位の人々はただひたすらそれに従って行動する、という組織は効率がよくない。理想は、「全員がリーダーとなれる組織」・・アメリカの軍隊も、・・どの人間でもいつでもリーダーになれるような訓練がなされている。それは、・・タスクごとに担当がきまっている。役割分担。・・全員が視点を上げて、リーダーになればよいというわけ。タスクごとにそれを担当するリーダーがいて、その人がそのタスクに関する全情報をもっており、その人がすべての判断を行えばよい。ほかのメンバーは、その人が命じるままに、ソルジャーとなって動くだけ。ソルジャー同士の情報交換はしなくても、リーダーの命ずるままに行動すればよいようにする。・・効率のよい組織では、タスクによって、リーダーになったり部下になったりする。・・これを実現するためには、今までソルジャーであった人も、一人ひとり全員がゲシュタルト能力を高めなければならない。

ゲシュタルト能力を研ぎ澄ませば、情報空間を新体制をもって感じることができる。つまり、臨場感を感じられる。臨場感があるからこそ、・・情報空間を操作することができる。・・・視点を上げれば上げるほど、情報空間の操作はしやすくなる。そして、相手に操作されにくくなる。

相手の情報空間のなかに人参をぶら下げる方法は、ブライミング、・・「これおいしいですよ」「これすごいですよ」「儲かりますよ」・・というのを相手の情報空間の中に書いてあげればよい。きほんは、「相手の臨場感と自分の臨場感が同調するまで自分の視点を下げて、その臨場感を共有して、その共有された臨場感の空間に書き込んでやる」ということ。そうすれば、相手は従わざるを得なくなる。・・重要なのは、相手と「臨場感を共有する」ということ。理想は、相手の臨場感に入るのではなく、自分の臨場感の世界に相手を引きずりこむこと。それが操作できるということ。・・・相手が見ているに違いないものを言葉にし、相手が感じているに違いないものを言葉にし、相手が聞いているに違いないものを言葉にするだけでいい。・・簡単にできることが利点だが、欠点は、相手に気づかれること、それだけに簡単に否定されてしまうということ。

人間は本来思考空間が超並列的なのに、論理的に思考することによって、ステップ・バイ・ステップで考えてしまう。それをやめて同時にいくつものことを考えるようにすることが重要。・・無意識化された瞬間に、超並列に一気に代わる。

霊は実在しない。・・それは物理的に実在しないということで、存在しないということではない。どこにあるかといえば、心の中にある。そういう意味ではある。存在する。・・気の場合には、出している人と、それを受ける人との両方の心の中に存在している。だから効く。

欧米では過去に誰かがやったことをやっても博士号が取れない。過去に同じテーマを扱って人がいると博士論文として認められない。・・日本では、過去にどういう研究がなされていて、それといかに関係があるのか、その延長線上に見ることで評価される。アメリカでは延長線上では最初からだめ。一度も誰もやったことのないテーマを探さなければならない。

仏教には”因縁”という言葉がある。・・因も縁も、実は直接的な因果。違いは抽象度の高さ。因のほうが抽象度が低く、縁のほうが抽象度が高い。縁は間接的にみえて、実は高い抽象度で直接的。

無意識というのは、心の、今、気がついていない部分。意識というのは、心の、今、気がついている部分。・・あなたの無意識は常に働いている。

私たちの心は、今、自分が臨場感を持っている世界の支配者に対して好意をもつようにできている。そしてその好意の強さは、臨場感の強さに比例する。

時間は未来から過去に流れれている。・・現在が、時間がたって過去になる。・・現在の結果が過去。・・未来の結果が現在。・・過去は、現在や未来の体験により変わる。それは・・どんどん経験をつむことにより、それにあわせて過去の出来事の意味合いがどんどん変わっていくことと理解してもよい。・・・過去は記憶の中にしかないということであり、そして、その過去は、現在、未来の行為でどんどん変わっていくということ。・・・過去、現在の結果としての最適解ではなく、未来の因果から指し寮の選択をできるのが真実のリーダー。過去、現在の因果ではなく、未来の縁で真に自由な選択をするのが真実のリーダー』

