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2017年12月 2日 (土)

般若心経は間違い? (アルボムッレ・スマナサーラ著 日本テーラワーダ仏教協会)

これまで少し意味が不明なところもありながらも、般若心経はありがたいお経だと信じて唱えてきました。しかし、この著作で疑問点は解消し、般若心経に対する見方が変わりました。

『・・・じつは「般若心経」は分からなくて当たり前なのです。それはお釈迦様、正等覚者である釈迦牟尼ブッダその人が語った経典ではないからです。「般若心経」をはじめとする大乗仏教の経典は、お釈迦様が涅槃に入られてから数百年後、その直接の教えから一部を抜き出して、その人なりの能力で深い意味を表現しようとした宗教家たちの文学作品です。それを私たちはいろいろと頭をひねって解釈しなければならないのですが、私たちもお釈迦様が説いた真理を知っているわけではないので、納得いかないのです。
・・・自分の国スリランカにも、子供から大人まで確実に覚えている経典として「慈経」という短い経典があります。これは暗記していない人はいないというくらい有名です。この経典は、お釈迦様が「慈しみ(慈悲)」の実践について説かれたものです。
・・・観自在菩薩は、大乗仏教でトップクラスの知名度を持つ菩薩ですが、初期仏教の時代には全然出てこない。あとからつくられたキャラクターです。
・・・初期仏教では、大乗仏教のような菩薩信仰を説かないのですが、菩薩の波羅蜜は六どころか、十も挙げられています。布施波羅蜜(施しの実践)、持戒波羅蜜(道徳の実践)、離欲波羅蜜(欲望の放棄と克己の実践)、般若波羅蜜(智慧の実践)、精進波羅蜜(精進努力の実践)、忍辱波羅蜜(耐え忍ぶことの実践)、真諦波羅蜜(誠実さ、正直の実践)、決意波羅蜜(不撓不屈で目的を成し遂げる実践)、慈波羅蜜(慈しみの実践)、捨波羅蜜(無執着の実践)です。ブッダになる誓願・決意をした菩薩は、この十項目を完成して完璧な人格者にならないといけないのです。
・・・波羅蜜を人格完成のための行として、いろんな試練訓練を受けて、自分を磨き上げることだと理解したほうがよいのです。
・・・お釈迦様は「私、といっているものは、色受想行識の五つでできているのだ」と言っています。「私を構成している、色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊の五つの本性は空である」つまり「実体はない」ということを観察しているのです。
・・・色は、簡単にいうと私たちの「肉体」です。・・受は感覚、感じることです。・・私は「想は、私たちが持っているさまざまな概念だ」と説明しています。・・大人になるとどんどん想が増えていくのです。勉強すればするほど想が増えます。それでトラブルが起こったりもします。・・行は、経典の説明では、喋りたい、考えたい、身体を動かしたいという気持ち、エネルギーのことです。これも増えたり減ったりします。・・識は、認識すること、知ることです。・・色受想行識の五つが一緒になって、離れることなく行動すること。それを私たちは一般的に生き物、人間と言っています。
・・・初期仏教では、あくまでも「一切の現象は生じて滅するものである」「一切は無常である」という立場です。お釈迦様は生滅説なのですね。これに対して「般若心経」は、「生滅がない」と言っているのです。この一言で「般若心経」は、せっかくお釈迦様が発見された「無常」という真理を否定してしまうのです。
・・・存在しないものについても考えられるのが、頭で思考する(妄想する)ことの特徴です。人間には妄想する機能(識)があるのです。
・・・お釈迦様は、次に「私と外の世界のかかわりはどうなっているのか?」を分析しました。その答えが「十八界」です。・・「見る」という現象の要素として、眼界・色界・眼識界という三つがあるのです。これを六根(眼耳鼻舌身意)すべてで起きているので十八界になるのです。十八界はネットワークです。このネットワークには中心的に管理するところはありません。インターネットのように中心がないネットワークなので、「実際の機能としての存在」を示す意図で「十八界」と言っているのです。・・このネットワークには、何も芯となる実体はありません。それが「生きる世界」の一つの説明になります。「私がいるんだ」というのではなく、「ネットワークが存在なのだ」と。・・十八界は常に変化生滅しているのです。そこで私たちは、「存在は無常である」という結論にいとも簡単に達することができるのです。
・・・本当は、「私」はネットワークで成り立っているもので実体はないのですが、それが分からないでいるのです。こういう存在の分析はブッダしかやっていないのですから、人間が知るはずもありません。
・・・仏説の本当の心臓は「般若心経」ではなく、十二因縁なのです。十二因縁は生起論と滅尽論がセットです。無明がなくなれば行もなくなる、行がなくなれば識もなくなる---、という滅尽論もあるのです。これによって、私という存在が苦しみの世界から脱出して解脱に達する道筋が明らかになったのです。
・・・ブッダが言うのは、「もともと実体はないんだよ」という話です。実体があると勘違いするから執着するのです。執着するから物事が変化するとすごく苦しくなって、悩むはめになるのです。実体がないからこそ、物事が変化するのです。外の世界に限らず自分自身も、変化し続けているのです。そこでブッダは、「どこにも実体のないことを発見しなさい。悩む自分も実体がないことに気づきなさい」と説くのです。
・・・言葉を使うときは語りすぎに気を付けること。そうしないと、どこまでも、頭の考えだけで飛んでいってしまうのです。
・・・宗教たるもの、けっして人間の呪文願望を支えてはならないのです。もし宗教が呪文願望を応援するなら、それはインチキ宗教に決まっているのです。
・・・正直さ、真理であるということは、それ自体がすごい力なのです。それを教えるためにお釈迦様はいくつかの経典で祝福をしています。「これは真理だよ。本物だよ」という証として言っているのであって、呪文に力があるというような神秘的な話ではありません。お釈迦様は星占いも他の占いも、きれいさっぱり貶して捨てているのです。
・・・「言葉に力がある」のではなく、「意味のある言葉に力がある」のです。
・・・呪文の特色は、論理性がないことです。文法も主語も目的語もありません。・・呪文には、伝える意味がないので、力がないのです。なのに皆、呪文に力があると思って、意味のない単語を羅列する。それは明確に迷信です。・・お釈迦様は明確に呪文を否定されました。呪文のことは、はじめからまったく馬鹿にしています。だから経典に呪文はひと言もありません。
・・・最後まで読んできましたが、「『般若心経』はあまり勉強していない人が作った経典ではないかな」というのが私の感想です。『般若心経』は仏教用語をたくさん並べていますが、パーリ経典を読んで学ぶ人から見ると、経典に値しないダラダラした作品で、欠点がたくさんあります。作者はただ適当に短くまとめてみようと思っただけで、そんなに真剣ではなかったようです。本人は「空」ということをわかっていないし、空の思想を理解してもいませんでした。そのことは、空を理解していたら使えない「na 無」という言葉を使ってしまっていることからもわかります。
・・・ということで結論です。「般若心経」は中身を勉強しなくてもいい経典です。そもそも中身がないし、論理的でもない。だから、意味がわからないことで困らなくてもいいのです。意味がわからないのは私たちの頭が悪いのではなく、先生の頭が悪いからです。
・・・「般若心経」は、仏教ほど古くないけれど、長い間みんなが大事にしてきた経典ということくらいのことです。大事に守られた理由は、短いことと、理解できないことですね。理解できなかったのは、中身がなかったからです。
・・・「向上するための躾が欠けているならば、それはブッダの生の教えではない」これは私たちが経典をチェックする重要なポイントです。
・・・そこで智慧のある人は、・・無常の中でなんとかうまくいくように励むのです。・・私たちの仏教世界では、「親は梵天(最高の神)として尊敬しなさい。親孝行しなさい」と教えます。なぜそんなに親を大事にするかと言えば、無常だからなのです。
・・・釈尊は、「常に気づきを持って(sato サトー)、この世を空として観察しなさい」と答えます。・・仏教でいう「世 loka ローカ」は、物理的な世界より、一切生命のことをいうのです。釈尊が、「一切生命を空と見なしてください」と言うのは、「実体たる自我がない」と発見するためです。これはパーリ経典のなかでも、最も古いところで出てくる教えです。「生命は空である」と分析すると、色受想行識の五蘊でできているものが生命なので、「五蘊には実体がないから空である」ということがわかるです。「生きる」とは何かといえば、眼耳鼻舌身意で認識することであって、それも実体がない。空である。そういう空論です。
・・・たとえとして使われる場合は、「毒矢」のイメージです。自分の身体に毒矢が刺さっていたら、ありがたいとは誰も思わないのですね。とにかく捨ててしまいたい、離れたいのです。だから、五蘊そのものが毒矢だと見てください。
・・・仏教では、「瞑想修行で発見するのは、無常、苦、無我とうい真理の側面のどれか一つだ」とも説明されています。しかし無常も苦も無我も、はっきり言えばすべて「同義語」なのです。
・・・修行を完了した人と、修行中の人の世を見る観方は、まったく同じですが、修行中の人には「我見を絶つ」という仕事が残っているのです。
・・・執着を捨てることは、決して楽ではありません。価値を入れると執着が生まれます。「価値がある」と思うと、やはり置いておきたくなります。私たちの家にもガラクタがいっぱい溜まっていますけれど、なかなか捨てられないでしょう。それは価値をつけているからです。
・・・事実だからといって、役に立つとは限らないのです。だから初期仏教では、「知っているものは全部語る」という立場は取りません。無駄なことは語らないのです。
・・・「空論」を語る人は「na 無」という言葉を使いません。それは「無」と「空」がまるで違うからです。・・「空」というのは、そういうことではないのです。蜃気楼は空です。蜃気楼について、私たちは語らなければいけないのです。「あれは水のように見えるけれど、ホントはそちらに水も何もないんだよ」と。「これはこういう働きで水のように見えるのだ」と。それな空なる現象であって、「無」ではないのです。蜃気楼を見て、「あれは無だよ」と言ったところで、蜃気楼はあるように見えるのですから無じゃないでしょう。私に苦しみが「無い」と言ったって、実際には現象として苦しみがあるのだから無ではないのです。
・・・確かに一切の現象は空です。しかし仏教では空論は語りません。その代わりに無常論を語るのです。それはわかりやすくて手につかみやすい事実だからです。無常は、「今のある現象が変わっていっても、また次に別の現象がある。また変わっていって別の現象がある」ということです。だから、そこから「どうすればいいのか」ということが導き出されます。それで修行することや、悟ることや、解脱することや、そういった道徳的なセクション、実践的な方法が成り立つのです。
・・・仏教は進化の道であって、人格完成の道であって、悟りに達する道なのです。だから空だけをハイライトして論じることで、それが壊れます。だから初期仏教では真理として「空である」とはっきり言うのですが、けっして「空論」は展開しないのです。
・・・じつは大乗のお坊さんたちも、まじめに修行しているのです。しかし論理的にはあべこべだから、その人たちにもまじめに修行する気がなくなってしまうのです。・・ただ真剣まじめに修行させる論理的な支え、裏付けがまったくないのです。それで最終的に大乗の世界で何をするかというと、「般若心経」のように呪文を唱えたり、「南無妙法蓮華経」と唱えたりするだけに終わってしまうのです。
・・・悪業か善業かは、しゃべった内容と気持ちによります。善いことを善い気持ちでしゃべるなら善業であり、善い結果につながります。
・・・仏教では、人間より次元が高い、心のエネルギーのレベルで生きる生命のことを、「神」といいます。仏教では、「いろんな生命が生きていて、どれもこれも清明だ。輪廻の世界で苦しんでいるのだ」という認識なので、神だから尊いということにはなりません。心を極限まできれいにして輪廻から解脱した阿羅漢こそがすばらしいのです。生命ということでは、微生物も人間も神も同じです。・・人間であるからには、人間としてしっかり生きることです。
・・・たくさん記憶したら、sannaがたくさんあるということです。忘れたら減ります。たくさん勉強するということは、サンニャーを増やすことです。sannaが増えると、そのぶん五蘊の量が多くなってしまいます。だからものすごく勉強した人というのは、性格が悪くて、頑固で、育ちにくくて、ややこしいでしょう?
・・・行蘊は「衝動」です。・・私たちには常に何かしらの衝動があって、その衝動は常に変化しています。衝動がない瞬間はありません。・・そのエネルギーをsankharaというのです。
・・・私たちの身体は五蘊でできているのですが、それらはすべて常に変化しているということになります。・・五つの無常をまとめたら、それは何に例えることもできない徹底的な無常なのです。ただ「無常」というしかないのです。・・ヴァジラー比丘尼は、「五蘊で自分ができている。それを生命という世間の合意がある。それだけですよ」と言ったのです。
・・・私の身体も、机も、物体です。どちらも同じ物体なのです。しかし、私の身体は感じるのですが、机は感じないのです。つきつめれば、違いはそれだけです。
・・・似ているものを長く感じると、「苦しみ」が生じます。・・それは感覚が苦だからです。・・苦には二つの次元があります。一つは、「感覚は苦で、生きるとは感覚があることなので、生きることは苦である」ということです。私たちは感覚があるから「生きている」とかいうのですが、その感覚が「苦」なのです。だから私たちは苦しまずに生きることができないのです。苦が生命を維持管理しているのです。「生きる=苦という現象」なのです。「生きることには微塵も楽しみはない」というのは真理です。・・楽なんて苦の「騙し」でしかないのに、「楽だ、楽だ」とありがたがってしまうのです。・・感覚が楽なら私たちは簡単に死んでしまうのです。生きていられません。それで苦が生じて生き延びるのです。生きていくには苦が必要なのです。
・・・楽しみがあったのではないのです。苦しみが減っただけです。それを勘違いして「幸福だ」というのです。・・世間の人が夢見る最高の幸福は、不幸のどん底でないと感じられないのです。苦が消えることが楽しみなので、幸福を感じるためには、どん底の不幸になるしかないのです。では、「生きる苦しみ」が完全に消えたらどうなりますか?「生きる=苦」なのです。それがきれいさっぱり消えたら、どうなりますか?それを解脱というのです。その境地が涅槃です。輪廻から解脱し、二度と生まれないなら、完全に苦を断つことに成功した方なのです。
・・・本当に、人生に楽はないのです。「楽」というのは錯覚で、ただの世間の合意です。・・その幸福は、「苦しみが消えた」という事実をあべこべに見ただけのことです。苦しみとは別物の幸福があるわけではありません。あるのは苦しみだけなのです。苦しみ以外にないです。
・・・「苦」には「感覚の苦」とは違う意味もあります。一切は無常で、絶えずに変化していくのですが、この状態も「苦」というのです。
・・・「私の」という気持ちが苦しみを作るのです。「私の」というのは、自分の感覚から生じる錯覚です。だからこの「感覚の苦」をしっかり観察しなければならないのです。
・・・ところでヴァジラー比丘尼は「誰が生命を創造するのか?」という悪魔の最初の問いに答えていません。それはそもそも、実体として誰も見いだせないからです。「生命」という実体が成り立たず、あるのは無常たる現象のみなので、問い自体がナンセンスなのです。だから仏教にしてみれば、「森羅万象を創造したのは誰?」という問題は、答える価値さえもない、無意味な成り立たない問いなのです。
・・・修行者にとって「悪魔」とは「自分自身の思考」です。仏教の修行をする人は「神様が降りてきて修行の邪魔をする」と考えてはいけません。自分の悪さを、他人のせいにしてはいけません。悪魔は自分の思考、妄想なのです。妄想は感情から絶えず生まれるのです。感情とは煩悩です。だから、まず自分の妄想を減らすことです。それは自分でできます。それが悪魔退治です。けれど妄想が減って落ち着きが出てくると、「自分は理性的だ」と勘違いする思考が現れます。「いま私は妄想していない。論理的なことを考えているのだ」といばるのです。これが悪魔の攻撃です。思考を止めさせてくれないのです。「理性的な思考」でも思考にすぎません。真理を知っているならば、思考する必要もありません。』

