2018年1月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
フォト
無料ブログはココログ

2018年1月 7日 (日)

洞察力 弱者が強者に勝つ70の極意 (宮本慎也著  ダイヤモンド社)

プロ野球に入った当初、ここまで活躍できるとは予想されなかった著者が、正しい努力により輝かしい成果を収めることができた、その理由を知ることができ、参考になりました。

『・・・一方で、実際にチームという組織を動かす点でいえば、やはり現場にいた方が勉強になる。
・・・「チームはエースと4番だけでは成り立たない。目立たない脇役でも、適材適所で働けば貴重な存在になる。主役になれない選手は「脇役の一流」を目指せばいい」初めてのキャンプで言われた際には、身震いしたのを覚えている。
・・・数字で評価される主役とは異なり、脇役の評価はどれだけ首脳陣からの信頼を得られるかで決まる。
・・・だが、組織の中で脇役が主役になれるかというと、そうではない。主役には主役なりの、脇役には脇役なりの役割というものがあるからだ。
・・・自己分析が何よりも重要なのは、一般社会でも同じだろう。どんな人間でも自分がかわいく、実際よりも高く自己評価してしまう。それでは自分の役割を正しく理解することはできない。一方で自己評価が謙虚過ぎれば、実際の能力よりも低いところから始めなければならず、力を発揮することはできない。
・・・PL学園では、人が嫌がることにも率先して取り組む重要性を教えられた。基本にあるのは人間としての成長が野球にも必要な目配り、気配りに通じるという考え方だった。
・・・私が見てきた印象では、勝負強いとされる打者は、腹が据わっていると感じさせる選手が多い。・・好機に成果を残す大前提として、技術は必須である。そのうえで、持っている技術を重圧がかかる場面でも発揮するには、勇気と経験による割り切りが必要になる。
・・・もちろん、努力が報われるとは限らない。シーズンが終わってからの3か月間にどれだけ計画的にトレーニングをしたとしても、翌シーズンんで良い成績を残せる保証はない。ただ、やらなければ絶対に良い結果は出ない。
・・・気力を維持することは特別な才能の一つだと感じている。若々しい気力を保ちながら、子供ほど年の離れた選手と共に汗をかき、息の長い現役生活を続けた。これはもう、「あっぱれ」としか言いようがない。
・・・注意してみなければ気づかないような細かな仕草にこそ、人の本質があらわれる。
・・・優勝経験がある中日の選手たちは、自分たちがやるべきことを明確に理解していた。優勝するために必要なことが、経験で分かっていたというべきだろうか。結果を先に考えるより、今すべき自分の仕事に集中することができていた。だから、緊張状態でも普段通りのプレーができた。
・・・棋士の羽生善治さんが著書で次のように書いている。良いパフォーマンスを出せる精神状態というのは、一番はリラックスして楽しんでいるときで、二番は重圧を感じて緊張しているときだと。重圧がかかる状態というのは、能力が引き出されるときでもあるという。そして、重圧を感じる中でよいパフォーマンスを出すには、やはり練習量が重要だとも書かれていた。極限状況の中では練習量が心のよりどころになるのは、どんな世界でも同じのようだ。
・・・結果はコントロールできないが、どう準備するかは自分でコントロールすることができる。準備を整理することで、打てなかったらどうしようと結果を考える思考の隙間が少なくなっていった。
・・・大きな目標ばかりを設定しても、苦しくなって妥協する部分が出てきてしまう。一方で小さな目標だけでは、スケールの小さな選手で終わってしまう。
・・・わずかな目配り、気配りの積み重ねがプロフェッショナルの仕事では大きな差を生む。
・・・物事を決断する時に一つの物差しにしていたのは、自分の損得は考えないということだった。
・・・野村克也監督は「変化を恐れないのが一流」と話されているが、私は、「変化」とは「勝負」を懸けることだと思っている。安全を確保しては本当の意味で変化することはできない。丁か半かの勝負を懸けなければ、大きな成果を得ることはできない。・・周りを見渡してみると、実績のない人ほど過去の小さな成功体験から離れられないように感じる。・・ただ、忘れてならないのは、変化の前には自己分析が必要ということだ。自分の力量がどれほどあり、何が不足しているのか。現状を分析できていなければ、変化しようにも回り道になってしまう。
・・・ボールを相手の胸に向かって投げる。キャッチボールというのは守備の基本動作である。兼任コーチとして指導する中で痛感したのは、ボールを投げられない選手はいくら守備の技術を練習しても上達しにくいということだった。それならば、守備の技術練習に入る前にとことんキャッチボールをさせた方が良い。最近ではそう考えるようにさえなった。
・・・転機が訪れたときに、好機に転換することができるか。訪れた転機をつかむためには、地道な練習を積み重ねるしかない。
・・・変化を受け入れ、新しい場所でどう成果を残していけるか。変化を続けられた者だけが生き残ることができる。
・・・日本人と積極的にコミュニケーションを取ったり、配球を研究したり、日本の野球に慣れようとする選手は成功することが多い。逆に「俺はこれでやってきたのだから」と自分のスタイルにこだわる選手は、結果が残せずに一年で帰国してしまう。
・・・どんな仕事であっても優れた成績を残すと周囲がチヤホヤし、厳しいことを言ってくれる人は少なくなる。環境に甘んじてしまっては、成長は止まってしまう。
・・・人間が勝てないものの一つに、年齢があるという。どんな天才でも平等に年齢を重ねるし、体力はいつか衰えてきてしまう。
・・・一つの球団の支配下登録選手は最大70人(育成選手を除く)と決まっている。誰かが入団すれば、一方で誰かが退団しなければならない。・・一つの基準になっているのはチームにおける年齢のバランスといえるだろう。・・(プロ野球の平均選手寿命は約9年で、平均引退年齢は約29歳とされている)。「高卒は5年目、大卒、社会人は3年目」。入団してから一軍に上がるまでの猶予期間として、球界でよく使われてきた言葉だ。
・・・現役時代、二軍暮らしが長い選手と話していた時に、こんなことを感じていた。戦力外を免れることができても「来年こそ頑張ろう」と本気で前を向ける選手は少ない。ほとんどの選手は「助かった。あと一年やれる」と胸をなで下ろすだけだった。まずは自分が組織の中でどの立場にいるのかを感じることだ。その感性がなくなれば、戦力外を通告されて初めて自分に足りなかったものに気付くことになってしまう。
・・・成功した投手に共通しているのは、登板時には信じられないほどの集中力を見せるということだった。
・・・チームに新しい選手が入ってきたときには、少し癖がある性格の方が期待できたものだ。少しぐらい生意気で「やんちゃ」と感じる性格の方が、選手として大成する可能性を秘めていると思うからだ。
・・・失敗は誰でもするもの。進んでしようとする人間はいない。だが、それを誰かや環境のせいにして逃げていたら、また同じことを繰り返してしまう。失敗の原因を考えて、次への対策を見つけることが反省である。
・・・合理性ばかりを求めていると、弊害が出るケースが多い。19年間の現役生活を経験した中で、一つ言えることがある。物事の結果をコントロールすることはできないが、プロセスはコントロールすることができるということである。・・相手がある以上、結果に至るまでの準備までしか、自分ではコントロールすることができない。言い換えれば、大切なのは結果ではなく、どういった準備をしたかというプロセスだともいえる。どんな世界にも通じる部分があるのではないだろうか。・・この一見無駄に見えることが、必ずしも無益だとは限らない。失敗を重ねる中で、当時の考え方は正しくなかったのだと反省したり、アプローチの仕方をかえてみようという新しい発想が生まれることもある。結局は無駄なことを経験してきたからこそ、次からは無駄を省けるようになる。無駄なことが、無駄だと気付くことができる。無駄を重ねることが、本当の力を身につけることにつながると思うのである。
・・・間近で見ていて、「本番に弱い選手」に共通していると感じるのは、試合に通じる練習をしていないということだった。
・・・努力と結果は必ずしも結び付くわけではない。なぜなのだろうか。よくよく観察すると、それは正しい努力をしているのか、それとも間違った努力をつづけているのかということなのである。
・・・マイナス思考自体は悪いことではないと思っている。・・マイナス思考を積み重ねて最後にプラス思考に変えるのは、準備として正しい順番だといえる。・・マイナス思考を積み重ねることで、最後には「あれだけ厳しい練習をこなしたのだから」とプラス思考に変えられるのである。
・・・「体」「技」の順番に鍛えていけば自ずと「心」も強くなっていく。そうして「体・技・心」がそろうのである。
・・・プロ野球の世界では、素質がありながら、集中力が持続しないために定位置をつかめない選手もいる。そういった選手は、おしなべて好不調の波が激しいものだ。
・・・以前、原辰徳さんの著書の中で、東海大学などで監督を務めた父親の原貢さんから「悩み事や考え事は、布団の中で考えてはいけない。暗い中で、良い案は浮かばない。電気をつけて部屋を明るくし、いすに座って考えなさい」と助言されたという話を読んだことがある。
・・・自分で考えることを学ばなければ、変化していくことができない
・・・必要以上の重圧を感じることは、行動を制限することにもつながりかねない。
・・・スカウトの世界では「担当した選手が(入団時の)契約金を年棒で稼げるようになったら成功」といわれているそうだ。
・・・プレーヤー全員が同じ志を持てないのだとしたら、指導者が同じ方向を向く「役割」を与えればいい。たとえ個人が違う方向を向いてしまったとしても、「役割」を限定することでチームとしてのベクトルを同じ方向に向けることはできる。
・・・可能性があるうちは、「脇役」ではなく、チームの「主役」を目指してほしい・・小学生のように可能性が広がっているうちは全員がホームランバッター、エースといったチームの主役を目指した方がいい。いつかは、他者と比較する中で自分は「脇役」に徹しなければならないと気付くときが来る。それまでは、周囲が可能性を限定することはないのである。
・・・部下を指導する場面では、かける言葉には細心の注意を払わなければならない。・・そんな中で一つだけ言えることがあるとすれば、最後は選手本人に選ばせなければならないということである。
・・・結果を考えて逃げ道を作ってしまうと、本当の意味で前進することはできない。自分ではまっすぐに進んでいると信じていても、実際には斜めに進んでしまっていることもある。アプローチの仕方を間違えば、目的地から遠ざかってしまう。
・・・勝負の世界である以上、等しくチャンスを与えることが目標ではない。あくまでチームの勝利が目標だからだ。ここでコーチが考えなければならないのが、他の選手からの文句が出ない状況を作ることだ。・・特別扱いをするときには力関係を明確にした上で、明らかに上と思われる選手を選ばなければいけない。・・特別扱いには他の選手から不満が出てもおかしくはなかった。だから何よりも心がけたのは、山田には他の選手以上に厳しく接することだった。・・特定の選手にチャンスを多く与えるからには、周囲に「あいつなら仕方がない」と思わせる状況を作らなければならない。コーチには周囲を納得させるだけの理由と厳しさが必要になる。そのバランスを見誤ると、組織は崩壊してしまうだろう。
・・・選手の側もコーチを観察している。コーチに情熱があるかないかは、敏感に感じ取っている。情熱をもって指導してくれるコーチに対しては、選手も答えようとするものだ。
・・・部下に任せて、万が一の場合には責任を取る。星野さんの下で貴重な経験ができた。
・・・決断力があるかどうかは、能力の一つということができる。決断の遅い人間というのは、周囲に迷惑をかけてしまうことになるからだ。
・・・私自身、何か相談を受けた際には相談者の利益よりも、物事を大局的に考えて助言するように心掛けている。・・相談者の利益を優先すれば、結果的に不利益となることもある。
・・・部下を叱るタイミングは、いつがベストなのだろうか。私が心掛けていたのが、なるべく指導するべきプレーが出たその瞬間、その場で注意をするということだった。
・・・わざわざ若手を委縮させる必要はないが、委縮した中でも力を出せるようになることが、本当の実力につながることも多い。
・・・仕事に一生懸命取り組むのは、当たり前のこと。それ以上に何ができるかを考えて努力するのが、本当のプロとしての姿勢ではないのか。
・・・上司は部下の専門分野に強くなければならない。部下から質問を受けた際や、部下が壁にぶつかっているときには、「それは、こうした方が良い。なぜなら、こういった理由があるからだ」と部下が納得する理由とともに解決策を示すことができるのが、本来の上司の姿といえるからだ。
・・・「野村再生工場」と呼ばれることが多かった当時だが、移籍してきた選手たちは周囲にも良い影響を与えていた。チームとは異なった環境でプレーしてきた選手の考え方や言葉は、刺激になることが多かったからだ。
・・・勝負ことにこれをやっていれば大丈夫といった定石はない。そのときの最善の選択肢は何なのか。組織が置かれた状況や時期によっても、答えは変わってくるだろう。その時点でのベストを選択することができるのか。優れた指導者に共通するのは、最善の選択肢を選び続けられるバランス感覚ともいえる。』

2018年1月 2日 (火)

大手新聞・テレビが報道できない「官僚」の真実 (高橋洋一著 SB新書)