2011年9月23日 (金)

国会議員の仕事 職業としての政治 (林芳正 津村啓介共著 中公新書)

与野党の国会議員による共著です。キャリアの違いもありますが、民主党の津村議員の記述にはやはり若さというか、経験不足というか、「浅い」部分を感じます。この人でも民主党内ではまともなほうですが、この程度の党に国政を任せた国民の甘さが今日の混乱をもたらしているといってよいでしょう。長期的な視点では、先の政権交代はよい部分もあったのでしょうが、致命的な失敗とならないことを願います。

『(林)アメリカではパブリックな分野に行く事に対するプラスの意識が、これまでに高いのか。わたしは、もう一つ勉強させてもらった。政治家になった今、それは実にうらやましい「市民感覚」でもある。

ロス議員の許では、生きた勉強をさせてもらったばかりでなく、日米にとって実のある成果も生むことができた。議員は私に「せっかく来たのだから、ただ既存のものの翻訳作業などをやるだけではなく、日米に意義のある、法律になるようなテーマを考えて見なさい」と宿題を出した。

永田町というところは、実年齢よりも「ここで何年議員をやっているのか」が優先される世界だったのだ。

(津村)印象的だったのは、イギリス人の政治家に対する意識だ。日本で政治家になりたいというと「権力志向の強い、変わったやつだ」と見られることも多いだろう。残念ながら日本では政治家は決して人気のある職業ではない。しかし、イギリスでは、普通の学生やおとなしい女の子が、あっけらかんと「政治家になりたい」といっていた。そして、政治家をめざす学生を、周囲が好意的に受け止め、応援する文化があった。イギリスでは政治家が尊敬されているということを実感した。

イギリスでは、政治に志を抱く若者は二十代のうちに、たとえば投資銀行やコンサルティングの仕事について荒稼ぎをし、その自己資金を元手にして、三十歳前後で公募に応じ候補者になる。そして、最初はだいたいが勝ち目の薄い、厳しい選挙区から出馬させられ、修行させられる。イギリスでは政党の本部の力が非常に強く、選挙区の「異動」が頻繁に行われる。一般有権者の理解もあるので、最初の選挙で検討した候補者は、次の選挙でより有利な選挙区に回してもらえる仕組みが確立しているのだ。逆にいえば、この「人事権」が党本部の求心力の源泉になっている。

1994年の政治改革がなければ、私は政治家になれなかっただろうと思う。小選挙区制度と政党交付金制度の導入が、私たち公募世代の政治家を生んだ。

(林)規制緩和というのは政権与党のなかでは例外的に、役所と正面から向き合う役回りである。当然のことながら、対峙する省庁が何をやっているのかを熟知していなければ「戦え」ない。だから徹底的に勉強する。その甲斐あって、行政の仕組みというものが徐々に理解できるようになった。官僚というのが、どんな「人種」なのかも。彼らは、基本的には嘘はつかない。けれども、本当のことも言わない。たとえば、もってきたペーパーに「・・・等」とあったら、必ず「この『等』は、具体的には何?」と貴下なればいけない。往々にして、羅列されていることがらの何倍ものものが、その一字に隠されているのである。

FRB議長だったグリーンスパン氏と言葉を交わす機会に恵まれた。氏は、「いつまでもアメリカではなく、そろそろ日本に世界経済の”機関車役”を代わってもらいたい」と前置きしたあと、こう述べた。「でも、そのためには二つの問題がある。雇用の流動化が進んでいないことと、直接金融の比率が低いことだ」

郵政や道路公団の民営化は、はっきり言って”一丁目一番地”の政策課題ではなかった。国の将来にとって、その何倍もの重みを持っていたのは、たとえば消費税であり、集団的自衛権をどうするか、だったはずだ。にもかかわらず、小泉さんはそれらを先送りし、「わかりやすい」テーマを掲げることで、高い支持をキープしようとした。経済・財政にしてもカンフル注射でいったん元気になったように見えながら、その後注射の前よりも症状が悪化してしまったのは、抜本的な改革を避けて通ったからにほかならない。