2017年11月27日 (月)

さよならパヨク チバレイが見た左翼の実態 (千葉麗子著 青林堂)

以前、千葉麗子氏の「くたばれパヨク」についてアップしましたが、その前著です。私としては「くたばれパヨク」の方がインパクトが強かった気がしますが、こちらも気づかされる部分がありました。

『・・・彼らを見ているとやはり社会環境に加え、家庭環境の影響が大きいと思います。子は親の背中を見て育つといいますが、親の生き方や考え方は子供の人生に反映されていくものです。
・・・「原発に反対すると仕事を干される」という芸能人もいるようですが、私の知る限りでは、そういう人はまずいません。しばらく姿を見ないと思ったら、反原発でいきなり登場という人ばかりです。つまり、売れなくなったから、反原発で再び注目されようということばかりですね。若手から中堅、ベテランに至るまで、「苦しい時の神頼み」ならぬ「苦しい時の反原発頼み」というのが芸能界にはあるようです。
・・・脱原発を訴えて集まってきた人は、パヨクばかりではありませんでした。保守、右翼の人の中にも反原発の行動を起こす人たちがいました。愛する美しい日本の山河を守りたい、あるいは国防の視点から危険な原発をなくしていきたいという理由などからです。そして彼らも経産省前などに日章旗を持って駆けつけたのです。しかし、当初から日章旗を掲げるグループは排除されました。
・・・特に一般参加者は減る一方で、いつの間にか共産党関係者、それも高齢者の占める割合が増えました。そもそも首都圏反原発連合が後に共産党地方議員の家族と身元がばれた中心メンバーをはじめ、共産党関係者が多く入り込んでいました。・・主要人物は表に出ないで身元がばれない若手を前面に立たせる方針をとったのです。自分たちは安全な場所にいて、指示を出していたんです。
・・・知人らから聞いたのですが、デモに音楽や踊りを取り入れるのは、日本共産党が昔から得意とすることらしいです。ラップミュージシャンが多数参加していたのも、共産党のスタイルに合っているからだと考えるとなるほどと思います。
・・・デモは物販をしたり、カンパを集めたりする場にもなります。パヨクに物販は付きものなんでしょうか。現場ではTシャツ始め関連グッズをいろいろ売っていました。・・もちろんカンパした人は善意からなんですが、受け取る方には、そのお金で生活している人がいるっていうことを聞きました。最初は耳を疑ったのですが、デモに入り浸っている人には、確かにきちんとした仕事をしていない人もいて、どうやって食べていくかになると、カンパをあてにするしかないということらしいです。・・お金のやりとりに関して、彼らのうまいところは、絶対に皆の前でやらずに、抗議活動が終わった後、近くのコーヒーショップなどに集まってやっていたことです。
・・・ものすごい野心家に見えました。隙あらば何をしてくるかわからないような感じで、「私、女王様」的な強さを持っていたと思います。・・今振り返ってみると、食うか食われるかの芸能界では、そのくらいでちょうどいいのかもしれません。汚い手や卑怯な行いはともかく、もっと強気になって堂々と渡り合ってもらえればと思います。芸能界は在日だらけと嘆く前に、作り手も受け手もなぜ在日がここまでのし上がってきたかも冷静に分析し、いい意味での刺激を受けるべきではないかと思います。
・・・この前、在日の韓国人の女の子とご飯を食べに行ったんですけど、もう気質や性格が全然違う。攻撃的で上から目線。で、へこたれない。涙なんか流しませんからね。・・きっと韓国社会の中では、なよなよしてると負けてしまうんでしょうね。いいカモにされたり、韓国社会は必ず上下関係がないと話が始まらないみたい。つまり対等な関係がないわけです。・・そんな感じだった。言葉の端々が攻撃的。「自分が女帝よ」でツーンとしてないと韓国社会では生き残れないみたいですね。
・・・アメリカは70数年前に戦争をしていたにもかかわらず、今いろいろな場面で日本人をリスペクトしてくれます。』

2017年11月 5日 (日)

忍者はすごかった 忍術書81の謎を解く (山田雄司著 幻冬舎新書)

