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2011年5月15日 (日)

ドイツ参謀本部 その栄光と終焉 (渡部昇一著 クレスト社)

有名な本ですが、これまで読んだことがありませんで、図書館で借りました。世界の軍事組織に大きな影響を与えたドイツ参謀本部の歴史などとともに、現在のあらゆる組織の課題につながる事柄についても多く述べられています。

『地獄のような三十年戦争を経て、ヨーロッパの戦争は、一転してスポーツのようなものになったのであった。それは今日、「制限戦争」と言われるものであり、相手をおう殺(みなごろし)したり、徹底的に叩きのめすことはしないのである。それは宗教的熱狂の時代から醒めた「理性の時代」にふさわしく、戦争すらをも理性的に、また人道的にしようというのであった。

さて、両軍が見合って撃ち合いになると死傷率が大変である。この時代が最も高かったと言われる。・・・ひとたび戦場で両軍相まみえれば、勝ったにしろ負けたにしろ30%以上、50%内外の兵力を失うものと考えなければならなかった。

君主や将軍たちは、戦争を起こすが、戦闘を極度に恐れた・・・「極端に戦闘を怖れる好戦的な軍隊」というパラドックスが「制限戦争」時代の軍隊の実情であった。

大選挙侯の軍隊に、後のプロイセン=ドイツ陸軍の特徴になった点がいくつか認められる。その第一は、君主自らが将軍であり、・・「陣頭指揮」の型式である。第二は、その領内のプロテスタント教会は、国王の支配下にあって、臣下の「服従の義務」を徹底的に叩き込んだことである。・・第三は、ユンカーというエルベ川以東の北ドイツの小貴族たちが、常備軍の幹部将校団として確乎たる地歩を占めるようになったことである。

フリートリッヒ大王のプロイセン軍が30対1の(不利な)戦争をやりとおせた理由:①大選挙侯以来のブランデンブルク=プロイセンの国家体制の特色、つまり、国王が戦場における最高司令官、ユンカー階級は親子代々の将校団として定着し、服従の徳目徹底、②フリートリッヒ大王は、制限戦争のキーポイントは敵の補給路を絶つことにあることを誰よりも強く実感し、その戦略を考えた。簡単に言えば行軍速度を速める工夫をすればよい、ということでそれを実際にやった。③父王フリートリッヒ・ヴィルヘルム一世が残してくれた厳格な軍律と徹底した錬兵の伝統をさらに強化した、④大王の「工夫の才」

プロイセンの参謀本部は後でこそ有名になるけれども、フリートリッヒの頃までは、国王自身が戦場の最高指揮官であるために、組織としての参謀本部らしきものの形式はかえってオーストリアよりも遅れるのである。

徴兵制という打ち出の小槌を十分に使ったのがナポレオン・ボナパルトである。・・まず第一にこの大量の軍隊はまことに安上がりであった。・・革命軍の指揮官は兵隊の脱走を考えなくても良くなったので、補給のこともあまり考えなくてもすむようになった。・・食料を敵地から簡単に徴発するという思想は、よかれ悪しかれ新しいことであった。このため行軍の速度にブレーキをかけていた糧秣運輸とか、荷物運搬とか、貯蔵庫の配置ということがあまり問題でなくなった。「野営」が可能になったのである。・・それに革命軍には将兵の連帯感があった。

ナポレオンの軍隊の特徴は、フランス革命のもたらした軍事上の変化を徹底的に利用したことにある。兵士の愛国心、散兵線の利用、行軍速度、火砲の集中的利用などがそれであるが、特に重要なのは徴兵された無制限に大量の軍隊を「師団」編成にしたことである。・・師団編成というのは、まことに戦略革命であった・・・あらゆる種類の兵科をそのうちにもっていて、独自でも戦闘が可能となる一つのシステムである。

しかし、ナポレオンの成功の原因は、そのまま敗因につながる危険性のあるものであった。・・ナポレオン軍の強さは、ナポレオンのリーダーシップに拠っていた。・・ナポレオンの強さはフリートリッヒ大王の強さと同質のものであった。それは優れたリーダーシップによる強さであり、優れたリーダーが戦場を直接に掌握している範囲での強さである。その範囲を超えたときに、忽然としてナポレオンの限界が現れてきたのである・・

シャルルホルストは包括的な改革案を作成したが、その中心アイディアは「国民皆兵に基づく常備軍」であった。軍隊は国王の召使でなく、国家の召使であらねばならぬ、国王の「臣下」でなく、プロイセンの「市民」である、というのが全ての前提であった。そして陸軍参謀本部は、戦略・戦術担当部門と、組織担当部門と、予備軍担当部門と、武器・弾薬担当部門の4部門からなり、それにさらに地図部がつくという構想である。