党内に「悪者」をつくり、それを叩くことによって自らを浮上させるような政治手法も大きな禍根を残した。実際、小泉さんは自民党のいろいろなものを破壊したと思う。人材育成のシステムも、「壊された」ものの一つだ。たとえば、保守本流の政治家は、激しい権力闘争を繰り広げながらも、次のリーダーを競わせ、育てることを忘れなかった。・・そうした伝統は小泉さんの時代で潰えたといっていい。次を担わせる人材には、閣僚の重要ポストを経験させるものだ。小泉さんにそうした発想があったなら、初っ端の組閣で、財務大臣に塩川正十郎さんを指名し、外務大臣に田中真紀子さんを配するという人事はやらなかったはずなのだ。

(津村)政治家になって想定外にたいへんだったのは、実は事務所経営だった。選挙への苦労や国会質問の難しさは、典型的な「国会議員の仕事」であり、それなりにイメージしていた。しかし、政治家が日々、こんなにも事務所の資金繰りや秘書の人事・労務管理に忙殺されるとは想像していなかった。資金繰りは、最終的には年間で収支トントンになるのだが、月々でみると赤字の月もある。そうすると、物品の購入をしばらく見合わせたり、親しい業者さんにお願いして分割払いで契約したりという小さな工夫が多々必要になってきたりするのだ。

実は、事務所経営のありかたこそ、世襲議員と公募議員の大きな違いなのだ。会社で言えば、創業オーナーと二代目の違い。世襲議員が親から継ぐのは選挙の地盤だけではない。安定した事務所体制を親から継ぐか、自分でゼロから作り上げるかでは大違いなのだ。

日本の政党の特徴でもあるが、候補者選びなどの事実上の”人事権”は、党本部ではなく、県連にある。このため、現実の政治プロセスでの県連の存在感は大きく、国会議員の行動は多かれ少なかれ県連の内部事情に影響を受けているのだ。

元来、自民党の地方組織は強大であった。圧倒的多数の地方議員を抱え、党員の数も民主党の比ではない。しかし内情はいささか複雑で、あまりにも議員数が多いために自民党内で地方選挙の公認争いが頻繁に起こる。また、国会議員同士も、中選挙区時代にライバルとして戦ってきた経緯があったりして、一枚岩になりにくい。そのため、多くの都道府県で、自民党の県連は調整型の合議体として運営されてきた。

(林) ことほど左様に、上から下までが”チーム”になっていることが大事なのだ。{政務三役」の意思統一だけではまったく不十分で、大臣から課長クラスぐらいまでが同じ方向を向き、胸襟を開いて語り合える関係が必要だということが、実際に大臣をやってみてあらためてよくわかった。省内では言いたいことを言う一方、大臣として、外に対する発言にはことのほか気を使った。

総理大臣になるための条件は何か?私は「角栄の原則」に重みを感じている。田中角栄さんは、「内政と外交の重要閣僚、それに党三役(幹事長、総務会長、政調会長)のうち少なくとも二つのポストを経験した人間でなければ、総理の資格はない。」といっていたらしい。防衛大臣を経験して、その言わんとするところがよく分かった。先ほど述べた「三大臣会合」では、大げさでなく、国の命運をわけるようなことが話し合われきまっていく。判断ミスは許されない責任の重さに、身の引き締まる思いがしたものだ。逆に、「ここを経験せずに首相になったらたいへんだろうな」とも感じた。

そもそも、中国や北朝鮮などとは違い、いつでも政権交代が可能な政治システムの下で、何十年も基本的に一つの政党が政権の座にあり続けられたのはなぜなのか?第一に優秀なリーダーに恵まれたこと。第二に、東西冷戦の時代に「主敵」であった社会党の路線、政策が、政権をとるだけの現実性を欠いていたこと。そして第三に、国の経済が右肩上がりだったために、増税をしなくても公共投資や社会政策にお金を回すことができ、政府に対する国民の信頼を維持できたこと。この三番目の要因が大きかったと、私は考える。