私がすでに知っていることも書いてありましたし、初めて知ることも多く書いてありました。さすがに元大蔵官僚だとも感じました。

『・・・筆者が財務省にいた頃、財務省幹部がある政策キャンペーンを行った。そして、担当部局の課長クラスに対して、新聞の論説委員クラスや、テレビ局のコメンテーターに根回しをさせて、どのような記事を書かせるか、あるいは、テレビでどう発言させるかを競わせたことがあった。その結果、翌日の大新聞の論調は、見事にすべてが同じになった。
・・・実は、森友学園問題には、主役である籠池理事長や、脇役である野党やマスコミが知らないところで重要な問題提起がされている。それは、一言で言うと、「日本の官僚と官僚機構が持つ重大な利権構造と弊害を、図らずも露呈した」ということになる。事態の深刻さに気付いているのは、もう一つの主役である財務省だ。
・・・私は値引き額8億円はかなり人為的につくられたものだと考えている。もし、まともにゴミの処理費用を算出すれば、10億円を超える可能性があった。それでは当初売ろうとしていた近畿財務局のメンツが丸つぶれである。そこで、1億円以上の売り上げが計上されることで近畿財務局の顔が立ち、また、小学校の建設を急ぎたい森友学園としても十分受けれられる「8億円」とした可能性がある。決して政治家に対する忖度で値引きしたのではなく、組織を守ろうとする官僚の”保身”のために、値引きが行われたのだ。
・・・筆者の推測では、近畿財務局の最大のミスは、そうした手順をサボり、ゴミの事実を隠して森友学園と随意契約をしてしまったことである。
・・・国の収入および支出に関して定めて会計法では、国有地の売却は、原則、競争入札と定められており、随意契約をする場合は、人命にかかわるなどの緊急性などに限定している。
・・・筆者は、役人時代、議事録は「お前が理解したことを書くのではなく、誰がどういう発言をしていたかを書け」と指導された。「概要」では書いた人の主観が入り込むため、資料としては二次情報の可能性があり、情報価値としては2流品、3流品である。
・・・官僚が、交渉相手になっている他省庁の官僚からの要求について、文書で大げさな表現を使うのは常套手段だ。ランクの低い官僚には、直接的に聞いたわけでもない「総理の意向」という言葉で物事を処理しようとするのは、よくあることである。文書が文部科学省のものでも「総理の意向」という発言があったのかどうかの証明にはまったく役に立たない。
・・・マスコミから見れば、役所から入手した「ブツ」は絶対的なもので、裏を取らなくてもいいもの、という過信があるのだろう。内容が正しいかどうかを判断する能力も、判断しようとする意欲もないのである。
・・・マスコミは、文科省文書が本物かどうかに焦点を当てている。筆者の感覚では、おそらく本物であると思うが、そうであっても、それらが作成されたのは2016年秋である。とっくに、文科省への宿題の期限(2016年3月)の後、しかも(2)の2016年9月の後でもある。はっきりいえば、勝負のついた後に、文科省は言い訳をいっているだけだ。・・文科省が、特区で内閣府・特区有識者委員会と交渉してきたのは、課長レベルである。交渉に負けたとき、負けた者は組織の幹部に報告するとき、いい加減なことを言う。筆者から見れば、それが「総理の意向」である。
・・・筆者が加計学園問題でこれまで述べてきたことは、いずれも単純なことだ。しかし、相変わらずマスコミはまったく真相にたどり着けていない。その理由は、目の前の現象だけしか見ていないからだ。一方の当事者だけから示された「文書」や「会見発言」を、金科玉条のように受け取ってしまっているから、加計学園問題には、「総理の意向」が働いていると思い込んでいる。このこうずは 森友学園問題と全く同じである。ゴミの問題を伝えずに売却をしようとした近畿財務局の担当者のミスで、国有地が安く買えただけなのに、そこに政治家の関与を匂わせている籠池氏と、規制緩和派との戦いに負け打だけなのに、安倍政権の関与を匂わせる前川氏は、完全にダブっている。
・・・天下りと特区による新規参入のような規制緩和の間には、密接な関係がある。許認可を厳しくした岩盤規制によって、天下りを受け入れざるを得なくするのは役人の常套手段である。・・天下りは、身内の役人という既得権に甘く、それ以外の人の雇用を奪う。新規参入の許認可も、既に参入している既得権者に有利で、新規参入者を不当に差別する。
・・・大統領制の場合、立法権のある議員たちは、大統領や閣僚などの行政府の要職を兼務することができない。大統領は国民によって直接選ばれるし、行政府の閣僚や官僚たちは、大統領に選ばれることになる。したがって、立法権が行使できる議員と、行政権が行使できる大統領や閣僚および官僚が分かれることになり、立法権と行政権の集中は起こりにくくなっている。三権分立の観点からは、大統領制のほうが権力のバランスはとれているといえるだろう。ただし、大統領と議会が対立してしまうと、政治や行政がスムーズに行われなくなるという弊害が起こる。
・・・戦後、日本は、経済的自立と豊かさを至上命題として掲げ、行政主導で特定産業の保護や育成をしてきた。社会全体が経済活動に集中できる環境を、与党・官僚・業界が一体となって作りあげ、維持してきたといえる。この過程で、行政主導の産業政策が次々と推し進められた結果、行政権がどんどん肥大化してしまった。消長を動かしてきた一部の官僚たちが、実質的に政治的な権限を掌握するようになっていったのである。つまり、政治家が命令して官僚を動かすという政治主導にならず、官僚が主体的に法律案をつくって、実際に動かすという”官僚主導”ができてしまった。
・・・国が新たな政策を実現するには、「財源」と「法的根拠」が必要である。財源とは代さんであり、法的根拠は法律だ。国会で、その政策を国が行うことに値するかどうかが議論され、議員によって予算と法律が採決されなければ、政策は絵に描いた餅でしかない。
・・・「完全民営化」は民間が所有し、民間が運営する。しかし、「完全に民営化」となると、「完全を期して民営化する」という意味に解釈できてしまう。完全を期して民営化すれば、特殊会社でも特別民間法人でもOK、という結論になってしまうのだ。こういう巧妙な語句や言い回しの修正は、官僚が最も得意とするところである。こうした手法の積み重ねを通じて、官僚は裁量権を拡大してきたといっていい。
・・・官僚の作文をする能力は非常に高い。一見しただけではきづかない。巧妙な語句や言い回しを用いて、法律を自分たちに都合のいいように誘導してしまう。この作文能力こそが、官僚の最大の武器といっていいだろう。しかも、他に法律を書ける人材が極端に少ないため、法律作成においてはほぼ独占状態で対抗勢力がいない。放っておけば、好き勝手ができてしまうのである。そこでもうひとつ、官僚の強みを明らかにしておきたい。それは法律を作るテクニックである。ここで言う「法律をつくる」というのは、法律の条文を書くという作業とは別のものだ。どんな法案を作成するのか決めてから、それが国会で可決されるまでのスケジュールを想定し、滞りなく進行させるという一連の作業のことである。そこには、政治家を含めた関係各所への根回しも含まれる。優秀な官僚はそうしたマネジメント能力も高い。
・・・学者やジャーナリストを問わず、政府の審議会委員に選ばれるというのは、本人たちにとってみれば、非常に名誉なことだ。社会的な箔が付き、大した額ではないが報酬ももらえる。断る理由がないのである。したがって、審議会の場でも、役所の意向に逆らうことはない。はやりの言葉で言えば、役所の意向を忖度しているわけだ。
・・・ポチの中には、厚顔無恥というか抜け目のないというか、とんでもない人もいる。審議会で官僚が説明したことを、あたかも自分の意見であるかのように偽装するのだ。審議会では、「勉強になりました」などと言っておいて、そこで得た情報や理論を、その後、自分の論文として発表したり、本にまとめてしまうのである。情報をパクられて側の役所から抗議することは一切ない。官僚にとって都合がいい主張を世の中に広めてくれることになるので、むしろ歓迎していた。
・・・事務局が選んだ人物でも、実は反対意見を持っていたり、思いのほか自己主張が強かったりするケースがある。もし、そうした人物が、審議会で台本を無視して、役所の意向とは反対の意見を出してきたときはどうするか。発言内容を自分たちに都合のいいように変えて、議事録を残すのである。・・1人当たりの持ち時間は3分になる。このわずかな発言時間では、自分の主張をまとめて述べるだけで、議論などは起きようがない。議事録に残す発言記録も、いかようにでも修正できるだろう。面倒な委員がいる場合には、審議会委員の総数を増やす、という手もある。内容からいって20人程度が適当と思われる審議会に30人の委員を選んでしまえば、発言時間は2分しかなくなる。これで有意義な発言や議論をしろというのは不可能に近い。また、人数が多くなればなるほど、結論はまとまりにくい。すると、結論が出ないまま時間切れになり、「座長一任でお願いします」となる。・・結局、事務局がまとめることにある。まとめたものは、審議会が始まるときに作成したものとほとんど変わらないはずだ。
・・・事前審査というのはあくまで慣行であって、政策の立案に不可欠の要素ではない。1962年から、自民党の要請を受けて始まったものである。それまでは、政府提出法案に対して、与党の議員が国会で議論を通じて反対意見を述べたり、審議の過程で法律案を修正したりすることができた。しかし、与党が政府提出法案に公然と反対してしまうと、行政府である政府と立法府で多数を占める与党との考え方が違っていることになってよくない、といわれるようになってきた。与党議員が与党の執行部に反発して国会審議で反対意見を述べれば、党内不一致を露呈することになり、野党にみすみす攻撃材料をあたえることになってしまう。それによって、審議が紛糾し、国会運営にも支障をきたすことが目立つようになっていった。そこで、国会で与党と政府が対立しないようにするために、政府提出法案を事前に与党に提出して、与党の審査を受けるようにしてはどうか、というアイディアがでてきた。1962年、当時の自民党の総務会長だった赤城宗徳氏が、官房長官だった大平正芳氏に持ち掛けたのである。
・・・族議員が増えてくると、部会では真っ当な議論や審査は行われなくなる。政治家が官僚にさまざまな要望をぶつけ、法案にどれだけ反映させることができるかが目的になってしまう。・・族議員の台頭によって、自民党の事前審査のシステムは、次第に、官僚がつくったシナリオに政治家が注文を付け、それをどの程度反映させるのかを調整する場となっていった。
・・・事前審査がもたらした弊害はまだある。それは国会審議の形骸化だ。
・・・事前審査が政治主導の阻害要因になっているというのは、次のようなことである。自民党の慣行上、党の事前審査と機関決定を通過しない限り、総理大臣をトップとする内閣といえども、法案を閣議決定できないことになっている。したがって、内閣や担当大臣の意向に沿って法案の原案が作成されたとしても、事前審査によって、内閣不在の状態で、与党と官僚によって法案が修正されてしまうという事態が起きてしまうのだ。内閣は、与党の事前審査及び機関決定が終了するまで、閣議決定をすることができない仕組みとなっており、総理大臣、閣僚といえども、いったん機関決定された内容を再度修正するというのは非常に難しい。
・・・予算関連法案を策定するには、予算編成権を握っている財務省の主計局との折衝が欠かせない。つまり、主計局も立案の命運を握っていることになる。省庁の中でも、財務省の主計局が最強の権力を握っているとされるのは、こんな理由もあるのだ。
・・・内閣法制局は政権の擁護をするだけではない。ときとして、内閣に対して、”拒否権”を発動することもある。たとえば、首相や閣僚が、憲法や法律の解釈あるいは見解について、過去に示したものから逸脱するような動きをした場合、法律の解釈を駆使して、逸脱しないように説得することがある。
・・・省庁の地方機関は、正式には「地方支分部局」と呼ばれる。・・中央省庁と地方支分部局を合計すると、およそ60万人の国家公務員と280万人の地方公務員がいる。したがって、最広義の意味での官僚は、日本に約340万人いることになる。・・キャリア官僚とは、国家公務員採用試験の「総合職試験」に合格して、中央省庁の本省に採用された人を指す。本省とは、霞が関に位置する省庁のことである。・・総合職試験の合格者は年間700人程度にとどまっている。国家公務員60万人のうち防衛庁などの特別職を除く一般職員は30万人程度であり、そのうちの数%程度がいわゆるキャリア官僚でである。
・・・キャリアとして入省すると、海外留学や地方勤務、他省庁への出向などを経験して、同期入省のほぼ全員が本省の課長クラスまでは、だいたい横並びで昇進することになる。財務省の場合、キャリアの1~2年目の新人は係員と呼ばれる。3年目ぐらいに海外留学し、5~7年目は係長となる。係長となると、政策立案をサポートする仕事が多くなってくる。・・30代前半で課長補佐になる。課長補佐は、自分で新しい法律の草案を書いたり、審議会の運営をするといった、政策立案における中心的な役割を担うようになる。実質的に法案を作成しているのは、30代の課長補佐たちなのである。・・40歳までには課長になる。課長は所属する課の政策立案に関して責任を負い、省内および他省庁との折衝、政治家への根回しといった仕事が増えてくる。キャリアは昇進するにつれて、そうした政治的な仕事が中心的な仕事になってくる。
・・・むしろ、自分の同期の中から、誰かが官僚トップである事務次官になって欲しいというのが、同期に共通する願望となっているものだ。・・飛ばされた期には優秀なキャリアがいなかったということになってしまう。それだけは何としても避けたいと、同期全員が思っているのである。・・課長まで昇進するノンキャリアは限られており、かなりの数の人がベテランの課長補佐のままで退官することになる。
・・・財務省には6つの局しかないので、局長になれるのは6人だけ。その6人を除いた他の同期は退官することになる。局長へ昇進する年齢はだいたい50代前半なので、50代前半もしくは40代の後半から、退官するキャリアが出てくるのだ。・・この慣行は必然的に「天下り」をもたらす。・・天下りのシステムこそが、官僚に省庁への忠誠心を誓わせる原動力になっていることは、ある程度官僚を経験している藻のであれば、誰でも知っていることだ。・・幹部クラスのOBともなれば、数年ごとに関連する団体を渡り歩き、その都度、高額の退職金を手にする人もいる。これは「渡り」と呼ばれている。
・・・主計局長の下には、主計局次長が3人おり、・・主計局では、課長の他に課長級のポストの主計官が全部で11人いる。主計官は、それぞれ対応する省庁が決まっている。実は、主計官のところだけポストの呼び方が少し違うのだ。課長は主計官、課長補佐は主査と呼ばれる。主計局が財務省の中枢であるという自負があるのだろう。
・・・政府において、財務当局の力が強いのは日本だけではない。海外では、法律上、財務当局の格が他省庁よりも一つ上とされているケースがある。さらに、財務当局の大臣が副総理クラスとなっている国もある。予算を握っている省庁というのは、海外でも大きな権力を持っているのだ。ただし、アメリカだけは例外で、アメリカの財務省は予算編成権をもっていない。歳入や通貨の管理についての裁量権しかない。アメリカで予算編成権を持っているのは、政権内の行政管理予算局というところなのだが、最終的な予算案をつくり上げるのは議会なので、行政管理予算局にはそれほどの権限はない。
・・・主税局の特徴は専門性の高さだ。キャリアは財務省内の他局に異動したり、他省庁に出向したりするが、ノンキャリアの場合は、ずっと主税局にいて、税制の専門家になっていく人も多い。・・主税局は、全国11の国税局と524の税務署のネットワークを活用することができるのだ。税務署は個人及び法人の所得に関する膨大なデータを持っているので、強大なネットワークといえるだろう。
・・・理財局はさまざまな国有財産を管理し、有効活用するのが主な仕事である。・・国有財産は「行政財産」と「普通財産」にわかれる。行政財産は行政に使うため、売却ができない国有財産のことで、国会議事堂や裁判所、防衛施設、皇居などを指す。一方、普通財産は、行政財産以外のすべてを指し、独立行政法人などへの出資が大半を占めている。このほかには、地方自治体へ貸し付けている財産や未利用の国有地がある。・・理財局が管理する財政投融資は、国の資金を使って行われる投資や融資のことだ。「第二の予算」とも呼ばれ、第一の予算である一般会計予算が税収や国債によって資金調達を行い、歳出された予算は使い切られるのに対し、財政投融資は貸し出しが基本だ。つまり、返済が前提となっている。投資の場合は、返済はないが、事業によって得られる収益の還元が期待されている。
・・・国際局の業務は幅広い。国際経済の調査・分析から始まって、国際機関との連携・交渉、途上国支援の企画・立案をてがける。また、為替政策も国際局の仕事で、ときに為替相場への市場介入も行う。・・財務省には、トップの事務次官と同格とされる財務官というポストがある。国際局長は財務官になることはできるが、事務次官が主計局、主税局、理財局ほかの分野を所管するのに対し、財務官は国際局と関税局の一部を所管するのみ。事務次官に比べると財務官は格下であることは否めない。G7(先進7か国蔵相会議)をはじめとする、経済関連の国際会合には、財務官と国際局の次長クラスが随伴する。外交における経済的な交渉については、外務省よりも国際局の権限の方が大きいと言えよう。
・・・財務局は、地方支分部局と呼ばれる財務省の出先の機関だ。・・財務省の地方支分部局は3つの部署があり、財務局の他に、税関と沖縄地区税関がある。・・管轄地域での予算の振り分けや、地方公共団体への貸付業務などを行っている。また、財務省とは別に、金融庁からの委託業務も行っており、人事交流もある。財務局は、財務省本省とは別に、国家公務員採用試験「総合職試験」の合格者を独自に採用している。しかし、主要な財務局のトップである財務局長は、本省採用のキャリアが就くことになっているので、生え抜きは財務局長にはなれない。本省に出向することは多いが、本省で中枢のポストに就くことはできない。財務局の最終ポストは、地方支分部局であれば中小の国税局長、財務局長、税関長で、本省であれば通常は課長補佐まで、課長にまで昇進するのはごく少数だ。
・・・財務省の権力の源泉は予算編成権と徴税権だ。いずれも他の省庁及び政治家にとっては脅威となる。実は、もうひとつ、財務省は他省庁に強い影響力を行使できる権力を握っている。人事権である。国家公務員の人事を管理している課はいくつかある。給与の金額を管理している財務省主計局給与共済課、各省の人事を管理している人事院給与局第2課、国家公務員の数を統括している総務省行政管理局などである。この三つは別々の組織ではあるが、財務省から出向した財務官僚が課長ポストをすべて押さえているのだ。特に、総務省行政管理局管理官は、全省庁のその年の公務員の増員または減員の査定を行っている。霞が関官僚の定員を調整する権限を握っているのだ。
・・・財務省に限らず、官僚の行動原理は「省益第一主義」という言葉に集約できると思う。いかに、多くの予算を獲得し、OBを含めた自分たちの利益を確保するか---。この省益の確保と追及という行動原理が官僚を支えているのだ。財務官僚には、これに加えて、「財政至上主義」という原理が加わる。現状では「財政再建至上主義」と言い換えてもよい。
・・・財務官僚のこうした考え方の背景には、自分たちのことを「国士」だと思っているフシがある。国士とは、身命をなげうって国家を支える憂国の士を意味する。悪者になってもいいから、あえて国民に不人気な増税という選択を我々はするのだ。それが、結局は日本のためになる---筆者が財務省にいた頃は、そうした雰囲気が省内に充満していたのである。おそらく、それは現在も変わらないであろう。
・・・今はグローバリズムが世界の隅々まで浸透した結果。状況の変化が短期間でおき、先を見通すことが難しくなっている。こうした状況では、首相が政治判断をし、トップダウンでスピーディに具体的な指針を示すことが求められよう。そのためには、政策決定のメカニズムを、官僚主導から政治主導に転換しなければならない。
・・・しかし、日本政府は巨額の資産を持っている。政府の関連会社の資産も考慮すると、資産額はおよそ600兆円以上あることが分かっている。・・実質的な借金は400兆円程度となる。この金額は、日本のGDPの約8割に相当し、他の先進国の対GDP比率と比較しておm、突出して高い水準とはいえない。・・政府資産の中身についても、先進諸国と比べて、換金可能な金融資産の割合がきわめて大きいのが特徴となっている。日本政府の借金は、少なくとも、すぐに消費税を増税しなくてはならないほど深刻な状況ではまったくないのだ。
・・・特殊法人や独立行政法人を、廃止あるいは民営化することで、出資金及び貸付金を回収することが可能となる。その結果、政府のバランスシート上の負債も大きく減る。・・日銀を連結対象とする「統合政府」のバランスシートを作ってみると、日銀が金融市場から国債を購入しているため、実質的な政府の負債は解消に向かいつつある。すでに、財政再建は終了してい可能性がある。その証拠に、先の5月1日、金融市場で国債の売買が成立しなかったという、”事件”が起きている。・・もし、日本の財政が危機的状況であれば、国債の価格は下がり続け、暴落が起きるかもしれない。しかし、現状は、国債の価格は高止まりしている。これは、統合政府でみれば、日本政府の財政再建が終わっているという筆者の認識と合致しているのだ。
・・・社会保障制度を維持するためには、まず「歳入庁」をつくるべきだと考えている。歳入庁というのは、国税庁と日本年金機構の徴収部門を統合した組織である。歳入庁をつくることで、税金や年金保険料を効率的に徴収でき、徴収コストを劇的に下げることができるからだ。
・・・歳入庁はいいことづくめといえるのだが、日本では創設に向けた動きが一向に盛り上がらない。それは、歳入庁に断固反対している勢力がいるからだ。財務省である。
・・・道州制の直接的なメリットは、中央省庁のスリム化ができるところだ。ただし、公務員の数自体は純減しない。削減された20万人の国家公務員はそのまま地方公務員にスライドするため、地方政府の地方公務員は、減った国家公務員の数だけ増えることになる。それでも、中央省庁のスリム化によって、コスト削減効果は出てくるはずだ。・・一方、道州制の導入によって懸念されることもある。新たな利権構造ができる可能性だ。中央省庁が握っていた予算や許認可などの権限を、地方政府が持つことで、地方政府の官僚が利権の中心に座るおそれがある。それに対しては、地域住民の監視が何よりも大切になるが、手が届きにくい中央省庁で起こる問題ではなく、より身近な地方政府での問題なので、監視はしやすくなるはずだ。監視するための組織をつくり、仕組み作りを準備しておきたい。
・・・筆者は、議員立法によって重要法案が多数つくられるべきだと考えている。官僚には書けないような、日常生活に密着した法案こそ、議員立法が担うべき分野である。議員立法の数を増やすことが、政治主導を取り戻すことにつながるといっていい。』