忍者そのものというよりも、一流の忍者になるために必要なことが書かれており、当然それは他の世界でも一流になるために役立つものでした。

『・・・忍びは「乱波(らっぱ)」「透波(すっぱ)」「草」「奪口(だっこう)」「かまり」など、地方によりさまざまな名前で呼ばれていました。「忍者」という呼び名は、昭和30年代に小説などを通じて定着した新しいものです。
・・・忍びの本は「正心」である。忍びの末は陰謀やだますことである。それゆえに心が正しくコントロールできないときは、臨機応変の計略を遂行することができないのである。・・いわゆる正心とは仁義忠信を守ることにある。仁義忠信を守らなければ、強く勇猛なことをなすことができないばかりか、変に応じて謀略をめぐらすこともできないのである。
・・・武勇の心掛け方については、「血気の勇を捨て去り、『義理の勇』を心掛けよ」と述べています。同じ武勇といっても義理の勇がなければ君子の勇ではなく、血気の勇で、一時の怒りによって剛強を働かせることができても、次第に怒りが薄くなるにしたがって、ずっと剛強の働きを心底に保つことはできないとしています。さらに義理の勇とは、やむを得ず起こす勇であり、この勇はいつまでも冷めることなく、ことに私心がないためにまず己の欲心に克ち、前後を思案して、なおかつ必死ならば即ち生ずということを心の守りとして働く
・・・実際には、人と仲良くなって情報を聞き出す陽忍の方が多かったようです。
・・・まずそのことを言わず、それとなく他のことより語りてそびけば、向こうよりも思わずいうものなり。
・・・忍びは、人に追われて逃げることを恥と思ってはいけない、刀・脇差・諸道具を捨てて帰ることも多いので、名前や印が付いている道具を持ってはならない。ただ敵を知ることが肝要だと思い、自分の命を軽んじて忠義を果たすように
・・・利口(方便)というものは、聞いているときはおもしろいけれども変化するものである。道理は大きく広く、かつ慎ましやかで明白なものだ。利口はこれに劣るものであり、受けが良い内容のため、人はこれを喜び聞く。
・・・常にアンテナを高く張っておけば、周囲には多くのヒントが隠れています。自分と同じような人だけでなく、さまざまな人々と関係することにより世界が広がり、多種多様な知識が得られ、生きていく上での大きな糧となります。
・・・旅にて愛情を用いれば、相手は自分のことをよく思うものである。良く思えば取り入れいやすい。・・旅では日ごろ隠していた自分の本心が現れるものです。そうしたときに温かい対応をされると、心の中にスッと入ってきます。そうすれば、その相手とは固い信頼関係を結ぶことができるようになり、そこからさまざまな情報を得ることができます。
・・・会話する場合は、「聞き上手」であるべきで、自分の言いたいことは少し心の中にとどめておいて、相手が心中に思っていることを引き出す会話術が必要となります。
・・・「敵になる」という教えがあるが、これは敵の立場になって敵の心を察することである。・・あるいは「敵の心を取る」という教えは、こちらがこのようにしかけたときは敵はこのようにする、こちらがこのように語ったならば相手はこのように話すというように、敵の心になって考えるということである。・・「敵に離れる」という教えもある。これは「我は我、敵は敵」と考え、その利は異なっているとみて、敵の立場になることなくして、ついには必ず勝つということは上手のなせるわざである。通常と敵と離れては益がないとされている。
・・・必ず逃げ道を作っておいて、絶妙なバランスで厳しくすることと寛容にすることの両方を用い、良好な関係を築いていく必要があります。
・・・「追従軽薄」を取捨すること。人に対して自分の気に合わない場合でもへつらい、自分が好きでないことも好きなように振舞うことは、人に気に入られるためである。・・このようなことは士たるものは一切しないことであるけれども、用いることがある。これを用いなければ、気儘気随者ということで人との交わりは難しい。ただのちょっとだけでも用いないと心に決めていたのでは害がある。時により場により人により合わせる必要がある。
・・・自分から声をかけることによって先を制することができ、自分のペースで事を運ぶことができるようになります。
・・・人に理のあることを言わせて、なるほど道理ですねと感心して見せれば、相手は必ず先にいい気分になって、自慢をするようになるものである。そのときに相手が秘密にしていることの兆しが、注意していれば見つかるものである。それを取り出して、たたみかけて質問していくと、相手はそこから逃れることができずに必ず弱くなるのである。
・・・自ら慎んで抑えなければならないのは、「利口」「利発」である。内に蓄えておけば、自分が賢いということを外に示したいときにいつ何時でも自由に出すことができる。であるから、知識を蓄えておくことが肝要である。
・・・常に酒、色、欲の三つを堅く慎み、これにふけって楽しんではいけない。酒、色、欲の三つはもとより自分の本心を奪ってしまう敵である。・・忍びは禁欲的である必要がありますが、逆に相手を術中に陥れるためには、好きなものを渡したりして心を奪うという方法があります。
・・・何でも心に望み欲することは皆欲である。これを忍ぶことは難しい。ことに忍び・間者はこれをよく忍ばなければ大いに害がある。
・・・相手の懐の中に入るために、酒、淫乱、博打などを利用し、相手の油断を誘います。しかし忍びたる者、それによって自分自身を失ってはなりません。・・こうしたものに心を奪われていたのでは、冷静沈着な行動を必要とする忍者は命を落とすことにつながります。しかし、逆にこのような手段を利用することによって人を油断させて自分の思い通りに利用するようにするのです。
・・・総じて人の衰亡は、皆欲心によるものである。・・取り入ろうとおもうのなら、まずその人の大欲小欲無欲のものは何かを判断して取り入るのである。
・・・酒の席では、酔った勢いで普段は言えないことも言えるようになるし、聞く側も酒の席だからと容赦してくれます。ゆえに、それを利用して言いたいことを言うのもよいと書かれています。しかし、これは相手や内容次第のところもあるので、状況判断が必要です。
・・・人を知って自分を知られないようにするのが、忍びの者の中でも巧者である。
・・・何事も思いの外のことには心を取られ、落ち着かないものである。忍び、間者はこのようなことで人の心を縛ることがある。・・言葉によって相手を縛ることもできます。相手から想像だにしていないことを言われると、そのことが頭から離れず呪縛されることになります。
・・・修行というと、滝に打たれたり絶食したりということを思い浮かべますが、忍者にとっての修行は総合的能力を高めることにあります。・・どのようなことが起きてもすぐに対応できるように、日ごろからそれに備えておく必要があります。それが修行なのです。・・忍びにとっては、これから修行するぞ、と思って特別な修行をするのではなく、日々の生活すべてが修行であり、それがすべて自らの命運にかかわってくると心得て、毎日を過ごす必要があるのです。
・・・心は水や鏡のようである。水と鏡の本体は本来不動で清明なものであるけれども、外物の塵芥泥土のたぐいに汚される。あるいは風や人が外から動かすときは、本来の清明不動を失って、万物が対しても映ることはない。本心も同様に清明不動であり、向かう者の善悪邪正、是非の情、その他すべてが、水や鏡が物を映すように、明らかに現れないということはない。しかし、六塵を六根に引き入れたなら、必ず心が濁って清明でなくなり、さまざまな状況に応じてよく物が映るようなことはなくなってしまう。
・・・忍術の三病は、一に恐怖、二に敵を軽んず、三に思案過ごす。この三つを去りて、電光のごとく入る事速やかなり。
・・・武士はあやぶみなきぞよかるべし まへうたがひはおくびょうのわざ (武士たる者、危険だと思わない方が良い。事を起こす前から心配に思うのは臆病のなすわざである)
・・・剛勇か臆病かは話す内容にて知ることができる。「一日戦いについて話をすれば、三日間心が強くなる」といって、常に武勇を好む話をする者は心が強い者である。・・己の落ち度を指摘されても顔色を変えない者は、心が強い者である。怯える者はその逆である。
・・・何事も順調にいっているときは勇敢に見えても、順調な時期を過ぎたときにそのような態度を保っていることはできないため、本来の性格が表れてきます。
・・・人は平常時には自分の心を制御できますが、非常時には制御できずに本心が見えてくるので、そこから性格を読み取ることができると述べられています。他の個所では、一緒に旅をすればその人の性格がわかるとされていますが、これも、大変な局面の際に人の持っている本来の性格が表れるということです。
・・・「相見」とは、何事でも人の見たこと、人の言ったことを、自らもそれを見て、その人の言うところと自分が見たところを引き合わせて、虚実の分量を量ることである。
・・・人を外見やその人の職業などで判断してはいけないという教えです。さまざまな人の意見を聞くことが重要です。人の重要性はその外見ではなく、内面であるということを示しています。
・・・忍びは平常心を保っていなければならない。それは、いつ何時であっても忍ぶ心が大事だということである。
・・・水の中で足をバタバタさせていても水上では物静かな水鳥のように、心の内はどれほど忙しくても、表面上は心うららかにすべきである。世の人はさまざまに騒いでいても、忍びの道を守る人物が誠を大事にする様子は、あたかも聖人とも悟道者ともいうべきであろう。
・・・撰む事。忍びの者の性質に、大業をよくする者あり。小業を得し者あり。その生得を撰みわけて遣う事。總司の肝要なり。不得手なる事をなさしむべからず。
・・・要の大事。伊賀伝に曰く、十本の扇の骨も要一本にてしまりつかわれるなり。間人数千百人もこれをつかう総大将一人による事なり。
・・・江戸時代末期の風流を描いた牧墨僊「写真学筆」には、武士が手裏剣打ちをしている場面が描かれています。江戸時代には、武士の嗜みとして手裏剣術が行われており、手裏剣は忍者のものという認識が作られていくのは昭和になってからのことのようです。
・・・忍の一字。この一字至て大事也。字の心は刃の下に心を書。心は胸也。胸に白刃を当て物を問ひ、決断に逢ふ心也。
・・・味方の中に敵の忍びが交っていないかどうか見つけ出す「立ちすぐり・居すぐり」という方法があり、これは決めておいた合言葉を言って、人々が同時にさっと座り、さっと立って、紛れ込んだ敵を選び出すための方法でした。これによって見つけ出されて殺された例もあります。
・・・それ忍の本は正心なり。忍の末は陰謀・佯計(ようけい)なり。これゆえにその心正しく治まらざる時は、臨機応変の計を運らすことならざるものなり。
・・・この道を業とする者は、一戦の折から主君の為に大忠節を尽くし、大功を立てんとのみ欲して、主君の安否、国の存亡、我一人の重任と心得るべし。
・・・皆が考えつくような方法では、対策がとられていて忍び込むことはできません。そのため発想を転換させ、相手が考えないような方法を駆使することによって意表を突き、初めて忍び込むことができるのです。・・状況は常に異なっているので、その場に合った方法を即座に判断し、臨機応変に対応を変化させていく必要があります。
・・・忍びの術は奥深いもので、一朝一夕で身につけられるものではありません。心の修練を欠かさず、継続的な努力が必要です。また、事を行うに当たってはちょうどよい時期というものがあるので、それを逃してはいけません。
・・・聖ばかりで侫がなければ事は成り立たず、直であって曲がなければ、人の偽りを信じて害を被ってしまう。俗に言う「阿呆律儀」である。聖直侫曲の四つを合わせて、人により用いるのである。
・・・人の真偽を黙識して人に欺からるるべからざる事。
・・・此の道を業とせん者は最も顔色をやさしく和らかにして、心底尤も義と理を正しくすべき事。・・恐い顔をしていたのでは誰も寄り付きません。常に柔和な顔をして人に安心感を与えることによって打ち解けるようになり、さまざまな情報も得ることができるようになります。逆に、穏やかな顔をしている人を信用してだまされることもあるので、気を付けなければなりません。』

2017年11月 4日 (土)

50代から本気で遊べば人生は愉しくなる (片岡鶴太郎著 SB新書)