誤解を恐れずに言えば、私はあの時政権交代が起こっていたほうが、日本にとってよかったのではないかとさえ思うのだ。新政権は、自民党路線のアンチテーゼ、すなわち「成長より分配」の政策を採る。格差は広がらない一方で、経済成長は目に見えて鈍化し、一時の「英国病」のようなかたちになっただろう。国民が「これではいけない」と気づけば、政権は再び保守の側に戻る。下野して世代交代がすすみ、リフレッシュした自民党ならば、同じ保守政策、同じ対米重視の外交をやっても、国民の深い理解と支持が得られたはずだ。今頃は、経済も外交もきちんと「立ち直って」いたのではないだろうか。実際にはそうならず、小泉政権は五年半の長きにわたったものの、本来論議を始めるべきタイミングだった消費税も集団的自衛権も手付かずのまま、政権を維持し続けた自民党に、リフレッシュの意思も機会もなかった。「旧態依然」に映る、”ポスト小泉政権”が国民の不満のエネルギーを増幅させ、ついに爆発したのが、09年の政権交代だった。それが私の分析である。

小選挙区制を続けるのであれば、政治が心すべきことが二つある。一つは、政治家、特に利だーが小選挙区制度の特質、「怖さ」を十分認識し、制度を悪用しないこと。もう一つは、民主党が「二大政党」にふさわしく、党としての軸をはっきりさせて、自民党と政策で対峙するように脱皮を図ることである。

(民主党のマニフェストが破綻した理由について)そんな事態を招いた原因の一つは、「作り方」のいい加減さである。マニフェストの本場・英国では、保守党も労働党も、数ヶ月の時間をかけて作成し、必ず途中で公開してパブリックコメントを求める。みんなが見ているところで練り上げられていくのである。だから、星の数ほど間違いが含まるなどということが起こり得ないのと同時に、あとから言い訳できないものになる。民主党がそのような手順を踏んでマニフェストをまとめた形跡は、いっさいない。少人数で「秘密裏」に作ったから、民主党議員の中にも「えっ」と驚くような人がいるような中身になったのだろう。

(津村)(国家戦略室の)現場では予算と定員が大きな制約になった。総理指示で設置されたため、予算も定員も正規の割り当てがない。仕方なく内閣官房と内閣府の割り当て分を一部拝借することになった。予算には「予備費」、定員にも「柔軟化枠」と呼ばれる”のりしろ”部分があり、それを活用したのだ。

(林)民主党は政府に入ることのできる国会議員の増員を目指していますね。ただ「三役」が五人になり六人になると、官僚の側からすれば、ディバイド・アンド・ルール(分割統治)がやりやすくなるという側面を指摘しておきたいと思います。

総理だけではなく、衆議院議員も、任期四年といいながらいつ解散があるか分からないのが現実で、なかなか腰が落ち着かない。それでも以前の中選挙区の時代は、自民党の場合、五回ぐらい当選して閣僚を経験するくらいのベテランになると、そう議席のことを心配しなくても大丈夫だった。だから、ある程度大所高所にたった物言いも行動もできたのです。ところが小選挙区になってからは、どんなに実績を積もうがサドンデスで落選の可能性があるから、いつも選挙区のことが頭から離れないという傾向が強まったのは、確かだと思います。

アメリカに行ったときに聞いたのですが、かの国では、高校、大学生ぐらいになると、自分は民主党指示か共和党支持なのか、野球のチームを応援するような感覚で決めるのだそうです。ただし、政治や政党のことを勉強してから、一回だけは「主旨替え」が許される。そんな風土があって二大政党制が担保されているんですね。

(津村)政治家をリクルートするシステムが未成熟であることも、政党のカラーを曖昧にしている要因です。現職優先主義が見直されない限り、「前回の選挙で勝った政党」には選挙区の空きがほとんどなく、志ある若者は「前回の選挙で負けた政党」に流れます。小泉チルドレンと小沢チルドレンの違いは、政策ではなく、どちらの党に空きがあったか、なのです。

(林)リクルートに関して言えば、小選挙区制になったとき、アメリカのように予備選のインフラを作るべきだったのですが、自民党はそれを怠った。それが、09年の大敗を招いた一つの原因でもあります。党の方向性を明確にした上で、原則的に現職も公募にして予備選を行えば、主張が近く、本当に優秀な人間が結集できるようになるはずです。