2017年12月30日 (土)

軍事のリアル (冨澤暉著 新潮社)

元陸上幕僚長の著作。前半は一つのテーマについての論述、後半はエッセイ的な印象を受けましたが、目からうろこのような印象もありました。

『…1999年にも国連軍参加についてまったく同様の答弁があったと聞くが、これらの答弁で2つの点が明確にされた。一つは、内閣法制局が国連軍・多国籍軍・PKFに参加し武力行使をすることを、「すべて集団的自衛権に関わる問題だ」と誤解ないしは曲解していることであり、次に「武力行使というものはすべて我が国防衛のための必要最小限を超えるものであってはならない」と盲信していることである。
・・・本来、自営における反撃の限度は侵害の程度に応ずるものである。だから、通常兵力1個師団で攻撃された場合の反撃の限度と、核兵器で攻撃された場合の反撃の限度は明らかに異なる。つまりこれは、その時の状況・相手に応じた部隊運用上の限度なのであって、一定量として表現できないはずのものだ。にもかかわらず、日本に許された自衛・反撃の限度が総じて「必要最小限」、といういかにも一定量であるかのように思わせて、それを防衛力整備とか、集団安全保障とか、集団的自衛権行使の可否等というまったく無関係な分野のことにまで及ぼす。そして結局は、その言葉の意(量)を話す人・聞く人の同床異夢に委ねてしまう。こんな曖昧で意味のない言葉で議論することは直ちに止めなければならない。
・・・ようやく1974年に国連総会が侵略の定義に関する決議を採択した。この定義は8ヵ条からなるもので、無論完璧なものとは言えないが、ケロッグやパルの時代に比べれは大進歩といえる。・・この74年の国連総会は、侵略概念を武力攻撃に限定・確定したのである。
・・・正当防衛は国内法上の言葉であり、自衛は国際法上の言葉ということで、その区別は完全に定着している。ところが、国際的には困ったことが残っている。日本、中国、ロシア、ドイツ等の国々では、国内刑法上の正当防衛と国際法上の自衛とが別の言葉として確立しているのに、米国、英国、フランス、スペイン等の国々では、国内刑法でも国際法で、self-defense(英・米)、legitimadefensa(スペイン)、といった同一語で表現するのである。そのため、外国依存、特に米国依存度の強い日本に、要らぬ誤解と混乱をもたらしている。・・米国の国民の多くは国際法上の自衛(self-defense)という言葉を知らない。・・その彼らから言わせると自衛隊(self-defense force)というのは、「護身隊」とか、「正当防衛隊」と聞こえるらしい。世界秩序や国家を守る軍隊ではなく、もっぱら自分の身を守る部隊、というのは彼らの理解を超えたものである。
・・・刑法の正当防衛なら無論、憲法の認めるところのものだ、ということで、この条項を武器を保有する海上保安庁巡視艇(船)は勿論、米国を含むすべての友好国艦艇等にも適用できるように修正したらしい。集団的自衛権行使に反対する人々が、この条項を「憲法違反だ」と訴えても通じないようになっている。
・・・自衛と正当防衛をself-defenseのような同じ単語で表現する国々があるために、「自衛と正当防衛は同じものだ」とする誤解がなお消えずにいる。しかし「自衛と正当防衛とはやはり違うもの」なのである。「自衛」は国際法上の問題だからその権限と責任は国家にあり、「正当防衛」は個人の刑法上の問題だからその権限と責任は個人にある。
・・・かつて小野寺五典防衛大臣は「情報は共有しても指揮権は日本にあり、他国に譲ることはない」と語ったが、技術の進歩は、各国最高指揮官をパスし、自動的に集団安全保障措置をとれるところまで来ているのである。当然その事前設定は各国の最高指揮官が決心することだが、ことほど左様に今や集団的自衛権で特定の国を護るのではなく、集団安全保障で世界、地域全体の秩序・平和を守る時代なのだ、ということである。
・・・「駆けつけ警護」も「公海上の他国軍艦艇の防護」なども「集団的自衛権行使」に似てはいるが、全く違うものである。これは国際法上の国権に基づくのではなく国内法上試験に基づくものだから、責任は国になく個人にある。それでも諸外国のとっては歓迎すべきものなので、外交上は成功であった。問題は、この現場の自衛官たちにとって(1)奇襲攻撃を待ち受けるまでの忍街、(2)正当防衛についての国家に替わる個人の責任、がどこまで受容できるのか、ということである。
・・・集団安全保障とは戦うことが目的ではない。諸国連合で「何時でも戦える」という姿勢を示しつつ、まず話し合い、次に経済制裁を加え、相手が先に武力行動をとった時に初めて諸国の力を合わせて武力制裁する、というものである。
・・・歴代の米政権は、採用はせずとも多様な政策提言を許容し、かつ国益を守るための検討材料としている。そのことを承知の上で米国戦略家たちから学ばなけれならないのである。
・・・米戦略国際問題研究所(CSIS)シニアアドバイザーのエドワード・ルトワックは、(1)財務省とウォール街は「親中」である、(2)国務省は「親中」と「反中」の間をゆれる、(3)国防総省は「反中」である、と言っている。
・・・各種軍事協力で日本だけが他国と違った行動をとることは、その中で孤立するだけでなく、チーム全体の力を殺ぐことになり好ましくない。自衛隊他員たちの多くが、現場で努力しそれなりの成果を上げつつも、その「手足を縛るような」任務付与については、帰国後・退官後に不満を漏らしてきた。・・国内では「自衛隊は憲法により外国軍とは違う」が通じても、国際的な現場ではそれが説明できない。
・・・状況判断能力については、部下とともに訓練し、数々の現場を部下たちとともに踏んできた後輩指揮官たちをより信頼したい。ただ、現職自衛隊指揮官方にお願いしたいことがある。自らが訓練し自信を持っていることだけを実行してほしい。訓練していないこと、訓練してもできないことについては、恥ずかしくても「これはできません」と正直に言わなければならない。
・・・筆者が防衛大に入港した1956年には、米軍の陸軍中佐が防大校長の顧問として存在していた。
・・・統合作戦というのは、積極的に我が戦力を集中できる攻勢作戦において極めて効果的なのだが、防勢作戦において敵の自由意思に基づく攻撃を待ち受け敵の一つ一つを排除するには不便極まりない。
・・・統合軍が、米国において発展したのは、軍の大きさや活動領域の広さのためでもあるが、軍事技術、特にミサイル・IT(情報技術)の進歩のためだと言われている。要するに陸・海・空全てのプラットフォームが目標情報を共有し、どのプラットフォームから発射するのが最適かを選び出すコンピューター技術が自動的・効率的な指揮を可能にしたためである。
・・・日本は1954年2月に調印した「国連軍地位協定」に基づき、これら参加各国軍を在日米軍基地7か所(横田、座間、横須賀、佐世保、嘉手納、普天間、ホワイトビーチ)において支援しなければならない。これは「軍事による国際協力」であり、一つの「連合作戦」参加と見なされる。国連安保理決議に基づく多国籍軍への自衛隊の参加は2004年6月、イラクにおいて既に実現している。司令部からの情報提供は受けるが、武力行使に関わる指揮は受けないという条件はついているが、その実例は既に国際法の一部になっている。
・・・これらの「連合」は、すべて集団安全保障措置に関わるものであり、集団的自衛権行使とは関係がない。
・・・今、「国連中心の集団安全保障」と、「米国中心の集団安全保障」が併行して存在するかに見える。しかし、先にも述べたように、国連はもともと米国一極を公認するための組織であり、米国と国連は世界秩序維持のための車の両輪なのである。現在、世界の有力国はすべてこのことを認めているが、大量破壊兵器を拡散させ、テロ・ゲリラなどで世界秩序を変えようとする一部の国(またはグループ)だけがこれを認めていない。
・・・米国一極体制を長続きさせるため、日本の軍事がなすべきことの第一は、米国中心の軍事行動への参加である。それは戦争への参加ということではなく、戦争予防のための「集団安全保障」への参加である。・・まず(1)話し合い、次に(2)経済制裁をかけ、やむを得ぬ場合に(3)軍事制裁をかける、というものだが、ここでの軍事の本来の目的は、その存在により(2)の経済制裁を有効にし、さらに(1)の話し合いに拍車をかけるものであることを理解しなければならない。
・・・米国にとって今欲しいものは各軍の実力ではなく、出来るだけ多くの外国軍の共同の心と姿勢なのである。なぜならそれが「平和裏に米国中心一局秩序を維持する最大の推進力」だからである。
・・・朝鮮戦争は64年前に既に終わったと誤解している人が多いが、この戦争はまだ終戦になっていない。未だ講和条約が結ばれておらず、引き続き休戦状態にある。・・豪・加・英・仏・比・ニュージーランド・タイ・トルコの8ヵ国の駐日大使館駐在武官が国連軍派遣国・連絡将校として兼務(非常勤)で勤務している。
・・・金斗昇氏(韓国国防研究院主任研究委員、元ハーバード大日本研究所客員研究員)は、2002~2008年の間に在韓米軍司令官を務めたレオン・ラポート、パーウェル・ベル両大将の発言を紹介し「米国は、国連軍司令部体制を強化し、国連軍司令官の指揮権をなお有効とし、米韓連合軍司令部体制でない国連軍司令部体制だけでも朝鮮半島有事に対応することが可能であると考えている。つまり米国は米韓連合軍の指揮官の問題が揺れれているこの状況の中で朝鮮半島及び東アジアにおける自国の影響力を維持・強化するための一つの手段として国連軍司令部体制を活用し「北東アジア平和維持軍」を創設するという構想を持っている」「しかし、韓国はこの問題に対する十分な理解を関心を有しておらず、日本に至っては全く認識不足で、ただ日米同盟重視を言うのみである」との趣旨を述べている。
・・・国家安全保障戦略のここまでについては何の文句もなく、筆者にとっては「我が意を得たり」である。しかし、頭の部分は大変優れていたとして、首から下の部分が全くできていないところが問題である。「大量破壊兵器の拡散」が脅威だとして、それにどう対応していくのかという具体的方策がこの戦略には全く表現されていない。更に、この戦略を受けた「25大綱」にも関連策が示されていない。・・最大の脅威に具体的施策が全く伴わないというのでは、戦略としてはお粗末である。
・・・筆者は英国の核は米国核の分散配置に過ぎず、フランス・中国の核はいずれも「トリガー(引き金)核」だと理解している。「トリガー核」とは、「我が国も世界破滅の引き金を引ける」という自己主張であり、「滅多なことでは引き金を引かない」が故に「我が国も世界秩序(平和)を担う重要国家である」と宣伝しているの過ぎない。・・イスラエルの核は周りのアラブ諸国の攻撃を抑止することが目的であり、イランはこれに対抗して核開発を進めようとしている。
・・・米露の核が世界秩序(平和)の維持に役立っていることは確かだとしても、このようにイラン・北朝鮮のような国が核開発を進めると、世界の核使用のハードルが低くなり、全体の秩序が脆弱なものとなるので困る。それゆえ、これ以上の核拡散を止めようということになる。既核保有国の核を保全して、その他の国の新たな核保有を禁じることは確かに不平等な話である。しかし、世界の平和、即、各国の平和と考えるならば、これはやむを得ないことと考えなければならない。
・・・原子力工学に詳しい自衛隊OBにきくと、不可能ではないようである。ただ、すぐにできるというようなものではなく、何年というレベルの時間を要するらしい。2016年に331キロの研究用プルトニウムを米国に返納したが、ある程度時間をかければ核兵器用のプルトニウムを準備することも可能らしい。
・・・米国では騎兵の機能と部隊名を残し、その機能を継続できる新たな装備と訓練を探し続けたのだが、日本では騎馬という装備(ブツ)そのものに拘り、そのブツが陳腐化してなくなると同時にその機能そのものまでをも忘れ去ってしまった、ということである。
・・・「本腰を入れることはないのだから、前捌きに集中しよう」ということである。「海のISR(情報・監視・偵察)重視」もこれで理解できる。数年前に沖縄海兵隊外交政策部(G-5)次長であったエルドリッヂ博士から、「海兵隊とは騎兵隊のようなものです。陸上自衛隊も海兵隊のようにしてはどうですか」という提言を受けた。「海兵隊は騎兵」には全く同意である。しかし、海兵隊が騎兵の役割を務めることができるのは、米陸軍という主力(本腰)が後ろに控えているからである。自衛隊全てが騎兵になった時、主力(本腰)は米軍が務めるとでも思っているのだろうか。また、諸外国の状況をみるに、「国家間決戦なき時代」ではあっても、「外国力」の背景として「本腰」の力が大きく働いていることは明白である。
・・・統率力は一般に、指揮官の「人格」と「能力」によって構成される。「人格」と「能力」のどちらに比重をかけるかは人によって違うが、少なくとも片方がゼロという人に統率はできない。
・・・統帥は当初、部隊運用(軍令)に限られていたのだが、この軍令と軍政の混乱が、帝国陸海軍に大きな誤りをもたらした。・・ところが、軍政は軍令の要求に従うべきものであり、軍政が軍令の要求を入れないことは参謀総長(陸軍)や軍令部(総)長(海軍)の統帥権を干犯するものだ、という動きが起こる。・・これらは、実際は大勝利とは言えなかった日露戦争の反省が不十分なままに、大正デカダン(軍事不要)という風潮の中で、天皇という玉を掴み取ろうとした陸海軍の過ちであった、と筆者は考える。明らかな贔屓の引き倒しで、極めて不敬なことであった。
・・・スイスは1648年のウェストファリア条約で独立した小国(現人口842万人)であるが、独立以来永世中立国であり、その中立政策を守るため370年間、徴兵制を続けている。しかし、国防関係者が「冷戦の終結により外敵からの侵略の危険性が減少したことで、現役総定員17万人は過大になった。故に装備の近代化と職業軍人の増加で軍隊のプロ化を進め、兵指数も12万程度にする」との方針を発表し、これまでに3回の国民投票が行われたが、3回とも否決された。3回目(2013年)の結果は反対票73%で、その最大の理由は、「職業軍人だけの軍隊になるとNATOやEUとの関係が強いものとなり、中立が保てなくなる」であったと聞く。
・・・イタリア軍は1860年代から徴兵制度を続けてきたが、2000年に徴兵制廃止を決定、2005年から完全志願制の軍隊となった。徴兵制廃止の最大の理由は、「90年代のソマリア内戦に国連多国籍軍として参加したときに、余りに弱く役立たなかったので、訓練練度の高い精強部隊を作るため」と伝えられている。
・・・「もっとも効果的な情報入手手段は「人間交流による情報(ヒューマン・インテリジェンス=Humint)」であり、最高の情報とは「相手(敵)の意図を自分の意図に一致させること」である。それができたときには戦わずして勝てるのだ」という結論が出る。藤原は自らの魂(愛情と誠意)によってそれを実行した稀有の情報将校として歴史に残る。
・・・米軍の将校たちが「戦場で状況判断をするときに、最小限考えるべき要素」として教えられてきた「METTT(メッツ)」という略語を紹介する。それは次のような意味を表している。M(Mission):任務、E(Enemy):敵、T(Troops):我が部隊、T(Terrain):地形、T(Time):時間
・・・現在の日本には、この「3戦」に応じ当方からも「3戦」を仕掛ける所管官庁がない。それが最大の問題なのだが、筆者は国家安全保障局が遠からずその中核であろうことを期待している。
・・・(A)「演繹法的収集」と(B)「帰納法的収集」について考える。(A)は当方の任務・行動を原点とし、・・(B)は敵方だけでなく、互いの友軍の動きや広い世界の動きなどが定まらず、当方の行動方針の目安も経たない段階で長期戦略的な判断に資する情報を探るものである。・・当面の作戦に備える戦闘情報では(A)が多用されるが、その場合でも(B)で補完しより確実を期すことが大事である。最近はコンピューターの発達により大量のデータを短時間で解析できるようになったらしいので、(B)の方法が戦闘情報にも活用できるようになるかもしれない。』