短い著作でしたが、著者のこれまでの人生とその時々の思いが分かりやすくまとめられており、参考になることも多くありました。

『・・・新しいことにチャレンジすることはエネルギーが要りますし、ときには悩んだり苦しんだりすることもあります。でも、その先には大いなる”ギフト(贈り物)”が待っています。その贈り物とは”魂の歓喜”です。・・まずは自分の心に「私の魂は何をすれば歓喜するのか」と問いかけてシード(種)の存在に気づくことです。そして、やりたいことのシードを見つけたら、毎日コツコツと水やりをしていくことです。すると、やがて芽吹き、魂の歓喜がもたらされるようになります。
・・・芸事の世界でも、型を真似ることから始めるのが上達の第一歩となります。それは「守破離」という師弟関係の基本を説く言葉にもあります。まずは師匠の型をとことん真似ます(守)。真似るのが上達したら「自分としてはこうしたい」と工夫しながら磨きをかけ、師匠の型を破る段階に発展します(破)。さらにはその型から離れ、自分の独自性を発揮する境地に達するのです(離)。
・・・私は何かを会得していくには、「反復練習」しかないと思っています。これはどんな仕事、どんなものごとでも同じ。「匠」と呼ばれるような達人でも、最初からうまくできたわけではなかったはずです。
・・・自分の心の中にある芥子粒のようなシードの存在は、心を澄ませておかないとなかなか気づくことができません。
・・・ヨーガの教えには8つの「部門」があるということでした。・・1~7は並行して毎日行う実践となります。7の瞑想法で8を繰り返し経験することで、徐々に8が定着し、いつの日か人はゴールである悟りに達します。必要なことは毎日の継続的実践です。1 禁戒は、暴力や嘘をつくなど反社会的行為を律するための実践(社会行動) 2 勧戒は、浄化、知足など毎日行うべき自己精進のための実践(自己実践) 3 坐法は、長時間の瞑想のための正しい姿勢をとるために行う肉体を柔軟にする実践(肉体の強さと柔軟性) 4 呼吸法は、心を静める瞑想のために深く静かな呼吸を維持できるように養う呼吸法の実践(肉体の活力) 5 制感法は、外界から心の内面に意識を向ける実践(五感制御) 6 集中法は、心の内面に意識を保ち続ける実践(精神統一) 7 瞑想法は、心のもっとも静かな真我へと意識を至らすための精神的実践(潜在意識) 8 三昧は、心の動きが最小限の状態である真我(本当の事故)の状態(瞑想で心の源に達した状態)
・・・ブッダのような蓮華坐(足を交叉させて反対側の太ももの上に置く瞑想の姿勢)は、普通の人だと1分もキープすることはできません。これを20分から30分維持して瞑想するということは、相当なインナーマッスルが必要になります。ヨーガのポーズは、それを鍛えるための動きなのです。
・・・人間は放っておくと口呼吸になります。鼻呼吸で酸素を脳に送り込んでクリアにするというのが、古代インドヨーガで5000年前から行われてきた呼吸法です。こちらも瞑想に至る前に欠かせないものです。
・・・型通りのジャブの練習と、相手と対峙したときのジャブはまったく違います。実際にボクサーと対峙して、どうやって闘ったらいいのか考えながら稽古していかないと、本物のジャブにはなりません。それと一緒で、何を表現するでもなく戦を描いても意味がない。線を鍛えていくには、描きたいものを必死になって一発一発描いて鍛え上げていくしかありません。
・・・好きなものがあるというのは、本当に強い。そして、何かを会得するためには反復練習するしかない。このときの経験は今でも私の人生の核になっています。
・・・「縄跳びをうまく跳ぶにはどうしたらいいんですか?」そうトレーナーに尋ねると、「いやー、鶴太郎さん、コツはないんですよ。ひたすら跳ぶしかないんです。跳んでいるうちに何かが見えてきますから」そんなふうに教えられました。それで黙々と跳んでいると、1週間、2週間と経つうちに、バツンバツンと足に当たっていたロープがだんだん当たらなくなってきます。「何かが見えてくるってこういうことか」と思っているうちに1か月も経つと、すっかりリズミカルに跳べるようになっていたのです。
・・・最後に私の大好きな言葉を記します。 汝の立つところ深く掘れ、そこに必ず泉あり』

2017年10月28日 (土)

頭が突然鋭くなる瞑想法 ブッダが悟りを開いた人類最高の英知 (アルボムッレ・スマナサーラ長老著 日本テーラワーダ仏教協会)