中国など新興国も含めた主要国の中で、対日貿易が黒字の「唯二の例外」が、フランスとイタリアなんですね。付加価値の高いワインやブランド品が、日本人に受け入れられている証拠です。我々もそれに倣い、品質の高い農産物などのアジア向け輸出を、もっと積極的に考えるべきだと思いますね。

これまでは、欧米に追いつけ追い越せのキャッチ・アップだったから、それを主導する官僚機構に優秀な人材が集まるのは、ある意味で合理性があった。これからは、日本の方向性そのものを、政治がコンセンサスを形成しながら決めていく、という時代になります。永田町に、霞ヶ関とは違った意味でのベスト・アンド・プライテストこぞって集まり、その中で一番”できる”人間が総理になる、ということにしていかないといけませんね。』

2011年9月17日 (土)

新聞記事から (【石平のChina Watch】落ちる一方の中国経済)

今週木曜日(23.9.15 産経新聞朝刊)の石平氏のコラムです。いつものように危機感を強く与えられるコラムです。また本日の産経新聞に氏の講演についての記事がありました。あわせて書き留めておきます。

『 今年8月以来の中国経済関連ニュースを読むと、「減少」「鈍化」「下落」などの不吉な言葉が躍っていることに気がつく。

 たとえば8月2日、中国の各メディアは、2011年上半期(1~6月)の大型トラック販売台数が前年同期比7・04%減だったと報じた。翌日の8月3日、今度は同年上半期の軽自動車の販売台数が前年同期比11%減となったことが発表された。繁栄のシンボルである中国の自動車産業の成長はついに下り坂に転じたわけである。

 自動車産業が不況となれば鉄鋼産業も難を逃れない。1日付の「経済参考報」によると、今年7月の全国鉄鋼業界の純利益は6月と比べると何と35・4%減となったという。個人の場合にたとえていえば、要するに、1カ月で収入が3割以上も減ったというひどい話である。

 利益が減少したのは何も鉄鋼業だけではない。たとえば中国通信大手の中国聯通の今年上半期の純利益は前年同期比5・5%減、生命保険大手の中国人寿のそれは28%減。そして9月初旬に上海と深セン市場に上場する中国企業2272社の2011年上半期決算が出そろったところ、純利益合計の伸び率は前年同期のそれより半分も落ちていることが分かった。

 伸びているのは在庫だけである。8月23日付の「中国証券報」の関連記事によると、中国国内上場企業1246社の6月末の商品在庫額は1兆4200億元(約17兆400億円)で、前年同期に比べて38・2%、年初に比べて18・9%増加したという。

 このように販売や利益、在庫などの企業業績の基本面において、今年上半期の国内産業全体はまさに落ちる一方である。

 7月7日の本欄が論じた中国経済の「硬着陸」傾向はより鮮明となってきたとはいえるが、その背景にあるのはやはり、中国政府がインフレ退治のために実施している金融引き締め政策である。金融引き締めの結果として、中国経済の6割を支えている中小企業が経営難に陥って「倒産ラッシュ」が全国に広がっているから、経済が急速に傾いてしまうのは当然の成り行きである。

 しかしそれでも、政府は金融引き締めの手綱を緩めることができない。インフレのさらなる亢進(こうしん)が何よりも恐れられているからである。温家宝首相は1日発行の中国共産党中央委員会の理論誌『求是』に寄稿した文章で、「物価レベルの安定が最優先課題であり、政策の方向を変えることはできない」と表明した。これは、まさに引き締め政策継続の決意表明であろう。

 しかし今後、引き締め政策が継続されていくと、産業全体の衰退はよりいっそう進み、成長率のさらなる鈍化も予測できよう。現に、8月中旬、モルガン・スタンレー社とドイツ銀行が相次いで中国の経済成長見通しを引き下げたことが報じられている。

 こうした中で、中国の不動産市場からも衝撃的なニュースが飛び込んできた。今年8月の北京市内の不動産販売件数が09年以来の最低数値に落ちたことが判明した直後、同じ北京市内の不動産物件の平均価格は9月4日までの1週間で12・4%も下落したと、6日付の「新京報」などの地元紙が大きく報じている。