2017年12月 2日 (土)

般若心経は間違い? (アルボムッレ・スマナサーラ著 日本テーラワーダ仏教協会)

これまで少し意味が不明なところもありながらも、般若心経はありがたいお経だと信じて唱えてきました。しかし、この著作で疑問点は解消し、般若心経に対する見方が変わりました。

『・・・じつは「般若心経」は分からなくて当たり前なのです。それはお釈迦様、正等覚者である釈迦牟尼ブッダその人が語った経典ではないからです。「般若心経」をはじめとする大乗仏教の経典は、お釈迦様が涅槃に入られてから数百年後、その直接の教えから一部を抜き出して、その人なりの能力で深い意味を表現しようとした宗教家たちの文学作品です。それを私たちはいろいろと頭をひねって解釈しなければならないのですが、私たちもお釈迦様が説いた真理を知っているわけではないので、納得いかないのです。
・・・自分の国スリランカにも、子供から大人まで確実に覚えている経典として「慈経」という短い経典があります。これは暗記していない人はいないというくらい有名です。この経典は、お釈迦様が「慈しみ(慈悲)」の実践について説かれたものです。
・・・観自在菩薩は、大乗仏教でトップクラスの知名度を持つ菩薩ですが、初期仏教の時代には全然出てこない。あとからつくられたキャラクターです。
・・・初期仏教では、大乗仏教のような菩薩信仰を説かないのですが、菩薩の波羅蜜は六どころか、十も挙げられています。布施波羅蜜(施しの実践)、持戒波羅蜜(道徳の実践)、離欲波羅蜜(欲望の放棄と克己の実践)、般若波羅蜜(智慧の実践)、精進波羅蜜(精進努力の実践)、忍辱波羅蜜(耐え忍ぶことの実践)、真諦波羅蜜(誠実さ、正直の実践)、決意波羅蜜(不撓不屈で目的を成し遂げる実践)、慈波羅蜜(慈しみの実践)、捨波羅蜜(無執着の実践)です。ブッダになる誓願・決意をした菩薩は、この十項目を完成して完璧な人格者にならないといけないのです。
・・・波羅蜜を人格完成のための行として、いろんな試練訓練を受けて、自分を磨き上げることだと理解したほうがよいのです。
・・・お釈迦様は「私、といっているものは、色受想行識の五つでできているのだ」と言っています。「私を構成している、色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊の五つの本性は空である」つまり「実体はない」ということを観察しているのです。
・・・色は、簡単にいうと私たちの「肉体」です。・・受は感覚、感じることです。・・私は「想は、私たちが持っているさまざまな概念だ」と説明しています。・・大人になるとどんどん想が増えていくのです。勉強すればするほど想が増えます。それでトラブルが起こったりもします。・・行は、経典の説明では、喋りたい、考えたい、身体を動かしたいという気持ち、エネルギーのことです。これも増えたり減ったりします。・・識は、認識すること、知ることです。・・色受想行識の五つが一緒になって、離れることなく行動すること。それを私たちは一般的に生き物、人間と言っています。
・・・初期仏教では、あくまでも「一切の現象は生じて滅するものである」「一切は無常である」という立場です。お釈迦様は生滅説なのですね。これに対して「般若心経」は、「生滅がない」と言っているのです。この一言で「般若心経」は、せっかくお釈迦様が発見された「無常」という真理を否定してしまうのです。
・・・存在しないものについても考えられるのが、頭で思考する(妄想する)ことの特徴です。人間には妄想する機能(識)があるのです。
・・・お釈迦様は、次に「私と外の世界のかかわりはどうなっているのか?」を分析しました。その答えが「十八界」です。・・「見る」という現象の要素として、眼界・色界・眼識界という三つがあるのです。これを六根(眼耳鼻舌身意)すべてで起きているので十八界になるのです。十八界はネットワークです。このネットワークには中心的に管理するところはありません。インターネットのように中心がないネットワークなので、「実際の機能としての存在」を示す意図で「十八界」と言っているのです。・・このネットワークには、何も芯となる実体はありません。それが「生きる世界」の一つの説明になります。「私がいるんだ」というのではなく、「ネットワークが存在なのだ」と。・・十八界は常に変化生滅しているのです。そこで私たちは、「存在は無常である」という結論にいとも簡単に達することができるのです。
・・・本当は、「私」はネットワークで成り立っているもので実体はないのですが、それが分からないでいるのです。こういう存在の分析はブッダしかやっていないのですから、人間が知るはずもありません。
・・・仏説の本当の心臓は「般若心経」ではなく、十二因縁なのです。十二因縁は生起論と滅尽論がセットです。無明がなくなれば行もなくなる、行がなくなれば識もなくなる---、という滅尽論もあるのです。これによって、私という存在が苦しみの世界から脱出して解脱に達する道筋が明らかになったのです。
・・・ブッダが言うのは、「もともと実体はないんだよ」という話です。実体があると勘違いするから執着するのです。執着するから物事が変化するとすごく苦しくなって、悩むはめになるのです。実体がないからこそ、物事が変化するのです。外の世界に限らず自分自身も、変化し続けているのです。そこでブッダは、「どこにも実体のないことを発見しなさい。悩む自分も実体がないことに気づきなさい」と説くのです。
・・・言葉を使うときは語りすぎに気を付けること。そうしないと、どこまでも、頭の考えだけで飛んでいってしまうのです。
・・・宗教たるもの、けっして人間の呪文願望を支えてはならないのです。もし宗教が呪文願望を応援するなら、それはインチキ宗教に決まっているのです。
・・・正直さ、真理であるということは、それ自体がすごい力なのです。それを教えるためにお釈迦様はいくつかの経典で祝福をしています。「これは真理だよ。本物だよ」という証として言っているのであって、呪文に力があるというような神秘的な話ではありません。お釈迦様は星占いも他の占いも、きれいさっぱり貶して捨てているのです。
・・・「言葉に力がある」のではなく、「意味のある言葉に力がある」のです。
・・・呪文の特色は、論理性がないことです。文法も主語も目的語もありません。・・呪文には、伝える意味がないので、力がないのです。なのに皆、呪文に力があると思って、意味のない単語を羅列する。それは明確に迷信です。・・お釈迦様は明確に呪文を否定されました。呪文のことは、はじめからまったく馬鹿にしています。だから経典に呪文はひと言もありません。
・・・最後まで読んできましたが、「『般若心経』はあまり勉強していない人が作った経典ではないかな」というのが私の感想です。『般若心経』は仏教用語をたくさん並べていますが、パーリ経典を読んで学ぶ人から見ると、経典に値しないダラダラした作品で、欠点がたくさんあります。作者はただ適当に短くまとめてみようと思っただけで、そんなに真剣ではなかったようです。本人は「空」ということをわかっていないし、空の思想を理解してもいませんでした。そのことは、空を理解していたら使えない「na 無」という言葉を使ってしまっていることからもわかります。
・・・ということで結論です。「般若心経」は中身を勉強しなくてもいい経典です。そもそも中身がないし、論理的でもない。だから、意味がわからないことで困らなくてもいいのです。意味がわからないのは私たちの頭が悪いのではなく、先生の頭が悪いからです。
・・・「般若心経」は、仏教ほど古くないけれど、長い間みんなが大事にしてきた経典ということくらいのことです。大事に守られた理由は、短いことと、理解できないことですね。理解できなかったのは、中身がなかったからです。
・・・「向上するための躾が欠けているならば、それはブッダの生の教えではない」これは私たちが経典をチェックする重要なポイントです。
・・・そこで智慧のある人は、・・無常の中でなんとかうまくいくように励むのです。・・私たちの仏教世界では、「親は梵天(最高の神)として尊敬しなさい。親孝行しなさい」と教えます。なぜそんなに親を大事にするかと言えば、無常だからなのです。
・・・釈尊は、「常に気づきを持って(sato サトー)、この世を空として観察しなさい」と答えます。・・仏教でいう「世 loka ローカ」は、物理的な世界より、一切生命のことをいうのです。釈尊が、「一切生命を空と見なしてください」と言うのは、「実体たる自我がない」と発見するためです。これはパーリ経典のなかでも、最も古いところで出てくる教えです。「生命は空である」と分析すると、色受想行識の五蘊でできているものが生命なので、「五蘊には実体がないから空である」ということがわかるです。「生きる」とは何かといえば、眼耳鼻舌身意で認識することであって、それも実体がない。空である。そういう空論です。
・・・たとえとして使われる場合は、「毒矢」のイメージです。自分の身体に毒矢が刺さっていたら、ありがたいとは誰も思わないのですね。とにかく捨ててしまいたい、離れたいのです。だから、五蘊そのものが毒矢だと見てください。
・・・仏教では、「瞑想修行で発見するのは、無常、苦、無我とうい真理の側面のどれか一つだ」とも説明されています。しかし無常も苦も無我も、はっきり言えばすべて「同義語」なのです。
・・・修行を完了した人と、修行中の人の世を見る観方は、まったく同じですが、修行中の人には「我見を絶つ」という仕事が残っているのです。
・・・執着を捨てることは、決して楽ではありません。価値を入れると執着が生まれます。「価値がある」と思うと、やはり置いておきたくなります。私たちの家にもガラクタがいっぱい溜まっていますけれど、なかなか捨てられないでしょう。それは価値をつけているからです。
・・・事実だからといって、役に立つとは限らないのです。だから初期仏教では、「知っているものは全部語る」という立場は取りません。無駄なことは語らないのです。
・・・「空論」を語る人は「na 無」という言葉を使いません。それは「無」と「空」がまるで違うからです。・・「空」というのは、そういうことではないのです。蜃気楼は空です。蜃気楼について、私たちは語らなければいけないのです。「あれは水のように見えるけれど、ホントはそちらに水も何もないんだよ」と。「これはこういう働きで水のように見えるのだ」と。それな空なる現象であって、「無」ではないのです。蜃気楼を見て、「あれは無だよ」と言ったところで、蜃気楼はあるように見えるのですから無じゃないでしょう。私に苦しみが「無い」と言ったって、実際には現象として苦しみがあるのだから無ではないのです。
・・・確かに一切の現象は空です。しかし仏教では空論は語りません。その代わりに無常論を語るのです。それはわかりやすくて手につかみやすい事実だからです。無常は、「今のある現象が変わっていっても、また次に別の現象がある。また変わっていって別の現象がある」ということです。だから、そこから「どうすればいいのか」ということが導き出されます。それで修行することや、悟ることや、解脱することや、そういった道徳的なセクション、実践的な方法が成り立つのです。
・・・仏教は進化の道であって、人格完成の道であって、悟りに達する道なのです。だから空だけをハイライトして論じることで、それが壊れます。だから初期仏教では真理として「空である」とはっきり言うのですが、けっして「空論」は展開しないのです。
・・・じつは大乗のお坊さんたちも、まじめに修行しているのです。しかし論理的にはあべこべだから、その人たちにもまじめに修行する気がなくなってしまうのです。・・ただ真剣まじめに修行させる論理的な支え、裏付けがまったくないのです。それで最終的に大乗の世界で何をするかというと、「般若心経」のように呪文を唱えたり、「南無妙法蓮華経」と唱えたりするだけに終わってしまうのです。
・・・悪業か善業かは、しゃべった内容と気持ちによります。善いことを善い気持ちでしゃべるなら善業であり、善い結果につながります。
・・・仏教では、人間より次元が高い、心のエネルギーのレベルで生きる生命のことを、「神」といいます。仏教では、「いろんな生命が生きていて、どれもこれも清明だ。輪廻の世界で苦しんでいるのだ」という認識なので、神だから尊いということにはなりません。心を極限まできれいにして輪廻から解脱した阿羅漢こそがすばらしいのです。生命ということでは、微生物も人間も神も同じです。・・人間であるからには、人間としてしっかり生きることです。
・・・たくさん記憶したら、sannaがたくさんあるということです。忘れたら減ります。たくさん勉強するということは、サンニャーを増やすことです。sannaが増えると、そのぶん五蘊の量が多くなってしまいます。だからものすごく勉強した人というのは、性格が悪くて、頑固で、育ちにくくて、ややこしいでしょう?
・・・行蘊は「衝動」です。・・私たちには常に何かしらの衝動があって、その衝動は常に変化しています。衝動がない瞬間はありません。・・そのエネルギーをsankharaというのです。
・・・私たちの身体は五蘊でできているのですが、それらはすべて常に変化しているということになります。・・五つの無常をまとめたら、それは何に例えることもできない徹底的な無常なのです。ただ「無常」というしかないのです。・・ヴァジラー比丘尼は、「五蘊で自分ができている。それを生命という世間の合意がある。それだけですよ」と言ったのです。
・・・私の身体も、机も、物体です。どちらも同じ物体なのです。しかし、私の身体は感じるのですが、机は感じないのです。つきつめれば、違いはそれだけです。
・・・似ているものを長く感じると、「苦しみ」が生じます。・・それは感覚が苦だからです。・・苦には二つの次元があります。一つは、「感覚は苦で、生きるとは感覚があることなので、生きることは苦である」ということです。私たちは感覚があるから「生きている」とかいうのですが、その感覚が「苦」なのです。だから私たちは苦しまずに生きることができないのです。苦が生命を維持管理しているのです。「生きる=苦という現象」なのです。「生きることには微塵も楽しみはない」というのは真理です。・・楽なんて苦の「騙し」でしかないのに、「楽だ、楽だ」とありがたがってしまうのです。・・感覚が楽なら私たちは簡単に死んでしまうのです。生きていられません。それで苦が生じて生き延びるのです。生きていくには苦が必要なのです。
・・・楽しみがあったのではないのです。苦しみが減っただけです。それを勘違いして「幸福だ」というのです。・・世間の人が夢見る最高の幸福は、不幸のどん底でないと感じられないのです。苦が消えることが楽しみなので、幸福を感じるためには、どん底の不幸になるしかないのです。では、「生きる苦しみ」が完全に消えたらどうなりますか?「生きる=苦」なのです。それがきれいさっぱり消えたら、どうなりますか?それを解脱というのです。その境地が涅槃です。輪廻から解脱し、二度と生まれないなら、完全に苦を断つことに成功した方なのです。
・・・本当に、人生に楽はないのです。「楽」というのは錯覚で、ただの世間の合意です。・・その幸福は、「苦しみが消えた」という事実をあべこべに見ただけのことです。苦しみとは別物の幸福があるわけではありません。あるのは苦しみだけなのです。苦しみ以外にないです。
・・・「苦」には「感覚の苦」とは違う意味もあります。一切は無常で、絶えずに変化していくのですが、この状態も「苦」というのです。
・・・「私の」という気持ちが苦しみを作るのです。「私の」というのは、自分の感覚から生じる錯覚です。だからこの「感覚の苦」をしっかり観察しなければならないのです。
・・・ところでヴァジラー比丘尼は「誰が生命を創造するのか?」という悪魔の最初の問いに答えていません。それはそもそも、実体として誰も見いだせないからです。「生命」という実体が成り立たず、あるのは無常たる現象のみなので、問い自体がナンセンスなのです。だから仏教にしてみれば、「森羅万象を創造したのは誰?」という問題は、答える価値さえもない、無意味な成り立たない問いなのです。
・・・修行者にとって「悪魔」とは「自分自身の思考」です。仏教の修行をする人は「神様が降りてきて修行の邪魔をする」と考えてはいけません。自分の悪さを、他人のせいにしてはいけません。悪魔は自分の思考、妄想なのです。妄想は感情から絶えず生まれるのです。感情とは煩悩です。だから、まず自分の妄想を減らすことです。それは自分でできます。それが悪魔退治です。けれど妄想が減って落ち着きが出てくると、「自分は理性的だ」と勘違いする思考が現れます。「いま私は妄想していない。論理的なことを考えているのだ」といばるのです。これが悪魔の攻撃です。思考を止めさせてくれないのです。「理性的な思考」でも思考にすぎません。真理を知っているならば、思考する必要もありません。』