たびたび掲載している著者の本です。また新たに知ること、意を強くするところがたくさんありました。

『・・・ブッダは、「知識と知恵を集めれば幸福になりますよ」と言われました。「私たちからぜったいに離れない財産は知識と知恵である」という言葉もあります。私たちが死ぬとき、来世に持っていくことができるものが二つだけあります。一つは自分の行為、「人間としてどのように生きた来たか」という自分の生き方からもたらされるエネルギーです。自分の善行と悪行の結果によるエネルギーを、私たちは来世に持っていきます。もう一つは知恵と、そして知識の一部です。生きている間に、人生や生き方の心理を何か理解したならば、その理解は来世に持っていけるのです。・・私は、「知識とは、概念の積み重ねである」と定義をします。・・概念を覚えるだけの人は、ものはたくさん知っているのだけれども、せっかくのその知識が役に立ちません。知識がありすぎて整理ができないと、頭の中で混乱してしまいます。・・少ないことでもきちんと知って、それを自分のためや社会のために上手に使えることこそ、ほうとうに評価できるのです。・・そういう歩く図書館とか、歩く百科事典のような人がいます。とくに昔は多かったようです。そういう人々は知識を伝えるためには役に立ったかもしれませんが、本当の仏教の師ということはできません。ですから知識だけの先生はよくないと言って、仏教ではそういう人たちを厳しく批判しています。・・「たくさんの知識がなくてもいい。少しの知識でも、それを実行しなさい。知識を実行する人こそ真の知識人ですよ」とブッダは言われています。
・・・概念には、論理的概念と経験的概念の二種類があります。
・・・言葉とはなんでしょうか。考えてみると、言葉というものも経験からつくられたものなのです。何かを経験して、それを言い表す方法、手段として名前をつける、それを言葉と言っています。
・・・何かを言われた瞬間に「ほんとうにそうか、そうではないか」とサッと自分で経験してみる。その経験が大切なのです。
・・・本を読むときも、なるべく自分の経験になるように読むコツがあります。どうするかというと、自分で書いた本を読んでいるつもりで読むのです。
・・・できるだけのことを考えながら本を読む方法です。完全に本の内容に集中している状態で、同時にあれこれ、それについて考えるのです。・・常に動きたがる頭の働きを逆に利用するのです。読みながら、他のことではなく、本の内容について考え突くままに分析したり、理屈をつけたりしながら読むのです。・・考えるときは、肯定する立場と否定する立場の両方から考えてみます。・・そのように読むと、読むスピードは遅いかもしれませんが、内容についてはとてもよく理解できます。
・・・経験的知識は、後の詳しく述べる知恵につながる知識なのです。経験の伴わない論理だけの知識は、私たちが生きていく上であまり関係ない知識です。私たちは生きることで精一杯なのだから、経験的な知識を得るだけでいいと思うのです。
・・・仏教では「自分のためになる勉強、人のためになる勉強は、いくらでもしてください。そうでないものは、やめなさい」と言っています。私たち僧侶は、星占いや手相など、占いの勉強は禁じられています。なぜなら、人々の吉凶禍福を占ったところで、なんの役にも立たないからです。
・・・同じ教育を受けて同じ知識を詰め込んでも、ある人は役に立つし、ある人はまったく役に立たない。その違いは、知恵の働きがあるかないかによって決まるのです。
・・・世の中が思う通りにいかないことは当たり前のことなのです。
・・・知識の世界では、自分の分野をどう成立させるかということしか考えません。そういう世界で私たちは生きています。ですから、仏教の立場からみれば真の法に則って生活している人は誰もいません。真の法というのは、普遍的な法則のことです。人は皆そういう法を侵して生きてるのです。・・ブッダは、人々の幸福、生命の幸福のためにならない知識や論理は捨てなさいと言われています。・・仏教では論理と倫理は表裏の関係にあります。倫理のない論理は捨てなさいという立場なのです。また、論理のない倫理も認めません。
・・・仏教では、「知識は生き方によって完成されるのだ」と言います。知識の完成は道徳にあって、道徳の完成は知識にあるのだというのです。人間の生き方として、その二つをきり話して考えることはできません。
・・・人々の幸福のために生きることを人生の目的にしてほしいのです。どんな人間でも、たとえ子供でも、「自分はみんなのために生きているんだ、みんなに何かいいことをしなくてはいけないのだ。それが自分の仕事だ」と考えるべきなのです。
・・・知識は使えなければ何の意味もありません。何かのために生かされてこそ、知識の意味があるのです。
・・・知恵と道徳はどういう関係かと言いますと、道徳を守らずいい加減な生活をしていると、精神的に乱れます。そうすると、確実に知恵が働かなくなるのです。ですから、知恵のためにも道徳は必要です。
・・・付き合いで、さすがゴッホですねぇとかなんとか適当に言っていればいいのです。でも、心の中ではしっかりと自分自身の判断で評価をする。そういうことをしていると、抜群な知識人、知恵の人になれます。そしてストレスもありません。自分で判断することはとても気持ちがいいのです。知恵が生まれるとストレスなどぜんぶ消えてしまいます。
・・・知恵のためには次の三つが必要です。まず自分に元々ある知識。次に社会から入る情報。それに自分でああだこうだと考えた自分だけの考え。その三つを自分の中に並べておくと、パッと何かが浮かぶのです。それが知恵なのです。
・・・私たちは自分のできる範囲でパターンにはめられないように生きなければなりません。
・・・精神的な問題の場合は、原因を探っていったらきりがないのです。・・会社でヒステリーを起こしてキィキィと言っている人がいれば、何かちょっと他のことを頼めばいいのです。・・ものごとの配列というか、なぜこういう状態になったのかということを見て、それに答えを出してその状態を抑えるというのは、知恵による問題の解決です。
・・・人は皆余計なことを考えすぎます。社会というのは理屈で割り切れる世界ではないのです。そこに理屈でいろいろと考えてしまう。ですから、何か問題が起こったときに知恵が現れるためには、なぜこういうことが起きたか、どうすればこういう現象が消えるかと冷静に見て、すぐにその場を収める知恵を働かせるのです。
・・・子供は自分のことをほんとうに心配してくれる人に対しては、きちんと反応するのだということです。自分のことを本当に考えてくれる人のことは裏切ってはいけないということを、本能で知っているのです。
・・・問題の解決法は、その場の状況を理解して判断することから生まれてくる。そして言うべき時にすばやく必要なことを言わなければならないのです。
・・・知恵を働かせるための考え方として、物事には両面があるということを知らなければなりません。どういう論理やどういう考え方にも、その逆の面、逆の立場があるのです。姓があれば、そこには必ず負の面があります。
・・・たいがいの宗教では、永遠の命を約束しています。それが人間の希望なのです。人は死にたくないのです。でも、確実に人は死にます。
・・・なんでもやることが遅いというのは、無駄が多いということと同意語だということを理解してください。・・無駄のない行動をするというのは、どういうことでしょう。一つには、待つべきところではしっかりと落ち着いて待つ。待ってはいけないところでは、瞬時にしてやる、ということでしょう。
・・・この世の中には早いも遅いもないのだ、ということです。あるのは、一つ一つのものにはそれなりに時間の特性があるのだというだけのことです。その品もの、その現象、その仕事なりに時間の特性があって、我々はその時間に我々の方から合わせていかなければならない、ということなのです。
・・・子どもには子どものスピードに合った勉強の方法があるし、大人には大人のやり方がある。・・私が皆さんにスローモーションということを勧めるのは、そのなかにものごとにはすべからく時間の特性があり、その法則を理解しなければ、頭も回転し始めないし、活性化もできない、ということなのです。・・スローでやるためには、そこに途轍もない知恵が必要になるのです。知恵を使わないことには、ものごとはスローにはできません。それと、余計なことを考えてもできません。余計なことを考えると、すぐ早くなってしまいます。余計なことは何も考えずに、集中してやらないとスローにはならないのです。
・・・知恵の世界というのは、何が起きても焦らない世界なのです。焦るということ自体、無知である証明なのです。
・・・私に言わせれば、、プロという人は物事の順番を知っている人のことなのです。その道のプロという人は、その道の順番を知っている人。・・順番を知る人に焦りはありません。無駄もしないし、失敗もしません。ところが、順番を理解していない人は、とにかく失敗ばかりするし、やることなすことに無駄が出る。
・・・人間というものは、小さいときほどこの観察力が旺盛で、貪欲です。それだけ、なんでも見る見るうちに知識となり、知恵がついていきます。ところが大人になると、その観察力が衰えてきて、ボケてしまうのです。・・ブッダは、「一生、観察する仕事だけは忘れてはならない」と諭します。見る、聞く、この観察だけは、決して忘れるな、と言うのです。・・人間は、この観察能力がないと死ぬまで不幸で苦しいのです。・・観察することによって、ものの時間と順番というものが分かってくる。ですから、ものの時間と順番を理解した人、つまり観察能力の秀れている人というのは、仕事をしてもそれこそだれよりも早いのです。ただ焦っても仕事は早くはできません。・・スローモーションにやるというのは、決してのんびりやれということではありません。それは理屈の世界ではなく、知恵の世界なのです。スローモーションというのは、訓練なのです。
・・・電車やクルマのベテランの運転手は、なぜ失敗するのでしょうか。それは、傲慢さが出るからです。つまり観察することを忘れてしまうのです。プロと言われる人が、もっとも重要に考えてやってきた”観察”を忘れてしまう。慣れたもんだよ、こんなこと見なくてもできますよ、と傲慢な気持ちが出てそこで失敗してしまう。
・・・集中力というのは、興味なのです。
・・・仏教の専門用語に一境性(いっきょうせい)という言葉がありますが、これは集中していく度合いのいちばん深い状態を言います。こういう状態まで集中していくと、これまで見えなかったものの本質が見えてくる。
・・・病気をしても結構おもしろく過ごせるのです。何せはじめての体験ですから、いろいろ刺激があって観察できるでしょう。
・・・焦ってものごとを早くやろうとすることは、理性ある鋭い頭を持った人々には絶対の禁止事項です。これらはすべて無知につながってしまうことです。
・・・計画というものは、まずだいたいにおいてそのとおりに運ばないものです。ほんとうに計画どおりに行くというのは、ものの順番と時間の特性がわかったときだけです。・・観察能力が身についてくると先読みの能力なども自然についてきます。先見性がある人というのは、観察力の旺盛な人、確かな人であることはよくおわかりでしょう。
・・・ライバル意識をエネルギーにして仕事をしています。あれはよくありません。よくないし危険です。ライバル意識を燃やすというのは、怒りで自分を燃やしていることなのです。この燃やしているエネルギーはたいへんな消費量で、まさに浪費といっていいのです。・・ライバルのことなどきれいさっぱり忘れてしまうことです。相手がどんなにスピードを早くして仕事をこなそうと、どんなにヒット商品を生み出そうと、自分には関係ない。・・自分の仕事を淡々とやればいいのです。・・ブッダの教えはこうです。いい仕事というのは、そのライバルにさえも手を貸してあげて、助けてあげる。ライバルが自分よりいい仕事をやったのなら、自分のことのように喜んであげる。ライバルが苦しんでいるのを見たら、「何か手伝うことはありませんか」などと言って、慰めてあげる。前の章でも述べましたが、こういう態度でいると、自分ももちろん、ライバルだった相手のほうも心のなかにやさしい感情が芽生えて、二人のあいだには慈しみという最高の波動が生まれるのです。
ヴィバッサナー瞑想法は、ほんとうに大切なものは何垢ということを考え直す方法、ものごとを新しい角度で観る方法です。・・世界をありのままに観る必要があります。それをどうやって身につけるかという実践法が、ヴィバッサナー瞑想法です。・・サマタとは落ち着くということで、サマタ瞑想法とは精神的に落ち着くための瞑想法、落ち着いた静かな心をつくる瞑想法です。日本の禅やインドのヨガなどがとくに有名なサマタの瞑想法ということになります。仏教にもいろいろなサマタ瞑想法があります。一つ有名なのは、念仏です。きれいな声できちんと決まったやり方で念仏を唱えると、心が落ち着いてとても気持ちがよくなります。・・心が落ち着くと脳にα(アルファ)波という脳波が出るのです。β(ベータ)波が出ているときはいろいろ余計なことを考えているのです。α波が出ているときは心がリラックスして落ちついていますが、このα波を出すためには集中力が必要です。・・でも落ち着くということは、我々の最終的な目的ではありません。落ち着いた心で何をするかということが最も重要なテーマです。
・・・気づくというのは、具体的にはただ単に自分のすべての動作や感覚や心の動きを確認していくことです。
・・・歩きながら何かを考えている、それは今あなたが妄想の世界にいるということなのです。この、妄想の世界をさまようことこそ人間のもっとも困った現象で、脳細胞の弛緩した状態を作り出し、不安や心配、苦しみや悩みを生み出す元を作っているのです。この妄想世界から脱出して、今この瞬間に生きている自分に気づく、ということがほんとうの幸福になるためのもっとも確実な近道である、というブッダの教え
・・・私たちは、その時その時の状態や諸条件によって、好き勝手に客体を認識して判断して理解しているのです。ということは、私たちは自分勝手な認識に基づく誤った判断によって、自分の人格を変化させたり、生き方を決めたりしているのではないでしょうか。自分に気づいてラベリングをすること(サティの実践)は、いきなりというか、突然その人間の生き方のプロセスをカットするのです。つまり判断しないでありのままを観るということをさせるのです。
・・・私たちはさまざまなことで、悩んだり苦しんだりしています。・・それらすべての思いや考えは私たちの判断に基づいています。・・問題や悩みを解決するために、私たちはまず認識とはどういうものなのかをはっきりと知らなければならないのです。知るためには、観察することが必要です。・・音だ、見える、聞こえる、歩いている、感じる、触っている、考えている、などと気づきながら生活していると、心の中にさまざまな感情の波が生まれなくなってしまいます。そうすると、心の中に刺激はなくなってしまいますが、その代わりに生きる苦しみも消えてしまいます。その苦しみがないという状態が悦びなのです。悦びというのは特別なことではなくて、ただ苦しみがないということなのです。その静かな落ち着いた状態に悦びを感じ始めると、心のなかに感情の波が生まれてこなくなって、意識のレベルがかなり落ち着いてきます。・・心を落ち着けていると、存在願望のエネルギーはどんどん薄れていき、最後には完全に消えてしまいます。それが、実は解脱なのです。永遠に生きたい、死んでも死にたくない、という存在願望のエネルギーが消えること、それが悟りをひらくということなのです。それによって人間は、初めて輪廻転生を乗り越えることができるのです。輪廻からの脱出、つまり悟りの境地というものは、私たち俗人の認識レベルとはまったく違う出世間の認識レベルです。ですから、それを理解しりと言われても、私たちには無理な話なのです。・・しかし、存在欲のエネルギーが消えていくと、その代わりに知恵が現れてきます。その知恵によって私たちは、すべての存在は苦であること、無常であること、むなしいこと、実体がないこと、私たちはただ幻覚の中で苦しんでいることを、はっきりと理解します。それはすべて、この気づきの瞑想(サティの実践)によってのみ得られるのです。
・・・頭に判断させることを止めさせて頭を忙しくするために、自分がその時にしている動作を頭の中できちんと言葉にするのです。・・世間話や余計なことを考えるのではなく、頭をリラックスさせてください。頭を休ませてあげてください。我々の頭は一分も休んではいません。いつでも、欲で、苦しみで、燃えているのです。・・心が治るとすごく活発になって、どんどん知恵の方に心が行くのです。
・・・掃除や洗濯のときに、つまらないことをかんがえたりせずに、ただやるべきことに集中できる方法です。それはどうするかと言いますと、たとえば、拭き掃除をするときには「吹きます、拭きます、拭きます」と拭いている自分に気づく。拭いている行為の一挙手一投足の動きだけを認識していく。
・・・スランプというものは時間を掛ければいつかは直りますけれども、実はすぐに直す方法があるのです。それはどうするかというと、先ほどお話しした瞑想法を使うのです。つまり、自分の状態にいち早く気づいてしまえばいいのです。
・・・今この瞬間、自分に起こっているできこと現象を客観的に観察するという癖をつけるといいかもしれません。
・・・考えの中に入らずに、考えていること自体を客観的に見て、「考えている、考えている、考えている」と三回確認してから、「戻りまーす、膨らみ、膨らみ、縮み、縮み、・・」と戻ります。・・この瞑想はほんとうに自己が観察できる瞑想です。自分の今までわからなかった自分自身の性格や自分の心の中身がもう片っ端からでてきます。自分が見えてくるのです。
・・・瞑想をして、し終わったら、いきなりすぐに立ったりしてはいけません。この瞑想をしていると、自分では気が付かないのですが、心がすごく深いところに行っています。ですから、いきなり立ったりしてはいけない。瞑想を終えるときには、「瞑想を終わります」ときちんと頭の中で言います。・・瞑想を終えるときには、きちんと正しく落ち着いて終了してください。・・もし落ち着いて終わることをしないと、瞑想で得た段階は続かなくなってしまうことになるからです。さらにその後の瞑想がとてもやりにくくなってしまうので、気を付けてください。
・・・瞑想をすると、人は必ず妄想に悩まされます。・・私たちは妄想の中に生きている・・今の瞬間はぜったいにもう二度と戻ってこないのです。それなのに、今ここに座っていても心はもうこの場所にいないでのです。・・私たちの幸福を壊す私たちの最大の敵、私たちを悩み苦しませて不幸にする張本人は、だれでもない自分自身の妄想なのです。自分の妄想こそ、私たちが闘って、打ち勝つべき最大で最強の敵なのです。「今の自分に気づく」というヴィバッサナー瞑想法は、私たちの最大の敵である妄想と闘うための、もっとも効果的で優れた方法なのです。
・・・妄想をなくすというのは本当はかなりたいへんなことなのです。・・問題は、妄想が出たときにどうするかということなのです。それこそが大切なポイントなのです。妄想が出るたびに、「妄想、妄想、妄想」と確認して呼吸の観察にもどればいいのです。そこがいちばん大事なポイントです。
・・・妄想は、意識からも出ますけど、ほとんどは無意識のところから出てくるのです。深いところからいきなり出てきて、それについてフッと考えさせてしまう。ですから、私たちは自分の妄想を確認していくことによって、自分自身の無意識を観察しているのです。自分の無意識の観察をするということは、ほんとうの自分を知るということです。
・・・瞑想をずっとづつけると妄想をしない自分の心が現れます。無意識が落ち着いたら妄想は出なくなります。その心はとても静かで、平和で、荒波も渦巻きもない海の底のような平安な心です。
・・・結論を言いますと、妄想は抑えられません。私たちにできるのは妄想に気づくことだけです。そして妄想に気づけば気づくほど、ほんとうの自分が見えてきます。そして自分の性格の悪い部分が直されて立派な人格が形成されていきます。ですから妄想を怖がらないことです。』