 1週間の間に不動産価格が1割以上も落ちてしまうとはまさに「暴落」というべき異常事態だが、どうやら不動産バブルの崩壊はすでに首都の北京から始まっているようである。

 落ちる一方の中国経済はこれで、いよいよ凋落(ちょうらく)の最終局面に突入しようとしているのである。』

奈良「正論」懇話会の第46回講演会が16日、

奈良市

の奈良ホテルで開かれ、評論家で拓殖大客員教授の石平(せきへい)氏が「日本の試練と、今後」と題して講演した。日本は世界有数の軍事力を持った中国の脅威に直面しているにもかかわらず「民族の存続を図る準備ができていない」と指摘した。

 石氏は、鎌倉時代の元寇(げんこう)を除き、中国に海を渡って日本に攻め込む軍事技術はなかったと紹介。「政治体制は秦の始皇帝の時代と変わらない。中国が今ほど日本にとって脅威になった時期はない」と強調した。

 中国は建国以来、周辺国への侵攻を繰り返し、海洋進出の準備を進めてきたとした上で、「戦略をしっかりと実現するため準備するところが中国の怖さだ」と指摘。「平成以来、日本の首相が何人も代わっていては長期的戦略を立てることはできない」と警鐘を鳴らした。』

2011年9月12日 (月)

発電する家「エコだハウス」入門  (小池百合子著 プレジデント社)

元防衛大臣、環境大臣の著作です。エネルギー問題を考える上でヒントになると思い読んでみました。

『私が「マイ発電所」を推進する理由はいくつかあります。まず第1に、「マイ発電所」は新たな地球温暖化防止策としてだけでなく、日本のもっとも脆弱な分野である資源・エネルギーの安全保障を確実なものとします。第2に、日本のお家芸である省エネ技術の発展と建築という、もっとも経済効果の広い分野を刺激することで、日本の経済・産業が活性化します。第3に、そもそも日本の貧弱な住環境を、よりよい住宅へと建て替える世代的背景があります。

クールビズの成功の理由は単純です。上司が動いたことと、とにかく楽だったということでしょう。

このまま地球温暖化が進めばどうなるでしょうか。気温が1~5℃上昇することで、地球上の生物のうち最大で30%の絶滅リスクが発生し、アジア・オセアニアではベトナム、ツバルなどを中心に海面上昇で数万平方キロメートルが影響を受け、数千万の人たちが被害を受けるとされています。また、世界的には農水産物の収穫が減少、食糧難がおき、アフリカやヨーロッパでは砂漠化や水不足、北アメリカでは火災の頻発も予測されます。

家庭でのエネルギー消費の3割を給湯が占めています。また、エアコンの暖房は冷房の3倍のエネルギーを消費します。ここにメスを入れ、日本の住宅のエネルギー消費を抑えることは、地球温暖化防止に大きな効果をもたらします。

この際、明確に白熱球使用禁止にするべきです。日進月歩で技術革新が進むLEDは性能が上がり、すでに価格が下がる減少も起こっています。初期投資は少々かかりますが、約10ヶ月で元がとれる計算になるので、結局は経済的です。

太陽光発電は、ただ屋根に太陽光パネルをおけばいいというものではありません。太陽光を吸収し電気に変える「太陽電池モジュール」のほかに、電気を吸収し家庭用電気に変換する「パワーコンディショナー」「分電盤」「買電売電メーター」が必要です。太陽光発電の設置費用は1kwあたり約60万円。エコだハウスは4.5KWの発電容量で、約270万円の初期費用がかかりました。そこから補助金(1KWあたり約7万円など、各種あり)を差し引いて、実質的には約200万円かかったことになります。

私はかねてより、日本には2つの病気があると指摘してきました。それは「とりあえず病」と「しかたがない症候群」です。

05年、世界の太陽電池生産量ベスト5は、トップがシャープ、京セラ3位、三洋電機4位、三菱電機5位と4社が日本勢でした。ところが、10年には上位5社に日本メーカーは1社も入りません。トップは中国メーカー、2位はアメリカ、3位、4位が中国、5位はドイツ。太陽電池の世界需要は13年には2280万KWと今後も拡大の一途でありながら、です。EUや中国は国が率先して太陽電池の増産を推奨し、普及に努めているのに、日本だけが時代の流れに逆行したのです。財政再建の必要性はわかりますが、日本経済を牽引する「メシの種」にもなる技術の芽を、官の不作為でつんでしまったと言わざるを得ません。』