シャルルホストの後を継いでプロイセン軍の参謀長になったのは彼の首席幕僚であったフォン・グナイゼナウである。・・グナイゼナウは、ナポレオンの主力を集中攻撃できる機会がくるまでは決戦は避け、敵が強く出ると見れば退き、隙があったら攻撃し、徹底的に消耗を強いるという根本方針を立てた。・・・14回の戦闘のうちナポレオンは実に11回勝っており、敗れたのはわずか3回である。・・・しかし戦場の勝利が必ずしも大局と結びつかないことは、シャルンホルスト=グナイゼナウ構想に組み込まれていたのである。プロイセン軍は敗戦が命取りにならないうちに巧みに退却するのである。外見では敗戦であるが、退却している方の指揮官と参謀長は敗戦だと思っていないことをナポレオンはどうも最後まで分からなかったように見える。

グロルマンが参謀本部を指導した方針は、徹底的なる知的要因、特に科学的知識の重視であった。これは別の言葉で言えばブルジョワ的教育理念なのであって、当然のこととして伝統的に封建的なプロイセン陸軍においては異質なものと受け取られ、多くの将校の反発を招いたのであった。・・・また、グロルマンは、参謀部将校に狭い階級意識がでることを予防するために、参謀部勤務と連帯勤務を定期的に交代せしめるようにした。つまり、今日で言うローテーション勤務を制度化したのであった。このことは、連帯勤務によって肉体を鍛えしめるとともに、参謀部が将来の軍のリーダーを作る機関であろうことを示すものでもある。・・・まず参謀部の最も本質的な仕事は、近隣諸国の軍隊に関する諸種のデータを蒐集し、あらゆる可能な軍事状況の発生を検討し、そのすべてに備えての動因・展開計画をたてることとされた。平時における準備の徹底的強調である。したがって、グロルマンの注意は道路網の整備に向けられた。・・・機関の上ではグロルマンは、1816年に参謀部を三つの戦争部隊担当班に分け、さらに戦史部門を作った。戦史の検討ということが参謀部の重要な仕事の一つとなり、これはとりもなおさず参謀将校の教育手段になった。

ジョミニの軍学を流れる特徴は、一口に言って18世紀への逆戻りということである。作戦のラインに注意を向け、図解を重んじ、戦術があたかも幾何学のような様相を呈しているのである。戦争を科学(サイエンス)として、あるいは技術(アート)として把握したため、ナポレオン戦争の解釈も、フランス革命、産業革命、武器革命、散兵線の出現などの複雑な要素に対する充分な洞察なしに行われることになった。・・・果たせるかなこの戦争の「技術」は、新しい戦争の「哲学」によって粉砕されることになるのである。 この「哲学」を編み出した人物が、クラウゼビッツなのであった。・・・ジョミニの本はただちに喝采を受けたインスタント・サクセスの本だったのに、クラウゼビッツのものは、プロイセン以外ではほとんど注目を惹かず一種の時限爆弾となってプロイセン参謀本部将校の頭脳の中に埋め込まれたのである。

(普墺戦争のころ)当時のヨーロッパの戦場において、元込め式の銃を持った軍はプロイセン軍のみであったことは、プロイセン参謀本部の平時の武器研究の勤勉さを示すとともに、他の国々の当局の怠慢を示すものである。

・・・参謀本部としては、この軍事的勝利を徹底的に利用してウィーン入城を主張した。しかし、ビスマルクは断乎として反対したのである。ビスマルクはさすがにモルトケ以上の視野を持っていた。彼の最終目的はドイツの統一であり、その次の障害はフランスである。どうしてもフランスとは一度戦わねばならぬ。そのときにオーストリアの好意的中立が絶対必要であるから、今は恩を売るときだと判断した。そのためには敵の首府に入城したり、領土を取ったり、償金を取ったりしてはいけない。無割譲・無賠償・即時講和がビスマルクの意見であったが、圧倒的に勝ったプロイセン側では国王はじめ全軍人がそれに反対で、ビスマルクを臆病者呼ばわりさえした。・・・この事件ぐらい勝った軍隊の危険さを示すものはない。ビスマルクの必死の努力でも止まらなかったのだ。幸いプロイセン王家における皇太子の発言力が加わったので、禍根を残さないで平和が成立したのである。

大局的戦略に不動の信念をもっていたモルトケは、戦術面においては逆に、現場の指揮官の自発性を徹底的に尊重した。彼は作戦計画の要綱に次のようなことを言っている。「開戦から戦争終結に至るまでの作戦計画をうんと細かく予定するのは大きな誤りと言うべきである。敵の主力と衝突が起こった瞬間から、その戦術的勝敗がその後の作戦の決定的要因となる。いろいろなことを計画してみても、戦機いかんではだいたい実施できかねることが多く、予期しない事件が続々出てくるのが常である。したがって形勢の変化を詳しく観察して、あらかじめ充分な時間の余裕をもってそれに対応する処置を考え、そのうえで断乎として決行するのが作戦指導の秘訣である。」と。モルトケは緻密な計画者であったが、戦争の実態を洞察して緻密倒れにならなかったのはさすがというべきであろう。・・・戦後に戦史家たちがこの第一戦部隊の独断専行を非難したときも、むしろモルトケは弁護にまわったのである。「事実、この戦闘は予期しないものであった。しかし、戦術上の勝利は、戦略上の計画を助けることが大なるを常とするから、我々はつねに勝利には感謝して、それを適当に利用すべきである。事実この戦闘によって敵の主力と接触できたのであって、その後の大本営の戦略決定は甚だしく容易になったのである。」と。この第一戦部隊は、芸のない正面攻撃をしたため、戦場の勝利は得たもののプロイセン軍の損害が大きく、追撃もできないような有様であった。国境近くでの包囲戦という自分の計画がフイになったにもかかわらず、モルトケはむしろそのような齟齬は戦場の常として責めず、むしろ局部的な勝利を祝福し、それを全戦局の勝利に結びつけるようにと作戦を展開していったのである。