2017年11月27日 (月)

さよならパヨク チバレイが見た左翼の実態 (千葉麗子著 青林堂)

以前、千葉麗子氏の「くたばれパヨク」についてアップしましたが、その前著です。私としては「くたばれパヨク」の方がインパクトが強かった気がしますが、こちらも気づかされる部分がありました。

『・・・彼らを見ているとやはり社会環境に加え、家庭環境の影響が大きいと思います。子は親の背中を見て育つといいますが、親の生き方や考え方は子供の人生に反映されていくものです。
・・・「原発に反対すると仕事を干される」という芸能人もいるようですが、私の知る限りでは、そういう人はまずいません。しばらく姿を見ないと思ったら、反原発でいきなり登場という人ばかりです。つまり、売れなくなったから、反原発で再び注目されようということばかりですね。若手から中堅、ベテランに至るまで、「苦しい時の神頼み」ならぬ「苦しい時の反原発頼み」というのが芸能界にはあるようです。
・・・脱原発を訴えて集まってきた人は、パヨクばかりではありませんでした。保守、右翼の人の中にも反原発の行動を起こす人たちがいました。愛する美しい日本の山河を守りたい、あるいは国防の視点から危険な原発をなくしていきたいという理由などからです。そして彼らも経産省前などに日章旗を持って駆けつけたのです。しかし、当初から日章旗を掲げるグループは排除されました。
・・・特に一般参加者は減る一方で、いつの間にか共産党関係者、それも高齢者の占める割合が増えました。そもそも首都圏反原発連合が後に共産党地方議員の家族と身元がばれた中心メンバーをはじめ、共産党関係者が多く入り込んでいました。・・主要人物は表に出ないで身元がばれない若手を前面に立たせる方針をとったのです。自分たちは安全な場所にいて、指示を出していたんです。
・・・知人らから聞いたのですが、デモに音楽や踊りを取り入れるのは、日本共産党が昔から得意とすることらしいです。ラップミュージシャンが多数参加していたのも、共産党のスタイルに合っているからだと考えるとなるほどと思います。
・・・デモは物販をしたり、カンパを集めたりする場にもなります。パヨクに物販は付きものなんでしょうか。現場ではTシャツ始め関連グッズをいろいろ売っていました。・・もちろんカンパした人は善意からなんですが、受け取る方には、そのお金で生活している人がいるっていうことを聞きました。最初は耳を疑ったのですが、デモに入り浸っている人には、確かにきちんとした仕事をしていない人もいて、どうやって食べていくかになると、カンパをあてにするしかないということらしいです。・・お金のやりとりに関して、彼らのうまいところは、絶対に皆の前でやらずに、抗議活動が終わった後、近くのコーヒーショップなどに集まってやっていたことです。
・・・ものすごい野心家に見えました。隙あらば何をしてくるかわからないような感じで、「私、女王様」的な強さを持っていたと思います。・・今振り返ってみると、食うか食われるかの芸能界では、そのくらいでちょうどいいのかもしれません。汚い手や卑怯な行いはともかく、もっと強気になって堂々と渡り合ってもらえればと思います。芸能界は在日だらけと嘆く前に、作り手も受け手もなぜ在日がここまでのし上がってきたかも冷静に分析し、いい意味での刺激を受けるべきではないかと思います。
・・・この前、在日の韓国人の女の子とご飯を食べに行ったんですけど、もう気質や性格が全然違う。攻撃的で上から目線。で、へこたれない。涙なんか流しませんからね。・・きっと韓国社会の中では、なよなよしてると負けてしまうんでしょうね。いいカモにされたり、韓国社会は必ず上下関係がないと話が始まらないみたい。つまり対等な関係がないわけです。・・そんな感じだった。言葉の端々が攻撃的。「自分が女帝よ」でツーンとしてないと韓国社会では生き残れないみたいですね。
・・・アメリカは70数年前に戦争をしていたにもかかわらず、今いろいろな場面で日本人をリスペクトしてくれます。』

2017年11月 5日 (日)

忍者はすごかった 忍術書81の謎を解く (山田雄司著 幻冬舎新書)

忍者そのものというよりも、一流の忍者になるために必要なことが書かれており、当然それは他の世界でも一流になるために役立つものでした。

『・・・忍びは「乱波(らっぱ)」「透波(すっぱ)」「草」「奪口(だっこう)」「かまり」など、地方によりさまざまな名前で呼ばれていました。「忍者」という呼び名は、昭和30年代に小説などを通じて定着した新しいものです。
・・・忍びの本は「正心」である。忍びの末は陰謀やだますことである。それゆえに心が正しくコントロールできないときは、臨機応変の計略を遂行することができないのである。・・いわゆる正心とは仁義忠信を守ることにある。仁義忠信を守らなければ、強く勇猛なことをなすことができないばかりか、変に応じて謀略をめぐらすこともできないのである。
・・・武勇の心掛け方については、「血気の勇を捨て去り、『義理の勇』を心掛けよ」と述べています。同じ武勇といっても義理の勇がなければ君子の勇ではなく、血気の勇で、一時の怒りによって剛強を働かせることができても、次第に怒りが薄くなるにしたがって、ずっと剛強の働きを心底に保つことはできないとしています。さらに義理の勇とは、やむを得ず起こす勇であり、この勇はいつまでも冷めることなく、ことに私心がないためにまず己の欲心に克ち、前後を思案して、なおかつ必死ならば即ち生ずということを心の守りとして働く
・・・実際には、人と仲良くなって情報を聞き出す陽忍の方が多かったようです。
・・・まずそのことを言わず、それとなく他のことより語りてそびけば、向こうよりも思わずいうものなり。
・・・忍びは、人に追われて逃げることを恥と思ってはいけない、刀・脇差・諸道具を捨てて帰ることも多いので、名前や印が付いている道具を持ってはならない。ただ敵を知ることが肝要だと思い、自分の命を軽んじて忠義を果たすように
・・・利口(方便)というものは、聞いているときはおもしろいけれども変化するものである。道理は大きく広く、かつ慎ましやかで明白なものだ。利口はこれに劣るものであり、受けが良い内容のため、人はこれを喜び聞く。
・・・常にアンテナを高く張っておけば、周囲には多くのヒントが隠れています。自分と同じような人だけでなく、さまざまな人々と関係することにより世界が広がり、多種多様な知識が得られ、生きていく上での大きな糧となります。
・・・旅にて愛情を用いれば、相手は自分のことをよく思うものである。良く思えば取り入れいやすい。・・旅では日ごろ隠していた自分の本心が現れるものです。そうしたときに温かい対応をされると、心の中にスッと入ってきます。そうすれば、その相手とは固い信頼関係を結ぶことができるようになり、そこからさまざまな情報を得ることができます。
・・・会話する場合は、「聞き上手」であるべきで、自分の言いたいことは少し心の中にとどめておいて、相手が心中に思っていることを引き出す会話術が必要となります。
・・・「敵になる」という教えがあるが、これは敵の立場になって敵の心を察することである。・・あるいは「敵の心を取る」という教えは、こちらがこのようにしかけたときは敵はこのようにする、こちらがこのように語ったならば相手はこのように話すというように、敵の心になって考えるということである。・・「敵に離れる」という教えもある。これは「我は我、敵は敵」と考え、その利は異なっているとみて、敵の立場になることなくして、ついには必ず勝つということは上手のなせるわざである。通常と敵と離れては益がないとされている。
・・・必ず逃げ道を作っておいて、絶妙なバランスで厳しくすることと寛容にすることの両方を用い、良好な関係を築いていく必要があります。
・・・「追従軽薄」を取捨すること。人に対して自分の気に合わない場合でもへつらい、自分が好きでないことも好きなように振舞うことは、人に気に入られるためである。・・このようなことは士たるものは一切しないことであるけれども、用いることがある。これを用いなければ、気儘気随者ということで人との交わりは難しい。ただのちょっとだけでも用いないと心に決めていたのでは害がある。時により場により人により合わせる必要がある。
・・・自分から声をかけることによって先を制することができ、自分のペースで事を運ぶことができるようになります。
・・・人に理のあることを言わせて、なるほど道理ですねと感心して見せれば、相手は必ず先にいい気分になって、自慢をするようになるものである。そのときに相手が秘密にしていることの兆しが、注意していれば見つかるものである。それを取り出して、たたみかけて質問していくと、相手はそこから逃れることができずに必ず弱くなるのである。
・・・自ら慎んで抑えなければならないのは、「利口」「利発」である。内に蓄えておけば、自分が賢いということを外に示したいときにいつ何時でも自由に出すことができる。であるから、知識を蓄えておくことが肝要である。
・・・常に酒、色、欲の三つを堅く慎み、これにふけって楽しんではいけない。酒、色、欲の三つはもとより自分の本心を奪ってしまう敵である。・・忍びは禁欲的である必要がありますが、逆に相手を術中に陥れるためには、好きなものを渡したりして心を奪うという方法があります。
・・・何でも心に望み欲することは皆欲である。これを忍ぶことは難しい。ことに忍び・間者はこれをよく忍ばなければ大いに害がある。
・・・相手の懐の中に入るために、酒、淫乱、博打などを利用し、相手の油断を誘います。しかし忍びたる者、それによって自分自身を失ってはなりません。・・こうしたものに心を奪われていたのでは、冷静沈着な行動を必要とする忍者は命を落とすことにつながります。しかし、逆にこのような手段を利用することによって人を油断させて自分の思い通りに利用するようにするのです。
・・・総じて人の衰亡は、皆欲心によるものである。・・取り入ろうとおもうのなら、まずその人の大欲小欲無欲のものは何かを判断して取り入るのである。
・・・酒の席では、酔った勢いで普段は言えないことも言えるようになるし、聞く側も酒の席だからと容赦してくれます。ゆえに、それを利用して言いたいことを言うのもよいと書かれています。しかし、これは相手や内容次第のところもあるので、状況判断が必要です。
・・・人を知って自分を知られないようにするのが、忍びの者の中でも巧者である。
・・・何事も思いの外のことには心を取られ、落ち着かないものである。忍び、間者はこのようなことで人の心を縛ることがある。・・言葉によって相手を縛ることもできます。相手から想像だにしていないことを言われると、そのことが頭から離れず呪縛されることになります。
・・・修行というと、滝に打たれたり絶食したりということを思い浮かべますが、忍者にとっての修行は総合的能力を高めることにあります。・・どのようなことが起きてもすぐに対応できるように、日ごろからそれに備えておく必要があります。それが修行なのです。・・忍びにとっては、これから修行するぞ、と思って特別な修行をするのではなく、日々の生活すべてが修行であり、それがすべて自らの命運にかかわってくると心得て、毎日を過ごす必要があるのです。
・・・心は水や鏡のようである。水と鏡の本体は本来不動で清明なものであるけれども、外物の塵芥泥土のたぐいに汚される。あるいは風や人が外から動かすときは、本来の清明不動を失って、万物が対しても映ることはない。本心も同様に清明不動であり、向かう者の善悪邪正、是非の情、その他すべてが、水や鏡が物を映すように、明らかに現れないということはない。しかし、六塵を六根に引き入れたなら、必ず心が濁って清明でなくなり、さまざまな状況に応じてよく物が映るようなことはなくなってしまう。
・・・忍術の三病は、一に恐怖、二に敵を軽んず、三に思案過ごす。この三つを去りて、電光のごとく入る事速やかなり。
・・・武士はあやぶみなきぞよかるべし まへうたがひはおくびょうのわざ (武士たる者、危険だと思わない方が良い。事を起こす前から心配に思うのは臆病のなすわざである)
・・・剛勇か臆病かは話す内容にて知ることができる。「一日戦いについて話をすれば、三日間心が強くなる」といって、常に武勇を好む話をする者は心が強い者である。・・己の落ち度を指摘されても顔色を変えない者は、心が強い者である。怯える者はその逆である。
・・・何事も順調にいっているときは勇敢に見えても、順調な時期を過ぎたときにそのような態度を保っていることはできないため、本来の性格が表れてきます。
・・・人は平常時には自分の心を制御できますが、非常時には制御できずに本心が見えてくるので、そこから性格を読み取ることができると述べられています。他の個所では、一緒に旅をすればその人の性格がわかるとされていますが、これも、大変な局面の際に人の持っている本来の性格が表れるということです。
・・・「相見」とは、何事でも人の見たこと、人の言ったことを、自らもそれを見て、その人の言うところと自分が見たところを引き合わせて、虚実の分量を量ることである。
・・・人を外見やその人の職業などで判断してはいけないという教えです。さまざまな人の意見を聞くことが重要です。人の重要性はその外見ではなく、内面であるということを示しています。
・・・忍びは平常心を保っていなければならない。それは、いつ何時であっても忍ぶ心が大事だということである。
・・・水の中で足をバタバタさせていても水上では物静かな水鳥のように、心の内はどれほど忙しくても、表面上は心うららかにすべきである。世の人はさまざまに騒いでいても、忍びの道を守る人物が誠を大事にする様子は、あたかも聖人とも悟道者ともいうべきであろう。
・・・撰む事。忍びの者の性質に、大業をよくする者あり。小業を得し者あり。その生得を撰みわけて遣う事。總司の肝要なり。不得手なる事をなさしむべからず。
・・・要の大事。伊賀伝に曰く、十本の扇の骨も要一本にてしまりつかわれるなり。間人数千百人もこれをつかう総大将一人による事なり。
・・・江戸時代末期の風流を描いた牧墨僊「写真学筆」には、武士が手裏剣打ちをしている場面が描かれています。江戸時代には、武士の嗜みとして手裏剣術が行われており、手裏剣は忍者のものという認識が作られていくのは昭和になってからのことのようです。
・・・忍の一字。この一字至て大事也。字の心は刃の下に心を書。心は胸也。胸に白刃を当て物を問ひ、決断に逢ふ心也。
・・・味方の中に敵の忍びが交っていないかどうか見つけ出す「立ちすぐり・居すぐり」という方法があり、これは決めておいた合言葉を言って、人々が同時にさっと座り、さっと立って、紛れ込んだ敵を選び出すための方法でした。これによって見つけ出されて殺された例もあります。
・・・それ忍の本は正心なり。忍の末は陰謀・佯計(ようけい)なり。これゆえにその心正しく治まらざる時は、臨機応変の計を運らすことならざるものなり。
・・・この道を業とする者は、一戦の折から主君の為に大忠節を尽くし、大功を立てんとのみ欲して、主君の安否、国の存亡、我一人の重任と心得るべし。
・・・皆が考えつくような方法では、対策がとられていて忍び込むことはできません。そのため発想を転換させ、相手が考えないような方法を駆使することによって意表を突き、初めて忍び込むことができるのです。・・状況は常に異なっているので、その場に合った方法を即座に判断し、臨機応変に対応を変化させていく必要があります。
・・・忍びの術は奥深いもので、一朝一夕で身につけられるものではありません。心の修練を欠かさず、継続的な努力が必要です。また、事を行うに当たってはちょうどよい時期というものがあるので、それを逃してはいけません。
・・・聖ばかりで侫がなければ事は成り立たず、直であって曲がなければ、人の偽りを信じて害を被ってしまう。俗に言う「阿呆律儀」である。聖直侫曲の四つを合わせて、人により用いるのである。
・・・人の真偽を黙識して人に欺からるるべからざる事。
・・・此の道を業とせん者は最も顔色をやさしく和らかにして、心底尤も義と理を正しくすべき事。・・恐い顔をしていたのでは誰も寄り付きません。常に柔和な顔をして人に安心感を与えることによって打ち解けるようになり、さまざまな情報も得ることができるようになります。逆に、穏やかな顔をしている人を信用してだまされることもあるので、気を付けなければなりません。』