2011年9月 2日 (金)

新聞記事から(【石平のChina Watch】中国政府の外交壊す解放軍)

昨日9月1日の産経新聞に掲載された、おなじみ石平氏のコラムです。前から言われている、人民解放軍が共産党の統制に従わなくなってきた傾向について述べられています。

『8月18日、北京で行われた米中バスケットボール親善試合で吃驚仰天(びっくりぎょうてん)の大乱闘が起きた。なかでも、中国・人民解放軍所属の中国人選手が、米選手に馬乗りになって殴ったり椅子を投げつけたりして、異常な凶暴ぶりを呈していたことがとくに印象的であった。

 乱闘が起きたのはバイデン米副大統領の北京滞在中である。バイデン訪中に際し、中国の胡錦濤国家主席・温家宝首相がそろって彼との会談に臨み、次期最高指導者の習近平副主席はその訪中の全日程にわたって同伴した。

 中国側が最大の努力をして米国との関係強化を図り友好ムードの演出に腐心していたことがよく分かる。親善試合も当然、友好ムード演出の一環として催されたものであろう。

 しかし、乱闘における中国人選手の異常な乱暴ぶりは、逆に友好ムードの演出を徹底的に壊してしまい、中国政府の外交努力に水をさすような結果となった。しかもそれは解放軍所属チームの行為であったから、ことさら問題なのだ。

 解放軍のチームは、規律も統制も普通の民間チームより厳しいから、選手たちが政府肝煎りの「親善試合」で、やりたい放題の乱闘に出るとは普段ならとても考えられない。

 しかし、それが現実に起きたのだから、解放軍はわざとバイデン訪中のタイミングを選んで米中の「友好ムード」を潰そうとしているのではないか、との疑問が湧いてくる。

 実は、今年1月に当時のゲーツ米国防長官が北京を訪問したときの出来事を思い起こせば、この疑問がけっして根拠のないものでないことが分かる。

 1月11日、胡錦濤国家主席が北京訪問中のゲーツ米国防長官と会談した同じ日の未明、解放軍は次世代ステルス戦闘機「殲20」の初試験飛行を断行して世界全体を驚かせた。

 それは、どう考えてもゲーツ国防長官の訪中に合わせた「デモンストレーション」としか思えないが、その結果、当のゲーツ国防長官が大変困惑してしまい、同日行われた胡錦濤・ゲーツ会談もかなり異様な雰囲気となった。

 しかも、肝心の胡錦濤主席は解放軍による試験飛行をまったく知らなかったことが、ゲーツ国防長官の証言によって明らかにされている。それは、やはり中国政府が進める対米外交を、わざと壊そうとする解放軍の独断行為であろうと考えられよう。

 そして、前述のバスケ試合乱闘事件と重ねて考えてみると、この2つの不思議な出来事の背後には同じ構図が存在していることが分かる。同じ米国からの要人訪中に合わせて、同じ解放軍が「奇襲」ともいうべきやり方でそれを潰そうとする行為に出たのだ。どうやら、解放軍は中央政府および最高指導部の対米外交に反発して独自の対米強硬姿勢を示そうとしているようである。

 もしこのような推理が真実に近いものであれば、そこからは、今後の中国情勢を占う上で実に重要な意味を持つ結論を導くことができる。

 その1つはすなわち、胡錦濤指導部と解放軍の間で、対米戦略において深刻な亀裂が生じてきていることであり、もう1つは、今の解放軍がすでに党と政府の統制から逸脱して、独自の意思を持って行動しようとしていることである。

 それは確実に、中国における体制の崩壊を予兆させるような重大な政治的変化である。そして日本の安全保障の視点からすれば、統制の利かない中国・人民解放軍のこれからの暴走はまた、大変憂慮すべき深刻な事態になるであろう。』

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