2017年10月10日 (火)

稼ぐまちが地方を変える 誰も言わなかった10の鉄則 (木下斉著 NHK出版新書)

町おこしについて、目からうろこが落ちるような内容でした。

『・・・従来にはなかった「予算をもとに何ができるか」という議論がなされるようになり、それを執行するための業務を誰が担うのかという話になっていきました。・・こういう動きが出てきたことで、それまで善意で手伝ってくれていた人々の士気が一気に下がりました。・・言い方は悪いですが、補助金とは麻薬のようなもの。それまで真面目に生きてきても、一発チュッと打たれただけで一斉におかしくなってしまうものなのです。
・・・一つは、全員の意見を聞くのではなく、自分で考えろ、ということです。・・みんなの意見を聞く前に自分の頭で考え、行動することが決定的に足りていなかった・・反対に全員の意見を聞き、全員が納得することを優先していると、自分で決断することが難しくなる。悪い方向に向かっていることに薄々気づきつつも、「誰かがなんとかするだろう」と全員が無責任になります。・・甘い夢を掲げて仲間集めをしてはいけないということです。
・・・甘い見通し、無責任体質、他力本願、独善的な発想などはまちづくりだけでなく、日本の多くの組織で見られる現象であるとも思います。
・・・手元資金の多い少ないに関係なく、やろうと思えば絶対にできます。できないと思うのは、最初からそう決めつけているからです。
・・・アメリカの地域再生に取り組む人たちから学んだ最大のことは、まちづくりは官主導ではなく民間主導、特に不動産オーナーを基本に据えて考えるということです。現地で不動産オーナーと話をすると、誰もが積極的に地域に投資をしている。それはなぜかと言えば、「自分の資産価値を高めるため」だと即答。・・アメリカで驚いたのは、地域の公園や学校の校庭さえ、住民たちがつくっていたことです。
・・・環境整備の作業全てを業者に委託することもできますが、莫大なコストがかかります。しかし大人数の市民が参加すれば、あっという間に天然芝のスペースが誕生するのです。コストも浮いて、市民にとっては自分たちがつくった広場という意識も生まれる。
・・・よく「あたたかいまち」「心が通い合うまち」といったフレーズをきくことがありますが、これらは全て無責任な”きれいごと”です。稼がなければ、衰退するしかない。これは歴史が証明しています。
・・・どんな問題も、切り分けていくと解決策が見えてきます。
・・・とかく不動産持ちは不労所得で楽だと思われがちです。しかし、実際はそう楽ではありません。清掃もしなければならない。エレベーターがあればそのメンテナンスも欠かせません。大抵のオーナーは、ビルと建てるときに借金をしているため、その返済もしなくてはなりません。守るものが多く、投資回収機関も長い事業をしているため、不動産オーナーは保守的になりがちです。
・・・仕事のうえで相手に信用されたいなら、「最終的には儲かりますよ」と口説いてもダメ。「自分の利益を確保したうえであなたにお金を払いますよ」といってもダメ。まずは、事業をつくり、相手に三回得をさせれば、信用してくれる。自分より先に、相手に恩恵を受けてもらう。
・・・コスト削減したものを単に不動産オーナーと会社で折半しただけでは、その場の利益で終わってしまいます。必ず三分の一は未来に向けた投資基金として積み立て、地域に再投資するというルールにしているのです。
・・・地域で目立つ事業をやればやるほど、地元から反発を食らう可能性は高まります。まちづくり業界においては、新しいことは常に非難されるのです。どれほど優れた事業で、地域にメリットをもたらしても関係ありません。悲しい話ですが、これが現実です。だから先手を取って、きっちり筋を通しておく必要があるわけです。こちらが筋を通しておけば、何を言われてもどーんと構えていればよいのです。
・・・重要なのは、こういうシステムを作りあげたり、必要に応じて臨機応変に組み替えたりすることです。最初はエネルギーが必要ですが、その仕組みがしっかりしていれば、実践するメンバーが入れ替わったり増えたりしもうまく回ります。・・日本の組織によくあるパターンですが、リーダーがいなくなった途端、ガラガラと崩壊するのではないでしょうか。
・・・まちを本気で活性化させたいなら、まち会社はまず第一次顧客である不動産オーナーに向けてサービスを提供し、その事業が黒字になることが大前提です。その効果が、第二次顧客、第三次顧客へと波及していくのですから。
・・・BIO(Business Improvement Distinct)のポイントは、・・不動産オーナーが単独ではなく連携している点です。
・・・私たちが旨としているのは「自前主義」。何でも人任せにせず、自らの現場を持つメンバーがやれる範囲で結果を出しながら、その分野全体の発展を目指します。これこそが、他力本願が続いてきた地方活性化において大切なことだと思っています。
・・・重要なのはお金ではなく、覚悟です。お金は一緒に稼げばよいですが、覚悟はそれぞれの方が自分で決めるしかありません。・・まちを変えるのに必要なのは、100人の合意よりも、一人の覚悟です。99人が諦めていても、一人が覚悟を決めて立ち上がってくれれば、私たちも覚悟を決めて歩みだすことができます。・・動き出さないまちの人たちに共通しているのは、「自分たちのまちは他とは違う」という、特別な意識をもっていることです。
・・・まちづくりにおいては、往々にしてコンセプトの中途半端な店や施設が生まれることがあります。・・これは、何も言っていないに等しい。起案者に利用者の明確なイメージがない施設は、誰も寄り付かない。結局、オープン当初から閑古鳥が鳴き、やがてひっそりと閉鎖されてしまいます。重要なのは、強烈な個性。ユーザーにとって、「これは自分の生活に足らなかったもの」と思わせる何かです。
・・・民間ベースでやるからこそ、誰にも気兼ねすることなく、方向性もターゲットも絞ることができる。小さく始めれば、資金規模も身の丈に合った適正なものになり、ムダに大きなものは必要なくなります。
・・・重要なのは、まち全体で多様性をいかに創出していくかということです。
・・・まちにとってプラスかマイナスかの判断は、人がどれくらい集まったかではなく、その取り組みに参加した事業者や、場所を提供した不動産オーナーや公共セクターがどれくらい利益を出せたかにかかっています。そこをしっかりと検証する必要があります。・・活性化とは、「事業を通じて経済を動かし、まちに新たな利益を生み出すこと」に尽きるのです。それには、従来とは違う構造を生み出すことが欠かせません。
・・・本当に必要なのは、成功以前の、試行錯誤の段階を共に乗り越えられる仲間です。精神的に追い込まれたときに、一緒に笑える人です。つらい時期に逃げ腰になったり、チームから距離を置こうとする人とは、とても信頼関係は築けません。そして、それでは成果を生み出せないのです。
・・・私は、地域活性化事業に「全員の合意」は必要ないと思っています。そもそも市民参加型まちづくりでも、そこに参加した一部の住民が同意しているだけで、すべての住民が同意しているわけではありません。それは「見せかけの同意」にすぎず、合意した意見からして、誰も自分でやる気はない中で出た、無責任なものとも言えます。
・・・賛同者として必要なのは、自分で考えて自分で責任をとれる人。賛同者は「馬車」に乗る客ではなく、一緒に「リヤカー」を引く同士なのです。
・・・事業の立ち上げで失敗しないコツの一つは、すべてにおいて「営業」を優先することです。
・・・補助金を使った中心市街地活性化事業の大いなる誤りの一つに、ムダに大規模に設備投資をするパターンがあります。・・重要なのは売り上げではなく、利益です。そして、売り上げ規模ではなく、利益率です。
・・・共通しているのは、モノやコンテンツを自ら作って売っていること、つまり「製造小売型」であるということです。それぞれの売り上げは小さくても、粗利は50%以上になるものです。低売り上げでも、付加価値をつけることで高粗利になることが大切なのです。
・・・原資が地元の資本なら、誰かの消費が同じ地域の誰かの利益になります。それが地域での新たな事業への再投資に向かえば、利益は地域内で循環しながら複利で膨らむわけです。これは地域経済を豊かにするうえで大変重要なポイントです。
・・・私は、だいたい三か月を一区切りと考えて、何らかの結論を出すべきだと思っています。小さな投資案件でも、長くても二~三年で全額回収できなければダメ、基本的には、初年度から黒字にならなければダメです。
・・・まち会社の場合、特定の誰かが、年間を通じてフルタイムで行うべき業務はありません。一方、参加者が共同で副業的にできる事業は山ほどあります。・・まち会社の非効率的な雇用をつくって人を雇ったところで、それは望ましい雇用創出ではありません。まち会社が仕掛けた事業の先に雇用が生まれることが重要です。
・・・基本的に最初に、利益分配のルールを決めておきます。「儲かってから決めればいい」と先送りしてしまうのが最悪です。事業を始める前にさくっと決めてしまえばいいのです。
・・・これまでのまちづくりがうまくいっていなかったのは、「官」が今の時代では経済的に回らない仕組みに投資していたからです。・・民間がいつまでも国や自治体の投資で、何のリターンもない取り組みを「まちづくり」などと称してやり続ける限り、その地域は活性化しません。財政赤字は拡大し、域内収支は悪化する。・・小さな取り組みであっても、市場とまっすぐ向き合って稼ぎ、次なる事情に再投資して、利益を地域に還元していくことが大切なのです。
・・・鍵となっているのは、「消費」を目的としない集客を先に固めたこと。まちの人たちは、各種手続きや調べものなど、公共サービスを利用するために公共施設を訪れます。
・・・これこそが、民間の力です。つまり成立しない事業は実行できないから強いのです。
・・・競争過多の市場で消耗戦に挑むのではなく、希少性のある施設にすることで逆に全国から人を集めることができます。
・・・中途半端な多目的施設をつくるよりは、事業を仕掛けるチームが営業可能な分野に徹底的に絞り込んだものにする。私たちはこのような手法を「ピンホール・マーケティング」と呼んでいます。
・・・お金については民間が自立して取り組みながら、規制緩和や制度変更、民主的な進め方については、政治・行政が担っていくという、公民連携における理想的な役割分担がなされたからこそ、オガールプロジェクトが実現したといえます。
・・・規制緩和のルールをしっかりと守り、そのうえで実績をあげる民間の姿勢。それをサポートすべく規制緩和を進めていく行政の姿勢。この二つが組み合わさって、10年前にはできなかったことがどんどん可能になっているのです。・・すべては民間がやりたいと考え、実行したことを行政のお金に頼らず実現しています。行政が予算で支援するのではなく、可能な限り規制を取り払い、民間が動きやすくすることで、これらの事業はもっと活発になるでしょう。
・・・なぜならば、民間が稼ぎ、行政をも潤す関係ではなく、行政から民間にお金が流れる仕組みになっているからです。資金の流れが逆なのです。「第三セクター」は全国に多数ありますが、そのほとんどは赤字です。・・行政も民間も、誰も責任を取りたくないからです。
・・・一歩間違えば、民間と行政は、すでにユルい依存関係に陥ってしまいがちです。そういう意味では、公民連携というものは、極めて危うい関係でもあり、緊張感をもって臨まなければならないのです。
・・・なぜ民間がやるほうが安くなるのか。効率的に業務を行うようになるから、というのもありますが、一番の理由は「人件費が抑えられるから」です。
・・・外貨獲得で重要なのは、「営業」です。そこだけでしか手に入らない特産品を地域外に出していくにしても、画期的な技術やアイディアを地方にもってきたとしても、営業ができなければ、宝の持ち腐れです。「売れている地域」は、消費地に先回り営業を行い、販売ルートを開拓してから、生産に着手しています。
・・・民間は、事業に取り組んでいるだけでは不十分だということです。・・現場で取り組んでいる実践者が自ら、政府や学術機関に様々な政策提言をしていくことが重要です。さらにいえば、提言だけではなく、現場で実証を示すところまでやる必要があります。
・・・これからの時代には、「民間には高い公共意識」、「行政には高い経営意識」が求められているのです。この意識が一人一人に備わったとき、いかなる課題も解決できる、須原いいチームが地域に生まれることでしょう。』