2017年11月 4日 (土)

50代から本気で遊べば人生は愉しくなる (片岡鶴太郎著 SB新書)

短い著作でしたが、著者のこれまでの人生とその時々の思いが分かりやすくまとめられており、参考になることも多くありました。

『・・・新しいことにチャレンジすることはエネルギーが要りますし、ときには悩んだり苦しんだりすることもあります。でも、その先には大いなる”ギフト(贈り物)”が待っています。その贈り物とは”魂の歓喜”です。・・まずは自分の心に「私の魂は何をすれば歓喜するのか」と問いかけてシード(種)の存在に気づくことです。そして、やりたいことのシードを見つけたら、毎日コツコツと水やりをしていくことです。すると、やがて芽吹き、魂の歓喜がもたらされるようになります。
・・・芸事の世界でも、型を真似ることから始めるのが上達の第一歩となります。それは「守破離」という師弟関係の基本を説く言葉にもあります。まずは師匠の型をとことん真似ます(守)。真似るのが上達したら「自分としてはこうしたい」と工夫しながら磨きをかけ、師匠の型を破る段階に発展します(破)。さらにはその型から離れ、自分の独自性を発揮する境地に達するのです(離)。
・・・私は何かを会得していくには、「反復練習」しかないと思っています。これはどんな仕事、どんなものごとでも同じ。「匠」と呼ばれるような達人でも、最初からうまくできたわけではなかったはずです。
・・・自分の心の中にある芥子粒のようなシードの存在は、心を澄ませておかないとなかなか気づくことができません。
・・・ヨーガの教えには8つの「部門」があるということでした。・・1~7は並行して毎日行う実践となります。7の瞑想法で8を繰り返し経験することで、徐々に8が定着し、いつの日か人はゴールである悟りに達します。必要なことは毎日の継続的実践です。1 禁戒は、暴力や嘘をつくなど反社会的行為を律するための実践(社会行動) 2 勧戒は、浄化、知足など毎日行うべき自己精進のための実践(自己実践) 3 坐法は、長時間の瞑想のための正しい姿勢をとるために行う肉体を柔軟にする実践(肉体の強さと柔軟性) 4 呼吸法は、心を静める瞑想のために深く静かな呼吸を維持できるように養う呼吸法の実践(肉体の活力) 5 制感法は、外界から心の内面に意識を向ける実践(五感制御) 6 集中法は、心の内面に意識を保ち続ける実践(精神統一) 7 瞑想法は、心のもっとも静かな真我へと意識を至らすための精神的実践(潜在意識) 8 三昧は、心の動きが最小限の状態である真我(本当の事故)の状態(瞑想で心の源に達した状態)
・・・ブッダのような蓮華坐(足を交叉させて反対側の太ももの上に置く瞑想の姿勢)は、普通の人だと1分もキープすることはできません。これを20分から30分維持して瞑想するということは、相当なインナーマッスルが必要になります。ヨーガのポーズは、それを鍛えるための動きなのです。
・・・人間は放っておくと口呼吸になります。鼻呼吸で酸素を脳に送り込んでクリアにするというのが、古代インドヨーガで5000年前から行われてきた呼吸法です。こちらも瞑想に至る前に欠かせないものです。
・・・型通りのジャブの練習と、相手と対峙したときのジャブはまったく違います。実際にボクサーと対峙して、どうやって闘ったらいいのか考えながら稽古していかないと、本物のジャブにはなりません。それと一緒で、何を表現するでもなく戦を描いても意味がない。線を鍛えていくには、描きたいものを必死になって一発一発描いて鍛え上げていくしかありません。
・・・好きなものがあるというのは、本当に強い。そして、何かを会得するためには反復練習するしかない。このときの経験は今でも私の人生の核になっています。
・・・「縄跳びをうまく跳ぶにはどうしたらいいんですか?」そうトレーナーに尋ねると、「いやー、鶴太郎さん、コツはないんですよ。ひたすら跳ぶしかないんです。跳んでいるうちに何かが見えてきますから」そんなふうに教えられました。それで黙々と跳んでいると、1週間、2週間と経つうちに、バツンバツンと足に当たっていたロープがだんだん当たらなくなってきます。「何かが見えてくるってこういうことか」と思っているうちに1か月も経つと、すっかりリズミカルに跳べるようになっていたのです。
・・・最後に私の大好きな言葉を記します。 汝の立つところ深く掘れ、そこに必ず泉あり』

2017年10月28日 (土)

頭が突然鋭くなる瞑想法 ブッダが悟りを開いた人類最高の英知 (アルボムッレ・スマナサーラ長老著 日本テーラワーダ仏教協会)

