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2011年8月27日 (土)

亡国の本質 日本はなぜ敗戦必至の戦争に突入したのか (赤城 毅著 PHP研究所)

主に日本政府内の動きを中心としつつ、日独同盟締結に向けての動きを丁寧に追いながら、戦争突入への流れを分析した著作です。初めて知ることなども多く記されていました。

『(日独防共協定交渉前について)・・奔走する大島(武官)をみるドイツ外務省や軍部の眼は冷ややかだった。彼ら、ドイツの伝統的支配層にとっては、日本に肩入れしても何の利益もないことは自明の理だったのだ。まず、ドイツ外務省は、第1次大戦のときに火事場泥棒的に青島の植民地をかすめとった-としか、彼らには思われなかった-日本に対し、積極的な敵意というのは言い過ぎにせよ、潜在的な反感を抱いていた。・・・軍部もまた、親日的な政策を採る理由など持ち合わせてはいなかった。・・国防軍の念願であった軍備強化のために、中国はうってつけの貿易相手であった。兵器を始めとする工業輸出の対価として、再軍備に不可欠の天然資源を得られるのだ。

国防軍の親中政策は明らかに軍事的なものであった上に、想定されている敵国は日本に他ならなかったのである。こうした極東政策の根幹を揺るがしかねない国防軍の暴走を認識したドイツ外務省は・・・反日独協定の陣営から脱落することになる。

・・「五月危機」に示された英仏ソの強硬な対応によりひとまずチェコ侵略の野望をくじかれたヒトラーは、それらの国々を牽制し、欧州での行動を封じるような同盟国を得る必要に迫られた。選ばれたのは、もちろん日本であり、手ごまの一つは大島浩だった。

昭和十年代に海軍省や軍令部の部課長クラスを占めていた、いわゆる海軍中堅層のかなりの部分は、親独に傾いていた。無論故なきことではない。・・ワシントン海軍軍縮条約締結とそれにともなう日英同盟廃止により、重要なパートナーを失った日本海軍は、新たな軍事テクノロジー、とりわけ潜水艦と航空機の供給源を確保しなければならなくなり、ドイツに接近することとなった。第1次世界大戦に敗れたとはいえ、ドイツは瞠目すべき軍事技術を有していたのである。これを得るために、有為な海軍士官たちは続々とドイツに送り込まれていく。

海軍と外務省は、本条約(日独防共協定)の対象はあくまでソ連のみ、英仏、そしてアメリカは含まずかつ攻撃を受けた場合の協力を定めるのみのものだと理解していた。それに対し陸軍は、・・同盟の対象は当然英米を含むもので、・・・ソ連だけでなく、英仏、ばあいによってはアメリカをも対象とする軍事同盟だ認識していたのである。・・この矛盾は、・・高田万亀子が指摘するごとく、板垣陸相が陸軍内部に対してあいまいな態度を示したとみるのが妥当ではないだろうか。

ヒトラーには、ミュンヘン会議の成果ぐらいで満足するつもりはなかった。・・かろうじて独立国の体裁を保っているチェコ・・そのあとはポーランド、領土拡大の野望は強まるばかりである。なれど、それを実現するためには、英仏の介入を阻止してくれる同盟国、すなわち日本が必要だった。

英仏がポーランドに介入しようとするなら、自動的に地中海でイタリアと対決することになるという事実を示して、手を引かせるのが狙いである。けれでも、・・まだ足りなかった。だからこそ、イデオロギー的にはゲルマン民族よりも劣るはずの黄色人種の国、日本と結ぶことによって、極東においても英仏を牽制しようともくろんだのだ。だが、日本人は、いつ果てるとも知れない議論を続けるばかりで、一向にドイツの希望を満たす気配を見せない。ならば、日本以外の、英仏を抑えることが可能な大国を、新しい同盟国に-。1939年初夏、ヒトラーの視線は日本を離れ、別の国に注がれつつあった。

日独同盟が実現しないのに業を煮やした陸軍は、機密費を使って手なずけておいた、いわゆる右翼勢力を使って、反同盟勢力の中心と目されていた山本を脅迫させていたのだ。されど山本のほうは、わが身のことなど頓着しなかった。「一死君国に報ずるは素より武人の本懐のみ。あに戦場と銃後とを問わんや」ではじまる、有名な遺書を書いたのも、かかる情勢下だった。

ドイツ側の変化は、日本側に伝えられていなかったわけではない。・・リッベントロップは、・・大島駐独大使とローマより駆けつけてきていた白鳥駐伊大使に、総統が必要と考えるなら、ドイツとソ連との了解をためらう理由はないと告げた。日本との同盟がならぬのならソ連と結ぶと暗にほのめかしたわけだ。しかし、日本側は、ナチズムのドイツと共産主義のソ連が手を結ぶはずがないと確信していたから、結果的には、まったくの不意打ちを食らうことになる。

ヨーロッパで戦争がはじまるよりも少し前、陸軍大将阿部信行に組閣の大命が下り、「自主外交の確立」を唱える新路線がとられることになった。この場合の「自主路線」とは、独伊と距離を置き、英米との関係を改善するということだ。従来とは百八十度異なる方針であるけれど、そんな政策が採用された陰には、天皇の意向もすくなからず影響していたと思われる。昭和天皇は、8月18日に参内した阿部に対し、「外交の方針は英米と協調するとの方針を執ること」と、釘を刺していたのである。