2017年10月 1日 (日)

新聞記事から (【緯度経度】「朝鮮半島有事」への教訓 黒田勝弘、【日曜経済講座】衆院選・北朝鮮問題を考える 真の脅威は中国の膨張主義) 産経新聞朝刊 29.9.30、29.10.1)

2件とも、傾聴すべきものだと思います。

先ごろ日本で天皇、皇后両陛下が埼玉県日高市にある高麗神社を訪問されたというニュースを、韓国のマスコミは写真付きで大々的に伝えていた。この神社が古代・朝鮮半島の高句麗から渡ってきた渡来人を祭っているということで、両陛下が古代史における朝鮮半島の日本への影響に強い関心を持たれていることを歓迎し、大喜びしているのだ。

 このところ韓国人との会食でよくこの話が出る。陛下は日韓共催のワールドカップ・サッカーを前にした2001年の誕生日会見でも「(奈良時代の)桓武天皇の生母は百済王の子孫」という「続日本紀」の記述を紹介され「韓国とのゆかり」を語られている。したがって天皇陛下は韓国では“親韓派”と思われているのだ。

 韓国人は古代史というと朝鮮半島が一方的に日本に恩恵を与えたように思っていて、いわば“先輩気分”で意気揚々となる。今回もそうだ。そこで韓国人にいうのが7世紀、日本が百済復興の支援軍を派遣した「白村江の戦い」だ。

 百済・日本連合軍と唐(中国)の支援を受けた新羅・唐連合軍の戦いだったが、日本軍は大敗し水上で壊滅する。そのときの派遣兵力は「最低でも3万7千余」(中村修也著「天智朝と東アジア」NHKブックス刊)にもなる。あの時代にこの数はすごい。

 日本にはそれほど百済への“義理”があったということだが、この故事は韓国ではまったくといっていいほど教えられていない。最近、旧百済の遺跡を観光旅行してきた日本の友人は「どこにも何の記念物もなかった!」と怒っていた。

 日本には高麗神社のほか百済神社や新羅神社などが大昔からある。佐賀県の有田焼の里には「陶祖」として朝鮮陶工を祭った100年前に建てられた記念碑もある。韓国人は与えた恩恵や自らの被害はいいつのるが、支援されたことには全く知らん顔で伝えないというのは、古代史ばかりではないようだが…。

 朝鮮半島をめぐる戦争の歴史としては、「白村江の戦い」の後、13世紀の「元寇」はモンゴル族の元(中国)が高麗を手先に日本に侵攻してきた。16世紀の文禄・慶長の役(韓国でいう壬辰倭乱)は、最後は朝鮮半島侵攻の豊臣秀吉の日本軍と朝鮮支援の明(中国)との戦いになった。

 下って19~20世紀には日清、日露戦争など朝鮮半島を舞台に日本は清(中国)やロシアと戦っている。1950年代の朝鮮戦争では、北朝鮮・中国連合軍の侵略と戦う米(国連軍)韓連合軍を支援する後方基地となった。

 この後方支援があったから米韓軍は何とか北からの共産主義侵略軍を撃退し韓国は国を守れたのだが、韓国では「日本は戦争特需でもうけて経済復興した」という話ばかりで「日本の支援」の効果など全く無視されてきた。

 最近の北朝鮮の弾道ミサイルや核開発は日本への軍事的脅威でもありその備えは当然、必要だが、コトの本質は朝鮮半島の南北の内部対立であり「朝鮮半島有事」の問題である。その際、来るべき日本の関わり方は歴史的に見て、どのパターンになるのだろう。

 歴史的経験として「白村江の戦い」の直接派兵はもちろん、直近の後方支援でさえ感謝されていないのだから「朝鮮半島有事」の際の支援の在り方には慎重を要する。過去のように“深入り”して逆に後世に禍根を残してはまずい。(ソウル駐在客員論説委員)』

『朝鮮半島危機の中で衆院選を迎えるというのに、争点がぼやけている。北朝鮮問題とは何か、国連による対北制裁の効力はなぜ乏しいのか、そもそも何が日本の脅威なのか、を再確認しよう。

 1950年1月30日「われわれには鉛が大幅に不足している。もし指示した量の鉛を送ってくれるなら、多大な支援を行う用意がある」

 同3月9日「われわれが示した通りの量の鉛を送るとの連絡を受け取った。支援に感謝する。あなたの要請通り、武器、弾薬および技術設備を提供する」

 以上は、ソ連のスターリン共産党書記長から北朝鮮の金日成(キムイルソン)首相への極秘電報で、ワシントンのシンクタンク、W・ウィルソン・センター収蔵の「スターリン文書」から拾い出した。

 この年の6月25日、ソ連の軍事支援の確約を取り付けた北朝鮮軍は暗号命令「暴風」を受けて北緯38度線を越えて侵攻を開始した。悲惨を極めた朝鮮戦争(53年7月休戦)の始まりである。

 上記電文のキーワード「鉛」は核兵器の原料、ウランの隠語である。ソ連は49年8月に初の核実験に成功したが、当時ウラン資源は国内で見つかっていなかった。スターリンは東欧産に加えて北朝鮮からも確保し、核で米国に対抗できるようになった。

 金日成はウラン提供の見返りに、スターリンから核技術協力を得た。子の金正日(キムジョンイル)、孫の金正恩(キムジョンウン)が執念を燃やす核兵器開発は、金日成後継の正統性の誇示でもある。いくら国際社会から非難されようとも、後ろには引かない。

 今年9月3日、北は6回目の核実験を強行した。大陸間弾道ミサイル(ICBM)などミサイル開発の進化に合わせている。

 国連安全保障理事会は11日、対北制裁強化を決議した。目玉は対北石油輸出の制限だが、輸出のほぼ全量は中国からである。米国は全面禁輸を提案したが中国とロシアの反対で譲歩し、原油は現状維持、ガソリン、重油など石油製品は年間200万バレル(1バレルは約0・135トン)という上限を設けた。メディアの多くはその「厳しさ」を伝えたが、とんでもない解釈だ。

 グラフは中国当局公表の北向け石油製品輸出実績である。昨年末までの年間の総量はこれまでの最高水準で、200万バレルどんぴしゃり。今年8月までの年間では147万バレルまで落ち込んだが、これからは国連の容認のもとに白昼堂々、輸出を増やせるではないか。

 もう一つ、目を引くのは中国からの対北輸出の急増だ。石炭など北からの輸入は減っているので、中国の輸出超過額がうなぎ上りだ。国内総生産(GDP)が日本の最貧県程度でしかない北朝鮮は外貨不足で、貿易赤字分を払えないはずだが、中国の銀行が信用供与すれば可能だ。

 トランプ政権はそのからくりを見破り、北と取引する企業・銀行を制裁すると言い出した。そのターゲットはもちろん中国だ。米国から名指しされた銀行は米銀からドル資金を調達できない。つまり、国際金融市場から締め出されることになり、信用パニックに見舞われかねない。

 今月18日からの共産党大会を控えた習近平政権はあわてて、中国人民銀行を通じて大手の国有商業銀行に対し、北朝鮮関係の口座封鎖を命じた。これなら北を経済的に封じ込められそうだが、実際はどうか。

 まず、石油。平壌ではガソリン価格が高騰しているという。米軍情報筋に聞くと、「強欲な中国の輸出業者のせいではないか。中国側はこれまでにも北向けの輸出価格を国際相場よりも2割程度高くしてきた」との答えだ。朝鮮戦争以来の「血の友誼(ゆうぎ)」など無関係だという。

 高く売りつけても、相手が代金を払えないなら、当然貿易取引は止まる。ところが、相手の弱みにつけ込むのが中国商法だ。米軍筋は「中国は債権の担保に北の鉱山利権を確保する」とみる。これまで中国資本は、かつてスターリンも瞠目(どうもく)した豊富な北の鉱物資源獲得を狙ってきたが、金正恩政権のナショナリズムに阻まれてきた。制裁によって困窮している今こそ好機だ。

 習氏が目指す現代版シルクロード経済圏構想「一帯一路」の東の終点は朝鮮半島だ。特に半島北部には金や銀、戦略物資であるウランや希少金属が埋蔵されている。ロケットマンこと金正恩氏の命運を問わず、日本などにとって中国という脅威が増大することだけは間違いない。