たびたび掲載している著者の本です。また新たに知ること、意を強くするところがたくさんありました。

『・・・ブッダは、「知識と知恵を集めれば幸福になりますよ」と言われました。「私たちからぜったいに離れない財産は知識と知恵である」という言葉もあります。私たちが死ぬとき、来世に持っていくことができるものが二つだけあります。一つは自分の行為、「人間としてどのように生きた来たか」という自分の生き方からもたらされるエネルギーです。自分の善行と悪行の結果によるエネルギーを、私たちは来世に持っていきます。もう一つは知恵と、そして知識の一部です。生きている間に、人生や生き方の心理を何か理解したならば、その理解は来世に持っていけるのです。・・私は、「知識とは、概念の積み重ねである」と定義をします。・・概念を覚えるだけの人は、ものはたくさん知っているのだけれども、せっかくのその知識が役に立ちません。知識がありすぎて整理ができないと、頭の中で混乱してしまいます。・・少ないことでもきちんと知って、それを自分のためや社会のために上手に使えることこそ、ほうとうに評価できるのです。・・そういう歩く図書館とか、歩く百科事典のような人がいます。とくに昔は多かったようです。そういう人々は知識を伝えるためには役に立ったかもしれませんが、本当の仏教の師ということはできません。ですから知識だけの先生はよくないと言って、仏教ではそういう人たちを厳しく批判しています。・・「たくさんの知識がなくてもいい。少しの知識でも、それを実行しなさい。知識を実行する人こそ真の知識人ですよ」とブッダは言われています。
・・・概念には、論理的概念と経験的概念の二種類があります。
・・・言葉とはなんでしょうか。考えてみると、言葉というものも経験からつくられたものなのです。何かを経験して、それを言い表す方法、手段として名前をつける、それを言葉と言っています。
・・・何かを言われた瞬間に「ほんとうにそうか、そうではないか」とサッと自分で経験してみる。その経験が大切なのです。
・・・本を読むときも、なるべく自分の経験になるように読むコツがあります。どうするかというと、自分で書いた本を読んでいるつもりで読むのです。
・・・できるだけのことを考えながら本を読む方法です。完全に本の内容に集中している状態で、同時にあれこれ、それについて考えるのです。・・常に動きたがる頭の働きを逆に利用するのです。読みながら、他のことではなく、本の内容について考え突くままに分析したり、理屈をつけたりしながら読むのです。・・考えるときは、肯定する立場と否定する立場の両方から考えてみます。・・そのように読むと、読むスピードは遅いかもしれませんが、内容についてはとてもよく理解できます。
・・・経験的知識は、後の詳しく述べる知恵につながる知識なのです。経験の伴わない論理だけの知識は、私たちが生きていく上であまり関係ない知識です。私たちは生きることで精一杯なのだから、経験的な知識を得るだけでいいと思うのです。
・・・仏教では「自分のためになる勉強、人のためになる勉強は、いくらでもしてください。そうでないものは、やめなさい」と言っています。私たち僧侶は、星占いや手相など、占いの勉強は禁じられています。なぜなら、人々の吉凶禍福を占ったところで、なんの役にも立たないからです。
・・・同じ教育を受けて同じ知識を詰め込んでも、ある人は役に立つし、ある人はまったく役に立たない。その違いは、知恵の働きがあるかないかによって決まるのです。
・・・世の中が思う通りにいかないことは当たり前のことなのです。
・・・知識の世界では、自分の分野をどう成立させるかということしか考えません。そういう世界で私たちは生きています。ですから、仏教の立場からみれば真の法に則って生活している人は誰もいません。真の法というのは、普遍的な法則のことです。人は皆そういう法を侵して生きてるのです。・・ブッダは、人々の幸福、生命の幸福のためにならない知識や論理は捨てなさいと言われています。・・仏教では論理と倫理は表裏の関係にあります。倫理のない論理は捨てなさいという立場なのです。また、論理のない倫理も認めません。
・・・仏教では、「知識は生き方によって完成されるのだ」と言います。知識の完成は道徳にあって、道徳の完成は知識にあるのだというのです。人間の生き方として、その二つをきり話して考えることはできません。
・・・人々の幸福のために生きることを人生の目的にしてほしいのです。どんな人間でも、たとえ子供でも、「自分はみんなのために生きているんだ、みんなに何かいいことをしなくてはいけないのだ。それが自分の仕事だ」と考えるべきなのです。
・・・知識は使えなければ何の意味もありません。何かのために生かされてこそ、知識の意味があるのです。
・・・知恵と道徳はどういう関係かと言いますと、道徳を守らずいい加減な生活をしていると、精神的に乱れます。そうすると、確実に知恵が働かなくなるのです。ですから、知恵のためにも道徳は必要です。
・・・付き合いで、さすがゴッホですねぇとかなんとか適当に言っていればいいのです。でも、心の中ではしっかりと自分自身の判断で評価をする。そういうことをしていると、抜群な知識人、知恵の人になれます。そしてストレスもありません。自分で判断することはとても気持ちがいいのです。知恵が生まれるとストレスなどぜんぶ消えてしまいます。
・・・知恵のためには次の三つが必要です。まず自分に元々ある知識。次に社会から入る情報。それに自分でああだこうだと考えた自分だけの考え。その三つを自分の中に並べておくと、パッと何かが浮かぶのです。それが知恵なのです。
・・・私たちは自分のできる範囲でパターンにはめられないように生きなければなりません。
・・・精神的な問題の場合は、原因を探っていったらきりがないのです。・・会社でヒステリーを起こしてキィキィと言っている人がいれば、何かちょっと他のことを頼めばいいのです。・・ものごとの配列というか、なぜこういう状態になったのかということを見て、それに答えを出してその状態を抑えるというのは、知恵による問題の解決です。
・・・人は皆余計なことを考えすぎます。社会というのは理屈で割り切れる世界ではないのです。そこに理屈でいろいろと考えてしまう。ですから、何か問題が起こったときに知恵が現れるためには、なぜこういうことが起きたか、どうすればこういう現象が消えるかと冷静に見て、すぐにその場を収める知恵を働かせるのです。
・・・子供は自分のことをほんとうに心配してくれる人に対しては、きちんと反応するのだということです。自分のことを本当に考えてくれる人のことは裏切ってはいけないということを、本能で知っているのです。
・・・問題の解決法は、その場の状況を理解して判断することから生まれてくる。そして言うべき時にすばやく必要なことを言わなければならないのです。
・・・知恵を働かせるための考え方として、物事には両面があるということを知らなければなりません。どういう論理やどういう考え方にも、その逆の面、逆の立場があるのです。姓があれば、そこには必ず負の面があります。
・・・たいがいの宗教では、永遠の命を約束しています。それが人間の希望なのです。人は死にたくないのです。でも、確実に人は死にます。
・・・なんでもやることが遅いというのは、無駄が多いということと同意語だということを理解してください。・・無駄のない行動をするというのは、どういうことでしょう。一つには、待つべきところではしっかりと落ち着いて待つ。待ってはいけないところでは、瞬時にしてやる、ということでしょう。
・・・この世の中には早いも遅いもないのだ、ということです。あるのは、一つ一つのものにはそれなりに時間の特性があるのだというだけのことです。その品もの、その現象、その仕事なりに時間の特性があって、我々はその時間に我々の方から合わせていかなければならない、ということなのです。
・・・子どもには子どものスピードに合った勉強の方法があるし、大人には大人のやり方がある。・・私が皆さんにスローモーションということを勧めるのは、そのなかにものごとにはすべからく時間の特性があり、その法則を理解しなければ、頭も回転し始めないし、活性化もできない、ということなのです。・・スローでやるためには、そこに途轍もない知恵が必要になるのです。知恵を使わないことには、ものごとはスローにはできません。それと、余計なことを考えてもできません。余計なことを考えると、すぐ早くなってしまいます。余計なことは何も考えずに、集中してやらないとスローにはならないのです。
・・・知恵の世界というのは、何が起きても焦らない世界なのです。焦るということ自体、無知である証明なのです。
・・・私に言わせれば、、プロという人は物事の順番を知っている人のことなのです。その道のプロという人は、その道の順番を知っている人。・・順番を知る人に焦りはありません。無駄もしないし、失敗もしません。ところが、順番を理解していない人は、とにかく失敗ばかりするし、やることなすことに無駄が出る。
・・・人間というものは、小さいときほどこの観察力が旺盛で、貪欲です。それだけ、なんでも見る見るうちに知識となり、知恵がついていきます。ところが大人になると、その観察力が衰えてきて、ボケてしまうのです。・・ブッダは、「一生、観察する仕事だけは忘れてはならない」と諭します。見る、聞く、この観察だけは、決して忘れるな、と言うのです。・・人間は、この観察能力がないと死ぬまで不幸で苦しいのです。・・観察することによって、ものの時間と順番というものが分かってくる。ですから、ものの時間と順番を理解した人、つまり観察能力の秀れている人というのは、仕事をしてもそれこそだれよりも早いのです。ただ焦っても仕事は早くはできません。・・スローモーションにやるというのは、決してのんびりやれということではありません。それは理屈の世界ではなく、知恵の世界なのです。スローモーションというのは、訓練なのです。
・・・電車やクルマのベテランの運転手は、なぜ失敗するのでしょうか。それは、傲慢さが出るからです。つまり観察することを忘れてしまうのです。プロと言われる人が、もっとも重要に考えてやってきた”観察”を忘れてしまう。慣れたもんだよ、こんなこと見なくてもできますよ、と傲慢な気持ちが出てそこで失敗してしまう。
・・・集中力というのは、興味なのです。
・・・仏教の専門用語に一境性(いっきょうせい)という言葉がありますが、これは集中していく度合いのいちばん深い状態を言います。こういう状態まで集中していくと、これまで見えなかったものの本質が見えてくる。
・・・病気をしても結構おもしろく過ごせるのです。何せはじめての体験ですから、いろいろ刺激があって観察できるでしょう。
・・・焦ってものごとを早くやろうとすることは、理性ある鋭い頭を持った人々には絶対の禁止事項です。これらはすべて無知につながってしまうことです。
・・・計画というものは、まずだいたいにおいてそのとおりに運ばないものです。ほんとうに計画どおりに行くというのは、ものの順番と時間の特性がわかったときだけです。・・観察能力が身についてくると先読みの能力なども自然についてきます。先見性がある人というのは、観察力の旺盛な人、確かな人であることはよくおわかりでしょう。
・・・ライバル意識をエネルギーにして仕事をしています。あれはよくありません。よくないし危険です。ライバル意識を燃やすというのは、怒りで自分を燃やしていることなのです。この燃やしているエネルギーはたいへんな消費量で、まさに浪費といっていいのです。・・ライバルのことなどきれいさっぱり忘れてしまうことです。相手がどんなにスピードを早くして仕事をこなそうと、どんなにヒット商品を生み出そうと、自分には関係ない。・・自分の仕事を淡々とやればいいのです。・・ブッダの教えはこうです。いい仕事というのは、そのライバルにさえも手を貸してあげて、助けてあげる。ライバルが自分よりいい仕事をやったのなら、自分のことのように喜んであげる。ライバルが苦しんでいるのを見たら、「何か手伝うことはありませんか」などと言って、慰めてあげる。前の章でも述べましたが、こういう態度でいると、自分ももちろん、ライバルだった相手のほうも心のなかにやさしい感情が芽生えて、二人のあいだには慈しみという最高の波動が生まれるのです。
ヴィバッサナー瞑想法は、ほんとうに大切なものは何垢ということを考え直す方法、ものごとを新しい角度で観る方法です。・・世界をありのままに観る必要があります。それをどうやって身につけるかという実践法が、ヴィバッサナー瞑想法です。・・サマタとは落ち着くということで、サマタ瞑想法とは精神的に落ち着くための瞑想法、落ち着いた静かな心をつくる瞑想法です。日本の禅やインドのヨガなどがとくに有名なサマタの瞑想法ということになります。仏教にもいろいろなサマタ瞑想法があります。一つ有名なのは、念仏です。きれいな声できちんと決まったやり方で念仏を唱えると、心が落ち着いてとても気持ちがよくなります。・・心が落ち着くと脳にα(アルファ)波という脳波が出るのです。β(ベータ)波が出ているときはいろいろ余計なことを考えているのです。α波が出ているときは心がリラックスして落ちついていますが、このα波を出すためには集中力が必要です。・・でも落ち着くということは、我々の最終的な目的ではありません。落ち着いた心で何をするかということが最も重要なテーマです。
・・・気づくというのは、具体的にはただ単に自分のすべての動作や感覚や心の動きを確認していくことです。
・・・歩きながら何かを考えている、それは今あなたが妄想の世界にいるということなのです。この、妄想の世界をさまようことこそ人間のもっとも困った現象で、脳細胞の弛緩した状態を作り出し、不安や心配、苦しみや悩みを生み出す元を作っているのです。この妄想世界から脱出して、今この瞬間に生きている自分に気づく、ということがほんとうの幸福になるためのもっとも確実な近道である、というブッダの教え
・・・私たちは、その時その時の状態や諸条件によって、好き勝手に客体を認識して判断して理解しているのです。ということは、私たちは自分勝手な認識に基づく誤った判断によって、自分の人格を変化させたり、生き方を決めたりしているのではないでしょうか。自分に気づいてラベリングをすること(サティの実践)は、いきなりというか、突然その人間の生き方のプロセスをカットするのです。つまり判断しないでありのままを観るということをさせるのです。
・・・私たちはさまざまなことで、悩んだり苦しんだりしています。・・それらすべての思いや考えは私たちの判断に基づいています。・・問題や悩みを解決するために、私たちはまず認識とはどういうものなのかをはっきりと知らなければならないのです。知るためには、観察することが必要です。・・音だ、見える、聞こえる、歩いている、感じる、触っている、考えている、などと気づきながら生活していると、心の中にさまざまな感情の波が生まれなくなってしまいます。そうすると、心の中に刺激はなくなってしまいますが、その代わりに生きる苦しみも消えてしまいます。その苦しみがないという状態が悦びなのです。悦びというのは特別なことではなくて、ただ苦しみがないということなのです。その静かな落ち着いた状態に悦びを感じ始めると、心のなかに感情の波が生まれてこなくなって、意識のレベルがかなり落ち着いてきます。・・心を落ち着けていると、存在願望のエネルギーはどんどん薄れていき、最後には完全に消えてしまいます。それが、実は解脱なのです。永遠に生きたい、死んでも死にたくない、という存在願望のエネルギーが消えること、それが悟りをひらくということなのです。それによって人間は、初めて輪廻転生を乗り越えることができるのです。輪廻からの脱出、つまり悟りの境地というものは、私たち俗人の認識レベルとはまったく違う出世間の認識レベルです。ですから、それを理解しりと言われても、私たちには無理な話なのです。・・しかし、存在欲のエネルギーが消えていくと、その代わりに知恵が現れてきます。その知恵によって私たちは、すべての存在は苦であること、無常であること、むなしいこと、実体がないこと、私たちはただ幻覚の中で苦しんでいることを、はっきりと理解します。それはすべて、この気づきの瞑想(サティの実践)によってのみ得られるのです。
・・・頭に判断させることを止めさせて頭を忙しくするために、自分がその時にしている動作を頭の中できちんと言葉にするのです。・・世間話や余計なことを考えるのではなく、頭をリラックスさせてください。頭を休ませてあげてください。我々の頭は一分も休んではいません。いつでも、欲で、苦しみで、燃えているのです。・・心が治るとすごく活発になって、どんどん知恵の方に心が行くのです。
・・・掃除や洗濯のときに、つまらないことをかんがえたりせずに、ただやるべきことに集中できる方法です。それはどうするかと言いますと、たとえば、拭き掃除をするときには「吹きます、拭きます、拭きます」と拭いている自分に気づく。拭いている行為の一挙手一投足の動きだけを認識していく。
・・・スランプというものは時間を掛ければいつかは直りますけれども、実はすぐに直す方法があるのです。それはどうするかというと、先ほどお話しした瞑想法を使うのです。つまり、自分の状態にいち早く気づいてしまえばいいのです。
・・・今この瞬間、自分に起こっているできこと現象を客観的に観察するという癖をつけるといいかもしれません。
・・・考えの中に入らずに、考えていること自体を客観的に見て、「考えている、考えている、考えている」と三回確認してから、「戻りまーす、膨らみ、膨らみ、縮み、縮み、・・」と戻ります。・・この瞑想はほんとうに自己が観察できる瞑想です。自分の今までわからなかった自分自身の性格や自分の心の中身がもう片っ端からでてきます。自分が見えてくるのです。
・・・瞑想をして、し終わったら、いきなりすぐに立ったりしてはいけません。この瞑想をしていると、自分では気が付かないのですが、心がすごく深いところに行っています。ですから、いきなり立ったりしてはいけない。瞑想を終えるときには、「瞑想を終わります」ときちんと頭の中で言います。・・瞑想を終えるときには、きちんと正しく落ち着いて終了してください。・・もし落ち着いて終わることをしないと、瞑想で得た段階は続かなくなってしまうことになるからです。さらにその後の瞑想がとてもやりにくくなってしまうので、気を付けてください。
・・・瞑想をすると、人は必ず妄想に悩まされます。・・私たちは妄想の中に生きている・・今の瞬間はぜったいにもう二度と戻ってこないのです。それなのに、今ここに座っていても心はもうこの場所にいないでのです。・・私たちの幸福を壊す私たちの最大の敵、私たちを悩み苦しませて不幸にする張本人は、だれでもない自分自身の妄想なのです。自分の妄想こそ、私たちが闘って、打ち勝つべき最大で最強の敵なのです。「今の自分に気づく」というヴィバッサナー瞑想法は、私たちの最大の敵である妄想と闘うための、もっとも効果的で優れた方法なのです。
・・・妄想をなくすというのは本当はかなりたいへんなことなのです。・・問題は、妄想が出たときにどうするかということなのです。それこそが大切なポイントなのです。妄想が出るたびに、「妄想、妄想、妄想」と確認して呼吸の観察にもどればいいのです。そこがいちばん大事なポイントです。
・・・妄想は、意識からも出ますけど、ほとんどは無意識のところから出てくるのです。深いところからいきなり出てきて、それについてフッと考えさせてしまう。ですから、私たちは自分の妄想を確認していくことによって、自分自身の無意識を観察しているのです。自分の無意識の観察をするということは、ほんとうの自分を知るということです。
・・・瞑想をずっとづつけると妄想をしない自分の心が現れます。無意識が落ち着いたら妄想は出なくなります。その心はとても静かで、平和で、荒波も渦巻きもない海の底のような平安な心です。
・・・結論を言いますと、妄想は抑えられません。私たちにできるのは妄想に気づくことだけです。そして妄想に気づけば気づくほど、ほんとうの自分が見えてきます。そして自分の性格の悪い部分が直されて立派な人格が形成されていきます。ですから妄想を怖がらないことです。』

2017年10月10日 (火)

稼ぐまちが地方を変える 誰も言わなかった10の鉄則 (木下斉著 NHK出版新書)