象徴的だったのは、外務大臣に野村吉三郎海軍大将が起用されたことだったろう。・・彼のモットーは「如何なる妥協も戦争よりは勝る」だったという。

後継総理は、・・米内光正であった。・・この予想外の人事を可能にしたのは、湯浅倉平内大臣を中心とする宮中勢力だったといわれる。湯浅らは、このまま陸軍が政治を壟断していたのでは日本はどうなることかと心配する天皇の意を汲み、米内指名のために力を尽くしたのだった。

ドイツ側は、松岡の接近の試みに、極めて冷ややかな反応しか示さなかった・・宿敵フランスを降し、イギリス陸軍の主力にダンケルクの屈辱を嘗めさせたドイツにしてみれば、もう極東において日本に英仏を牽制させる必要もなくなっている。ましてや、前年の欧州大戦勃発以降、日本が経済面において期待しているような協力を怠っている・・いい顔もできないというものだった。しかしながら-。ドイツはわずか半月余りを経ただけで、対日政策を一変させた。・・いったい何があったのだろうか。・・イギリスは、ドイツ国防軍の圧倒的戦力の前に孤立していたにもかかわらず、降伏の気配する見せなかったのである。・・・イギリスと和平を結ぶことも、軍事力による英本土の制圧も望み薄となる。こうした手詰まりに直面したヒトラーは別の道を見出した。東に戦線を開く-ソ連侵攻だ。・・・イギリスが見込みのない抵抗を続けるのは、アメリカとソ連が味方につくと踏んでいるからだ。ならば、宿願であるソ連侵攻作戦に踏み切り、イギリスの希望であるロシアを粉砕するとともに、ゲルマン民族のための広大な領土を獲得すればよい。こうした発想のもと、ヒトラーは1940年7月に、陸軍首脳部に対ソ作戦を検討するよう命じている。・・ベルヒテスガーデン会議では、ヒトラーの日本への期待が表明されている。対ソ戦遂行中、日本はアメリカが介入しないよう牽制することでドイツを助けるであろう。また、ソ連が打倒されたのち、北の脅威から解放された日本は、アメリカがイギリスを救うため参戦するのを食い止めるのに大きな威力を発揮する、と。

・・昭和14年8月、後任の連合艦隊司令長官となる山本五十六と入れ替わるようにして、霞ヶ関に戻った吉田は、それまでにない苦労にさいなまれることになった。吉田の世代には考えられなかったことであるが、海軍省や軍令部の中堅将校たちは、独伊と結び、対英戦も辞さずとする思想にとりつかれていたのだ。しかも、ドイツがヨーロッパで圧倒的な勝利をおさめ、その結果本国が降伏して、そこからの保護が得られなくなった植民地、蘭印や仏印が無防備に横たわっているとあって、霞ヶ関の海軍士官たちの戦争熱は、いっそう強まる。

まったくの余談だが、戦前の東京駅は国際ステーションだった。朝鮮や満州を通じて、シベリア鉄道とつながっていたからだ。だから、たとえばパリ行きの切符を東京駅で買い込み、列車に乗り込むということも可能だったのである。

(昭和16年)6月11日、陸海軍首脳部は、政府と統帥部の連絡会議に、「南方施策促進に関する件」を提出した。・・より重要なのは、第3項である。もし、英米やオランダの妨害を受け、「日本として自存自衛上忍び得ざるに至りたる場合には、対英米戦を賭するも辞せず」という文言が、そこには記されていたのだった。大胆かつ強硬な姿勢といえたが、実は、陸海軍当局は、この時点では、必ずしも対米戦争の覚悟を決めていたわけではない。実際、彼らの議論を仔細にみていくと、南部仏印ぐらいのことで、米英が出てくるはずがないと、信じて疑っていないことがわかる。では、どうして、こんな過激なことをいいだしたかというと、当時の松岡外相が、南部仏印どころか、シンガポールを攻略せよとの超強硬論を唱えていたため、これを抑える必要上、レトリックとして用いたに過ぎなかったのである。

民主主義アメリカの宿敵であるナチズムのドイツと軍事同盟を結んだことにより、日本は、ポイント・オブ・ノーリターンを越え、後戻りができなくなった・・・それだけでも取り返しのつかぬことであったのに、アメリカは出てこないという、根拠のない観測に基づいて、軽率に行われた南部仏印進駐により、もはや戦争は不可避となってしまった。

この当時、アメリカは、ドイツに対しても圧迫を強め、・・ヒトラーは、独米開戦は時間の問題だと考えざるを得なくなっていたのだった。・・・ヒトラーは、・・翌1942年に攻勢を再開すれば、必ず、ソ連を崩壊させられると考えたのだ。なれど、その間に、米英が大西洋で攻撃してくるのは間違いない。彼ら、アングロサクソンの反撃を、ドイツではない、どこかの国が引き受けてくれないか・・・。そう思っていたヒトラーにしてみれば、日本が対米英戦争を開始し、極東に英米の戦力をひきつけてくれるのは、願ってもないことなのだった。・・・昭和16年12月8日、日本は真珠湾を攻撃、同時に南方作戦を開始した。東プロイセンの総統大本営にあって、その第一報を聞いたヒトラーは、喜びのあまり両手で膝を叩き、周囲のものに、新しい世界情勢を熱狂的に解説したという。』

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