 総選挙では、与野党を問わず候補者たちに冷徹な危機感を持ってほしいところだ。』

2017年9月30日 (土)

雑誌記事から(Hanada 2017年11月号)

田原総一朗氏が阿比留瑠比氏と対談していますが、阿比留氏の圧勝という感があります。田原氏のいい加減ぶりが際立っていました。まったくジャーナリストとは呼べない思考ぶりです。インターネットがない時代の日本だったからこそ活躍できたのでしょう。いまだに声だけ大きいが考えの浅い、彼の「老害」ぶりを表すやり取りを残しておきます。

『・・・田原 もし加計になったのならば、官僚たちに「加計にするならちゃんとした理屈を作れ!」というべきだった。
阿比留 それこそ介入になるじゃないですか。
・・・阿比留 国民から見ればそうかもしれませんが、しかし、あの文書が「怪文書」なのは変わりありません。
田原 何で?
阿比留 正式な行政文書だったら行政印があって、誰と誰が閲覧をして、行政にどう反映されたか、ちゃんと記録している。しかし、あれは誰が書いたかも不明のメモ書きです。
田原 じゃあなんで文科相は、文書があったとみとめたの?
阿比留 それは実際に存在していたからでしょう。存在していたからといって、それはメモ書きであって行政文書ではありません。
田原 菅だってそのあとで、「現在はその(怪文書だという)認識ではない」と撤回したよ。そこには「総理が言った」と書いてあった。
阿比留 違います。「総理のご意向」です。
・・・田原 偏っていないよ。テレビでも新聞でも、視聴者や読者が安倍さんを疑っているからこそ、前川を登場させたりしている。だからみんな見る。逆にテレビや新聞が押し付けたって、おかしいと思えばみんな見ないし、読まない。「Hanada」では批判していたけど、「文藝春秋」に前川の手記が載ったのも、その方が売れるからでしょ。
阿比留 国民が求めていることと正しいこととは違います。国民が疑っているのなら何を疑っているか、その疑念が間違っているなら真実はこうなんだと情報をちゃんと伝えて、国民に判断してもらうのが報道の役割でしょう。
・・・阿比留 ・・・田原さんはそう思っているかもしれませんが、他の多くのメディアは違う。フェイクニュースですよ。
田原 それがウケるからでしょ。
阿比留 田原さんは、「ウケるからいいんだ」と全肯定するんですか。読者のウケを考えるという部分がマスコミにあるのは事実ですが、ウケるから何でもいいわけではない。
・・・阿比留 総理の言い方、やり方にまずい部分があったというのはわかります。判断ミスかもしれません。しかし、「国民が疑っているんだから、報道が偏向するのも仕方ない」というのは違います。
田原 報道は国民の求めに応じるものだよ。
阿比留 とんでもない。田原さんの言葉とは思えません。それでは困る。記者の仕事はステレオタイプの打破であって、それに乗っかることではありません。
・・・阿比留 朝日なんか、繰り返し「疑念が晴れない」とか「疑念が残る」とか、そういう表現ばかりです。疑念を持たれること自体が問題だとする向きもあるけど、疑念なんて持とうと思えば、誰でも、いつでも持てます。報道だったら疑念だけでなく、その証拠も書かなければおかしいはずです。
田原 安倍さんが疑念を晴らす努力をしなくては。
阿比留 なかったことを証明するのはそれこそ”悪魔の証明”で、不可能です。総理はこれまで何度も証明しているけど、全く聞く耳を持たないじゃないですか。
・・・田原 あれは高市氏の発言がおかしかったからだよ。彼女は「テレビが政治的に公平性を欠いた発言をすれば、電波停止もありうる」と言っていたが、ああいう暴言があると、新聞社やテレビ局の幹部は自己規制する。だから僕らは断固抗議するんだ。
阿比留 それはおかしい。そもそも高市氏は質問されたから答えただけだし、法律に書かれていることを言ったまでです。それに民主党政権の時、平岡秀夫副総務相も同じ答弁をしています。もし高市発言で怒るのなら、平岡発言の時に怒るべきではないですか。
田原 民主党政権なんて、政権と思っていなかったからね(笑)。
阿比留 それは答えになっていませんよ。Aが言ったら問題にするけどBが言っても問題視しない。そんな二重基準はよくない。
・・・田原 新聞にもテレビにも、特に若い世代は関心を持たなくなっている。それはネットのせいだ。僕は新聞は十年経たないうちに”マスメディア”から単なる”メディア”になると思っている。テレビの経営もガタガタになってしまうだろう。
阿比留 ネットで誰もが検証できる時代に、どちらか一方だけの言い分だけを載せて他は載せないなんて通用しないし、それによって信頼もなくなる。これはメディアの自殺ですよ。

2017年9月28日 (木)

新聞記事から(消費税が争点?北に嘲笑される 編集委員 田村秀男) (産経新聞 29.9.27 朝刊)

他に指摘している人は見かけませんが、傾聴すべき意見だと思います。

『10月22日に実施予定の衆院選の最大の争点が「消費税増税」になりそうだとは、なんとも面妖だ。安倍晋三首相の解散理由は緊迫する北朝鮮情勢など国難への対応で、まさにその通りだが、危機の根源は慢性デフレに伴う国内の停滞にある。対照的に経済規模を膨張させてきた中国は国際社会で日本を圧している。

 経済小国北朝鮮はその中国の経済支援の下で、核・ミサイル開発にいそしんできた。日本は早急に脱デフレを実現し、防衛を含む国力を回復させるべきなのだ。なのに、デフレの元凶である消費税増税をめぐって各党が街頭で口角泡を飛ばすとは、かの国のロケットマンに嘲笑されよう。

 北朝鮮問題とは、拡大中国に対する萎縮日本という構図の一コマである。グラフはそれを端的に物語る。中国の名目国内総生産(GDP)は2010年に日本を抜いて以来、差を広げている。貿易総額の9割が中国相手の北朝鮮はこの間、中国から入るモノやカネを大幅に増やしてきた。

 日本の方はアベノミクスがもたらす円安・株高でいったん消費者や企業の心理は好転したが、14年4月の消費税率8%への引き上げの結果、デフレ圧力が再燃。企業は国内での設備投資や賃上げを渋る。企業が使わないまま手元で寝かせる利益剰余金は年間で20兆円以上も増え続けている。

 対照的に、2%の消費税増税によって家計から徴収する5兆円余りの税増収のうち2兆円を使うという安倍首相や、全額を回すという民進党の前原誠司代表の教育無償化・負担軽減の論戦に何の意味があるのだろうか。国政新党を立ち上げる東京都の小池百合子知事は消費税凍結を主張するが、選挙戦術の域を越える真っ当な危機認識があるのか、と問いたいところだ。

 故三島由紀夫は47年前、「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残る」と産経新聞(当時は「サンケイ新聞」)紙上で警告した。今や「極東の経済大国」の存在感すら薄れている。9月上旬、訪米した横田めぐみさんら北朝鮮による拉致被害者の家族会は、トランプ政権、議会や国連などの関係者から「日本はいったい何をしているのか」と一様に聞き返されたという。

 北朝鮮問題について、トランプ大統領は米国を一貫して支持する安倍首相と良好な信頼関係を保っているが、他方では中国の習近平政権による対北抑制策に強く期待している。習氏は小出しながら北との貿易・金融取引を制限して米国からの報復をかわし、10月後半の共産党大会で権力基盤を固める。ユーラシア全域を中華圏に取り込む一帯一路構想推進により、対外膨張の加速をもくろむ。

 半島危機が今後どうなろうと、アジアや日本にとって中国の脅威はやまない。安全保障では対米依存、国内は増税でデフレ容認、経済停滞は無視、防衛力もGDPの1%でよい、というなら、今回の衆院選は米国の失望を買うだけだろう。』

2017年9月20日 (水)

終わらない歌 (宮下奈都著 実業之日本社)

前回掲載したものの続編です。全編から、数年後の登場人物たちの姿を、やはり、さわやかに描写しています。そして、私も好きなブルーハーツ、ハイロウズの歌を題材に物語が進められています。

『・・・いろんなことがわかってしまったような場所で、評価から離れて歌うのは勇気のいることだ。そして、評価を忘れて友達とつきあうのも骨の折れることだと思う。
・・・「親元にいたらわからないことってあるのよ」 母はいった。「人生って案外短いんだから。今勉強しないでいつするの」 笑って送り出してくれたけど、口調はいつになく強かった。
・・・年をとって円熟味が増したと評価される演奏家もたしかに多い。でも、同じくらい多くの演奏家は年と共に情熱をなくし、勢いをなくしていくように思えた。
・・・今夜も千夏は洗いざらしの白いシャツにだだのジーンズで、どきっとするほどかっこよかった。かっこいいはおかしいかもしれない。小柄で、決して美人の部類ではなく、お化粧っ気もなく、かといって人より前に飛び出していくタイプでもなく、それなのにどうしてこんなにいきいきして見えるのだろう。
・・・もしかしたら私はまだエースとして投げ続けていたかもしれない。だけど、それが何だろう。いつかは必ずエースではいられなくなる日が来る。早いか遅いか、たかだか何年かの差しかないのなら、大して変わりはなかった。
・・・「トロンボーンという楽器がオーケストラの主役にはなりにくいからといって、僕が僕の人生の主役でないわけではない」 静かな声だった。まるでほんとうの雨みたいに、その台詞は私の身体に染み込んできた。
・・・私はずっと、これがあれば、ではなく、これがなければ、と思ってきた。・・でもそれももう決着をつけたほうがいいのだと思う。・・ただそれだけのことだと思おう。そうでなければ、私はこれからも、ないものにとらわれて生きていくことになってしまう。
・・・父や母や弟がそれぞれの世界にいることが、私にはむしろ救いだ。私が世界から転がり落ちても、彼らは彼らの世界に生きている。「普通に生きていく上でどん欲には見えない人たちです。でも、実は。 「ものすごくどん欲なんです」 彼らは彼らの世界でものすごくどん欲に生きている。・・私がたったひとつの役のために大騒ぎするのとは違い、彼らは静かに淡々と静かに淡々と彼らの道を究めている。
・・・一番だったらここには来なかった。ここで歌うことはなかった。夢にも希望にも肯定的なイメージしか持たなかっただろう。一番の人には見えない景色を、私は見る。
・・・歌があり、それに応える魂がある。歌に呼応して生まれるもうひとつの歌。歌に震える心。その心に動かされる歌。終わらない。続いていく。歌も、私たちも。
・・・小説を書くには、文学的な教養だけでなく、一人前の大人としての人生観・世界観が必要だ。・・若いうちはなかなか客観的な視点が持てない。自分の作品のダメな部分に気づけない。』

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