町おこしについて、目からうろこが落ちるような内容でした。

『・・・従来にはなかった「予算をもとに何ができるか」という議論がなされるようになり、それを執行するための業務を誰が担うのかという話になっていきました。・・こういう動きが出てきたことで、それまで善意で手伝ってくれていた人々の士気が一気に下がりました。・・言い方は悪いですが、補助金とは麻薬のようなもの。それまで真面目に生きてきても、一発チュッと打たれただけで一斉におかしくなってしまうものなのです。
・・・一つは、全員の意見を聞くのではなく、自分で考えろ、ということです。・・みんなの意見を聞く前に自分の頭で考え、行動することが決定的に足りていなかった・・反対に全員の意見を聞き、全員が納得することを優先していると、自分で決断することが難しくなる。悪い方向に向かっていることに薄々気づきつつも、「誰かがなんとかするだろう」と全員が無責任になります。・・甘い夢を掲げて仲間集めをしてはいけないということです。
・・・甘い見通し、無責任体質、他力本願、独善的な発想などはまちづくりだけでなく、日本の多くの組織で見られる現象であるとも思います。
・・・手元資金の多い少ないに関係なく、やろうと思えば絶対にできます。できないと思うのは、最初からそう決めつけているからです。
・・・アメリカの地域再生に取り組む人たちから学んだ最大のことは、まちづくりは官主導ではなく民間主導、特に不動産オーナーを基本に据えて考えるということです。現地で不動産オーナーと話をすると、誰もが積極的に地域に投資をしている。それはなぜかと言えば、「自分の資産価値を高めるため」だと即答。・・アメリカで驚いたのは、地域の公園や学校の校庭さえ、住民たちがつくっていたことです。
・・・環境整備の作業全てを業者に委託することもできますが、莫大なコストがかかります。しかし大人数の市民が参加すれば、あっという間に天然芝のスペースが誕生するのです。コストも浮いて、市民にとっては自分たちがつくった広場という意識も生まれる。
・・・よく「あたたかいまち」「心が通い合うまち」といったフレーズをきくことがありますが、これらは全て無責任な”きれいごと”です。稼がなければ、衰退するしかない。これは歴史が証明しています。
・・・どんな問題も、切り分けていくと解決策が見えてきます。
・・・とかく不動産持ちは不労所得で楽だと思われがちです。しかし、実際はそう楽ではありません。清掃もしなければならない。エレベーターがあればそのメンテナンスも欠かせません。大抵のオーナーは、ビルと建てるときに借金をしているため、その返済もしなくてはなりません。守るものが多く、投資回収機関も長い事業をしているため、不動産オーナーは保守的になりがちです。
・・・仕事のうえで相手に信用されたいなら、「最終的には儲かりますよ」と口説いてもダメ。「自分の利益を確保したうえであなたにお金を払いますよ」といってもダメ。まずは、事業をつくり、相手に三回得をさせれば、信用してくれる。自分より先に、相手に恩恵を受けてもらう。
・・・コスト削減したものを単に不動産オーナーと会社で折半しただけでは、その場の利益で終わってしまいます。必ず三分の一は未来に向けた投資基金として積み立て、地域に再投資するというルールにしているのです。
・・・地域で目立つ事業をやればやるほど、地元から反発を食らう可能性は高まります。まちづくり業界においては、新しいことは常に非難されるのです。どれほど優れた事業で、地域にメリットをもたらしても関係ありません。悲しい話ですが、これが現実です。だから先手を取って、きっちり筋を通しておく必要があるわけです。こちらが筋を通しておけば、何を言われてもどーんと構えていればよいのです。
・・・重要なのは、こういうシステムを作りあげたり、必要に応じて臨機応変に組み替えたりすることです。最初はエネルギーが必要ですが、その仕組みがしっかりしていれば、実践するメンバーが入れ替わったり増えたりしもうまく回ります。・・日本の組織によくあるパターンですが、リーダーがいなくなった途端、ガラガラと崩壊するのではないでしょうか。
・・・まちを本気で活性化させたいなら、まち会社はまず第一次顧客である不動産オーナーに向けてサービスを提供し、その事業が黒字になることが大前提です。その効果が、第二次顧客、第三次顧客へと波及していくのですから。
・・・BIO(Business Improvement Distinct)のポイントは、・・不動産オーナーが単独ではなく連携している点です。
・・・私たちが旨としているのは「自前主義」。何でも人任せにせず、自らの現場を持つメンバーがやれる範囲で結果を出しながら、その分野全体の発展を目指します。これこそが、他力本願が続いてきた地方活性化において大切なことだと思っています。
・・・重要なのはお金ではなく、覚悟です。お金は一緒に稼げばよいですが、覚悟はそれぞれの方が自分で決めるしかありません。・・まちを変えるのに必要なのは、100人の合意よりも、一人の覚悟です。99人が諦めていても、一人が覚悟を決めて立ち上がってくれれば、私たちも覚悟を決めて歩みだすことができます。・・動き出さないまちの人たちに共通しているのは、「自分たちのまちは他とは違う」という、特別な意識をもっていることです。
・・・まちづくりにおいては、往々にしてコンセプトの中途半端な店や施設が生まれることがあります。・・これは、何も言っていないに等しい。起案者に利用者の明確なイメージがない施設は、誰も寄り付かない。結局、オープン当初から閑古鳥が鳴き、やがてひっそりと閉鎖されてしまいます。重要なのは、強烈な個性。ユーザーにとって、「これは自分の生活に足らなかったもの」と思わせる何かです。
・・・民間ベースでやるからこそ、誰にも気兼ねすることなく、方向性もターゲットも絞ることができる。小さく始めれば、資金規模も身の丈に合った適正なものになり、ムダに大きなものは必要なくなります。
・・・重要なのは、まち全体で多様性をいかに創出していくかということです。
・・・まちにとってプラスかマイナスかの判断は、人がどれくらい集まったかではなく、その取り組みに参加した事業者や、場所を提供した不動産オーナーや公共セクターがどれくらい利益を出せたかにかかっています。そこをしっかりと検証する必要があります。・・活性化とは、「事業を通じて経済を動かし、まちに新たな利益を生み出すこと」に尽きるのです。それには、従来とは違う構造を生み出すことが欠かせません。
・・・本当に必要なのは、成功以前の、試行錯誤の段階を共に乗り越えられる仲間です。精神的に追い込まれたときに、一緒に笑える人です。つらい時期に逃げ腰になったり、チームから距離を置こうとする人とは、とても信頼関係は築けません。そして、それでは成果を生み出せないのです。
・・・私は、地域活性化事業に「全員の合意」は必要ないと思っています。そもそも市民参加型まちづくりでも、そこに参加した一部の住民が同意しているだけで、すべての住民が同意しているわけではありません。それは「見せかけの同意」にすぎず、合意した意見からして、誰も自分でやる気はない中で出た、無責任なものとも言えます。
・・・賛同者として必要なのは、自分で考えて自分で責任をとれる人。賛同者は「馬車」に乗る客ではなく、一緒に「リヤカー」を引く同士なのです。
・・・事業の立ち上げで失敗しないコツの一つは、すべてにおいて「営業」を優先することです。
・・・補助金を使った中心市街地活性化事業の大いなる誤りの一つに、ムダに大規模に設備投資をするパターンがあります。・・重要なのは売り上げではなく、利益です。そして、売り上げ規模ではなく、利益率です。
・・・共通しているのは、モノやコンテンツを自ら作って売っていること、つまり「製造小売型」であるということです。それぞれの売り上げは小さくても、粗利は50%以上になるものです。低売り上げでも、付加価値をつけることで高粗利になることが大切なのです。
・・・原資が地元の資本なら、誰かの消費が同じ地域の誰かの利益になります。それが地域での新たな事業への再投資に向かえば、利益は地域内で循環しながら複利で膨らむわけです。これは地域経済を豊かにするうえで大変重要なポイントです。
・・・私は、だいたい三か月を一区切りと考えて、何らかの結論を出すべきだと思っています。小さな投資案件でも、長くても二~三年で全額回収できなければダメ、基本的には、初年度から黒字にならなければダメです。
・・・まち会社の場合、特定の誰かが、年間を通じてフルタイムで行うべき業務はありません。一方、参加者が共同で副業的にできる事業は山ほどあります。・・まち会社の非効率的な雇用をつくって人を雇ったところで、それは望ましい雇用創出ではありません。まち会社が仕掛けた事業の先に雇用が生まれることが重要です。
・・・基本的に最初に、利益分配のルールを決めておきます。「儲かってから決めればいい」と先送りしてしまうのが最悪です。事業を始める前にさくっと決めてしまえばいいのです。
・・・これまでのまちづくりがうまくいっていなかったのは、「官」が今の時代では経済的に回らない仕組みに投資していたからです。・・民間がいつまでも国や自治体の投資で、何のリターンもない取り組みを「まちづくり」などと称してやり続ける限り、その地域は活性化しません。財政赤字は拡大し、域内収支は悪化する。・・小さな取り組みであっても、市場とまっすぐ向き合って稼ぎ、次なる事情に再投資して、利益を地域に還元していくことが大切なのです。
・・・鍵となっているのは、「消費」を目的としない集客を先に固めたこと。まちの人たちは、各種手続きや調べものなど、公共サービスを利用するために公共施設を訪れます。
・・・これこそが、民間の力です。つまり成立しない事業は実行できないから強いのです。
・・・競争過多の市場で消耗戦に挑むのではなく、希少性のある施設にすることで逆に全国から人を集めることができます。
・・・中途半端な多目的施設をつくるよりは、事業を仕掛けるチームが営業可能な分野に徹底的に絞り込んだものにする。私たちはこのような手法を「ピンホール・マーケティング」と呼んでいます。
・・・お金については民間が自立して取り組みながら、規制緩和や制度変更、民主的な進め方については、政治・行政が担っていくという、公民連携における理想的な役割分担がなされたからこそ、オガールプロジェクトが実現したといえます。
・・・規制緩和のルールをしっかりと守り、そのうえで実績をあげる民間の姿勢。それをサポートすべく規制緩和を進めていく行政の姿勢。この二つが組み合わさって、10年前にはできなかったことがどんどん可能になっているのです。・・すべては民間がやりたいと考え、実行したことを行政のお金に頼らず実現しています。行政が予算で支援するのではなく、可能な限り規制を取り払い、民間が動きやすくすることで、これらの事業はもっと活発になるでしょう。
・・・なぜならば、民間が稼ぎ、行政をも潤す関係ではなく、行政から民間にお金が流れる仕組みになっているからです。資金の流れが逆なのです。「第三セクター」は全国に多数ありますが、そのほとんどは赤字です。・・行政も民間も、誰も責任を取りたくないからです。
・・・一歩間違えば、民間と行政は、すでにユルい依存関係に陥ってしまいがちです。そういう意味では、公民連携というものは、極めて危うい関係でもあり、緊張感をもって臨まなければならないのです。
・・・なぜ民間がやるほうが安くなるのか。効率的に業務を行うようになるから、というのもありますが、一番の理由は「人件費が抑えられるから」です。
・・・外貨獲得で重要なのは、「営業」です。そこだけでしか手に入らない特産品を地域外に出していくにしても、画期的な技術やアイディアを地方にもってきたとしても、営業ができなければ、宝の持ち腐れです。「売れている地域」は、消費地に先回り営業を行い、販売ルートを開拓してから、生産に着手しています。
・・・民間は、事業に取り組んでいるだけでは不十分だということです。・・現場で取り組んでいる実践者が自ら、政府や学術機関に様々な政策提言をしていくことが重要です。さらにいえば、提言だけではなく、現場で実証を示すところまでやる必要があります。
・・・これからの時代には、「民間には高い公共意識」、「行政には高い経営意識」が求められているのです。この意識が一人一人に備わったとき、いかなる課題も解決できる、須原いいチームが地域に生まれることでしょう。』

2017年10月 1日 (日)

新聞記事から (【緯度経度】「朝鮮半島有事」への教訓 黒田勝弘、【日曜経済講座】衆院選・北朝鮮問題を考える 真の脅威は中国の膨張主義) 産経新聞朝刊 29.9.30、29.10.1)

2件とも、傾聴すべきものだと思います。

先ごろ日本で天皇、皇后両陛下が埼玉県日高市にある高麗神社を訪問されたというニュースを、韓国のマスコミは写真付きで大々的に伝えていた。この神社が古代・朝鮮半島の高句麗から渡ってきた渡来人を祭っているということで、両陛下が古代史における朝鮮半島の日本への影響に強い関心を持たれていることを歓迎し、大喜びしているのだ。

 このところ韓国人との会食でよくこの話が出る。陛下は日韓共催のワールドカップ・サッカーを前にした2001年の誕生日会見でも「(奈良時代の)桓武天皇の生母は百済王の子孫」という「続日本紀」の記述を紹介され「韓国とのゆかり」を語られている。したがって天皇陛下は韓国では“親韓派”と思われているのだ。

 韓国人は古代史というと朝鮮半島が一方的に日本に恩恵を与えたように思っていて、いわば“先輩気分”で意気揚々となる。今回もそうだ。そこで韓国人にいうのが7世紀、日本が百済復興の支援軍を派遣した「白村江の戦い」だ。

 百済・日本連合軍と唐(中国)の支援を受けた新羅・唐連合軍の戦いだったが、日本軍は大敗し水上で壊滅する。そのときの派遣兵力は「最低でも3万7千余」(中村修也著「天智朝と東アジア」NHKブックス刊)にもなる。あの時代にこの数はすごい。

 日本にはそれほど百済への“義理”があったということだが、この故事は韓国ではまったくといっていいほど教えられていない。最近、旧百済の遺跡を観光旅行してきた日本の友人は「どこにも何の記念物もなかった!」と怒っていた。

 日本には高麗神社のほか百済神社や新羅神社などが大昔からある。佐賀県の有田焼の里には「陶祖」として朝鮮陶工を祭った100年前に建てられた記念碑もある。韓国人は与えた恩恵や自らの被害はいいつのるが、支援されたことには全く知らん顔で伝えないというのは、古代史ばかりではないようだが…。

 朝鮮半島をめぐる戦争の歴史としては、「白村江の戦い」の後、13世紀の「元寇」はモンゴル族の元(中国)が高麗を手先に日本に侵攻してきた。16世紀の文禄・慶長の役(韓国でいう壬辰倭乱)は、最後は朝鮮半島侵攻の豊臣秀吉の日本軍と朝鮮支援の明(中国)との戦いになった。

 下って19~20世紀には日清、日露戦争など朝鮮半島を舞台に日本は清(中国)やロシアと戦っている。1950年代の朝鮮戦争では、北朝鮮・中国連合軍の侵略と戦う米(国連軍)韓連合軍を支援する後方基地となった。

 この後方支援があったから米韓軍は何とか北からの共産主義侵略軍を撃退し韓国は国を守れたのだが、韓国では「日本は戦争特需でもうけて経済復興した」という話ばかりで「日本の支援」の効果など全く無視されてきた。

 最近の北朝鮮の弾道ミサイルや核開発は日本への軍事的脅威でもありその備えは当然、必要だが、コトの本質は朝鮮半島の南北の内部対立であり「朝鮮半島有事」の問題である。その際、来るべき日本の関わり方は歴史的に見て、どのパターンになるのだろう。

 歴史的経験として「白村江の戦い」の直接派兵はもちろん、直近の後方支援でさえ感謝されていないのだから「朝鮮半島有事」の際の支援の在り方には慎重を要する。過去のように“深入り”して逆に後世に禍根を残してはまずい。(ソウル駐在客員論説委員)』

『朝鮮半島危機の中で衆院選を迎えるというのに、争点がぼやけている。北朝鮮問題とは何か、国連による対北制裁の効力はなぜ乏しいのか、そもそも何が日本の脅威なのか、を再確認しよう。

 1950年1月30日「われわれには鉛が大幅に不足している。もし指示した量の鉛を送ってくれるなら、多大な支援を行う用意がある」

 同3月9日「われわれが示した通りの量の鉛を送るとの連絡を受け取った。支援に感謝する。あなたの要請通り、武器、弾薬および技術設備を提供する」

 以上は、ソ連のスターリン共産党書記長から北朝鮮の金日成(キムイルソン)首相への極秘電報で、ワシントンのシンクタンク、W・ウィルソン・センター収蔵の「スターリン文書」から拾い出した。

 この年の6月25日、ソ連の軍事支援の確約を取り付けた北朝鮮軍は暗号命令「暴風」を受けて北緯38度線を越えて侵攻を開始した。悲惨を極めた朝鮮戦争(53年7月休戦)の始まりである。

 上記電文のキーワード「鉛」は核兵器の原料、ウランの隠語である。ソ連は49年8月に初の核実験に成功したが、当時ウラン資源は国内で見つかっていなかった。スターリンは東欧産に加えて北朝鮮からも確保し、核で米国に対抗できるようになった。

 金日成はウラン提供の見返りに、スターリンから核技術協力を得た。子の金正日(キムジョンイル)、孫の金正恩(キムジョンウン)が執念を燃やす核兵器開発は、金日成後継の正統性の誇示でもある。いくら国際社会から非難されようとも、後ろには引かない。

 今年9月3日、北は6回目の核実験を強行した。大陸間弾道ミサイル(ICBM)などミサイル開発の進化に合わせている。

 国連安全保障理事会は11日、対北制裁強化を決議した。目玉は対北石油輸出の制限だが、輸出のほぼ全量は中国からである。米国は全面禁輸を提案したが中国とロシアの反対で譲歩し、原油は現状維持、ガソリン、重油など石油製品は年間200万バレル(1バレルは約0・135トン)という上限を設けた。メディアの多くはその「厳しさ」を伝えたが、とんでもない解釈だ。

 グラフは中国当局公表の北向け石油製品輸出実績である。昨年末までの年間の総量はこれまでの最高水準で、200万バレルどんぴしゃり。今年8月までの年間では147万バレルまで落ち込んだが、これからは国連の容認のもとに白昼堂々、輸出を増やせるではないか。

 もう一つ、目を引くのは中国からの対北輸出の急増だ。石炭など北からの輸入は減っているので、中国の輸出超過額がうなぎ上りだ。国内総生産(GDP)が日本の最貧県程度でしかない北朝鮮は外貨不足で、貿易赤字分を払えないはずだが、中国の銀行が信用供与すれば可能だ。

 トランプ政権はそのからくりを見破り、北と取引する企業・銀行を制裁すると言い出した。そのターゲットはもちろん中国だ。米国から名指しされた銀行は米銀からドル資金を調達できない。つまり、国際金融市場から締め出されることになり、信用パニックに見舞われかねない。

 今月18日からの共産党大会を控えた習近平政権はあわてて、中国人民銀行を通じて大手の国有商業銀行に対し、北朝鮮関係の口座封鎖を命じた。これなら北を経済的に封じ込められそうだが、実際はどうか。

 まず、石油。平壌ではガソリン価格が高騰しているという。米軍情報筋に聞くと、「強欲な中国の輸出業者のせいではないか。中国側はこれまでにも北向けの輸出価格を国際相場よりも2割程度高くしてきた」との答えだ。朝鮮戦争以来の「血の友誼(ゆうぎ)」など無関係だという。

 高く売りつけても、相手が代金を払えないなら、当然貿易取引は止まる。ところが、相手の弱みにつけ込むのが中国商法だ。米軍筋は「中国は債権の担保に北の鉱山利権を確保する」とみる。これまで中国資本は、かつてスターリンも瞠目(どうもく)した豊富な北の鉱物資源獲得を狙ってきたが、金正恩政権のナショナリズムに阻まれてきた。制裁によって困窮している今こそ好機だ。

 習氏が目指す現代版シルクロード経済圏構想「一帯一路」の東の終点は朝鮮半島だ。特に半島北部には金や銀、戦略物資であるウランや希少金属が埋蔵されている。ロケットマンこと金正恩氏の命運を問わず、日本などにとって中国という脅威が増大することだけは間違いない。

 総選挙では、与野党を問わず候補者たちに冷徹な危機感を持ってほしいところだ。』

«雑誌記事から(Hanada 2017年11月号)