モルトケの下でドイツ参謀本部はまことに輝かしい存在になったが、今から見れば翳りの徴候がないこともなかった。その第一は、まず組織の肥大化である。1857年、モルトケが参謀総長代行になったとき彼の指揮下にあった将校は64名であった。それが、普仏戦争が終わった1871年には135名に膨れ上がった。それから戦争もなかったのに、1888年、彼が参謀総長を辞任したときは239名になっていたのである。30年間に約3.7倍強の増加ということになる。しかも構成も複雑になってきた。・・・戦争がないのに、着実に戦争関係機関の人員の増えることに注目したイギリスの軍事史家パーキンソンは、いわゆる「パーキンソンの法則」を発見した。パーキンソンはイギリス海軍省を中心に調べたのであったが、おそらくドイツ参謀本部にもこの法則が当てはまるであろう。イギリスの海軍も最盛期にはスタッフ・ワークの人員は少なく、また植民地省もイギリスの植民地時代の最盛期には、バラック同様の建物だった。ところが、最盛期を過ぎた頃から建物は立派になり、人員の着実に増えてきているというのである。プロイセン参謀本部のレンガ造りの立派な建物が・・建てられたのは、普仏戦争の後間のない頃であった。そしてこの建物が建ち、人員が増え続けてから、実にドイツ軍は一度として戦争に勝ったことはないのである。

ドイツ参謀本部が世界の注目を集めるとともに、モルトケもスーパー・スターになった。これはまことに危険な徴候である。参謀本部や参謀総長は相手にマークされないのが一番良いのであるのに、「参謀の無名性」が失われ始めたのである。

1890年にビスマルクが退場して以来、ドイツからはこれぞという政治的指導者がでなかった。ドイツを国際的孤立から防ぐ外交家が出なかった。一方、軍のほうからは強力な参謀総長シュリーフェンがでたのである。・・・いまや、政治という大所高所から国を考えるべきリーダーがなく、スタッフである参謀本部にのに人材がいることになった。バランスは失われたのである。

ドイツの敗戦の原因はいろいろ考えられるが、軍事的視点からみるならば、リーダーシップの欠如の一語に尽きると思う。大モルトケはさすがに「戦争において確実なる要因は指揮官の戦意のみである。」といっていたが、リーダーの養成は国家的レベルにおいても軍団のレベルにおいても不十分であった。

ヒトラーは下層階級の出身で、第一次大戦のときも上等兵か伍長ぐらいで従軍した。そのため彼はプロの軍人、特に名家出身の秀才の多く集っている参謀本部には劣等感を持ち、それがまた裏返しに出て、参謀本部案にはことごとく反対したいという根強い欲求があったようである。

モルトケは和戦に関してはビスマルクに従ったが、戦闘に関しては、一切口を出させなかったのに、ヒトラーはいちいち戦闘に口を出し始めたのである。このおかげでダンケルクからイギリス軍は生き返れた。参謀本部に任せておけば、文字通りの殲滅戦になり、イギリス陸軍の実体はなくなるところだったのに。

・・・ヒトラーは無用に戦線を拡大した。これではもう超多面戦争である。プロイセン軍以来の伝統である参謀本部と戦闘軍との信頼の原則に換えて、ヒトラーは「部下不信」の原則で動き、細かい作戦にも自分の「天才」を誇示しようとするのだ。それで当時の参謀本部の中では、「ヒトラーはスターリンの回し者ではないか」という冗談に実感がこもるほど、彼の作戦に対する邪魔がひどかったという。

プロイセン=ドイツ参謀本部は、近代史の動向を左右するほどの意味を持つ組織上の社会的発明であった。しかし、それはビスマルクという強力なリーダーとモルトケという有能なスタッフの組み合わせのときだけ、目覚しい効果を示したにすぎない。その盛りの時には奇蹟を生むほどの力を示したのに、それは極めて短い期間しか続かなかったのである。強力な大組織におけるリーダーとスタッフのバランスの難しさを示して余すところがない。

スタッフの養成法のノウ・ハウをドイツ参謀本部は完成したが、リーダーは偶然の発生を待つだけだった。これがドイツの悲劇であった。そしてリーダーの養成法はスタッフの養成法とは違う原理に立つもののようである。』

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